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2013年2月 5日 (火)

岩田達宗演出 水野修孝 歌劇『天守物語』(プレミエ) Bキャスト 川越塔子 ほか 日本オペラ協会公演 2/3

【作品概要】

水野修孝の歌劇『天守物語』には、表向きには語られないシークレットが作品を厚く彩っているように思われる。知っている人は、知っている。でも、知らないからと言って、作品全部が理解できないというわけではない。この作品に描かれている世界は、私たちが既に忘れてしまったものたちの宝庫。そのなかで、自分がこれと気に入ったものを選べば、作品は柔軟にその懐を広げてくれるだろう。譬えるなら、モーツァルト『魔笛』のような面白さがあるというべきだ。通俗的な面もあるが、望むなら、もっとふかく掘り下げた奥のあるテーマにも到達できるだろう。あとは、観る者が作品をどのように切り取るか、そのセンスの問題があるだけである。

解説によれば、原作の戯曲は1幕ものであるが、オペラ上演の場合は、2幕に分けられる場合もある。その場合は、姫川図書之助が登場するところからが後半となる。第1幕は姫路城の天守に棲む変化(へんげ/物の怪)の富姫が、同じく妹分の変化で同性愛の相手でもある亀姫一行を迎える、歓迎と遊びの宴が中心となる。かび臭い城主家秘蔵の兜に代わり、亀姫の土産に持たせるべく城主から奪った白鷹が機縁となり、第2幕での図書之助との出会いと悲劇が構成される。前半は富姫を中心にした変化たちの下界への印象が語られ、端的に性格描写もなされている。これに寄り添って音楽的なモティーフも順次、用意され、それが後半に交響楽的に生かされる仕組みになっていることから、きわめて無駄の少ない音楽劇であるといえる。

図書之助は富姫と最後、運命をともにすることになるが、後半にしか登場せず、しかも、口を開けば台詞ばかりで、ほとんど歌う部分がないばかりか、その台詞の大部分も富姫からの問いに答えるものでしかない。そういう面でみれば、作品の内面世界を歌うのは、ほぼ富姫ひとりということになる。この物語の世界は、富姫を通じて見られたものであり、実際、場面も彼女の棲む姫路城の天守から動くことはない。この富姫の素性については、後半、討手のひとりによる昔話として明らかにされるが、しかも、その回想シーン(劇中劇)さえも、富姫と図書之助を演じる歌役者、2人によって演じられることになるのだ。

それによれば、2代前の城主が郊外の山にある地主神の宮を訪ねたとき、そこにいた女を手籠めにしようとした。女は最後の力を振り絞って、宮に祭られていた獅子頭に身心を託し、祟りとして領主の支配地に洪水の災禍をもたらしたという。領主はそれでも改心せず、獅子頭を天守の五重に上げて、そこまで水で満たせと嘯いた。その獅子頭の怨念が、どうやら、富姫の正体のようなのである。変化として魔力をもつのは富姫のようだが、下界の領主もまた、妖魔の雰囲気を漂わせる存在だ。図書之助が言うように、下を見下ろせば闇ばかりで、上には僅かな光が注すというのも頷ける話だろう。

【音楽の融合】

さて、作品はこの作品を支配する獅子頭の眼のモティーフを語る、木工、近江之丞桃六の口上から始まる。この口上は今回、録音(あるいはオン・マイクか?)を使い、獅子頭の眼はLEDで表現されるという、貧困な発想に始まった。だが、和楽器の響きを模したつづく前奏曲の鮮やかさと、出雲蓉振付の小気味の良い舞踊で以て、多少、印象は回復する。しかし、その振付も最後に、EXILE の ”Choo Choo Train” のようになってしまうのは頂けなかった(でも、明らかに後発のこちらが『元祖』ではないかという、そんな気がしてくるのは不思議なことだ)。低調な滑り出し・・・だが、聴こえてくる音楽の上質さだけは、すこしも弛緩しないことに気づくのは、容易なことだ。

意味がわかるとか、わからないとかいう前に、私たちが直面するのは、この否応もなく美しい音楽の響きの連なりだ。その骨格は、歌舞伎を中心に、能楽や狂言、浄瑠璃といった日本の舞台芸術から発想したものが多い。ところが、そこに突如として、リヒャルト・シュトラウスやヒンデミット、ベルク、リゲティ、あるいは、もっと古い要素がわっと襲い掛かり、あっという間に融合してしまう。「グロテスク!」と思う隙もなく、異なったイディオムで育てられた音楽が一息に合流する。それがどんな出自のものであれ、作者の追い求める日本的なものの表現に役立つなら、なんでもいいという感じである。

例えば、「母親」という要素によって、泉鏡花の世界とオペラを生んだ西洋の精神世界が媒介されるのを、私たちは目の当たりにする。鏡花は少年のとき、母親を喪っており、その喪失感を摩耶(夫人)信仰によって補ったとされている。そのため、鏡花の作品には、母親への想いが深く滲むという。この作品では、富姫に対する感情がそれに当たる。これがキリスト教のマリア信仰と結びつくのは自然なことであり、図書之助が魂の救いを求めていう言葉が、キリスト教で用いられる祈りの言葉とちょうど重なっているのは偶然ではない。この言葉を包むようにして、水野は作品の奥行きを膨らましていき、終盤に向かって、作品の放つポエジーは膨張していく。その一環として、獅子頭の由来が劇中劇で語られたりもする。作品は、徐々にギリシア悲劇の方向に吸い寄せられていく。

最後も、ギリシア悲劇に由来する「デウス・エクス・マキナ」の手法(これを近代に復活させた作曲家として、ヒンデミットがいる→『往きと復り』 *2009年には東京室内歌劇場で上演された)を採って、水野は美しいエンディングを彫り上げた。絶望の音楽から、突如として明転する救済の音楽は、また、ひときわ印象的だ。そして、この音楽にのって語られる終結の口上は、また感動的なものである。世は戦でも/胡蝶は咲く/撫子も桔梗も咲くぞ。これは冒頭の口上と対応したものであるが、アタマのところでは、まだそれほど印象的とは言えない。だが、歌劇の顛末を経て、最後に出るときには涙を誘う。

【ペダンティックな魅力】

ハッと思いついて、いま調べてみたところ、ここに出ている(胡)蝶、撫子、桔梗などは家紋によく使われる図柄であるが、江戸初期に姫路城を中興(改築)した池田輝政の池田氏や、亀姫の領分、江戸徳川幕府下における会津の藩祖、保科正之(徳川秀忠の落し子)の養父家を含む信濃の豪族と縁がある。また、鷹の羽は『忠臣蔵』で有名な浅野家の家紋であり、『忠臣蔵』の浅野分家はご存じのとおり、播州赤穂藩を領していた。こういうことを見ていくと、ペダンティックな教養的要素も作品のなかにふんだんに取り入れらていることに気づく。学生時代に勉強した、作家の中井英夫の作品などを思い出した。

【富姫のこころを読み解く】

教養ゆたかな方ほど、この作品の味わいをふかく感じることができるだろう。残念ながら、私は歌舞伎もろくにみたことがないし、その点では不利な鑑賞者である。しかし、こうした作品では細部の面白さをコツコツと楽しみながらも、その本流を見失わないことがとても重要だ。逆は、真ではない。本流だけが、作品の面白さを構成するのではない。だが、まずは本流、つまりは富姫のこころにスポットを当ててみようと思う。

姫の素性については、既に語ったとおりだ。この悲しい出来事がなければ、姫の妖力も生じなかったであろう。だが、長い歳月を経て、姫は耽美主義者となった。歌舞音曲を愛し、満たされない性的な興奮は別の変化との間で交流されることで、はけ口に流される。天守の下の支配者を殊の外に憎むのは、昔のエピソードから当然であるが、その御し方も、いまやお手のものである。例えば、鷹が奪われた際には、矢尻や鉄砲玉が飛んでくるのにも動じず、花火線香を焚けば、出火を恐れて撃たなくなると言って平然としている。

第1幕で、姫路の城主の弟で、亀姫が土産として持参した武田某の首実検をする場面では、リヒャルト・シュトラウスによる歌劇『サロメ』のなかの、有名な「7つのヴェールの踊り」に似た音楽が最初に流れる。だが、首に恋をしているわけではなく、その感情は憎悪を通り越して、耽美的な雰囲気に変わっているようだ。天守閣の一同は、その首を美味そうだという目でみており、実際、それを口にするのは天守の主である獅子頭であった。また、首に滴る血は、舌長姥によって美味そうに嘗められる。このようなところから、富姫主従にとって、食事の好物はなんといっても下界の人間であることがよくわかるのだ。

【図書之助もご馳走だった】

図書之助もまた、富姫にとって、またとない美味そうなご馳走だったのではないか。これが、私の意見である。最初の場面に、伏線があった。侍女たちが天守から釣り糸を垂らして、白露で秋草を釣っていた場面である。これも一件、ポエジーゆたかで、無邪気なものだが、フフフの哄笑で締められている。調べてみると、秋草は和歌においては、上代のまじないに由来して「結ぶ」にかかるとされる。してみれば、5人の侍女は色事めいた意味で、こうした釣りをおこなっている。そこに、薄のあのような艶めかしい響きの歌が流れる所以である。

富姫は、図書之助を使い、釣りをしたと考えればどうか。図書之助に家宝の兜を授ければ、どういうことになるか、彼女には予想がついたであろう。その結果、天守にやってくる人間どもが、彼女のための生餌となるのである。あるいは、上のような意味をも考えれば、この釣りは、色と食の二重の欲を満たす意味があったかもしれない。

富姫は、人間への復讐を業とした変化である。だが、長い時間を経て、復讐は楽しみに変わったのだ。図書之助との出会いを経て、侍女頭のような薄と語らったとき、富姫はただの恋する乙女ではなかったようである。図書之助の管理していた白鷹は、彼女の恋人である亀姫のための土産になった。彼が鷹匠と知り、富姫は薄に向かって「縁があるね、フフフ」とここでも哄笑する。この場面で、注意力の高い観客は「おや!」と首を傾げるはずだ。図書之助は、富姫にとって何なのか、疑問を生じさせるための場面となる。よく考えてもみれば、富姫がレズで、亀姫と恋仲なら、図書之助とは何なのだろうか。最初は関係を疑いもしなかった我々は、徐々に2人の関係にあやしさを見出すのである。

やはり、ご馳走だったのか? 彼が切腹して果てようとするのを止めるのは、食い物の鮮度が落ちるのを防ぐためであろうか?  そして、彼のことをいったん逃がすのは、より大きな収穫を期待してのことなのであろうか?

【盲いてのち】

だが、この関係が再び本流に戻るのは、2人が盲いたあとである。それは言葉にならず、音楽だけでそっと語られていた。つまり、この作品に登場したあらゆる音楽が、絶望を歌う盲目の二重唱のなかで、2人を包み込むように小さく凝縮するところがある。ここで二人は、食うものと食われるものという関係を一気に脱したようにみえるのだ。本来なら、くっつくはずのないものが、「トンネル効果」のようにピュッと抜けてきて、結びつくのだ。富姫が、図書之助を真に愛するようになった理由は、リブレットからは十分に読み取れない。

かつては、オトコに対する憧れもなかったはいえない。亀姫との語らいで、獅子頭のことをみて彼女が「羨ましい」と言い、富姫もあんなオトコがいたらね、と語るところから、素敵な男性に恋するのも自然ではないかという見方もあろう。図書之助はそれだけ立派なオトコであり、忘れかけていた富姫の憧れを再び開いたとしても、まったく不思議ではないのかもしれない。だが、あの哄笑の場面がある。単に恋い焦がれる女性の姿を描くだけなら、あのような笑いは出ないはずだ。図書之助は生真面目で、節度があるというだけで、抗しがたい男性的魅力に溢れているとまでは言い難い。

では、図書之助と富姫の愛情・・・つまり、憎っくき人間と姫との間の和解は、どのようにして生じたのか。その謎を解き明かすために重要なのは、2人がともに盲いたということである。盲いるとはどういうことかといえば、単に目がみえなくなるのではなく、その他の感覚が研ぎ澄まれることを意味しているのではなかろうか。そういうところで感じ取れる関係だからこそ、2人はトンネル効果を起こせたのだ。そして、この作品がオペラであることを考え合わせれば、やはり、響きこそが大事だということになる。上に書いたような凝縮点で、2人はついに一体となる。そして、そのための祝福として、桃六の口上が聴かれるというわけである。

岩田達宗の演出は、この終結で2つのミスを犯している。1つは、くっつく前に2人を離すところ(それは重要なことだ)で、2人が離れてしまう必然性を考え出せなかったこと。もう1つは、終幕の音楽的展開を飾るのに、紙吹雪を降らせるというバカげた発想しか思いつかなかったことだ。全体的には、天守のコンパクトさを生かしながら、テンポ良く、関係を引き出す演出だっただけに、このようなところでボロを出すのは勿体なかった。

富姫が最初は、図書之助を食糧とみていたなどと、それこそ貧困な発想で、噴飯ものとみられるかもしれない。しかし、例えば「人を食べる鬼」という発想は平安時代からあるもので、しかも、鬼がオンナと結びつくのも当時は自然なことであった。富姫はオトコを憎み、権力者を憎む。そして、愛情の裏返しとしても、彼女はオトコを喰らうのである。鬼の起源を遡っていくと、戦で子どもを亡くした母親たちの怨恨にも行き着くというのだ。そのような負の感情を、桃六が明るく切り返す。彼が「馬鹿めが」と言い放つ相手は、一見、城主たちの側とみられるが、あるいは、富姫の側をみているのかもしれない。だから、その一言には愛情がこもっている。

【水野修孝の独創性】

この作品に弱点があるとすれば、それは古典オペラ的にいえば、「レチタティーボ」の部分にあるだろう。台詞部分が相当に多い歌劇だが、その大部分は抑揚がなく、日本的だが、いささか退屈であるのも事実である。その歌い方は和歌のようでもなく、西洋のシュプレヒシュティンメやレチタティーボとも本質的に異なる。ヤナーチェクの対話旋律にもっともちかいが、無論、まったく同じものということはできず、水野独特の「雅文」体と私はみる。はじめスコアに書かれている段階では、ほとんど美しい書き言葉のような、不思議な形態である。そこに息を入れていくのは、紛れもなく歌手の役割になるのだ。富姫役の川越塔子は、この「雅文」を後半、感情がこもる場面にいくにしたがって「口語」に近づけるで歌っているようにみえた。

その真意は知らないが、作曲者はこの「雅文」をどのように読むかは、歌い手に大部分を任せているように思われる。

このようなものも含めて、水野修孝の創作はきわめて独創的である。ただし、TV放映による初演が1977年であり、ポスト・モダンの潮流が生じようとしている時代のなかで、作品はある意味で、新古典主義的な様相をも示している。その「古典」とは伝統的な邦楽や、江戸時代の大衆芸能音楽を中心にしながらも、もう片方の軸には、先に名を挙げたリヒャルト・シュトラウスやヒンデミット、ベルク、リゲティなどのモダーニズム、もしくは、後期ロマン派の潮流をも合併している。多様な音楽的イディオムを、あくまで「日本的」というキーワードでまとめあげたのが水野の成し遂げた最大の功績であり、それをあのようなガッシリしたフォルムで凝縮させたところに敬意を払わなくてはならない。

【つけたし】

日本人にとっても、もちろん面白い作品だが、海外でやれば、より積極的に評価される作品となるのではなかろうか。

震災と会津、大河ドラマ『八重の桜』。同じ鏡花の作品で、『夜叉ヶ池』上演を控える新国立劇場での上演。そして、時期的にも節分・・・と、偶然か、そうではないのかわからない付合が多い公演でもあった。

なお、演奏の「フィルハーモニア東京」は、どこにも詳しい記述がなく、プログラムにさえ記載がないので、どんな組織かはわからない。技術的には優れた人たちの集まりで、この公演のために臨時編成されたアンサンブルであろう。指揮は水野作品の録音に関わるなど、この作曲家の音楽に精通している山下一史で、しっかりと役割を務めた。これも偶然か、そうではないのか、昨年まで、仙台フィルの正指揮者を務めた人物である。

衣裳は、半田悦子。美術に増田寿子。照明に大島祐夫という演出チーム。会場は、新国立劇場中劇場であった。

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コメント

はじめまして
なるほど、とうなずける感想と評論です。

 特に「当初天守夫人が図書之助を食料として欲していた」というのは目からウロコでした。坂東玉三郎監督の映画版(DVDあります)で「返したくない、わたしはこの人を返すまいと思う」と言う台詞が妙に恋する女とは違う口調に感じていた自分には納得できました^^;
 獅子頭の目が傷つくことで共に盲いた時二人は喰うものと喰われるものから運命共同体として愛に目覚め、近江之丞桃六が獅子頭の傷ついた目を打って直す槌音によって一つとなっていた恋人達は愛し合う二人として再生するのですね。
ただ、薄が夫人の力で図書之助をモノにしてはと薦めるのに対し、力で強いたくはない、真の恋は心と心と言い返す下りが・・・恋愛もこの時点では獲物を捕らえる「ゲーム」として楽しみたいということなのか少し疑問が。といっても「鏡花ですから論理が飛躍しまくってもOK」な考えもありますし。
 余談1
 この作品、2009年に新国立劇場でも上演されていて、情報センターで公演記録が視聴出来ます。仏壇の様な(NINAGAWAマクベス!?)透かし戸のなかに閉じられている天守五層の闇の世界やせりを使った下層との比較など今回の演出と見比べる楽しみもあると思いますので機会があれば見てみてください。
 余談2
「天守物語」の後に作曲された「美女と野獣」ではメロディックなアリアの比率が多くなりますが、要所要所のレチタティーボの美しさは「天守」でつちかわれたものかもしれません。

ほっぺけさん、ありがとうございます。うまくまとめてくださり、参考にもなりました。

確かに、多少、矛盾とみられるかもしれません。しかし、例えば、牧畜家の方について考えると、どうでしょうか。今度の放射能による殺処分や、口蹄疫・狂牛病のときに生じた殺処分について報じられたとき、ハッとしたのですが、最終的に食わせるためのものとはいえ、牛を屠殺して牛肉にするまで、彼らはとても強い愛情を牛とか、自分の家畜に示されていますよね。

この気持ちが、最近までよく理解できなかったのですが、放射能に汚染され、殺さなければならない牛たちの写真をみて、まるで家族の写真をみるような眼差しをしていた牧畜家のおじいちゃんの姿が、私には忘れられません。食料を、同時に動物として愛することは可能ではないでしょうか。

別に、発言を正当化したくて、屁理屈を言っているのではありません。感情というのは、IPS細胞みたいなもので、最初は何にでもなり得るものかもしれませんね。富姫は自分のこころがどういう刺激を受けて、どういうものになりつつあるのか、見きわめたかったのでしょう。まだ、食肉にはならず、愛情がある段階だったし、仮にも相手は人間ですから、奇跡というものもあるわけですよ。

いずれにしても。こうした優れた作品はひとつの筋道では理解できません。そこが面白さだと思います。

至らぬ文章にご返事ありがとうございます。
 余談、というか脱線なのですが
 今では怪異もの中心に鏡花を読んでいる自分ですが、始めての鏡花はこの人の漫画「鏡花夢幻」(文庫版もあり)でした。これを読んで以来、原作読んでもこの清冽嘆美なイメージで固定してたのですが今回アリスさんの記事を読んで一変しました(笑)。
 よくよく考えると
・亀姫とは同性愛関係(?)
・寄代である獅子頭を「旦那様」と呼ぶ
となると、富姫はもう相手は十分いるのに何故図書之助を? という疑問はうっすらとはあったのですが
・当初「図書之助=(色と食を満たす)御馳走」だった
でそうか!!!と合点がいったわけです。
演劇では「天守物語」とよくカップリングされる「海神別荘」も男女の立場が逆転するものの、異界の存在が「恋しい女よ 望めば命でも遣ろうものを」とかいいながらなんかペット扱いで、秘蔵の酒を「美味しいですよ」と飲ませた後とんでもない副作用を告げて自分たちの世界に引きずり込むお話だし。
 でさらに脱線しますが
漫画の著者は天守物語を描く前は鏡花を読んだ事がなかったらしいのですが、だんだんと鏡花に影響されて、「雨柳堂夢噺」「レディ・シノワズリ」などで鏡花ばりの幻想・怪異譚を描いています。特に「雨柳堂夢噺」の最新刊に収録されている中に
・怪異マニアで怪異に遭遇したくてたまらない青年の下に一人の女性が訪ねてきて、名を問うと
「もののけです」(ォィ)
と答える。座敷に通した後目を離すと女性は消えていて、後に見合いした相手がその女性にそっくりなのだが本人は初対面だと言う。
という鏡花みたいなエピソードもあったりします。興味ありましたらご覧ください。

絵が、垣野内成美っぽいですな。方向性が似ているのでしょう。漫画はあまり読みませんから、鏡花や、そこからインスパイアされた作品を漫画でみたいとも思いませんが、非常に通俗的なイメージのある鏡花の作品が、かえって現代にも通用しやすい味わいを持っているということに感じ入ります。

海神別荘なんて、なんとなく安部公房の先祖のような気もするし、私はどちらかというと戦後の文学を専門にしてきたから、鏡花は守備範囲外だったのですが、こうして戯作の系譜を引くような作品に触れてみると、そこにあったはずのアイロニーの意外な深さに驚嘆させられます。

天守物語にしても、底が浅い作品だと思うんです。しかし、だからこそ、いくらでも掘っていける価値があるというところが面白い。後世の、こうした漫画への影響をみるのも確かに楽しいと思いました。

泉鏡花に関する本としては、最近面白い本を見つけました。
「泉鏡花-百合と宝珠の文学史」持田叙子 著
自分が鏡花を読み進んで行くうちにぼんやりと思っていた事(意外と外来語・翻訳語・英語の使用が多い、近代の風俗をよく描く)について近代の文学者・知識人との関係の結びつけなどで鏡花がいわゆるステロタイプな「純日本風」ではない近代の人間なのだと論じている本です。最大の収穫は「どうして鏡花が生前それなりに小説家として生活できたのか」その背後にいた重要人物の存在を知った事でした。
ご興味あったら図書館などで探してみてください。

すいません、もうひとつ。
>食料を、同時に動物として愛することは可能ではないでしょうか。
 宮崎の口蹄疫の際ニュースで見ているだけでもそこらへんはわかりました。
また、これに関しては荒川弘が漫画「百姓貴族」(どうも私の判断基準は漫画によるものが多いな[笑])
や「銀の匙」で「生産動物にどう向き合うか」といったテーマを漫画で描いています。
「百姓貴族」は黒い笑いに満ちたギャグエッセイですけど「銀の匙」はその鏡像の様に真面目に描いています。
「銀の匙」はフジテレビ系列で七月からアニメ放送されるそうです。

いろいろとご教示、ありがとうございます。機会があれば、勉強してみたく存じます。

 今年6月に新国立劇場で香月修作曲「夜叉ヶ池」が初演されました。
地味ではあるが作曲家の誠実さを感じさせる音楽と(演出家が関与したらしいが)初見の人にも分かる前説明を追加した分かり易い脚色も好印象でした。
 この作品、特徴としては原作のフェミニズム的要素を拡大しているのですね。
ヒロインの百合は徹底的に差別され(原作では村人の独り言で語られる程度の「背中に鱗の生えた蛇女」は村人全員の合唱から児童合唱まではやしたてます)迫害(第二幕、原作とおり性的恥辱ともいうべき雨乞いの生け贄にされるだけでなく、子供代わりの人形を無惨壊され踏みにじられる)された果てに激高して自害してしまいます。このとき本来夫の晃が語る「昔生け贄にされた白雪の復讐譚」を百合が激しく歌って「人の愚かさは今も変わりませぬ!もう沢山!沢山でございます!私が死にます!言い分はございますまい!」と叫ぶんですよ。
自分は26日の組を観たのですがこれが凄かった。音楽も最後の地鳴りから洪水直前まで百合の動機がこれでもかと咆哮して龍神白雪姫のたたりでなく百合のたたりといわんばかりでした。
 去年末から新国立劇場情報センターのブースで観られる様になったので上京(オペラ「みすゞ」を観に行ったのです)した際他の25日組と見比べてみたのですが、25日は言葉の明瞭さを、26日は音楽性を重視した傾向です。ただ、どちらも字幕無しで十分言葉はききとれます。あとアップがあるので歌手の演技が再確認されたところで気づいたのは、微妙に演出が変えてあって、25日組の百合は追いつめられた女の悲鳴に近い最期なのに対し、26日組の百合は晃の「八千人がどうした!神にも仏にも恋は売らん!」にはっとしたあと晃が村人に教われた時最後のアリアを憤怒の表情で歌いながら鎌を議員に振りかざして迫ったあと議員の前でこれ見よがしに自死してしまいます。この瞬間百合こそが「夜叉」と化したかの様でした。

ご報告、ありがとうございます。私も機会があれば、見てみるとしましょうか。

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