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2013年2月 2日 (土)

ラザレフ with 日フィル ブラームス 交響曲第4番 ほか 都民芸術フェスティバル 1/30

【聴けば聴くほど予想がつかない】

アレクサンドル・ラザレフの演奏をはじめて聴いたのは、読響の公演だったが、そのときの印象も風変わりなものではあった。しかし、日フィルを手にしてから、彼のノウテンキさは圧倒的に爆発したように思われる。指揮者の指示にガッツリと喰いつき、鋭く反応するオーケストラの特徴は、半面、自分のアタマを使って動かない致命的な欠点にも、従来はつながっていた。コバケンのあとを襲って楽団のトップとなったラザレフは、それならば、こなしきれないぐらい厚みのある課題を与えていけば、このオケは誰も真似ができないぐらいの、凄い演奏をしてくれるのではないかと考えたのにちがいない。

この路線が、ピッタリと当たった。冷戦期ならともかく、いまのロシア・オケならば、ブースカ文句が出そうなところを、日フィルは黙々と練習しつづけてくれるのだ。彼はこのオケを通じて、自分の思い描いたメッセージをほぼすべて、満足に客席へ伝えることができると考えているだろう。彼が長く貢献し、政治的に放り出され、最近、帰還したボリショイ劇場(現在は暴力絡みの殺伐とした現状になっている)と比べても、日本はパラダイスだ。フルネやベルティーニにとってそうであったように、ラザレフにとってもきっとそうにちがいない。彼は誰よりも、日フィルとの演奏を楽しんでいるようにみえる。少なくとも、そう見せることが重要だと思っているのであろう。

ラザレフほどの高潔な指揮者が、どうしてそのような態度をとるのか、私は大きな興味を抱いている。根っから明るい性格なのか、もっと奥深い世知が働いているのか、実際、このような「大きな」男についてはなかなか理解が難しいところだ。ユベール・スダーンとラザレフという、日本のオーケストラに間違いなく多大な貢献をした二人の指揮者は、聴けば聴くほど予想がつかないのである。

【遅れてきた者の悲劇】

そんなラザレフによる、ブラームスの交響曲第4番。ある程度、予想はついたが、大暴れだった。私が理想的と思っているフォルムからみれば、逸脱も甚だしい。それなのに、なぜ、これほどつよく共感できるのだろうか。あまりにもブラームスらしくないと思うかわりに、こんなブラームスがいてもよいのではないかと考えてしまうのだ。その人は実のところ、やっぱり、ブラームス本人とは似ても似つかない人だろう。それでも、私はこの壮大なる偽物に、ブラームスのある真実を感じずにはいない。この交響曲第4番に関しては、遅れてきた者の悲劇がテーマである。

第1楽章の前半、私は大きな疑問を感じながら聴いていた。アタマの響きがとれ、妙に乾いた響きがで始まり、ノン・ヴィブラート奏法の出来損ないのような風景がパッと広がったからである。だが、徐々に構想がまとまってくると、俄かに私のなかにある発想が生まれた。それは、ブラームスが常に、「遅れてくる」のではないかという感覚である。彼の交響曲第1番が、ベートーベンの第10番と揶揄されたように、彼の音楽は古典派的な旧来の発想に根づいていた。最近の研究では、シェーンベルクがブラームスの作品をふかく研究するなど、後世に与えた影響が思った以上に大きいことも指摘されるようになってきたものの、実際、ブラームスは自身の音楽のことをどのように思っていたのであろうか。

その真実を私は知らないが、ラザレフの演奏からみる限り、ブラームスはやはり、自分の音楽を時代からみれば、すこし遅れたところにあると見做していたように思われる。この交響曲第4番は、文句なく美しい自分の着想が、時代的には、まったくもって古くさい位置にしかないという悲劇。これを、まったく別の悲劇的な英雄譚とオーバーラップしてみるようなイメージである。例えば、プロコフィエフの『戦争と平和』。侵略者のフランス軍に対して、ロシアの栄光まばゆい勝利でおわるわけだが、アンドレイやエレンは命を失い、主要人物たちはほぼ不幸な結末を迎える。そういうレヴェルのアイロニーが、ブラームスのシンフォニーにも溶け込んでいる。

精巧な形式美によって描かれた作品が、これほど深いドラマで彩られた例を私は知らない。少しずつ遅れていく響きと、それによって起こる破綻が悲劇的な響きとなって表出し、最後は敵中に取り残された部隊が、必死に局面を打開しようとするも全滅して果てる・・・『平家物語』のなかの「木曾最期」のような雰囲気を漂わせて終結するのである。終楽章、アンドレイとナターシャの二重唱の如く、荒れ狂う外界の現実を尻目に、あまりにも美しいフルート、オーボエ、クラリネットの呼び交わす旋律が、これほどまでに深い実感を伴ったこともない。そして、最終的にブラームスが描きたかったのは、このような矛盾のなかで為す術もない個人の小ささであったはずだ。

【ブラームスの自画像】

これが本来は、ブラームスの宗教性と衝きあわされることになると思う。ブラームスには信仰心がなかったというはなしもあり、実際、友人のドヴォルザークもそのことに驚きを示しているのだが、仮にその証言が真実のものであったとしても、ブラームスにはブラームスなりの独特な信仰心があった、と私は信じている。それは確かに、カトリック司祭たちの広めたいものとはちがったかもしれないが、その分、かえって堅固で純真なものだったはずだ。ただし、この方向について、ラザレフの演奏は一言も語っていない。

結局のところ、彼らの描きだした音楽は、ブラームスの自画像のような作品のイメージであった。私は常々、この作品に含まれるギリギリの美しさ、瀬戸際まで追いつめられたところから出てくる切り返しの音楽に、深い感動を味わってきたものである。だが、ラザレフの音楽はもっと生々しい。ブラームスの「遅れ」が先に書いたような表面的な要素ばかりではなく、もっと根源的なものだと言っているように聴こえるのだ。紛れがなく、明解で、力づよいメッセージを、ラザレフはブラームスの音楽からいとも容易く紡ぎ出してみせる。世に残る彼の肖像が象徴するような、繊細で、神経質なところなど、あんまり見られないで、早口で、自信たっぷりに喋るのだ。

その分、敗北がいっそう身に染みるのである。

【弱々しいモティーフこそが我らの英雄】

いかにも純音楽的な構成のなかに、私はしばしば戦場の厳しさをみつけた。弱々しいモティーフこそが、我らの英雄であり、大抵、木管で端的に提示される。それは劇的で、推進力に満ちた、力強いモティーフにいわば包囲されているようであった。ラザレフはこの2つのモティーフを明確に使い分け、弱い者が強者に押し潰されていくまでの物語を構想したのである。フォルテを多用し、滅多にメゾ・ピアノ以下には落とさない豪胆な表現にもかかわらず、荒っぽいイメージを生じさせることなく、こうした構想を活かしきるためには、弱い響きをどのように盛り立てるかが問題になってくるはずだ。その点、テンポを速く保ち、音像を誇大化しないことは、重要なポイントであろう。だが、それに反して、コーダでは一転して、あまりにも遅いテンポに落としてくるのだから、予想がつかない。

終盤、印象的なトロンボーンの旋律はより古い時代から、伝統的に「死」を表現するのに使われてきたが、ここでもそれは例外ではない。ときにはサファリパークの宣伝にも出てきそうな音楽にも聴こえるトロンボーンの熱い響きを耳にして、私たちは、我らの英雄たちがバタバタと敵に斬り倒されていく様子を目の当たりにしたような気分になる。この力づよい響きが「いきなり出てこない」ところにも、今回の演奏の素晴らしさを指摘することができるだろう。この死の響きが醸成されるまでに、どれだけ丹念に響きを踏み固めて、リアリティの高い悲劇を構築するかによって、その演奏の良し悪しは決まるのかもしれない。

その前に、一瞬、「弱々しい」モティーフが持ちなおして、絶望的に相手と斬り結ぶようなシーンも、私には忘れられない(変奏の最後の部分)。ここでいう「弱いモティーフ」は実に第1楽章の第1主題であり、それがこのような形で出現し、打ち払われて、ベートーベン的モティーフを経由しながら、終結部で死のモティーフに向かっていくところにも、只ならぬ寂しさを感じるだろう。最終的に、弱々しいモティーフにつよい共感があること。これが、今回の演奏のポイントだったと思うし、あれだけ激しく煽っても、ラザレフの音楽が野蛮になることなく、温かく保たれる秘訣なのだと思う。

【まとめ】

ラザレフだからそういうわけではないが、物語バレエのようなイメージで、私はこうした響きの流れを味わった。最後のシーケンスも、バレリーナの我がままを聞き容れるようにして、テンポをぐっと落として演奏するのだ。ブラームスとバレエなんて、まったく思いも寄らない組み合わせだが、ボリショイ育ちのラザレフにとっては、ごく自然な発想であるのかもしれない。そう思って作品を聴きなおしてみると、最初の楽章からいろいろな発見がある。だが、それらをいちいち検証していくのは本意ではない。

そんなことを抜きにしても、ラザレフの自由な発想には、誰もが度肝を抜かれたはずである。例えば、第1楽章、ホルンとチェロで奏でるよく知られた旋律のところでは、ヴィオラの刻みをつよく押し出して、明晰な情報の分析よりは、可能性に満ちたカオスを選ぶのである。ラザレフはブラームスの表面上はシンプルな発想に、それに数倍する不可解な謎があることを示しているのだ。いちど聴いたぐらいでは容易に分析することはできないし、実際、いま、私は思いがけずも深い迷宮に迷い込んだような想いをしているところだ。

【前半のプログラム】

ブラームスについては、中途半端だが、以上の文章で締めておく。ほかの曲は、演奏順にまとめて書いておこうと思う。まずは、チャイコフスキーの歌劇『エフゲーニ・オネーギン』のポロネーズで始まった演奏会であるが、これは、まるで入場行進曲のようだった。演奏は非常に自由でリラックスしており、かつ、図太く物語を語ることも忘れない。本質的に劇場人であるラザレフの資質を垣間見せるものであったし、オケのほうも彼の優れた指導により、「我らの音楽」を奏でているという自負が透けてみえる。彼の指揮で、『ボリス・ゴドゥノフ』か『スペードの女王』でも観てみたいものだが、新国のスタッフたちはどこに目をつけているのか!

中プロは、ハンガリーのフランツ・リスト国際コンペティションで優勝した後藤正孝(pf)を迎えての、リストの協奏曲第1番であった。見事な演奏で、歯切れがよく粒だった音色は誰の目にも明らかで、小さな体躯ながら、スケールの大きな音楽を奏でて楽しませた。ジェルジ・シフララザール・ベルマンといったところの録音と比べれば、この作品の表現としては「フライ級」であるが、その範囲では中身の詰まった演奏でよくトレーニングされている。序盤など、拍の保持には不十分な感じもあったが、特に細かい音符の弾き方が敏捷で機動性が高いことと、バックのオーケストラに惹き立てられて、室内楽的な響きを出すピアニズムの巧さが光っていた。

しかし、だからといって、後藤が真に良いピアニストであるかどうかは、全然、別問題だと思っていた。コンチェルトや室内楽では、後藤は既に高いレヴェルに到達している部分もある。だが、『愛の夢第3番』は明らかに蛇足であった。何もしないでそのまま帰れば、後藤に対する評価はもっと素直なものであったろうが、このソロで、私は完全に冷めてしまった。コンペティションの賞金はすべて被災地に寄付、チャリティ演奏会までおこなったというのは見上げたものだが、その魂の気高さに音楽が追いつくまでにはまだ時間がかかるというべきである(嗚呼、他人のことは言えないよ!)。

僕だったら、どんなものを弾くだろう。まあ、「都民芸術フェス」という機会から考えて、あんまりマイナーなものは求められていないとすれば・・・。

シューベルト:楽興の時第3番(ヘ短調)

【プログラム】

1、チャイコフスキー ポロネーズ~歌劇『エフゲーニ・オネーギン』
2、リスト ピアノ協奏曲第1番
 (pf:後藤 正孝)
3、ブラームス 交響曲第4番

 コンサートマスター:木野 雅之

 於:東京芸術劇場

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コメント

後藤正孝さんですね。

確かに間違ってますね。編集中にアップし、直すつもりが眠くなってそのままでした。ご指摘に感謝し、訂正いたします。

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