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2013年2月27日 (水)

尾高忠明 シェーンベルク グレの歌 東京フィル 特別演奏会 2/23

【不思議な符合】

神様というものを信じたことはないが、もしも彼がいるとするなら、相当、皮肉なロマンティストの演出家ではないかと思えてくる。この公演、あまりにも、それらしい符合が多かったせいだ。

まず、2011年3月20日に予定されていた東京フィル「100周年」記念公演が、その9日前に発生した震災後の混乱の影響により、中止ということから話が始まる。公演に必要な巨大組織を、計画停電下の不安定な状況のなか確保しつづけることは難しかったことから、このメンバーでもう1回やろうと固く誓いあって解散したというはなしだ。2年後、作品が初演から100年を迎える記念の年、しかも、月日も同じ2月23日に復活公演が組まれた。これもまた、狙って、できることではない。

内容をみてみると、それは1911年(初演は1913年)に、シェーンベルクが世界の平和を祈ってつくりあげた初期の傑作で、「死からの再生」という大テーマが、それが指し示す宗教的な大テーマを乗り越えて復活するという二段構えになっている。私たちを襲ったのは自然災害ではあるが、なにか奇妙な符合があるはなしだ。この日の演奏に関していえば、主要役のヴァルデマール王を歌った望月哲也は、後半のナンバーで大失敗をする。でも、後述のように、彼はそれを乗り越える。正に、作品の示すテーマにぴったりだった。

オーケストラも、この作品を演奏するには相応しい。周知のように、東京フィル(TPO)は2001年、東京フィルと新星日本交響楽団が合併して、いまの形になった。このとき、両楽団は優秀なメンバーを選抜して残すのではなく、なるべく楽団員を解雇しない道を模索し、かつて例をみない巨大オーケストラとなる道を選んだ。この選択は物議を醸し、その経営効率の悪さが指摘されてきたし、初期には、やはりアンサンブルの緊密さや、公演の質の平均化が難しく、演奏能力は東京の楽団のなかでも下位に属していた。だが、そのようなオーケストラであるからこそ、このような曲に、少ないエキストラだけで挑むこともできるわけだ。

あるときにはオケの演奏会と、新国のバレエの舞台と、雇われのオペラの舞台と3つに分けて演奏したこともあるような、そんな巨大オーケストラだからこそ、できることもある。近年は豊富な経験がプラスに作用し、質の高い公演をいくつかのチームで同時につくることができるようにもなっている。そんなオーケストラの実力を示すことが、この公演を作り上げる熱意につながった。3人のコンマスを全員、舞台に上げ、足りないところはOBまで呼んで、なるべくTPOの遺伝子だけにこだわって構成した舞台である。「特別演奏会」だから「定期」より劣ってもよいというのではなく、むしろ、とくべつ大事に作り上げた舞台として、楽団の命運をかけたといっても過言ではない公演に仕上がった。

このせいで、もしも来年、楽団が潰れてしまったとしても(そうはならないだろうが)、この演奏の貴重だったことは歴史に残る・・・否、残さねばならない。あのとき、中止にしたのが神の意志であったように感じられるほど、この演奏会は凄かった。その様子を、これから少しでも描写していくのが私の使命である。私はこのホールの特徴をよく知っていたので、前のほうの席に陣取り、ただ、舞台を張り出すことは知らなかったので、すこし前すぎたと最初は後悔もしたが、結果的に、これは正しい選択だったといえる。歌手たちに何が起こったか、私たちにはよくわかった。そして、彼らがどれだけ緻密な準備をして、どんな決意で歌ったか、私たちには報告する義務があると思う。

【山鳩の歌】

最大のクライマックスは、第1部を締める「山鳩の歌」だ。この役を歌うのが四半世紀の夢だっという、加納悦子のパフォーマンスはその言葉がただの飾りでないことを強烈に印象づけた。彼女のパフォーマンスはこの山鳩が、作品のなかで特殊な役割をもっていることを確信したなかで、徹底的に考え抜かれたものであったということが重要である。その役割とは、オペラ的に歌うことであった。「アリア」として歌うことだ。それまでのヴァルデマール王とトーヴェのやりとりは、大体、リーダー(リート)として、感情が剥き出しになるような場面でさえ、客観的なフォルムを主眼として構築されている。望月も佐々木も、その領分を守って声量や言葉の迫力を追い求めず、しっかりと言葉の意味を噛みしめるような歌い方をしていた。

だが、山鳩は、その範疇ではない。彼女だけが、ただ内側から人々のこころを歌うのだ。一羽の山鳩であり、死んだトーヴェであり、嘆き消沈するヴァルデマールであり、自らの罪に打ちひしがれる王妃でもある。歌いだしから、既に只ならぬ緊張が野山を包み込んでいた。私は山鳩の一羽になって、彼女が集まってきてくれと呼びかけるのに従った。すると、馴染みのないドイツ語が、まるで我らの言葉のように感じられた。ヤコブセンの詩に対して、作曲家もきっと同じことを感じていたのであろう。自分の言葉ではないのに、まるで自分の言葉のようであると。’Tot ist Tove!’...予想にたがわぬ悲痛な声が響いた。

ひとつひとつのフレーズ、一語一語の単語まで、あるいは、それを構成する一音素さえも、加納は自らのなかで、ひとつたりとも無意味なものにはしないと誓い、実際、そのことを次々に実現した。だが、大まかに分ければ、3つのクオリティを使い分けるという冷静な知性もまた、一瞬たりとも途絶えることがないのである。そのクオリティとは、語り部としての静謐な語りくち、内側から絞り出すようなこころの歌、そして、外部へと曝け出されるあからさまな表情の露出である。

例えば、’Weit flog ich,Klage sucht' ich,fand ga r viel! ’(彼方へと私は飛び 嘆きを探し それをたくさん見つけた!/梅丘歌曲会館作成者、藤井宏之氏訳)という歌詞が繰り返し出てくるが、最後のいちどを除いて第2のクオリティで一貫している。このクオリティに戻ってくることで、山鳩は自らのこころをずっと繋ぎながらも、一旦、フレーズとフレーズの関係を清算して、別の位置に立つことができるのだ。だが、最後に第3のクオリティに転じると、もはや戻れない葬儀の描写へと進み、美しい韻を踏みながらも、致命的な関係の悲劇に突っ込んでいくことになる。オーケストラの豊麗なバックに乗り、加納の歌が最後の優美な翼を広げる。腹の底から響く、そのあまりにも優雅な声は、いままでに体験したことがないものだ。

【忘れてはならないもの】

だが、そのとき、私たちはリーダー(歌曲)として、ヴァルデマールとトーヴェが組み上げてきたものを忘れるわけにはいかない。特に、トーヴェ役=佐々木典子のパフォーマンスも、加納とは別の意味で凄惨である。気高く、ウィーン音楽の伝統を引き継いだ遊びのある響きを、彼女は見事に引き出した。その象徴となるのは、第4曲「星は喜びの声を上げ」である。外枠を抉る尾高忠明率いるオーケストラが、揺れのある踊るような響きをつくれば、佐々木も自由なリズム感で、この難しい挑戦に応えていく。すると、次の曲では、ヴァルデマールが「天使たちも神の前でこれほどまでに踊ることはできぬ」と歌い始める。だが、既に舞曲の響きは止み、その中心から距離を置いて、陶酔的になっている王の姿が浮かび上がるのだ。

ヴァルデマール役の望月哲也は、普段、バッハの『マタイ受難曲』でエヴァンゲリストを歌っているような歌手であり、本来はヘルデン的な声質が求められる役柄に相応しかろうはずがない。特に声量の面で、私の位置でさえも十分とは感じられなかったが(否、私は左寄りの席にいたのだから、彼が前を向いて歌えば、声は届きにくい場所にいた)、オーケストラの加速的なリードに乗り(これだけで相当、難しい挑戦であるはずだ)、要所を押さえた的確な歌いまわしに大きな不満は感じなかった。しかし、その範囲であっても、佐々木があれほど立派な声を響かせたあとでは、望月のなかで期するものがあったのは想像に難くない。

彼の声はナンバーを追って、ゆたかになっていった。第9曲「不思議なトーヴェよ」などは見事であったし、このナンバーはまた、全体のなかで内面的な根幹を成す要所となっていることを考えると、流石というところだろう。彼は完璧主義の、高度な技術をもつ歌い手だ。休みが入り、「神よ、自分のなさったことをご存じか」も速いテンポのなかでは、よく歌っている。亡霊になってからのパフォーマンスも、概ね安定していた。ところが、「森はトーヴェの声で囁き・・・」というフレーズのクライマックスで、彼は息を詰まらせてしまった。佐々木に刺激され、加納のあの凄絶な歌を聴いて、また、妻屋(農夫)の余裕たっぷりのパフォーマンスにも接して、彼はリミッターを外す決心をした。

’Tove,Tove,Waldemar sehnt sich nach dir!’

このトーヴェの繰り返しで、奇跡のような強い声を聴いたあと、案の定、彼は咳き込むようになって歌えなくなってしまい、自分の名前とそれにつづく数語が発音できなかった。無理もない。この役は、彼の声質とマッチしていないのだ。だが、この国にはそれに代わるヘルデンの声質の人はいない。レッジェーロなテクニシャンや、明るくブリリアントな声質の人はいても、ドイツ的な深い発声をできる強めのテノールがいない。だからといって、福井敬のようにスピント一筋の、能面歌手を呼んできても仕方がない。結局、言葉というところに焦点を当て、時代的なものでもある(現代的な)キレのいいドライヴで、なんとか音楽の活気を守っていくのが我々のもつ伝統技法なのである。

正直、この失敗は辛かったであろう。1曲はさんで(吉田浩之が持ち味を出して、余裕たっぷりに下がっていったあと)、悲壮感を漂わせながら、望月が立ち上がってスタンバイする「最後の歌」。私だったら、もう、まともには歌えないかもしれない。歌いだしの歌詞が、また皮肉だ。神に向かい、わが苦しみを笑えという内容で、そこから、ヴァルデマールはそれでも自らの高い矜持を歌い、トーヴェとの一心一体ぶりを天に向かって誇示する。この誠実で、先述のナンバー以上に思いきった歌いまわしに、私はアタマをゴツンと殴られるような想いをした。そして、私はどれだけの人たちが彼のことを冷笑しようとも、私だけは、彼の熱い戦いぶりを支持する側にまわると決めたのだ。

【平和への祈り】

亡霊たちが墓に入り、妻屋による語りが始まる。リーダーでも、アリアでもない、3つ目の態度。シュプレッヒゲザンク。これも見事だ。恍惚とした満面の笑顔で、冗談交じりながらも、温かい声で彼が導くのは、結局のところ、平和へのつよい祈りだ。プログラムに文章を寄稿した作曲家の娘で、資料保存に功績のあったヌリア女史は、バリバリの左翼活動家でもあった作曲家、ルイジ・ノーノの夫人でもあるという凄い女性だ。血は争えないということか。この作品のテーマは結局、1910年代前半という時代とふかく関係する。ちょうど、先日のハルサイと同じ年だ。シェーンベルクはこの作品の成功を喜ばなかったそうだが、それは作品が既に乗り越えられたものであり、後年の彼にとって価値のないものであったからではなく、彼がそこで追求した平和への祈りが、結局、1914年からの「総力戦」によって、決定的に打ち破られたからである。

オーケストラを総動員して、人々を平和のために仕えさせるという作曲家の願いは破れ、欲望にまみれた血みどろの戦いが始まった。20世紀は、2つの大戦によって血塗られた歴史とならざるを得なかったのだ。

倫理的には、もはや期待すべき何ものもなかった。この作品をみるにつき、倫理的な問題からぶつかるのは、ヴァルデマールとトーヴェの恋が不倫関係にあることだ。それに嫉妬して、オンナを毒殺する王妃の罪も深いが、彼女をそのような態度に出させるのは、妻を大事にしなかった夫の責任でもあり、不倫の罪は同じように重い。

だが、この事実は、例の「山鳩の歌」ではじめて登場する。この歌をそれなりに知っていても、それまでの語りあいで2人の関係には一点の曇りもないはずだ。この作品には明らかに、超然とした夢の世界と、それとリンクする現実的な世界のふたつが合併している。前者における圧倒的な正義は、ヴァルデマールとトーヴェの結びつきが本物であることに由来し、後者における倫理的な罪と無関係に存在する。山鳩や語り手は、それらの世界の仲介者なのである。仲介者には、この作品の本体であるリーダーとは別の歌い方が求められ、やがて、山鳩の歌い方は放棄され、語り手の歌い方がシェーンベルクを象徴するものとなった。

【創作論からみたグレの歌】

物語は、作曲家の創作論からみても面白い。この時代のシェーンベルクは、まだリヒャルト・シュトラウスの立ち位置にちかい。古いウィーン音楽の伝統に立脚し、その美しさは、先にも述べた第4曲「星は喜びの声を上げ」に凝縮しているが、もちろん、それだけではない。壮大なサウンドのなかには、時代的な背景からサウンドの厚みなどに異なる点はあるものの、そのデモーニッシュな活力の点(あるいは救済のあり方)でベルリオーズの系譜を引くものもある。恐らく、シェーンベルクはこの時代で、もっとも熱心な勉強家であったことは間違いない。彼が作曲家としては人一倍の奮闘家であり、スキャンダルを繰り返しながらも、他方、アカデミシャンとして各地で活躍したことは大いに頷ける。そのような蓄積が実は、ヴァルデマール王とその兵隊たちの姿につながっているというわけだ。

シュトラウスの場合と異なり、彼は自分の愛するものを未練がましく愛玩していることには耐えられなかった。だから、彼はのちに、新しい音楽秩序の構築へと向かったが、ウェーベルンはその方法を極度に凝縮して、前衛音楽への道を開き、ベルクはそのなかに隠蔽されたロマン主義を最後にもういちど輝かせてみせた。いずれにしても、その始点となったのはシェーンベルクであることに変わりはない。『グレの歌』は、リヒャルト・シュトラウスとは異なり、彼の愛するものを墓場に入れることも辞さない音楽になっている。「山鳩の歌」を境に、オペラは封印されたのだ。「時は過ぎ去った!大きな口を開けて墓が呼んでいる」。冷笑されても、俺は奮闘すると宣言し、新しい叙唱手段「シュプレッヒゲザンク」が圧倒的に輝いた。そのとき、彼方から響いてくるのが、太陽を賛美する合唱の歌声である。その前に歌われる、次のような兵士たちの言葉に、これは対応しているのだ。「生命がやってくる/力と輝きを伴って」。

明るすぎてよく見えない太陽を、彼ほど直視した作曲家も珍しい。あそこには、すべてがある。「これまで」も、「いま」も、「これから」もすべてだ。新国立劇合唱団のコーラスには、そういう深みがあった。敢えて難をいえば、この作品におけるコーラスはほとんど男声のみの部分が多いので、女声はここで久しぶりの登場となる。そのため、順を追って歌いこんできている男声と比べ、カラーの表現も声の厚みも、はじめ少し淡めに響いたことだ。だが、全体的には輝かしい音色を聴かせ、管弦楽の響きとも組み合わされて、朝露が明るい太陽に照らされてキラキラと光る場面はこの上もなく美しかった。

【尾高の抱く演奏へのイメージ】

尾高忠明のイメージとは、一体、どのようなものだろうか。全体的にはキリッとしたシャープな造形で、歌曲としての言葉をハッキリ出すことで、作品の官能性を切れ長に描き出す手法を採用していた。だが、ここという場面になると、もう一段、ふかく彫りこんで響きに奥行きをもたせる。先日、尾高は『ベルシャザールの饗宴』を演奏しているはずだが(私は聴いていない)、多分、そちらも聴かれた大曲マニアの方なら、表現の類似性に気づかれたであろう。声への配慮は非常に繊細で、単に響きを刈り込むということこそしないが、歌が通るスペースへの配慮は節々に感じられた。プログラム中にも、バランスに対する配慮について一言あるが、それは意外に大きな示唆を与える。特に、「ただ弱くしてしまうとソロの細かいテクスチュアが聴こえなくなってしまう」の一文は、見逃してはならない。もしも指揮が彼でなかったら、望月などはもっと惨めに、埋没の憂き目にあったであろう。

この管弦楽をいちばん上手に使っていたのは、トーヴェ役の佐々木典子だ。

それにしても、尾高の音楽は隅から隅まで、よく考えられている。楽譜どおりかもしれないが、作品冒頭は第2ヴァイオリンにリードさせ、すこしサウンドを遠ざけてから、少しずつ接近させる。最後まで第1ヴァイオリンの中核部分は温存し、後ろのほうのプルトに参加させたりしながら、時を待つのである。オーケストラ側の工夫か、ヴァイオリン・ソロはそれぞれの特徴に合わせ、荒井が弾く場面と、三浦が弾く場面があった。トーヴェの生命を表すかのような、須田のヴィオラの野性的な膨らみ。こうしたディヴィジは、繊細に役割が決められている。

巨大なサウンドであるが、尾高は常にいちばん弱いものを守りながら演奏している。例えば、批評家(正確には音響技術家だろう)の東条某が「声楽を犠牲にしても、まずこの作品の魔性的なエネルギー感を優先」するように思えたとするのは、不見識も甚だしいというほかない。私の席はかなり前のほうに位置していて、弦ばかりが聴こえやすい場所にあった。それでも、演奏する姿こそ見えないものの、木管楽器の吹く響きが鮮明に窺えた。前半、望月の立ち位置は私たちと反対であっても、その声は弱くとも、明らかに聴き取れた。しかも、全体の響きにはすこしも妥協がなかった。その点では、東条某の指摘にもみるべきところがある。だが、尾高はそのために、いかなる犠牲も強いてはいない。

【必死の歌い込み】

とにかく、それにぶつかっていくために、声楽は正に必死の歌い込みをつづけた。重唱はなく、ひとりひとりが歌っているのだが、明らかに歌手どうしの対話がみられた。そして、その中心にはいつも望月がいた。彼をはじめ、全員がほとんど命がけの覚悟で歌ったことで、そのメッセージはビシビシと客席に届いてくる。そのなかで、加納の山鳩が凄かったことは既に申し述べたとおりだ。オッフェンバックの『ホフマン物語』のなかで、第2のヒロイン、アントニアは悪役に唆されて歌いすぎて死んでしまうのだが、加納の姿は正に彼女のことをイメージさせた(偶然だが、彼女の歌うニクラウスは聴いたことがある)。これを歌った結果、死んでしまったとしても、彼女にとっては本望なのであろう。

中間に休憩を入れるとは思っていなかったが、照明を僅かに落とし、歌い手と指揮者が下がっていったのでそれとわかる。でも、ほとんどの人は拍手などしなかった。私も、拍手などする気になれなかった。それほど、素晴らしく、圧倒されたのだ。望月と佐々木を除き、すべての歌手は一場面しか歌うところがない(妻屋の農夫と語りべは別役と考える)。その分、自分の個性と徹底的に向き合い、歌いきることができたのだろう。

【一度きり】

これに象徴されるように、『グレの歌』はすべて1回きりの場面の積み重ねである。例えば、ヴァルデマールとトーヴェによる、第1部の9つの歌にしても、同じようなやりとりの繰り返しはいちどもなく、必要最小限の場面が、あくまで歌曲の形式で詩的に歌われるのみである。2人の関係は、たった一夜の出来事として捉えられているようにもみえる。そして、同時に何年間もの人生がみえるだろう。これが象徴的だが、この作品のなかで、私たちはどれだけの時間を生きるのだろうか。たった1夜かもしれないし、数日間、あるいは1ヶ月、数年・・・第Ⅲ部までを含めれば数十年から100年単位、あるいは、もっとかもしれない。だが、音楽を聴く私たちがそれを体験するのは、たった一度きりだという前提が、シェーンベルクにとっては重要なように思える。

同じ100年前の作品、『春の祭典』では、むしろ繰り返すということが大事だった。人々が間違いを繰り返し、悲劇が繰り返されることが、その主要な意味合いになっているからである。これに対して、シェーンベルクはあくまで1回きりだ。私はここに、同じような平和主義のメッセージを発する作曲家たちの、微妙な姿勢のちがいを見て取る。ストラヴィンスキーに見られるのは、一種のニヒリズムだ。一方、シェーンベルクにおいては、まだ個別的なものが重視せられている。誰かわからない、古代の異教徒のひとりではなくて、ある時点で存在した一組の男女、あるいは、その王妃や家来、道化について歌われるのである。ヘルヴィヒとか、ヘニングとか、クラウスとかが、いきなり登場する。クラウスの冗談のなかには、また訳の分からない名前がいきなり登場する。それは、非常に意味のあることなのだ。

ニヒリズムとは、特定のものに固有の意味を認めないことである。一方、ロマンティシズムは、固有の意味の誇張であるといえるだろう。シェーンベルクは、一度やったことは二度やらないということを徹底している。テーマとしては、例えば、トーヴェの寝台の上で語ったことが第Ⅲ部で現実のことになるのだから、あとで繰り返しの要素を入れるのは作法として、ごく自然なことなのだ。実際、この作品ではライトモティーフ的な要素が使われており、その響きはきわめて印象的なものである。それにもかかわらず、すべての事象が一回的な印象をもたらすということ、ここに作曲家のふかい思惑があるように思えてならない。

今回の演奏は、そういうことを真正面から見つめた演奏である。まず、この1回があることに、演奏者のほぼすべてが感謝して演奏しており、それがあらゆる演奏姿勢として具体的に表れてもいる。プロの演奏家として注ぎ込むことができる良心や努力の限界が、今回の演奏では試されていたし、その結果たるや、言葉で語ることは難しいと思われるほど壮絶だった。音楽を言葉で語ることはもとよりできないのだが、今回は、それがいっそう困難である。では、なぜ書くのか。それは、私が愚かだからであろう。

【ポエジーについて】

ところで、作品には、いくつか看過し得ない据わりの悪さがある。例えば、ヴァルデマールに妃のあることだ。その妃の陰謀でトーヴェが死んだのも、それを嘆かねばならないのも、もとを糾せばヴァルデマールの自業自得だ・・・と冷笑的な見方をすることもできる。また、いくつかの部分で訳のわからない飛躍がみられ、アタマの固い聴き手を動揺させることは請け合いだ。第Ⅰ部のはなしと、第Ⅲ部のはなしを巧みにくっつけて説明するのは困難で、例えば、ヴァルデマールがいつ、どのように死んだのかもわからない。

この作品がまず、なによりも詩であり、歌曲であることを忘れている人は、そのような疑問の泥沼から抜け出ることは難しいだろう。

『グレの歌』は時間をかけて作曲されたものなので、そのことは普通、シェーンベルクの書法が進んでいることと関係づけられて考えられる。実際、彼の初期における音楽の変遷は著しく、ロマンティックな作風から12音につながる離脱の歴史に至るまで、速いピッチで進んでいくことになるから、この時期にまたがって書かれた『グレの歌』も、作曲家の成長や変化に合わせて語られやすい位置にある。泥沼にはまった聴き手は、そこに避難を向けようとする。挙句の果てに、こんな出来損ないの作品に価値があるのかと来るかもしれない。

繰り返すことになるが、この作品は詩的な歌曲である。詩とは論理や関係ではなく、飛躍が大事である。ポエジーという便利な言葉があるが、論理や関係を乗り越えたセンス、詩の大もととなる感覚のことを、そのように呼ぶ。これを理解しなければ、上のような矛盾を解くことはできないだろう。ポエジーは、倫理で縛ることができない。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を思い出してみよう。倫理的な観点から、トリスタンの裏切りを裁断することは意味がなく、トリスタンとイゾルデの関係をそれによって突き崩すこともはできない。ワーグナーの作品のなかで、この作品がいちばん躍動的なポエジーに満ちている。また、同じ作品をみれば、プロットに必ずしも論理性が必要ないこともわかるだろう。だからといって、トリスタンとイゾルデの関係を矛盾と呼ぶ人もそうはいない。

【ポエジーの変容】

注目すべきことは、第Ⅰ部に比べて、第Ⅲ部ではこのポエジーが非常にシンプルに使われていることだ。岩のなかから仏像を彫り出すように、壮大なスケールのなかで詩的な要素が悠々と膨らませられていった第Ⅰ部に対して、第Ⅲ部では、より直截な(凝縮した)表現が試みられていた。例えば、ヴァルデマール王の最後の訴えなども、その内容の豊富さに対して、歌そのものはきわめて簡潔におわっているように思われる。表現者、特に歌い手にとっては、この凝縮が難物なのである。望月のバーストについても、たった数行のなかで、トーヴェへの想いが真実であることを神と聴き手の両方に伝えるという、その困難さのなかで起こったことである。「あゝ、やばい」と思っても、引き返すことはできない。

このような構造は、第Ⅰ部には、ほとんど見られないが、第Ⅱ部以降では随所に表れている。シェーンベルクは、より一回的な要素を強めたといえる。その観点から、厳しくいえば、望月が「最後の歌」の素晴らしさによって前の失敗を取り返したことにならないのは自明である。だが、私は彼がリミッターを外そうとした、その勇気につよく打たれた。だから、私は次のナンバーで、彼のことをこころの底から応援していたものだ。

こういう危険なドライヴを、チームは交代で繰り返したといえる。その拠りどころとして、あのエレガントな尾高の指揮姿があったのは言うまでもない。この公演で、尾高を褒賞する声はあまり聞かれないが、その室内楽的なサウンドの磨き上げ(特に後半の、声楽を含むアンサンブルは見事)や、歌手と管弦楽のバランスに対する血の滲むような配慮は、やはり、私たちのように、舞台から至近で演奏を耳にした席のものでないと証言できないのかもしれない。クラシック公演における座席選びの重要性はよく言われることだが、私は正直、そのような議論は贅沢だと思っている。しかし、このようなホールで、このような曲を聴く場合には、決定的なちがいを生むことを実感した。

まだまだ書きたいことはあるが、既に相当の長文になってしまった。すべて割愛し、最後に一言だけ付け加えておきたい。この日の演奏は、あらゆる意味で歴史的な名演である。もしそう思えないとしたら、このようにアドヴァイスを加えてもよい。オーチャードホールで声楽付きの公演、もしくはオペラを聴く場合、中央の通路より前、19列目まで、できれば、15列目より前の席を買うこと!

【プログラム】 2013年2月23日

1、シェーンベルク グレの歌

 於:オーチャードホール

 コンサートマスター:荒井 英治(+三浦 章宏、青木 高志)

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コメント

私も当日聴きましたが、加納さんの山鳩を聴いた際の深い感動、望月さんに対する思いなど、様々なことが蘇りました。ありがとうございます。この曲が大好きでこれまで数百回は聴きこんでおり、合唱団員として歌ったこともありますが、クラッシック音楽の中でも最高傑作の一つであり、かつソリストとオーケストラの音量バランスなど、非常に演奏するのが難しい曲であると思います。今後、この曲の演奏頻度が増えることを望んでいます。

上のコメントに追記です。座席選びのご意見にもまったくそのとおりと同意させていただきます。私は前から5列目中央で聴きけたためソリストの歌唱を堪能できましたが、はたしてホールの後ろまで聴こえているのだろうかと思いながら聴いていました。美しい響きで歌っていた合唱も、奥深いホールのためにずいぶんと向こうで歌っているように思えたのも少し残念。しかしトータルとしては非常にすばらしい演奏だったのではないかと思います。

お返事が遅れましたが、共感を賜り光栄です。数百回とは凄いですね。できれば、名前を入れてくださると嬉しいのですが。

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