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2013年3月27日 (水)

カンブルラン モーツァルト 交響曲第39番 ほか 読売日本交響楽団 芸劇名曲シリーズ 3/24

【神秘的な演奏】

カンブルラン時代になって、読響の会員ではなくなったが、彼の演奏には何度か触れてきた。そのなかで、今回のモーツァルトの交響曲第39番の演奏は、もっとも神秘的なものに属する。この作品のスコアをつぶさに研究して、その秘密を知りたいという欲求に駆られた。無論、それを実行する知識も能力もないのであるが。

私を驚かせたのは、終楽章のテンポである。まず、誰でも指摘できることとして、基本的なテンポは遅くとられた。ずっしりした強いテンポといえそうである。私はこの曲のおわりから想像して、このテンポ自体には妥当性を感じた。しかし、どんでん返しが待っていた。終盤、急にテンポが動き出したのである。非常に細かいアッチェレランドとア・テンポを繰り返して、微弱な動きのなかに音楽の息吹きがふっと浮き上がるような、繊細の上にも繊細な音楽づくりであった。そして、最後は当然、最初のテンポに戻って、悠然とおわるのだと私は予想していたのである。コーダに向けて、再びアッチェルがかかる。でも、また戻るだろうと思っていたのだ。ところが、ここではア・テンポせず、最後まで速いテンポがつづいた。これで、呆気にとられたのである。なぜ、テンポを戻さなかったのか、その理由はよくわからない。

謎は、それだけではなかった。第1楽章で、私は既に疑問を感じていた。反発ではない。冒頭和音から響きがマッシヴで、ガツンと来る。主な和音の響きに対して、流星の落ちるような下降音型の美しさが思いきって強調されている。ただ、全体的に、私は軍隊行進曲的な厳しさを優先的に感じた。これと対照となるのは、第1主題に代表される優美な舞踊のイメージである。なお、第1主題からはベルリオーズの『幻想交響曲』を、そのあとに現れる経過区からは、ベートーベンの交響曲第3番が思い起こされ、モーツァルトの天才が彼につづく2人の、まったく異なる巨大な個性によって引き継がれているのがわかるだろう。

だが、私の印象に残るのは、なんといってもザクザクと歯切れのよい、前のめりするような強い響きなのである。最後も、格好はいいのだが、吐き捨てるような荒々しさを感じるような響きであり、カンブルランはその鋭さを悠然と打つようにした。

モーツァルトといえば、もっと優美なイメージがある。確かに、最近の演奏では運動的な鋭さが加えられてきたものの、そうしたものへの批判も根強く、モーツァルトの音楽には優しさや、速さや刺激に転換されないふかい落ち着きを求める傾向は、いまもって優越的である。カンブルランの演奏も、決して、そのような味わいを無視したものではない。それにもかかわらず、彼はこの楽章をあくまで、強さによって表現しようとしていた。リアルタイムには、私はカンブルランが舞踊的なイメージで作品を描き上げようとしているようなイメージを得たが、それだけでは、自分のなかで完全には納得できないものが残ったのも確かである。

【優美さと闇】

いまは、次のように考えるに至った。カンブルランが描こうとしたのは、モーツァルトと、それを取り巻く環境のすべてである。ここにリンクする論文(HTML)のように、晩年のモーツァルトが必ずしも貧しくはなかったという話も傾聴に値するが、一般論に従えば、この時代のモーツァルトはウィーンでの人気を失い、主催する予約演奏会への客足も途絶えがちだった。その原因のひとつは、社会の動乱に求められる。トルコとハプスブルク帝国による戦争(墺土戦争)とその影響から、モーツァルトを支援していたような貴族の経済力が弱まり、結果として、モーツァルトの仕事が危機に曝されたというわけである。この第1楽章は、社会の動乱に否応なく巻き込まれていくモーツァルトの姿と、ちょうど一致してみられるような気がするのだ。

全体としては、交響曲第39番は優美で明朗である。彼の生活云々がどうであったとしても、その特徴は揺るぎなく、これがモーツァルトの音楽を他と区別するものでもあろう。メヌエットを聴けば、そんな現実生活の鬱憤など、モーツァルトの音楽にとっては何の影響も持たないように思われる。だが、時折、聴く者に地獄を感じさせる深い闇もまた、同時にモーツァルトの魅力であることは、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の例を引くまでもなく、言うまでもないことだ。そして、交響曲第39番にもそのような闇は存在する。すべての楽章において。そう、すべての楽章においてである。薄暗いアンダンテ・コン・モート(第2楽章)は言うに及ばず、メヌエットでさえもだ。

メヌエットでは、その形式に基づく繰り返しが闇への鍵となっている。最初の音の強調、そして、揺るぎない繰り返しから、見かけの華やかさしか感じない人にとって、モーツァルトの音楽を理解できる日は来ないであろう。では、終楽章の力強い展開のどこに、闇を見つけることができるだろうか。それは先に名前を出した『ドン・ジョヴァンニ』の例を考えればよいのであって、それは終楽章もいちばん終わりの部分で象徴的に聴かれる渦巻き状の響きである。これはもちろん、色男の地獄落ちのシーンと対応する(しかし、実際には、地獄落ちのあとの大コンチェルタートに対応するというほうが正確だろうか)。このような対比は、終楽章を遅めのテンポで演奏した場合に、特に象徴的に感じられるはずだ。そしてまた、後半で、既に述べたようなテンポの仕掛けをもってくることも、この精神的構造と関係がありそうだ。

【耽美的な演奏】

カンブルランはきっと、もっと奥深い秘密に気づいているように感じる。なぜなら、彼はそうした闇を確実に捉えながらも、敢えて強調はしていないからだ。第2楽章は、アンダンテでも「コン・モート」の速さ指定に忠実で、その分、響きは軽い。私はすこし保守的な姿勢で「見かけの華やかさしか感じない人にとって、モーツァルトの音楽を理解できる日は来ない」と述べたが、カンブルランはむしろ、そうした見かけの華やかさに騙されるのも一興と言っているのかもしれない。

それは、プログラム全体の扱いから見えてくることでもある。例えば、前半の K.Anh.9(297B) の協奏交響曲は偽作ともいわれ、モーツァルトによる真筆であるかどうかについては議論がある。しかし、そのような問題には一言も触れず、カンブルランは明らかなモーツァルト作と信じ、耽美的な演奏を試みた。

協奏交響曲のソリストは、楽団の首席、もしくは、首席代行の蠣崎耕三(ob)、藤井洋子(cl)、吉田将(fg)、松坂隼(hr)で、直前の公演でマーラー・プログラムがあったせいか、ソロ・ホルンの山岸がバックを支える形になって、かえって豪華さが増している。作品の魅力については、リンクのインタヴューでソリストたちが語り尽くしており、私はそれをそのまま踏襲するだけでよい。特に、松坂の「ホルンの木管的な魅力も表れている」というところに共感が深い。逆にいえば、それをいかに引き出すかがホルニストの腕の見せ所というわけであるが、この日の松坂は申し分ない出来であった。

カンブルランはリンクの録音(D.バレンボイム指揮ウェスト・イースタン・ディヴァンo.)のように、ソリストを浮き上がらせるように使うのではなく、むしろ、これらの楽器の室内楽的な絆を全体のなかで確認させるような形で、演奏したのが秀逸な発想である。全体としてはピアノ伴奏で2回、指揮者を加えて1回の練習を追加し、GPに向かったということであるが、個々人のレヴェルではより周到な準備があったことは想像に難くない。このような団員ソリストを使った演奏は、オーディエンス・サーヴィスにもつながっているプログラムだが、カンブルランはその面白さや特徴を、最大限に引き出してみせたといえそうである。

例えば、ソリストが至難なパッセージを成功させると、バック・オーケストラの弦楽器が快活なトレモロを弾き、「よし、それでいい!」と賞賛するようなアクションが書かれていたりして、モーツァルトがこの作品のなかで、驚くほど多彩な対話を盛り込んでいたのは明らかである。だが、読み取る側の私の能力があまりにも低すぎるせいで、その対話をここに十分、写し取れないのは遺憾なことだ。

【メンデルスゾーンとモーツァルトの天才】

最初のメンデルスゾーンは、私が非常に気に入っているプログラムといえる。早熟な天才、メンデルスゾーンには、習作的とはいえ、13曲もの「弦楽シンフォニア」があり、それらの一部には管楽器のパートも書き加えられてたりして、メンデルスゾーン初期の試行錯誤のあとを追うことができる。13個目のシンフォニアは途中で破棄され、もはや習作とは見做されない交響曲第1番(op.11)が、本人にとっては13番目の交響曲であった。それまでのほとんどのシンフォニアが、習作というにはあまりにも美しく、堂々とした規模をもっているのである。

今回は弦楽シンフォニアの第8番が弦楽合奏のみのヴァージョンで取り上げられた。正直、私は弦楽合奏のほうが作品の魅力を、より味わいぶかく引き出せると思っており、これには歓迎である。なお、配置に工夫が凝らされ、弦楽五部は下手から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ(後方にコントラバス)、第2ヴァイオリンという並びになった。これはモーツァルトでも引き継がれ、読響では見慣れない布陣だが、特にメンデルスゾーンでは第2楽章に低音弦だけの楽章があり、一定の効果があっただろう。また、ツイッターの公式アカウントによれば、モーツァルト『魔笛』からの引用があるということだが、なるほど、そのとおりであった。それに限らず、作品はモーツァルトからの影響が濃厚で、交響曲第41番とか、いろいろな作品をメンデルスゾーンが研究していたのは間違いないところだろう。

ところで、メンデルスゾーンがモーツァルトにも並ぶ天才的な音楽家だったということに、私は賛成するが、それはある観点に基づいた結論である。

そのためには、まず、モーツァルトがなぜ天才だったかを言わなければならない。モーツァルトが世の中にある種の畏怖を与えたのは、神童として、ティーン・ネイジから活躍したからではなかった。ニコラウス・アーノンクールの著書によれば、古典音楽はフィグーラという特殊な音楽的なメッセージに基づいて作曲され、こうした音楽は教会のミサや、よりオフィシャルな場面で披露される説教や演説のような役割を担っていた。その伝統は次第に弱まっていき、一部の熱心な音楽愛好貴族・ブルジョアジーの間で知られるだけになってしまう。

ところが、そこに現れたのがW.A.モーツァルトで、彼はその幼さにもかかわらず、本当に音楽に造詣のふかい、知識人たちしか知らないはずの決まりごとを自由自在に駆使して、驚くべき音楽を書き、演奏していたのである。それゆえに、彼は「神童」だったのだ。無論、その影には、父親のL.モーツァルトの徹底した音楽エリート教育が生きていたのは言うまでもないが。モーツァルト自身も、そういう決まりを知っている人たちのために音楽を書いているのだと自覚し、書簡のなかで、その意志を明言しているのだそうである。

メンデルスゾーンが天才であるというのも、このような対話力に基づく作品を開くことができたからだ。私はこのフィグーラについて十分は知らず、モーツァルトの音楽や、それ以前の知的な音楽をただ感性に頼って聴取するしかない愚かな聴き手であるが、しかし、ボウイングやアーティキュレーションに細かく注意すると、「ここではなにか特別なメッセージが歌われている!」ということは、辛うじて感じ取ることができる(気がする)。モーツァルト以降では、そのような音楽はめっきり少なくなるが、メンデルスゾーンは明らかな例外である。交響曲宗教曲、そして、彼の作品にとって本丸となっている室内楽の分野で、メンデルスゾーンはそうした才能を遺憾なく発揮しているのである。また、これを可能にするのは、過去の遺産に対する真摯な研究の成果でもある。

世のなかで忘れられかけていたバッハの宗教曲の復活蘇演について、メンデルスゾーンが果たした功績については十分に有名となったが、それ以外の作曲家についてもこの人の研究は及んでいる。その道に詳しい人ほど、「そんなことまで知っていたのか?!」と驚かれるにちがいない、当時としては圧倒的な情報量を呑み込んで、彼の作品は創作されたように思う。

この弦楽シンフォニア第8番でも、そのような要素が感じ取れないということはなかったはずだ。しかし、この曲にはもうひとつ、鮮烈な特徴があり、それは既に述べたように、第2楽章で低音弦だけで演奏される楽章をつくったことだ。特に、コントラバスの西澤誠治はバロック・アンサンブルでも弾いているため、アンサンブル全体を惹き立てる演奏ができる。鈴木康浩をリードとするヴィオラの旋律も、美しく奏でられていた。演奏は全体的に、尻上がりによくなり、フーガの技法など、明確に写し取るのは最近では珍しくもないことだが、それらの旋律線がひとつひとつ活き活きしていることは特徴的といえるのかもしれない。また、第1楽章最後の結び、低音を非常にゆたかに(フェルマータ気味に)引き伸ばし、終止の印象を鮮やかにする手法はモーツァルトでも応用されていた。また、終楽章最後のパウゼから無窮動なコーダは、先に述べたモーツァルトの闇とも無関係ではない。

【まとめ】

以上、書いてきたように、カンブルランの演奏はところどころに知的な遊びを配して、考えすぎないようにしつつ、確実に大事なものは見逃さないというメリハリをつけて、面白いものであった。

私にとって、カンブルランとは謎めいた指揮者であり、まだ、その全体を把握することができない。モーツァルト、ハイドン、ストラヴィンスキーは素晴らしかったが、マーラーには良い印象がなく、交響曲第6番の演奏も迷いなくスルーした。知的なイメージがあるが、それだけでもない。ピリオド派という感じもあるが、ブリュッヘンと同じような意味でのピリオド派ではなく、「より音楽を輝かせるために何が必要か」という実際的な意味で、古いスタイルを導入する実際的なスタイルなのだ。得意とするフィールドは現代音楽であり、音楽に対する合理的な考え方は特徴的でもある。だからといって、クールで蒼ざめた音楽では決してない。むしろ、演奏家の想いをどのように引き出すかという点に、彼の指揮法の秘密があるのかもしれない。

高く評価しながらも、なかなか親密に思えない指揮者、カンブルラン氏である。やはり、彼のオペラが聴きたいところだが、ピットに入れるためには、それ相応の準備期間を用意せねばならないそうで、国内公演としての実現は難しい。そうなると、当然、ギャラも高くなるのだろう。だからといって、海外からの招聘屋が彼を指揮者に選んでくれるとも思わない。となると、海外に行くしかないわけだ。せめて、読響にオペラ的なプログラムを組んでほしい。今年9月の定期は、そういう意味で注目されそうである。

【プログラム】 2013年3月24日

1、メンデルスゾーン 弦楽シンフォニア第8番
2、モーツァルト 協奏交響曲 K.Anh.9(K297B)
3、モーツァルト 交響曲第39番

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:東京芸術劇場

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