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2013年1月23日 (水)

インバル&都響 マーラー 交響曲第5番 ほか 東京芸術劇場リニューアル記念公演/新・マーラー・ツィクルス-5 1/20

【マーラーは狂人なのか?】

マーラーについては、非常にいびつなイメージが広がっていると思う。例えば、「狂気」といったようなキーワードが、マーラーのことを言い表すのにピッタリなのだろうか。だが、もし、「狂気」という言葉がなかったら? 現代では、あまりに多くの病気の名前がありすぎし、不必要なレッテルが多すぎるのだ。例えば、「クレーマー」「モンスター・ペアレンツ」。こうした言葉は、ことの本質を歪め、一方的な枠に相手を嵌めることになり、相手を軽視する姿勢につながる。閑話休題。マーラーの「狂気」・・・それは、あるときには王者のように強靭で、あるときには子どものように脆い、そのバランスの悪さから来るものだ。だが、少なくとも音楽を書いているとき、マーラーは一定のバランスを保っていたのではなかろうか。

彼の音楽は徹頭徹尾、冷徹なアイロニーに満ち、笑えない冗談に満ちている。そのために、一部の指揮者はマーラーの音楽が、作曲家として誠実なものでないと感じるようだ。アルマ夫人の言うように、マーラーが精神的にブルックナーの魂を継ごうとしていたのだとしても、それにしては、あまりにもブルックナーの音楽を尊重していないことに疑問を感じる。実際、私がこの演奏会にきたのは、前日の演奏会で聴いたブルックナーの音楽に萌芽をみることができるマーラーの音楽、それが先人の音楽をどれほどに歪めているかということに関心があったからだ。しかし、インバルはそうしたマーラーの音楽を、さらに誇張的に演奏したのだから堪らない。

いわゆる「ブルックナー指揮者」に比べれば、「マーラー指揮者」は玉石混交である。だが、多くのマーラー支持者は、彼の生き方やその哲学にまつわる数々の誤解や誇張を、いかに人間的なレヴェルに引きつけて演奏するかを模索してきたように思う。ブルーノ・ワルターの録音はその点で、もっとも早く、効果的な「証言」となった好例であり、このようなアーカイヴを無視して、誇張的な解釈がむしろ広く拡散していったことは、マーラーにとっては必ずしも幸福なことではなかったはずだ。確かに、彼の時代はきたかもしれないが、その音楽は彼の執拗で、親切すぎる努力にもかかわらず(その姿勢もまた一部の指揮者にしかめ面をさせる)、思ったとおりに演奏されてはいないように思われる。

【ベルティーニおけるマーラー像の修正】

ガリー・ベルティーニは、そうしたマーラーについての誤解を、それこそひとつひとつの音符のレヴェルから洗い流していく職人・・・というよりは、ある種の天使であった。この「天使」が教えたことで、もっとも重要なことは、マーラーの書いた音符が示すメッセージにはいかなる無駄もなく、どれだけ巨大な作品も、室内楽のように描けるという提起であった。このことが示す意味は額面以上に大きく、例えば、小編成の作品のように音符やその構造を緻密に描き出すことや、そこから発せられるメッセージを大切に伝えること。アンサンブルを緊密に保ち、ギリギリの対話によって、内側から響きを温めること。遠くにある響きにも耳を傾け、もっとも弱い響きに託されたメッセージを全体で守っていくこと。といったような、数々の決まりごとに結びついていくのである。

ベルティーニのマーラーは、あらゆる面で都響を厳しく鍛え上げるものだった。だから、その成果を応用して、ハイドンやベートーベン、ブラームスなどを見事に描き上げることも自然であったろう。ベルティーニは東京の財政がもっとも不振だった時期に、不本意な形で楽団を去ることになったが、その最後の定期で演奏された「未完成」「告別」「運命」というプログラムの演奏を憶えている人は多いだろう。特に「告別」のあとでは、会場にいた多くの人たちが目を真っ赤にしていたのが記憶に残っている(そんな演奏会は他に経験がない!)が、ベルティーニは正にそのレヴェルまで通用する方法で、マーラーを演奏していたのである(無論、マーラーだけを演奏していたわけだはないが)。そして、彼はほんの少しのヒント、つまりは題名だけを導きにして、あれほど多くのオーディエンスにこころを伝えた。

このコンビの演奏で、もっとも印象ぶかいのは「大地の歌」の演奏会だ。これはCDにもなっているが、彼らの到達した境地を顕著に物語っている。それは名高いケルンWDR放送響における、同じベルティーニの全集と比較しても個性的で、作品素材が中国のものをベースにしているということを差し引いて考えても、紛れもなく東洋的な繊細さを織り込んだ優れた演奏になっていた。すべての声部が柔らかく生かされ、最後の ’ewig’ に向かって、メッセージが深く凝縮していく様子は、敢えていえば、クーベリックの演奏にちかい。チェコと日本という2つの地域の特性が、そういう風に対応しあっているのであろうと思う。この日、我々は西洋の真似事であるクラシック音楽という場所から、ハッキリとより高い境地へと上り詰めた気がする。

【インバルの放つ負のインパクト】

インバルの演奏は、こうしたものを根本から覆すような負のインパクトに満ちていた。都響はベルティーニが育てた個の意識、巨大な室内楽のセルを構成する一単位としての自負を捨て、インバルのために動く番犬へと都響を変えてしまった。タチの悪いことに、この番犬たちは自分たちが番犬になっているとは少しも思っておらぬし、ボスのほうはボスのほうで、彼らを番犬にしたとは夢にも思ってみないのである。だから、彼らの演奏は表面上、きわめて人間的な温かい結びつきによって生じたものの如く見えないこともなく、互いが互いを尊敬することでは、この上もなく自然な関係が構築されているようだ。

だが、例えば、まだ都響に加わったばかりで、オーボエ首席の大役にある鷹栖首席(2011年、東京シティフィルの一番奏者から移籍)について見てみると、性質のちがいが明らかになる。もしもベルティーニだったら、彼女のことを一人になんかしない。もっとも弱い者に焦点を当てる・・・これが彼の信念だからである。だが、インバルはいちばん強い者に、下の者がつき従えという方法で音楽を構築する。インバルの声望を高めているのは、そうすることで生じる力強い響きのインパクトであり、特に、金管の物凄い咆哮は世界じゅうのどこに行っても評判で、同じようなことをやっている印象がある。都響でも、例外ではない。都響のあるフルート奏者はツイッターを通じて、インバルも自分たちも「新しい演奏をした」と言っているが、私にはその言葉が疑問に思えるのだ。

【細部からみるインバルのつまらなさ】

特に、私がこの演奏の弊害に困ったのは、第3楽章である。

第1楽章は、まずまずの滑り出しだった。高橋敦のトランペット序奏は、昨年、東京ハルサイで読響が同曲を臨時に演奏したとき、長谷川首席があとにも先にも行けない追いつめられた心境で吹いたものと比べれば、あまりにも形骸的だった。そして、あとから思えば、それが全体の印象を決めるものだっのたかもしれない。足を踏み鳴らすような太鼓とそれ以外の楽員の呼応は、実に見事だ。私だって、彼らのことを貶したくて来たわけではない。これが良い方向に進むように、願いながら聴いていた。第1主題は低音弦を粘りつかせ、独特の雰囲気で聴かせる。この低音弦の強調は、随所で味わい深い印象をもたらしている。良い部分が、まったくないわけでもないのだ。

船がゆっくり漕ぎ出すような、大きな揺れも悪くない。しかし、「沖合」にいくにつれて、音楽に生命感がないことに気づいていくのだ。確かに、オケはよく動いているし、指揮に対する反応も鋭い。だが、それが少しずつ、予定調和なものに聴こえてくるといけない。この5番は、そのような調和をもっとも嫌うタイプの音楽だと思う。マーラーは自ら膨大な書き込みを入れて、未来の指揮者たちを束縛しようとするが、彼自身、自らの作品をやる場合にはちょくちょく書きなおしも厭わなかったという。この作品ほど即興性に満ち、自由度の高い作品はマーラーにはなく、それがこの交響曲第5番の面白さになっている。すべての声部が機能的に動きながら、あと一歩、踏み込みきれない印象があるのは、最終的に、インバルがこのような自由さを閉じてしまったせいではなかろうか。

第1楽章が既に、随分と硬い演奏だった分、第2楽章にはアタッカで突っ込んでいく。これはもともスケルッツォであるし、ほかの楽章と比べて、比較的、面白く聴くことができた。第1楽章のうねりを有効に活用しながら、スラヴ系のリズムで作品を彩っていく。マーラーはボヘミアとモラヴィアの間にあるドイツ系の街、イフラヴァ近郊に生まれたのだ。しかし、その面白さが継続するのも僅かの間、ほんの些細な瞬間だけでしかない。再び、あの退屈な調和が訪れ、響きの強さだけが不条理に響いてくる。

そして、第3楽章だ。これもスケルッツォだが、その誇張的な色づけゆえに、作品のもつユーモアはまったくもって後退した。第1楽章の太鼓の強打、第2楽章のトライアングル強打につづき、この楽章では終始、ホルンの強奏がつづく。それはホルンは強奏せねばならぬのだが、そこにどのようなメッセージが張りつかねばならぬか、インバルの解釈はきわめて曖昧である。ちょっとハッとした部分は、中間で対位法的な構造が浮かんでくるところで、これは終楽章冒頭の場面と密接に関係する。だが、それも、この楽章のなかで適切な発展を示せずにおわる。このなかで見えるはずの、数々の内面的なメッセージは単に音響的効果に切り替えられてしまっているからだ。

【こだわりが伝わらない】

インバルも楽譜から読み取れるメッセージを、なるべく精緻に音響化し、客席に伝えるということにかけてはこだわりのある指揮者のはずだ。しかし、実際に客席に座って、私に伝わったことは驚くほど少ないというべきだ。その原因は私のほうにあるのかもしれないし、実際、多くのオーディエンスは演奏をつよく支持しているようにも見える。だが、意地の悪い言い方をすれば、彼らがなにを支持しているのかはわかったものではない。もしも、その基準が音響的な愉悦感に依拠しているならば、説明は容易である。そして、私などからすれば、それ以外の要素をインバルの演奏に見つけ出すことは難しかった。あんなに美しかったアダージェトさえも、例えば、リンクの録音(ミトロプーロス指揮NYP)と比べると、あまりにもメッセージがシンプルすぎるように思われる。

その場で豊富なインスピレイションが閃いて、私の頭脳がフル回転するという瞬間は、今回、まったくなかったのであった。

インバルが手を抜くことなく、最高の演奏をめざしていることは十分にわかる。だから、私は、マリン・オルソップやマイケル・ウィグルスワース(ブラームス=2番)、ヒュー・ウルフ(ブラームス=3番)、ダニエル・ハーディング(マーラー=9番)、張明勲(ブルックナー=7番)といった指揮者に、ほとんど怒りにもちかい感情を抱いたのと比べれば、はるかに冷静な気持ちで演奏を聴きおえた。しかし、このような虚脱感もまた珍しいものであった。空虚な熱演。インバルも頑張り、都響もそれにしたがって励み、互いにこころは通じているようにみえる。それなのに、これほど成果のない演奏になったのは、私としても辛い想いがしたものだ。

インバルと都響によるマーラー・ツィクルスは非常に人気が高く、東京芸術劇場のようなハイ・キャパシティのホールでもセット券が即日完売というほどに盛り上がっている。だから、私がなにを言っても、このシリーズがダメージを受けることはなく、口をきわめて批判しても問題ないはずだ。だからこそ言うが、この人気には少々、危ういものを感じるのだ。このマーラーが私たちの求めていたものだとすれば、その作品を演奏しないと決意している指揮者たちはなるほど正しいことになるのではなかろうか。

【音楽の伝統を守れ!】

指揮者のニコラウス・アーノンクール氏はその著書『古楽とは何か』のなかで、クラシック音楽が私たちのこころとは何の関係もない、ただの娯楽になっていいものかと嘆いているが、正にその状況の非常に皮肉な結末が、このようなオーディエンスの反応に表れているとみることができる。彼らは単に、自分たちが良い演奏と思っているものを称賛しているにすぎないのだし、一方的に彼らを非難するのはあまりにも傲慢というものだ。しかし、演奏者に対しては、このように問いかけてもみたいと思う。あなたたちは、ベルティーニから教わったものを、こういう形で捨て去ってしまってもよいものでしょうか。彼が亡くなってから、まだ10年も経たないというのに!

私は、まだ憶えている。『大地の歌』で、最後の ’ewig’ の声が途切れて、すべての響きがなくなり、空間にただ静寂のみが走ったときの空気感さえも。

ピアニストならば、自分が大事と思った師の教えは、それが自分にできる限り、いつまでも忘れることはなく、変えようともしない。その結果、歴史のなかで積み上げられてきたピアニズムというものが守られ、後世に継承されていく。オーケストラにだって、同じような伝統の重みがあるべきだ。ボッセの教えたドイツ音楽の神髄、エリシュカの教えたヤナーチェクの音楽の特質や「肌ざわり」について、あるいは、ベルティーニの教えたマーラーの音楽に含まれる真実の声を、日本のオーケストラは守っていく義務がある。それらと同じくらいに、インバルの音楽が優れているとでも言うのだろうか?

こんな風に書くと、私は自分のこころに残るような演奏しか認めない、狭小な価値観をもつ人のように見えなくもない。だが、メッツマッハーについて、あるいは、エリシュカの「新世界より」についても、私は自分にとって好みではないが、逆らえない演奏というのがあることを表明したばかりだ。日本のオーケストラは世界でもっとも従順であり、その音楽家のこころを柔軟に受け容れようとする挑戦心があるのは、世界に誇るべきことだと思う。N響にはじめてノリントンが来て、彼独自のスタイルでやることを宣言したとき、篠崎コンマスが喜んで「イェス、マエストロ!」と答えたような文化は得がたいものである。

だが、彼らは、同時に大事なものを守るということも憶えるべき時期にきた。残念ながら、日本のオーケストラはいままで、そうしたことには価値観を置かなかったように思うし、もしも、それができているなら、より大きな財産を後世に遺していて然るべきだ。それは常に新しいものを追い求め、イケイケドンドンで頑張りつづけた日本人のメンタリティをつよく反映したものでもあったろうし、仕方のないことだ。都響はいままた、インバルと一緒にそれができていると喜んでいる。「新しい演奏をした」と主張するのだ。だが、実際には、牧羊犬のみた広大な牧草地の広さに、彼らは騙されているにすぎないのかっもしれない。優れた牧羊犬であるとしても、いまの都響には我慢がならない。実はウチにも母の買う牧羊犬(コーギー)がいるが、正直、彼のことを気の毒におもう毎日である。

彼らはもっと、広い場所で活躍できるはずなのに!

【まとめ】

以上の理由で、私はインバルの演奏につよい反発と危惧を抱いたものである。

私はインバルの演奏から、本来、この作品を通じておこなわれるべきだった数々のメッセージの発信が、期せずして疎外されているのを感じた。彼らの演奏はもっと普遍性を以て響くはずであるし、強烈な可能性をもっているように思われた。しかし、残念ながら、数多くの点で、それを阻害する要因にも事欠かないように思われたのである。

クラシック音楽には、①音響的な素晴らしさ、②メッセージの素晴らしさとそれを通じたコミュニケーション、③集団表現としての美しさや個性、④伝統を守り育てることの喜び、という4つの要素があると思う。これらのうち、インバルがもっとも重視するのは①の要素であり、ここからすべてが生じるという誤解にすべてが基づいているように思われる。スケールの大きな指揮者ほど、①の要素を必ずしも重視せず、あとからいくらでもついてくるものと考えている印象が強いのだ。そして、そうした巨匠たちが重くみるのは、なんといっても②の要素なのである。

これはピアニストのはなしだが、クシシュトフ・ヤヴォンスキが師匠のアンジェイ・ヤシンスキについて評するには、彼の師匠のもっとも尊敬すべき点は、音楽を通じて発するコミュニケーション能力の強烈さであり、彼の音楽を聴く者は誰も、音楽を通じてコンタクトを通じてくるヤシンスキに逆らうことはできず、その温かみから逃れることはできない、というところに求められるのだそうだ。私はこの言葉を、真実のものと認識している。ベルティーニやエリシュカに対して、私が否応なく抱いている敬意もこのようなところから来るものである。

インバルの演奏には、このような点が根本的に不足しているように思えてならない。その理由は、本文で述べたとおりであるが、さらに深い理由もあるように思う。だが、私はそのことを探求するために、インバルを追っかけるような悪趣味はもたない。

私の意見は、あるいは、マイノリティに属するものであるかもしれないが、ベルティーニと比べれば、ただの音響的娯楽としか聴こえないというものである。彼にも、いろいろな想いはあるのだろうと思うし、その一部は実際に言葉で語られてもいる。しかし、そのようなっメッセージを、実際の響きから読み取ることは困難だった。このような演奏に、私はもっとも反発を感じると言っておこう。これは指揮者の問題ばかりではなく、オーケストラの問題でもあるかもしれない。彼らは自分たちの感性をもっと根本的に、指揮者とぶつけ合うべきである。

【プログラム】 2013年1月20日

1、モーツァルト フルート協奏曲第2番
 (fl:上野 由恵)
2、マーラー 交響曲第5番

 コンサートマスター:矢部 達哉

 於:東京芸術劇場

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コメント

ベルティーニはイスラエルの指揮者ではありますが、心象風景として持っていたのは緑多きモルドバであり、音楽を実際に学んだヨーロッパの風景だと思います。しかしながらインバルについては心象風景を確立する青年時代にずっといたのはエルサレムであったこと。つまり、あの乾燥した空気感。その中で現れる、光と影の明確なコントラスト。あれが彼の心象風景の背後にある。そのことを強く感じたのが都響で演奏したマーラー4番を聞いたときでした。

インバルの音楽は「砂漠の音楽」である。

そのように結論付けて以来、彼の演奏は一度として聞いていません。私は彼の音楽はヨーロッパ・クラシック音楽の中でもかなり異形の特殊なものであると考えています。

あまりに詩的なお言葉で、同意も、反発もしかねますが、砂漠の音楽とは面白い発想ですね。しかし私は、「砂漠の音楽」はインバルよりも、もっと豊富であると感じています。

S.ライヒ:『砂漠の音楽』
 http://ml.naxos.jp/work/2340369

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