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2013年1月20日 (日)

メッツマッハー ブルックナー 交響曲第9番 新日本フィル サントリー定期 1/19

【ブルックナーの交響曲第9番とは何か】

シューベルトの「未完成」交響曲の未完成には、意味がないかもしれない。この作曲家には未完の作品が多く遺されており、それらをしっかり仕上げるためには、あまりにも寿命が足りなかったのだと思われる。彼の齢でブルックナーが亡くなっていたとしたら、ドイツの中都市に生まれた、当時はまあまあ有名だったオルガニストとして名前を残すことも難しかったにちがいない。晩年、ブルックナーの声名は高まったが、それでさえも、寂しい人生のおわりに変わりはなかった。たしか、ドヴォルザークが晩年、一足先に最晩年を迎えたブルックナーを訪れたとき、巨匠はいかにも孤独であり、立ち去る後輩のことをいつまでも見送ってくれたというが、その逸話には、どこか物悲しいものを感じる。

ブルックナーの名声がその崇高な実力に見合うものになったのは、多くの巨匠たちと同じく、やはり、作曲家が亡くなってのちのことなのである。

ブルックナーの交響曲第9番とは、何だったのか。それは正に、死を前にしたブルックナーの精神の拠りどころであった。ベートーベンやワーグナーという巨匠たちに別れを告げ、自らをディオニュソスの祭壇に奉げて、煮るなり焼くなり好きにしろという気迫で、壮大な音響的精神空間を彫り上げつつあったのである。メッツマッハーの演奏では、確かにそのように聴こえる。巨匠はこの上もなく自由な精神で、真正面から交響曲の形式に挑みかかったようだ。ブルックナーは、その偉大な神の産物(=交響曲)に対して死亡宣告し、新たなる死者の復活を試みようとした(いわゆる『生への訣別』=ワグナー・チューバとホルンによるコラール)。それは死神の足音を聞きながら、いま、壮大な作品の草稿を手にしている自分へ向けた希望の響きでもあった。

そして、この日の演奏を通した意味としては、震災を乗り越え、そこで起こった厳粛な死を受け止めながら、いま、前に進もうとする日本人へのオマージュでもあった。

【実況的に振り返る私の鑑賞録】

そのメッセージは実に、冒頭楽章でうっすらと感じられたものでもある。冒頭、前半のシューベルトの出だしと同じコントラバスの響きが、一瞬、強調されて始まる。シューベルトでは、それはベートーベン『第九』へのほんの僅かなオマージュとして聴こえるから、これは二重の意味をもつ暗示である。浮かび上がるワーグナーの響き。これも、すぐに捨て去られる。この巨匠とは、既に交響曲第3番で訣別したはずだ。cl、ob、fl のトラインアングルを美しく浮かび上がらせ(ob の古部賢一がさすが!)、誰かがこの前のアルペンの演奏について「コンチェルト・グロッソ」といっていたのを思い出させる演奏が、再び展開された。そうこうしているうちに、最初のクライマックス!

やはり、響きの立体性はまだ十分ではない。ブルックナーはドイツのオケに限るのか?

やがて、弦のピッチカートが水滴の落ちる音のように聴こえだし、「アッ、これはシューベルトにもあったな」と思ってはみたものの、すぐにモティーフが変化し、手の内をなかなか見せてくれない。チェリビダッケを想起させる、音響美学の緻密な提示がしばらくつづく。このあたりでは、前回、私が感じたような室内楽的な響きのすり合わせが面白く聴かれたが、まだ探りながらの演奏だ。強い者には複数でかかり、互いに響きを通い合わせていく。前の週の演奏と比べると、こうしたものも含めて全体的に構造の回収はゆっくりで、私好みに変わった。ただし、響きはデモーニッシュなものが多く、精神的な弟子であるマーラーへの影響も濃厚に感じさせる。

再び、水滴が溜まり出す部分。今度はこれが化けて巨大な波として提示されると、私は「もしや!?」と思い、より注意ぶかくメッセージに耳を傾けることになる。そのメッセージが決定的となるのは、ワグナー・チューバによる葬送コラールが現れるところだ。転覆しかけた船が半ば絶望的に鳴らす汽笛(そんなものが本当にあり得るのかは知らない)のようなべったりした響きが、この世の終わりのように響くとき、私たちは自然とそれを連想することだろう。東北の海だ。そして、そこから逆算して、私たちがいままで何を聴いていたのか、ハッキリ知るようにデザインされていた。

以後、低音弦は海の水面を示すようになり、その下でうごめく精霊の姿が、弦や木管楽器で表現されることになる。その美しくも、痛ましい姿にも私たちは見惚れてしまう。あの日、テレビに向かい、ドンブラコッコと流れていくクルマや家を現実感なく、まるで、なにか玩具のように眺めていたときのように。これが正しく津波のように、ぐっと迫りくるコーダの印象たるや凄かった。崔コンマスが、胸襟を開いて見得を切るようにしたところでピタリと響きが止んで最初の楽章がおわる。息を呑んだ。

【独創的なスケルッツォ】

地獄の描写である第2楽章がすこし長めで、特徴として挙がるかもしれない。メッツマッハーの場合、この曲に限らず、繰り返しにおいては、絶対に判で押したような演奏にはしない。このスケルッツォの主部も、デモーニッシュな響きがはじめは鋭く動的な点として切り取られ、2度目はテヌートで、3度目はレガートに加工され、それらがつづく表現を支配するように徹底していた。トリオ冒頭のヴィオラの強調が傑作で、テンポ的にも大胆なほどの差がつけられ、これがはじめいびつな印象をもたらすが、繰り返しまでに必然性のあるものとして印象づけられる。普通、巨大なブルックナーの作品のなかでは、コンパクトで、例外的にダンサブルなイメージをもたらす9番のスケルッツォが、この工夫により徹底的な新しさをもつ楽章に生まれ変わるのだ。

そして、それを越える独創性が終楽章で生み出される・・・。

【死者の復活】

メッセージは、ある契機をキーとして動き出すものだが、この楽章では、展開部の前で第2主題が高揚する部分がキーとなっている。ただし、実際には序盤のアンサンブルのなかで、その響きがシルエットで提示される部分がそれに当たり、例の低音弦の水面の下で、息の詰まるような緊張感で響きがつながれていくのには、こちらも息を呑むほどだ。だが、ついに、キーの部分に到達しても、意外に響きはあっさりと片づけられるのは意外だった。それでも、響きはこれを境にハッキリ明転するのは間違いない。

こうした要素を拾い集めながら、楽曲はクライマックスの強奏に達し、強烈な不協和音のなか、ブルックナー以外ではあり得ない愉悦的な響きが生じて、メッツマッハーはこれを「死者の復活」として明確に捉えたのである。それは第2楽章の独創的なスケルッツォと不可分にはあり得ないものであり、また第1楽章で描かれた悲劇性とはネガ/ポジの関係にある。これがいま述べたキー・ポイントで清算されたものと対比されるとき、私たちは正に、死者が生き返ってくるような衝撃を感じるのだろう。そして、この復活以後は、完全に明転する。

しかし、「明転」とはいっても、まだ「復興」というような感情にはなれない。むしろ、彼らが描くのは、そうした死者の尊重である。海の底に沈み、未だに行方も分からない無数の亡骸と対話したような気もちが、私のなかに生じていた。そして、同時に、ブルックナーがどんな想いで、この作品と向き合っていたのかも、瞬時に感じ取ることができた。彼らがこうした響きで包まれるように、私たちは祈らなければならないのだが、その代わりに、メッツマッハーはオーケストラをそのように鳴らしたのであった。金管による祈りのうちに、音楽はおわった。天使のように、弦が寄り添っていた。

【死者への敬意】

号泣するような演奏ではないが、しくしくと泣けてきた。メッツマッハーはインタヴューで、未完の作品には全体の構想があったはずで、そこにイマジネーションを描くべきだと力説しているが、それを追究する欲求を脇においても、大切なメッセージを伝えることだけに誠意を尽くしたのである。保守的なノヴァーク版での演奏を選ぶ版の変更も、こうしたメッセージをより直截に伝えることができるという一点において決断されたものにちがいない。彼は死を前にしたブルックナーの心情と、大津波と震災に見舞われた日本人の心情が、いま、このとき、運命的に符合していると考えたのだろう。

それが「未完成」であるのも、もちろん、意味のあることだ。人々の人生は、それこそ未完成のままおわったからである。震災と津波で15,000名以上の方が亡くなられ、届け出があっただけでも2,500名以上の人たちが未だに行方がわからない。恐らくは、海の底で眠られているのであろうか。生き残った者たちの救済も大事なのだが、まずは死者への祈りを重くみるメッツマッハーのメッセージに、私はアタマをガツンと殴られる想いがした。それがあってこその、復興や、生活の再建である。2年ちかくが経って、未だに避難所暮らしがなくならないのも国として恥ずべきことだが、その解決のために、死者への想いが簡単に断ち切られることがあってはならない。

そして、クラシック音楽のような伝統的芸術音楽においても、死者への敬意こそが、なんといっても大事なのである。

【忘れものをとりに帰る感覚】

忘れものをとりに帰るような感覚・・・シューベルトの「未完成」では、それがすべてだった。アルペンやヤナーチェクでは、あれほど素早く素材を回収して機動的に生かしきったメッツマッハーが、私の批判(先週の公演についての記事を参照)を嘲笑うかのようにして、素材を惜しげもなく置き去りにして、ゆっくりと歩むのを私たちは目の当たりにした。そういう意味で、第1楽章の繰り返しはきわめて示唆的である。序奏のあと、最初のシーケンスではメッツマッハーは音楽を速めに動かして、作品をバロック的に織り上げていったのだが、繰り返しではよりゆったりしたアーティキュレーションを選ぶ。こうして、彼らはようやく素材の回収を果たすのであるが、これが次の変容に結びついていくわけだ。

第1楽章の最後では、伝統的にテンポが保持されるのが普通であるなか、思いきって、序奏のあとの速いテンポに戻して、私たちをビクッとさせる。第2楽章は全体的なバランスが高まり、アマもしばしば取り上げる曲だが、真似のできない澄んだ響きで聴き手をうっとりさせる。木管楽器やホルンの響きを軸に、鋭いトランペットが時折、響きを崇高に押し上げるのがアクセントとなった。ホルンは都響の笠松長久が安定したパフォーマンスをみせ、ヘルツォーク(tp)、箱山(tb)のアンサンブルが、先週に引きつづき繊細なアンサンブルを作り上げる。

古典派では俄然、麗しい響きを聴かせる古部のオーボエの響きにホロッとなり、弦は小編成化するトレンドに反して厚め。特に、第1楽章冒頭のコントラバスの重厚さは、この作品がベートーベンの「第九」と何らかの関係があることを示すものだ。メッツマッハーの意見では、この作品は「グレート」よりも大掛かりな構えをもつ可能性を誇る偉大な作品であり、ベートーベンの系譜から直系を引き、ブラームスの先駆となるようなものなのである。そのような作品が完成するためには、あまりにも寿命が短かった・・・というのは最初のほうで述べた。実際、ベートーベンにしたところで、早いうちに「第九」の構想にちかいものがあったことが知られており、それが完全なものとして熟すまでには相当の時間を要したことはよく知られるようになっている。

第1楽章では意外なことに、ヴェルディの歌劇のような雰囲気も感じられ、独特のイメージでの演奏は新鮮さがあった。ヴェルディが先達のロッシーニから濃厚な影響を受けていることは明らかだが、荒唐無稽ながら、ヴェルディにおけるシューベルトの影響というのも研究材料としては面白いかもしれない。

【アファナシエフとの思い出から】

このような新鮮さと、誠実な演奏に対する共感に、ここでも僅かに涙を流すワタクシだが、この曲に関しては、まだ、これよりずっと衝撃的な体験が忘れられないでいることは付け加えておかねばならない。もう随分と前のことだが、奇しくも同じNJPを指揮して、この曲を40分ちかくもかけて演奏した「指揮者」がいたのだ。その人物とは、ヴァレリー・アファナシエフである。

指揮者としては失格の烙印を押され、彼の住む欧州では、オケが自分の言うことを聞かないからということで活動を止めてしまったが、少なくとも日本では、新日本フィルと東京シティフィルを相手に、彼は大いに自分らしい音楽をつくることができた。指揮は見にくく(醜く)、アイン・ザッツを揃えることさえ、あらゆる意味で大変だったが、シューベルトでは、彼がピアノ・ソナタの分野でやったというように(私の聴いたピアノの演奏会ではそうではなく、そうしたことも過去にあったということにすぎない)、すべての素材を限界まで引き延ばすやり方で、作品を見事に完成へと至らしめた。その素材に対する深いこだわり、シューベルトらしい無駄なものひとつない音楽の完璧さ・・・、否、本当はそんなふうに説明できない何ものかに脅かされて、私は終演後、思わずこみ上げてくるものがあった。静寂のなかで、それを必死で抑えるのは大変なことだったのだ!

そのときの、もう衝き動かされるような感情の慟哭と比べれば、メッツマッハーの演奏でも、まだ何かが足りないと思わないでもなかった。しかし、同じように、シューベルトの音楽にひとつも無駄がないという感覚は、今回も同じように感じることができたといえようか。

【まとめ】

これで、1月のメッツマッハー・シリーズがおわった。最高の演奏はブルックナーであり、すべての演奏が個性的である。演奏内容は間違いなく素晴らしく、NJPをより大きく育てていけるポテンシャルも引き出した。ただ、人気の面ではやはり、まだ知名度が足りず、営業面で課題を残す結果になったと思う。しかし、聴かれた方の評判は素晴らしく、以後、尻上がりに支持者を増やしていくのは確実だ。それがどの程度のうねりに発展するかで、彼の次の契約の是非が決まるのであろう。私はこれまでの印象どおり・・・、否、それ以上に彼をつよく支持することに決めた。

次回は期初の9月、「コンダクター・イン・レジデンス」としての登場ということである。特に、『ワルキューレ』第1幕を中心とするプログラムは大きな注目を浴びそうだ。

【プログラム】 2013年1月19日

1、シューベルト 交響曲「未完成」 D759
2、ブルックナー 交響曲第9番

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:サントリーホール

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