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2013年2月15日 (金)

サロネン ストラヴィンスキー 春の祭典&ポヒョラの娘 フィルハーモニア管弦楽団 東京芸術劇場公演 2/10

【序】

ストラヴィンスキーは1913年、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスのために、『春の祭典』を作曲した。当時、バレエ・リュスは変革期にあり、のちにコリオグラファー/ダンサーとして歴史に名を残すヴァーツラフ・ニジンスキーは抜擢されたばかり。大胆で野卑な筋書き。不協和音や変拍子を満載し、従来の楽器法や拍節感を打ち破る圧倒的に新鮮な音楽。ニコライ・レーリッヒによる刺激的で、「野蛮」な衣裳。そして、ニジンスキーの複雑で、いままでにないような(当時の規範によれば、美しくない)動きを取り入れた振付で、初演時は歴史的な「負の」騒動を引き起こした。

しかし、作品は徐々に浸透し、モダーニズム音楽初期の傑作、あるいは、ベジャール版をはじめとするバレエのポピュラーな演目として定着し、今日に至った。今年は、初演から100年目の節目に当たり、演奏される機会もひときわ多くなっている。

そのなかで、この日のサロネン&フィルハーモニア管(Po)ほど、メッセージのつよい演奏をどれだけ聴けるかとなれば、これは大きな疑問である。60歳未満のコンサート指揮者のなかで、このサロネンについては、私がもっとも気に入っている指揮者(そもそも気に入っている指揮者が少ない!)であったが、生演奏を聴くのはこれが初めて。そうして耳にするサロネンの音楽は、メッツマッハーとはまた異なった意味で、メッセージが豊富であるところに特徴を見出せる。つまり、サロネンの場合は、メッツマッハー以上に音響へのこだわりが強く、そこから自然とメッセージが浮き上がってくるのだ。そういう面では、サロネンはチェリビダッケの系譜を引く指揮者かもしれず、例えば、『ポヒョラの娘』の最後で弱音ながらも、容赦なく、遠くへと伸びていく低音弦の響きなどはそういうイメージを呼び起こすのである。

【2つのシステム】

ただし、『ポヒョラの娘』と『春の祭典』、2曲の演奏を比べると、それらはまったく別のシステムによって演奏されているかのような印象を抱いた。

前者の演奏でもっとも印象的なのは、後半の英雄的な旋律だ。金管の勇壮な旋律と、弦の激しいギャロップの中間で、木管群がヒュウヒュウと息を立てている。騎士の魔力の本体は実にこれであっるが、その頂点でハープの旋律にヒョウと呑み込まれると、徐々に全体の響きも勢いを失っていく。これが引っ繰り返されて、終結の低音弦の引き伸ばしにつながっていくのであるが、サロネンはこうした要素を極限的な立体感で描き上げる。音像は、きわめて統一的なシステムの下で構成されるが、そのアクションは生き物のようであり、ひとつひとつ動画的に観察されるのであった。

一方、『春の祭典』から想像したものは、一枚の絵である・・・否、「絵」というよりは鏡のようなものだろう。動いているとすれば、それは眺めているほうが動いているにすぎない。この象徴となるのは終盤「祖先の儀式」の最後の部分で、サロネンが思いきってテンポを落とし、「強烈なルバートともとれるような」静止画をつくる場面だ。「鏡」のイメージは既に、私のなかに芽生えていたが、この場面でサロネンはハッキリとそのイメージを具体化した。1枚の大鏡を、彼は音響によって舞台上に見事に描き出した。そこには一体、何が写っているというのか? それは、私たちだ。呆気にとられた。その雰囲気のなかで、一瞬の静寂。そして、最初のモティーフに戻って、「生贄の踊り」となるのである。

リズム細胞論? よく知らない!

私がそこに見たのは、すべてのモティーフが同時に溶け込んで、まったく並列に進むという奇跡にほかならなかった。モティーフのなかには、生贄に対して同情的なものもあるし、反対に生贄を追い詰め、その美しさに熱狂するものもあって、両方の要素がある。これらは第2部の前半では前者が優勢で、後半では後者が優勢となるのだが、サウンドの強烈さではもちろん、後者に分があり、はじめ生贄に同情的な者であっても、大抵は後半の音楽の壮絶さに魅入られて人間的な情感を保つことは簡単でない。

【生贄に対する同情とその忘却】

ちなみに、生贄に同情的な情感は、まず、第1部の「長老の大地への口づけ」の場面で予告されている。このキスはまだ生贄と関係していないが、よく調べれば、ついに生贄が選ばれるときの契機となる音楽と、何かしら関係があるはずだ(その労を払うことは省略する)。サロネン&Poの演奏では「口づけ」の場面で、この上もない繊細さと、選ばれた生贄が「なぜ私が?」と訝るときのことを想像させる、僅かなひねりのあるサウンドが特徴的である。これを下地に、第2部でいよいよ生贄が選ばれたあとで、強烈なサウンドから逃げまわるかのような響きが表向き、最後の同情的な場面となるだろう。

そこからは、私たちは、ただただ、人間的なものから滑り落ちていくだけだ!

生贄が選ばれる場面では、大太鼓の徹底して機械的なテンポ・キープ(音楽が動き出しても決して動じない)と、音色のなんともいえない厳しい甘さがなんといっても不気味である。Poパーカッショニストの、あの冷徹で、感情のない叩き方といったら、何であろうか。それに比べて、全体の響きはシステマティックというよりは、奔放に聴こえるかもしれない。だが、聴き手の耳は、どちらかといえば、響きを律する方向にセンシティヴに反応するものだ。そういうところに、私は自分の顔を鏡に映しみたような気分がした。終曲で最初と同じモティーフが浮かび上がるときは、正にゾッとさせられたものだ。私はそこに、いま選ばれたばかりの生贄が立つというよりは、もう既に死んだ生贄の次の組が選ばれたような印象をもつからである。こうして悲劇が繰り返されることを、ストラヴィンスキーは冷淡にも見抜いていた。音楽的には当たり前の構造を利用して、彼は強烈な風刺を仕込んだようである。

結局、このような繰り返しを断つことができないところに、作曲家の不満はあったのだ。この作品のもつテーマは、いくつかの層をもつ。まず、宗教的観点からは、古代の異教徒の野卑な儀礼のなかに、人類の犠牲となって死んでいくイエスの姿にキリスト教徒が感じるエクスタシーに似たものが同居するということが問題なのだ。現世的な観点からいえば、そのようなエクスタシーに熱狂し、穏やかなときにはまだ生きている、人間的な感情を忘れていく人々の実相が冷徹に描かれている。そして、社会的な観点でいえば、新たな「生贄」を求めて、絶えず暴力的な力を揮おうと狙っている帝国主義的世界への風刺となっている。

これを裏返してみれば、作品は生贄の側からみた宗教、人民、国家に対する痛烈な批判となろう。舞台上の野蛮人が激しく振る舞えば振る舞うほど、それはつよい風刺となり、鏡を覗きこむ鑑賞者は自らのあまりの醜さに激怒する。白雪姫の鏡は、より崇高なほかの美女がいることを王妃に向かって教えたが、ストラヴィンスキーの鏡はなによりも、まず、お前の醜さに気づけというのであった。

【スキャンダルの実態】

これは、怒るはずである。歴史的にみれば、この騒動はのちの改訂によって、作品がすんなりと受け容れられたことから、音楽やプロットそのものよりも、振付や衣裳の酷さ、あるいは、バレエ団の変動期であったことなどが騒動の原因だったとする向きもあるが、私にはそうは思えない。今日でもそうであるように、プレミエ初日の客はもっとも舞台に詳しく、関心の高い層であるはずで、作り手の仕込んだ風刺にも敏感であったのは間違いない。彼らが「昔の人」で、認識力が今日よりも低級だったために、このような騒ぎが起こったのではなく、むしろ、今日よりも真剣に、作品に向かい合った結果、作品に込められたデモーニッシュな批判性が、当然のように問題となったのである。

私はこれまで、この騒動がどうして起こったのかが理解できないでおり、当時の人は愚かな人だという安易な論理に陥っていたが、サロネン&Poの演奏で、ついに、以上のような結論を得た。かといって、なにも彼らが大げさに、デモーニッシュな演奏を仕掛けたというつもりはない。むしろ、特徴的には、ドライな演奏というべきである。しかし、それにもかかわらず、すべての声部、ひとつひとつの音符に意味があり、その楽曲に対して、自分が好きな部分も、そうでない部分も、一瞬も気が抜けないような緊張を強いられるのは不思議なことであった。

【オーケストラについて】

最後に、フィルハーモニア管についての印象を書いておわりにする。この楽団を聴くべきかどうか、大きく迷ったのは、2007年、インバルとの来日公演を映像でみたせいであった。そこでは、いま、インバルが都響でも披露しているような豪快な手腕が炸裂し、オルガンの「ストップ全開」といったような強烈なサウンドが立ち上がり、それを聴いた私にとって、両者の印象は最悪のものとなっていたのである。だが、サロネンが楽団を素晴らしい方向に導いているのは確かなようで、4-5年目となる現在、同じ指揮者が17年の歳月をかけたロス・フィルが獲得したものを、急追している感じが窺われた。

文化面では日本の良い見本である英国は、コーラスとブラスの分厚い文化をもっているが、そのうち、ブラスの響きはPoの場合、非常に柔らかい。弦の厚みは若干、不足感があることもあるが、『ポヒョラの娘』冒頭のソロ・チェロのように、北欧的な透明さのあるサウンドが特徴で、それがサロネンの影響によるものかどうかは俄かに判別しにくいが、味わいがある。木管は日本のオケと比べても、ソロでは飛び抜けて素晴らしいという感じはないものの、大事なところで、弦や金管と張り合わねばならないときに、特にそのタフさが目立ってくるようであった。

彼らは、室内楽的な柔軟さをいつも鍛え上げられており、それがPoのPoたる所以であり、LSO、LPOとな異なるところなのであろう。それが多分、いちばん感じられるはずだったのはシベリウスのコンチェルトであるが、独奏のほうは、スケールの大きな「室内楽」を構成するにはあまりにもアイディア不足で、コミュニケーション能力に欠けていた。彼女ができるのは、せいぜいチャイコフスキーみたいに、独奏による「独走」が積極的に生かされるような作品だけであって、この日、辛うじて感じられるのは重音の見事な輝きばかりである。この日のオケに、カヴァコスがぶつかったら、それは本当に凄いことになったろう。逆にいえば、この前のゲルギエフは、このような独奏者を前提に考えていたはずである。

この作品については、バイバ・スクリデ(東響)、佐藤まどか(アイノラ響)、レオニダス・カヴァコス(マリインスキー劇場管)のような、相異なる成功例をみているだけに、この日の演奏は、それらと比べると、いかなる意味でも失敗にちかかったというほかない。

芸劇の公演は終演後、サイン会の予定もあり、アプローズを短めに切り上げてオケが下がったこともあって、物足りないオーディエンスが2度、指揮者を呼び戻したのも当然のことだった。50代前半で、まだまだ若いサロネン氏。来日日程の重なったヤーニク・ネゼ=セガン、アンドリス・ネルソンス、グスターヴォ・ドゥダメルなど、若い層が注目されるなかで、彼らに対する厚い壁として君臨しづづけることだろう。Poとの今度の来日は、ロス・フィルという特殊事情に限らず、サロネンが高レヴェルにオーケストラをオーガナイズする才能をもっていることを証明したのではなかろうか。

【プログラム】 2013年2月10日

1、シベリウス 交響詩『ポヒョラの娘』
2、シベリウス ヴァイオリン協奏曲
 (vn:諏訪内 晶子)
3、ストラヴィンスキー バレエ音楽『春の祭典』

 於:東京芸術劇場

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