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2013年1月30日 (水)

高関健 ブルックナー 交響曲第5番 ほか 新交響楽団 第220回定期 1/27

【難曲】

たくさん練習をすれば、必ずうまくなるとも限らないが、現代では、作曲当時には演奏困難とされたり、初演までたっぷり1年をかけたというような作品であっても、たった数日のプローヴェ、もしくは、それ以下の僅かな準備でこなさなければならなくなっている。例えば、ブルックナーの交響曲第3番など、指揮者・ブルックナーの不手際も手伝って、練習に参加するウィーン・フィルの団員も一人減り、二人減りしていくなか、散々な結果を迎えた初演の大失敗は有名になっている。それほど奇抜で、風変わりな作品だったということだろう。そんな曲をいまや、プロのオーケストラともなれば、たったの2、3日の練習で仕上げるのだから、いろいろな無理もつきまとうにちがいない。

交響曲第5番はスイス時計のような精巧さで出来ているが、決して演奏が簡単だという意味にはならない。

モーツァルトの宗教曲のような序奏ではじまり、それが短く切れて、次はおもむろに『ローエングリン』のような音楽になりつつ、やがて、豊満なフォルムが魔法のように生み出されていく交響曲第5番は、短いスパンの間に、多彩な音楽的語法を使い分け、それらを意味あるものとして対峙させなければならない難しい作品だ。強力な魔力で描かれたような、「美しい」聖堂の幻影がそこにはある。この日の演奏でいえば、冒頭の響きの軽くて、柔らかい表情にまず驚きを禁じ得なかった。これから、ブルックナーの大曲を描くという響きではまったくなかったのである。だが、高揚するワーグナー的モティーフを通って最初の頂点を打ち、その後、ヴィオラとチェロによる主題が明晰に描き出されるころには、既に音楽は固まっていた。

【最初の音から当時の空気のなかへ】

この日は前半にベルク『3つの管弦楽曲』(op.6)、後半にブルックナーの交響曲第5番という構成であったが、最初の数音で、聴き手は当時の世界を包んでいた空気にいきなり包み込まれるという、演奏上の特徴を指摘することができる。ベルクのほうの作曲年は1914年から翌年の間。ちょうどWWⅠが始まるころだが、戦争そのものの雰囲気というよりは、それを生み出す原理的なものが空気として漂っている感じだ。実際、ベルクは当時、のちの傑作『ヴォツェック』を腹中に温めていた。そして、その雰囲気と、WWⅠ勃発は非常に関係深いもののように思われる。その萌芽として、先に生み出されたのが(op.6)の管弦楽曲だ。一方、ブルックナーのほうは1875~1878年。ベルクのときと比べれば、もうすこし和やかな時間が流れていたのであろう。いずれにしろ、響きが流れ出した途端、パッと空気が変わってしまうのだ。和音の作用であろうか。

正に、この空気感のなかで、音楽世界が自然に構築されていく演奏会であった。

【天国と地獄】

ベルク作品は、なにか天国と地獄、もしくは「この世」が隣りあっていて、そのなかで、辛うじて天国を描くという感じがした。それは音色の問題であろうし、和音の選択など、テクニカルな側面からきている話かもしれない。ベルクはマーラーの作品に入れ込み、この作品でもハンマーの使用や管楽器のベルアップなど、直接的な影響を指摘するのは容易い。だからといって、ベルクの作品はマーラーと同じではない。マーラーでは肥大化したものが、ウェーベルンほどではないしても、ベルクでは凝縮に進んでいるようだ。また、マーラーの作品では仮想的なものでしかない天国だが、ベルクの作品では、それはまだ地獄のそばへと引き寄せられてはいても、実体として描かれている点が異なる。

そうはいっても、マーラーもベルクも、もはや、ありのままの天国というリアリティを真正面から描くことができないのは共通している。それらはともに、バッハにおいて大成された伝統的対位法に基づくフーガ(もしくはカノン)の放棄、もしくは革新という問題に行き着くが、マーラーにおいては、まだそれはパロディという形で作品の一部を律することがあった。これに対して、ベルクにおいては、もう、それは影も形もないという状態に至り、伝統的なものとは異質な、ひどく複雑で、歪んだフォルムに変質して表れるだけだ。

【神の声を聞くブルックナー】

そういう芸術的選択をせねばならなかった最大の理由は、ブルックナーに求められるように思われる。高関健&新響によるブルックナーの交響曲第5番の演奏は、正に、正真正銘の天国の描写がどのようなものであるかを、私たちに教えるものであった。まずは、音色の明るさに特徴がある。高関はオーケストラに対して、いつも明るく輝かしい響きをキープするように徹底した。それは既に述べた第1楽章の序奏さえも例外ではなく、まるでブルックナーがその壮大なスコアのどこにでも、光りが注すように書いたと言わんばかりである。どちらにでもとれそうな場面でも、高関は常に明るい道を選んで進むようにした。影がないのである。

このような解釈は、ある意味、ブルックナーの音楽にある「底深さ」という印象を損なうものであるかもしれない。

だが、例えば、終楽章のはなしにすれば、この音色を抜きにして、本当に納得のいく表現が可能であろうか。既に述べたモーツァルト的な序奏部分から、今度は舞曲風の動機を経て、フーガに飛び込んでいくのだが、このフーガの明るさを描き出すのには、やはり、底なしに明るい響きが必要である。さもなければ、フルトヴェングラーのように、アイロニカルな毒を含んだ響きとなろう。それもまた私には納得のいくものだが、少なくとも、高関のイメージでは、より清らかで、素朴なブルックナー像が生きていた。

この作品を通じてブルックナーがやりたかったことは、一体、何なのか。それはこれより数十年前、といっても、既に中年に差し掛かっていた彼が、ゼヒター先生を通じて生真面目に学んでいたものと大差ないように思われるのだ。ゼヒターはそこで、生徒たちに自由な創作をいっさい禁じ、生真面目な対位法の基礎理論を叩き込もうとしていたという。そして、その気真面目さに、輪をかけた生真面目さで応えた唯一の生徒がブルックナーだった。今日からすれば、とても優良とは思えない退屈な講義のなかで、偉大なブルックナーが育まれたのである。そこで多分、巨匠は神の声を聞いたのだ。

伝統的対位法音楽の、究極をめざせ!

ブルックナーは既に時代遅れとなっていたものに、最大の可能性を見出した。その方法はバッハまでに高レヴェルで大成されたあとは、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンを通じてブラッシュアップが重ねられ、これらの古典派以降、シューベルト、ブラームスらによって、限界を突き詰めたものと思われていたにちがいない。だが、その最終的な実りは、ブルックナーによって刈り取られるのを待っていた。誰も踏み入れることがなかった畑の奥の奥に、巨大で豊饒なる実り、あるいは、こう言ってよければ、「天国」がその姿を隠していたのである。

正確にいえば、こうした実りは、ブルックナーが知り得た、当時、すべての世界的な音楽の流れ、とりわけ、フランスの潮流とも無縁ではないように思われる。例えば、この作品からフランクの循環形式の影響をみることは容易いし、また、ワーグナー的な側面は下調べのときとはちがい、実はドビュッシーのように聴こえたのだ(無論、ドビュッシーはブルックナーよりあとに活躍した)。これらが実際に影響しあったかどうかはともかくとして、同じ時代に生きた優れた作曲家たちにとって、彼らのアタマのなかにちょうど似通った(時代的)テーマが思い浮かんだとしても、いっこうに不思議はないはずだ。

【ブルックナーの成し遂げたもの】

さて、先に述べたような表現は2つのクライマックスによって、ご丁寧にも二段構造になっているものである。最初のクライマックスでは、響きは夜の星空の如く、すべての楽器が単独の声部として声を上げる形になっている。ポリフォニー以前の多声音楽の構造と、それを和音的な構造にも当て嵌める二重構造がものの見事に浮かび上がり、私を夢心地にさせた。正に、宇宙的なイメージで捉えられるクライマックスである。だが、これを越える頂点が、後半に現れるのである。ここでは、先の星空を構成した要素が再び大河のように収束し、巨大な和音の奔流として私たちを呑み込んでいく。キリスト者でなくとも、私たちはそこに一定の崇高な存在を見つけ出さずにはいないほど、こころを打ちのめされる。無論、信心ゆたなブルックナーにおいては、それは神の存在を指し示すものにちがいない。

だからといって、ブルックナーの音楽は司祭の抹香くささとは無縁なのである。『聖なる野人』と題された彼の評伝(ヴェルナー・ヴォルフ著)があるが、その題名の真意はともかく、この言葉が指し示す音楽的な愉悦と、いま記したような宗教的テーマが、矛盾せず美しく立体的に立ち上がるのがブルックナーの音楽の特徴を成している。そして、高関の解釈はそのなかでも、特にブルックナーの崇高さを明るく思い描くものであった。ベルクのときに感じられた地獄からの突き上げはなく、先に述べたような二段構造が、ほぼ同じ厚みで表現されるところに、この音楽の限りない聖性をみつけることができるが、実際、このような決断は簡単ではない。思いきった演奏だと思う。

このような音楽のあとに、マーラーなりベルクが、同じく伝統的な対位法に基づいて、この先人と同等以上に素晴らしく、また、新鮮な、天国の音楽を書くことは不可能なのだ。そして、そのことを感じることは、つまり、ブルックナーが徹底的に新しいやり方で、伝統的な対位法を生まれ変わらせ、ついに、その極を究めたことを意味する、また、同時に、そうすることによって、彼の抱く宗教的テーマと、彼の音楽が、奇跡的につよい絆で結びついたことをも意味する。

【まとめ】

作曲家がちがうとはいえ、前週のインバルもフーガの美しい響きを構築してみせたものの、このように根源的な意味での、その意味合いの尊さを彫り上げることはできなかった。繰り返し述べてきたような音色の問題、さらには、すべての響きを無理なく有効に引き出すための適切なテンポの設定、声部のバランスに対する的確なコントロールが、こうした作品像を明らかにする。金管任せにはならず、弦も安定感抜群のコンマスを中心に必死にフォルムを支え、それをつなぎ合わせる木管の動きも十分に感じられる。このようなバランスこそ、正に度重なる練習の賜物であり、今日、多くの指揮者の年頭から消えている発想なのだ。

多くの人たちが気づかないところで、ブルックナーが神の声を聞いたように、このような演奏には、私たちの忘れかけた何かを思い起こさせる力がある。そして、それが、アマチュア・オーケストラの演奏会で起こるというのは、すこしも不思議なことではない。無論、プロによる演奏会をすべて否定するわけではなく、彼らの置かれた苛酷な状況にもかかわらず、私たちに大きなインスピレイションを与える公演を数々おこなっていることは、私のページでもしばしば報告のとおりである。だが、どのプロ・オーケストラが、この日の演奏に比肩し得る完璧さで、その美しいバランスを実現し、しかも、そこに「こころ」を載せることができるのだろうか?

すべてのプレゼンテーションがおわり、コーダの音響的愉悦に身を任せることができるためには、それまでに、十分な構築がなされていなければならない。それがなければ、しばしば演奏は妙なハイ・テンションで結ばれることになる。強打するティンパニの独り舞台金管の無意味で虚しい咆哮壮大な建築コンセプトの空回りなどに沈まず、最後まで全体のバランスが失うことなく、奇跡のような輝かしいサウンドを実現するためには、そこに至る論理的な構築の周到さとその精緻な実現、美しいバランスの磨き上げと、これを維持するアンサンブルの聴きあいのキープが必要で、これが達成できなければ、その演奏は作品の表現に値しなかったということになる。

新交響楽団の演奏は、明らかにそれに値した。特に、音色の美しさが奇跡的であった。

新響は2003年、小泉和裕の指揮、ウラディミル・オフチニコフの独奏によるラフマニノフの『パガニーニ変奏曲』が初めてで、それ以来、維持会員になった時期も含めて、相当数の公演を聴いてきた。今回の演奏は、2004年に高関が指揮した石井眞木『幻影と死』の完全版初演とクライヴ・ブラウン新校訂版によるベートーベンの交響曲第5番による演奏会、さらに、2006年の飯守泰次郎指揮による『トリスタンとイゾルデ』の抜粋上演に次ぐ素晴らしさである。新春の、思わぬ健闘を賞賛したい。

アレルヤ!

【プログラム】 2013年1月27日

1、ベルク 3つの管弦楽曲 op.6
2、ブルックナー 交響曲第5番

 於:すみだトリフォニーホール

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