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2013年3月24日 (日)

プレトニョフ グラズノフ バレエ音楽『四季』 ほか 東京フィル オーチャード定期 3/17

【通俗作曲家もつらいよ】

ミッドウィークでは久しぶりの共演となった東京フィルとともに、ラフマニノフの新しいイメージを示したプレトニョフだが、週末の演奏は、まったく対照的な趣向であった。ここで取り上げられた4人の作曲家はいずれもモダーニストではなく、ソヴィエト・ロシアの体制とそれなりにうまくやって、名声を高めてきた人たちである。そのひとりはプレトニョフ自身で、ペレストロイカの時代にはゴルバチョフと親交を深めて、ロシア・ナショナル管を(民営として)設立したのをはじめ、エリツィン、プーチンと歴代の指導者たちから、惜しみない称賛を受けてきた。だが、ロシアにおいて、こうした処世術を駆使しながら、一端の音楽家として生きていくのは傍目ほど楽ではない、と彼は言いたかったのかもしれない。

例えば、今回の4人のなかでも、ショスタコーヴィチは未知を踏み誤って、当局と正面衝突しそうな時代があったし、いちばん、権力と親しそうだったカバレフスキーでさえ、ショスタコーヴィチを苦しめたジダーノフ批判に曝される可能性があったのである。彼らの誰もが難しい選択を迫られ、音楽家としての良心をいかに守るべきかについて、多大な苦難を味わったのは間違いない。例えば、カバレフスキーの組曲『道化師』にしても、とりようによっては権力者の尊大さを皮肉るイメージに聴こえるナンバーもある。1939年の作品だから、当然、砲弾や軍靴の声も聴こえてくる。児童劇のための作品だからといって、カバレフスキーはすこしも手を抜いていない。

道化師には、レオンカヴァッロやプロコフィエフなど、多くの作曲家がもの悲しい音楽をつけて、サーカス・ショーやコメディ劇の明るいイメージとは対照的な、内面の闇を描くのに用いてきたが、カバレフスキーも同様の発想である。プレトニョフはラフマニノフのときの生硬な指揮とは打って変わって、パントマイム付きで音楽をともに演じた。そういう意味で、オーチャードホールに指揮者の顔を拝みながら聴ける席がないのは残念の極みだった。このような種類の音楽こそ、音楽そのものばかりではなく、その裏にはりついている雰囲気のすべてを曝け出さなければ、なにも面白くないではないと彼は言いたげである。

【メリハリの凄まじさ】

この演奏会で、プレトニョフはオーケストラに10を求めなかった。基本は、7-8でよい。けれども、残りの2割でなにをするかが成功のカギを握るというわけである。例えば、ジョン・コルトレーンがずっと10割で吹いていたら、全然、格好がよくないはずで、むしろ、彼が凄いのは、普通のプレイヤーなら、もうこし吹いてプレゼンスを示したいと思う部分でも、常に力が脱けているということだろう。これがあるから、セッションのなかで本当にハードなことを求められたときには、ほとんど血管の切れそうな荒業に挑むこともできる。カバレフスキーで感じられたのは、このメリハリの凄まじさだ。

第2曲のギャロップについては、非常にキッチュなイメージがつきまとっている。この曲はわが国でも、運動会の徒競走のBGMなどとしてよく用いられ、メロディはそれなりに知れ渡っている。こうした曲において重要になることは、レディ・メイドなイメージを越える何らかの要素を加えて、本気で演奏するということだ。この「本気」というのは単に真面目にやる、という精神面ばかりを指すのではなく、アーティキュレーションなどを含め、一から作品(演奏)を組み立てるという意味にもつながっている。プレトニョフの演奏はプレストの疾走感を厳しく求めながらも、フレージングを美しく整え、なおかつ、響きをワイドにつくって立体的な音像を組み立てたのが秀逸である。

この「ギャロップ」をはじめ、「パントマイム」、そして、終曲のエピローグに体重をかけ、間を内省的なパントマイム付きの「音楽劇」でつないでいくのが、プレトニョフの構想であった。だが、面白いのは彼がむしろ、音楽的には皮相な、実りの少ない部分にこそ、人間的な表現の可能性を見出しているということだ。それらの音楽には、油断すれば、簡単に見逃しかねない種々の工夫があり、カバレフスキーがそうした部分に表現者としての独特なニュアンスを詰め込んでいるのに、彼は気づいたというわけだろう。それがあるから、大詰めのエピローグで、ひときわタフな響きを求めたときに、音楽がつよく輝くためのエネルギーがそこにあるというわけでもある。

【プレトニョフのジャズ組曲】

プレトニョフは、そうした表現性のひとつの頂点に、ジャズがあると考えたのだろう。ところで、ジャズといえば、やはり、我々にとっては「アメリカ」のイメージが濃厚である。しかし、1920年代からロシアにおけるジャズ熱には火がついていたようで、戦後10年あまりの悲しい排斥の時代を除き、ロシアでもジャズの人気は高かったようだ(参考論文/PDF)

プレトニョフの『ジャズ組曲』は、しかし、レナード・バーンスタインと無関係ではないように思われる。ジャズの好きな人が聴いたとき、バーンスタインの作品はジャズとは似て非なるものと思うにちがいないが、プレトニョフはさらに、そのバーンスタインの系譜を引いたものだから、本来のジャズとは相当に開きのある音楽だというのは自明のことである。だが、レニーがとにかく、クラシックのなかに「手抜きのないジャズ」のパフォーマンスを挿入しようとしたことと比べれば、プレトニョフはもうすこし「軟弱」な音楽を書いたといえる。

この1曲を聴くかぎり、残念ながら、プレトニョフに備わった作曲の才能は、ピアノや指揮の分野でみせるものほど天才的ではない。わけても、スコアに書かれたものをきっちり実現することに、特に熱心な日本のオーケストラに相応しいわけでもなかったであろう。こういう作品で、プレトニョフはオーケストラの音楽家が自由になるものと信じているし、実際、第2楽章「ブルース」の金管ソロなどは奏者の個性が特に生きてくるものだが、全体を見渡してみると、かえって、その逆になる部分のほうが多い。権利があやしいが(そのため、途中から静止画になっている)、リンクの動画をみる限り、表現者が手兵のRNOのメンバーであったとしても、大きくは変わらないようだ(ただし、客席が大喜びなのは東京と少しちがっている)。そうはいっても、ショスタコーヴィチ、カバレフスキーのあとの、アンコール・ピースとしてみればちょうどいいものだったかもしれない。

【ダンサーが踊っていないのが不思議】

メインは、グラズノフのバレエ音楽『四季』である。バレエの作曲家としては、とりわけ、全幕ものの『ライモンダ』が著名であるが、この『四季』はより普遍性の高い傑作だと思う。私は過去にいちどだけ、読響でロジェストヴェンスキーが振ったのを聴いた。そのときは西行の和歌を組み合わせ、俳優が朗読するのと対比する仕組みで、演奏自体の評判は良かったものの、西行については反応がわかれた。私は好きだったが。今回、そうした試みはないので、音楽だけをじっくり楽しむことになる。

しかし、私の目の前に広がったのは響きによる壮麗な絵巻物というよりは、その世界を踊るダンサーたちの姿であった。東京フィルの音が、そのまんま、新国ピットから来るような音だったからであろうか。ただ、そこに比べて、すこしばかり・・・否、大分、音響は控えめだ。13列目だけども、かなり響きは遠かった。しかも、プレトニョフは前半と同じで、7-8割で弾きなさいと言っている(ように思えた)。ただし、それまでの3曲と比べると、かなり響きに身を入れることを要求した。それで、結果的に、バレエの舞台を髣髴とさせるものになったのだろうか。音楽のフォルムのカチッとした特徴とは裏腹に、実務的な柔軟さのある音楽からすれば、目の前にダンサーが踊っていないことが不思議でならない・・・そんな雰囲気であった。

【開放的な愛国心=普遍性】

ここで、グラズノフの特徴は何だろうか、という疑問を私は抱く。ある意味では、国そのものを描く「四季」という素材を扱いながら、彼の音楽には、驚くほどロシアという個性が欠落している。仮にスラヴ的な旋律が作品を彩るとしても、それは常に、ほかのどこかの国でもすぐに通用するような共通の美しさと無縁でない。西行と比したとき、ロシアの四季と日本のそれがまるであわないので滑稽だという意見がみられたが、私の感覚の甘さか、自分としてはその意見に首肯しがたかったのを憶えている。この日の演奏と衝き合わせれば、私の感覚もあながち鈍感のせいばかりではないようだ。同様に、私は西行にもどこかコスモポリタンな印象・・・渡来人とも言われる柿本人麻呂のような、異国人のイメージ(しかし、こういう人が優れて日本らしいものをつくったという不思議)を感じているから、彼らの間には共通点があるのだ。

同時に、彼らはつよいナショナリストでもある。そうでありながら、彼らはあからさまに愛国者だという雰囲気は見せず、もしも彼らがフランス人だったら、また別の雰囲気を示すだろうし、アメリカ人だったら・・・というイメージを広く呼び起こすのである。そのような意味で、私はグラズノフを耽美的と評するのも間違いではないように思う。彼はとにかく、この四季というものと連動した、人間の・・・あるいは(むしろ)、それ以外のものを含めた生きものや自然の、動きをバレエのなかにしっとりと溶け込ませるような音楽を構想した。動きと連動した耽美主義、言い換えれば、動きだけが示す人間や自然の普遍性といったところに、作曲家の表現は集中しているように思えてならない。そして、プレトニョフは、正にダンサーの視点で、この音楽をくっきりと印象づけたといえる。

短いのだが、私が好きなのは「春」を描く第2タブローである。この楽章では雪解けから、優美そのものであるバラの踊り(我々が桜を思い描くところで、彼らはバラを思い描くのか)、そして、これ以上、こころ和むものもない小鳥たちの囀りが描かれている。プレトニョフの演奏では、特に、この小鳥の部分が素晴らしく印象的だ。こうした部分を含めて、プレトニョフが単に場景音楽としてではなく、いつも踊り手の動きをイメージしながら指揮しているのは、なんといっても特徴的である。例えば、夏のタブローの最後で、サチュロスとファウヌスが乱入してきて、花々と争うあたりは、ここを踊るダンサーたちの忙しない動きが目に浮かぶようで面白い。

その闖入者たちが、秋のタブローの主役でもある。グラズノフはこういうところに、僅かながらも、政治的なアイロニーを秘めているようにも思われる。ところで、作曲者としては、最後の秋のタブローにすべてを凝縮したのは自明である。秋のタブローは祝祭的で、豪快なバッカナールのテーマを中心に、いわばロンドー的な音楽的展開をめぐって、簡潔な素材が組み合わされて構想されている。プレトニョフは、そのバッカナールのテーマを重ねるごとに、徐々に膨らましていくことで、見事な構造の上向的な展開を印象づけた。そのなかで、「小さなアダージョ」がバロック的な美しさ、あるいは、ロマン派的な美しさで煌めくとき(この2つは矛盾しない!)、我々はこの曲を堪らなく愛しく思うのだ。

いつも酒びたりであったことでは、このグラズノフとムソルグスキーが有名だが、そんな人ほど、かくも極上の美しい音楽を書くのも不思議なことだ。彼は保守的な音楽的感覚を終生、もちつづけたし、その点で体制側とも息があっていたが、ユダヤ人音楽家も差別なく受け容れて、当局の批判をのらりくらりとかわすなど、その後のロシア音楽、もしくは演奏の歴史に多大な貢献をした。ここに取り上げられた4人の作曲家のなかで、グラズノフはもっとも意味のない作曲家であり、それゆえに、普遍的なものをもっているのである。

【モデリングの歴史】

それにしても、プレトニョフの指揮者としての手腕は、この日も冴えわたっていた。ショスタコーヴィチの『祝典序曲』はアマオケでもよく演奏されることがある、派手な曲だ。メインで交響曲第5番を取り上げたりする際には、作曲家のイメージをすこしでも柔軟なものにするために、この作品を取り上げるのはポピュラーなやり方であろう。でも、冒頭の煌めくような金管の清爽な響きは聴いたことがないようなものだったし、それを包み込むように全体の響きが気高く構成される様子を、彼はものの見事に示してもいた。正に、専門の音楽家としての気高い矜持をみた気がする。全体的には、ロッシーニの影響が濃厚だ。ショスタコーヴィチにおける、ロッシーニへの傾倒は交響曲第15番への『ギョーム・テル』序曲の挿入などで広く知られている。

こうしたモデリングの歴史が、今回の2回のシリーズでは積極的に取り上げられた。先にも述べたように、プレトニョフの自作もバーンスタインを参照している。だから、『ジャズ組曲』とはいっても、彼の作品は明らかにクラシック音楽のストリームに与するものである。では、「クラシック音楽」とは何か。それは自分よりも先にあった天才たちを引き継ぐ歴史である。数百年守られた老舗のウナギ屋のタレのように、新しい音楽家はそこにすこしずつ新しいものを足しながら、古いものを損なわないように味を守っていく。角度を変えていえば、その味があるからこそ、クラシックの音楽家は高い下駄をはいて出発することができるのだ。

だが、時代は移り変わっていく。ロシアで音楽をやっていくということは、とても苦しい歴史だったにちがいない。帝政時代も、ボリシェヴィキの時代も、あるいは、もっと新しい緩やかな強権時代であっても、同じことだ。そして、時代は伝統よりも、個性を重んじるようになった。ジャズの時代である。こうした新しい時代への幕開けの時期に、通俗作曲家たちが、どのように身を振ったかということは、これまであまり真面目に検討されてこなかった。つまり、意味のあるものと、そうではないものに分類することで、彼らの仕事はただ否定的な面に押しやられるだけのことだったからである。いまもって、その傾向はおわっていない。しかし、例えば、武満徹による映画音楽でも、以前よりはずっと真剣に取り扱われるようにもなってきた。

プレトニョフの今回の2プログラムは、そうしたものを含めたプレトニョフの揺るぎない愛国心をつよく窺わせるものである。だが、最近、流行りの国粋主義的なトレンドとは異なり、プレトニョフはそうしたものを互いに交わしあえるものだと信じており、その点で、彼はグラズノフにつよく賛成なのだ。そして、私もそうしたプレトニョフの考えに共感する。目下、日本人にその点で課題があるとすれば、あまりにも自分を主張しない、あるいは、相手の主張に畏怖するという、その2つの点である。そこを鍛えるために、ジャズを勉強するというのは素晴らしい処方箋かもしれない。

【プログラム】 2013年3月17日
1、ショスタコーヴィチ 祝典序曲
2、カバレフスキ 組曲『道化師』
3、プレトニョフ ジャズ組曲
4、グラズノフ バレエ音楽『四季』

 コンサートマスター:荒井 英治

 於:オーチャードホール

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