2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« サロネン ストラヴィンスキー 春の祭典&ポヒョラの娘 フィルハーモニア管弦楽団 東京芸術劇場公演 2/10 | トップページ | 尾高忠明 シェーンベルク グレの歌 東京フィル 特別演奏会 2/23 »

2013年2月20日 (水)

アンサンブル・ノマド 近藤譲の音楽:表面・奥行き・色彩/ヤーロウ ほか 橋・ブリッジ vol.3 2/17

【徹底して自由な作曲家】

現代音楽とはこれまでにない新しい音楽の発想であり、それを構成するシステムの再構築であり、それらを生み出す技法の発明、もしくは、新奇な組み合わせを見つけることである。だが、近藤譲の音楽には、こうしたもののすべてが欠けている。そして、それにもかかわらず、決定的に新しいものがそこに胚胎しているのは間違いないことなのだ。否、私は彼の音楽をよく知っているというほど、知っているわけではない。この日、アンサンブル・ノマドの演奏を聴いて、はじめて感じることである。

ここで演奏されたのは、いちばん古いものでも2000年の作品で、最近のものは2012年のものまで取り揃え、近作を集めた演奏会といってよい。近藤は1947年、東京生まれというから、60代中盤の作曲家である。だが、その音楽はまだ駆け出しの作曲家のように新鮮で、移り変わっているようだ。その経験やキャリアを裏づけるようないかなる礎も持たず、正にノマド(遊牧民)のような活動を、この地位に辿り着いたあとも絶えず続けている人なのである。それゆえに、彼の音楽は徹底的に自由なのであろう。

自由とはいっても、演奏家に即興的なものを求めるとか、ケージのような不確実性とか、そういうものを追っているわけではない。出来上がった作品をみると、実際には精巧な時計のような感覚があり、そこに演奏家が手を加えることのできる余地は僅かでしかない。だが、古典的な自由度は失われていない。つまり、ベートーベンの弦楽四重奏曲をあるクァルテットが時間をかけて煮詰めていくような、そういう余地はきわめて大きくとられているわけだ。そして、今回は7つの作品が演奏されたが、それらのいずれも他のものとまったく似ていない。システマティックなものはまるでないか、仮にあっても、その作品だけで通じる唯一無二のものであって、ほかに応用することはできないような代物ばかりなのだ。

【近藤譲とアンゲロプーロスのフロート】

近藤譲は、感情、心理、政治、国籍、民族、宗教、信条などのあらゆる表現性を、音楽の上にはのせない。ただ、彼にとって興味ぶかい響きがあるのみなのだ。そして、私たちは、その面白さにあるときは共鳴し、またあるときには、反発する。いずれにしても、それ以上のことではない。そうでありながら、その音楽には、より抜き差しならない真実のようなものが隠れている気もするだろう。テオ・アンゲロプーロスの映画『シテール島への船出』で、最後、老夫婦が行く当てもないフロートに乗って流されていく・・・そういうタイプのもの悲しさ、もしくは、幸福がその音楽に根差しているようにも思える。

このフロートのイメージは、こんど聴いた近藤の作品の、複数のものに共通する印象でもある。近藤の描くモティーフは、しばしば、それ自体は何の推進力も持たないもので構成されている。例えば、2曲目『空の空』で中心となるバス・フルートの響きや、4曲目『ダーティングトン・エア』のオーボエの響きは、本来、それ自体では音楽としての構成要素として十分ではないようなものに思える。そうしたものをプカプカ浮かぶフロートの上にのせたあと、近藤はしばしば、エンジンをとりつけ、かけてみるのだ。あるいは、単にさざ波を送る。例えば、先の後者の作品においては、パーカッション(カウベルとマリンバ)がその役割を果たすだろう。すると、どうだろうか。いままで、ただ浮かんでいただけのフロートが、何らかの形で、私たちの認識し得るだけの具体性をもってフワリフワリと動き出すから不思議なのである。

【作曲家を象徴するような作品】

1曲目の『杣径』(ソマミチ)では、その動きはやや機械的であった。私のイメージのなかでは、赤、青、緑、黄、橙に染められた5つのベルト・コンベア(しかも、それらの動く速さはマチマチである)のうえに、ゾウやサイといった大型の動物がのせられ、のっしのっしと歩いていくような映像が浮かんできた。単純にみえる機械的構造になってはいるが、登場する8つの楽器はすなわち、まったく別のシステム、まったく共通しない時間軸のなかで生み出されたものにちがいない。それらは多くは偶然のために、ときどき関係しあい、互いに待ち合わせるようなタイミングも一切ないわけではなかった。ある時間帯では、本来、混じり合わないはずのベルトの動きを、別のベルトが自らのシステムとして組み入れ、模倣する瞬間もある。だが、これらは決して、室内楽的なすりあわせによって、高度に関係することはなかった。

このような作品が、最初に演奏されることは意味があることなのである。それは正に、この作曲家を象徴するようなイメージだからである。独特で、ひとつひとつがオリジナルな時間軸。決して混ざり合わず、適度な速さで、なにかに否応なく流されていく進行のタイプ。ある種の機械的な動きと、それを緩やかに否定する揺らぎの要素。

【『期待はずれ』の音楽】

2曲目の『空の空』では、珍しいバス・フルートの響きを生かした、独特な音響が期待される。だが、近藤においては、こうした期待は常に裏切られる。アコーディオン、ユーフォニアム、あるいは、ヴァイオリンさえも、その味わいぶかいキャラクターから期待される、一切の響きは近藤のつくる音響からは排除される。例えば、この作品でも、バス・フルートの響きはすこぶる内省的で、それと聴き取ることさえ簡単ではない。ヴィオラとチェロのオブリガートが辛うじて、そのフォルムを可視的なものにする。ピアノの間奏を挟んで、多分、3つの部分に分かれる作品は、その間奏と関係しながら僅かに変容し、聴き手に不思議なメッセージを残してフェルマータでおわる。

【傑作=ヤーロウ】

3曲目『ヤーロウ』は、7曲のなかでもひときわ目立つ傑作である。編成は、弦楽四重奏とアコーディオン。3つの弦楽器の響きを、アコーディオンは模倣する。弦の響きを吸い込み、鍵盤を使い、和音化して表現される新たなイメージは似て非なるものとなった。バロック音楽の通奏低音のように、こうした土台を入れることで、普通は音楽に落ち着きが出て、作品に秩序をもたらすことになるのだが、この作品では、むしろ響きを統合する機能が阻害される。きれいに溶け合っているのではない。むしろ、本来は同じ響きの組織としてあるものが互いに反発して、不快な齟齬として受け取られるのである。このような齟齬、あるいは揺らぎといったものの重要性が、近年の近藤譲の作品に共通する特徴のようであった。

それは例えば、つづく『ダーティングトン・エア』における、2人のパーカッショニストの揺らぎにも応用されているものだ(作曲年からいえば、こちらが先だが)。宮本典子、加藤訓子という息の会った名手の手にかかっても、ユニゾンは僅かな揺らぎによって、ブレている。これを生み出すのは、トレモロの効果である。だが、パーカッショニストは1人でもよいということで、このことは、実は作品の本質を構成しない。むしろ、重要なものは推進力のまったくないオーボエのラインと、パーカッションの揺らぎのなかにあるはずだ。そこでは既に述べたように、パーカッションの豊富な動力の作用によって、近藤自身も解説するオーボエの「歌唱的性質」が浮かび上がる。私たちはどうしても、パーカッショニストによる神業に目を奪われてしまうが、対照的に、あまり魅力的とは思えないオーボエの変容との関係にも注目しなければならないのである。

さて、先の『ヤーロウ』が傑作だと思う理由は、この作品が古典的作品と同様に、ボウイングやアタックのタイミングを含め、重要なアーティキュレーションを奏者たちが磨き上げていくことができる点にかかっている。ベートーベンの弦楽四重奏曲とは多少、ちがっているにしても、それぞれの楽器は自分が占有できる響きの領域をもっており、これを古典的作品のように使って、有機的に交感しあうことができるのである。ちなみに、この日の花田和加子、相川麻里子、甲斐史子、松本卓以のクァルテットも、使えたであろう時間のわりには高いポテンシャルをみせていたと思う。特に、左側の3人のボウイングが面白く、意外にも第2ヴァイオリンが中心軸となり、第1ヴァイオリンとヴィオラが連動する形でフォルムを整えることが多かった。

時折、冗談のように蠢くチェロの動きに対応して、大田知美のアコーディオンが音色と音の動きにピタリとつけきるところなどが凄いと思った。そして、最後はまたもフェルマータ。アコーディオンがすこし残る。

【5-6曲目】

休憩を挟んでの5曲目は『トライン』。ユーフォニアムの使用が目玉となる作品だが、既に述べたように、この楽器もイメージに合った使い方にはならない。大きさはコンパクトでも、チューバに負けない響きの頑丈さが、バス・フルートのときと同じように内省的に用いられる。そして、チェロがこの響きを梱包し、ピアノの推進力にのせるというわけである。こうして構成された全体のパッケージが枠となり、そのなかで、ユーフォニアム、チェロ、ピアノの自由度が僅かに色合いを変えることになる。委嘱者にして初演者でもあるユーフォニアムの小寺香奈は、薄暗いなかにも、小気味の良い楽器の持ち味を丹念に醸し出そうとする。チェロは、ファルセットが多い。

6曲目は、『冬青』(そよご)。ヴァイオリンとピアノの編成は、この日の各曲のなかでは、通常、よく見かける編成である。ヴァイオリンは機動性の高さや、高音の美しい伸び、華やかで芯のある音色といった特性を離れ、譬えていえば、トランプのポーカー・ゲームのように、ピアノと交互に響きを出しあいながら、腹を探りあうような感じで鳴らされる。野口千代光(vn)の演奏はいつもながらハキハキして、表現の大枠には紛れがないが、一部にアイン・ザッツでピアノの稲垣聡と合わない部分があった。終盤に現れる強烈なヴァイオリンのグリッサンドが、種明かしのようにインパクトを示し、全体のヴィヴィッドなイメージを決定する。

【推進力を伴わない薄暗いカーニヴァル】

最後は、『表面・奥行き・色彩』である。近年の近藤作品のなかでは、もっとも重要なものかもしれない。やはりアンゲロプーロスの映画のイメージが被り、この作品では、『エレニの旅』での水上の葬送シーンを思い出す。そして、これも全体的には動きのない作品だ。序盤、疑似的なアクションが2つ入るが、それがフェイクだとわかるのに困難は伴わない。大太鼓とタンバリンでつくられる転換の響きから、本編がスタートする。その響きはときにカーニヴァルのように活き活きとしているが、全体としては薄暗く、推進力を伴わない。もはや、近藤のなかでは、この作品になにか動力を与えることは関心の外である。『シテール島の船出』で、フロート上の老人の運命とは一見、無関係に、しかし、緊密な影響を与えあいながら、港湾労働者のカーニヴァルのシーンが描かれるが、この音楽は、正にそれと符合する味わいを放っていた。

近藤の作品からくる響きは、現代音楽に特有の鈍重さや、薄暗い感性と無関係ではない。唯一、アンコール・ステージで演奏された『地峡』だけは、より楽天的なイメージを感じさせるが、近藤のつくる響きは、やはり、どこか悲劇的な印象をいつも背負い込んでおり、これはどうしても時代的なものなのであろう。そして、ふかく溶け合い、かつ、背反しあう独特の響きの距離感。これらは、ほかの作曲家には恐らく、真似のできないものだと思う。演奏者は、こうした音楽を前に、比較的、自由に振る舞うことができる。しかし、即興とか、そういうタイプのイマジネーションが生きるわけでないことは、前にも述べた。それでも、演奏者は自分たちが作曲家から認められていることを感じる。それは不思議な感覚だが、同時に、この上もなく確かなものでもあるだろう。

【まとめ】

近藤譲は多分、エリオット・カーター亡きあとは、世界のなかでも稀にみるような高い知性をもった作曲家であるといっても過言ではないはずだ。そして、彼の音楽は誰にも似ておらず、また、まことに残念なことではあるが、彼の音楽を継承する何者をも、今日の社会は持ち得ないであろう。実際には、作曲家自身が、いちど生み出した音楽を真似することなどできないのである。彼は正にそのような位置で、常に場所を変えながら創作している、私の知る限りは、世界で唯一の作曲家といえるのではなかろうか。その圧倒的な独創性にもかかわらず、彼は常に演奏者と、または聴き手とさえ、同じ高さでものをみたいと望んでいる。

より正確にいえば、彼はフロートに乗せられたあの老人と同じような「高さ」にある。出発も不能なら、帰着も不能なのだ。そして、フェルマータで、曖昧な、そして、仮説的な終止を打つにすぎない。彼の音楽は、凪と関係が深いだろう。本来、エンジンはなく、ただ風や波の動力があるばかりだ。風を受けるための、便利なマストの準備さえなくて、ただ、プカプカと浮かんでいるばかりだ。だが、このひどく頼りないシステムがいちど構想としてまとまれば、きわめて堅固なものにもなり得るのである。あまりにも、あまりにもオシャレな知性の持ち主ではなかろうか。アンゲロプーロスの老いた主人公に対して感じるように、私は近藤譲にもふかい共感を憶えた。

結局、フロートへと追いつめられる老人は、間違っていたのか。そうかもしれないが、もしもそうだとするなら、より大きな間違いがどこかにあるはずだ、と監督は言っているのである。だからこそ、フロート上の老人は惨めにはみえない。砂漠のランボーのように毅然としているのであり、細君もまた、それに引き寄せられ、これから彼らは、確かにシテール島・・・愛の女神の棲む島へと「旅立つ」のだ(だが、これを出発、もしくは帰着といえるほど、私は楽天的ではない)。してみれば、近藤譲に最後の課題があるとするとなら、それは人間の愛をいかにして表現するかという、その困難な課題に立ち向かうことかもしれないと思った。

その一部は、アンコール・ステージの『地峡』で披露されたものかもしれないが、もしも、その分野で近藤譲がなにかを達成しているなら、ノマドには引きつづき、その紹介に責任を負うような気がする。あるいは、それは過去の演奏会において、十分、為されたことかもしれぬ。しかし、その重みはいま、いっそう高まっているように思えてならないのだ。

【プログラム】 2013年2月17日

オール・近藤譲・プログラム
1、杣径
2、空と空
3、ヤーロウ
4、ダーティントン・エア
5、トライン
6、冬青
7、表面・奥行き・色彩

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

« サロネン ストラヴィンスキー 春の祭典&ポヒョラの娘 フィルハーモニア管弦楽団 東京芸術劇場公演 2/10 | トップページ | 尾高忠明 シェーンベルク グレの歌 東京フィル 特別演奏会 2/23 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/56788848

この記事へのトラックバック一覧です: アンサンブル・ノマド 近藤譲の音楽:表面・奥行き・色彩/ヤーロウ ほか 橋・ブリッジ vol.3 2/17:

« サロネン ストラヴィンスキー 春の祭典&ポヒョラの娘 フィルハーモニア管弦楽団 東京芸術劇場公演 2/10 | トップページ | 尾高忠明 シェーンベルク グレの歌 東京フィル 特別演奏会 2/23 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント