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2013年3月 7日 (木)

新国立劇場(オペラ部門) 研修所公演 ヒンデミット 歌劇『カルディヤック』 3/3

【時代を読みきったヒンデミット】

パウル・ヒンデミット、1926年の作品、歌劇『カルディヤック』は風変わりな作品である。両次大戦間の戦間期に書かれた作品は、ナチスが台頭するドイツのきな臭い政治情勢のなかで、隣国、フランスはパリを舞台として書かれた。かなりの改変がありそうだが、一応の原作があり、それは100年ちかくも前の作品で、E.T.A.ホフマンの『スキュデリー嬢』となっている。ルイXⅣ下のパリの状況を、ヒンデミットは見事に20世紀前半のドイツに読み替えたわけである。正に、この作品は時代を描くものだ。オペラのなかでも、狂気の時代という言葉があった。最初の音が鳴った瞬間に、我々は1926年のベルリン(やっぱり、パリではなくベルリンだ)のイメージをパッと思い描くことができる。オペラのなかで繰り返される狂気、酔っている、というような表現が、これほど嵌まる音楽もない。『ヴォツェック』や『狂っていくレンツ』よりもはるかに直截なリアリティがある。

ヒンデミットは明らかに、時代の本質を掴んでいた。

だが、それだけではない。ヒンデミットの鋭い風刺は、オペラ芸術、そして、それがどのように扱われるかというところにも、きっちりと筆が及んでいる。また、上に書いたような時代のなかで、芸術家が一体、どのような目にあうかということも冷徹に見通しているようだ。この作品をみていると、やがて起こるいわゆる「ヒンデミット事件」や、戦後、フルトヴェングラーが「戦争責任」を問われ、公職追放されるような時代の流れを、作曲家が完璧に読みきっていたような印象を抱く。しかも、ヒンデミットはそのようなことがわかっていても、決して創作姿勢を曲げることはない。なぜなのか?

このような作曲家の姿勢と、カルディヤックの立場には一脈通じるところがあるだろう。だが、そうであっても、ヒンデミットはカルディヤックの立場を完全に認めているわけではない。「盗人にも三分の道理」があると言っているだけだ。そういう意味で、この作品には限界があるのだが、そうであっても、この時代のなかで、かく愛すべき狂人が生まれたことに、私たちは多くのインスピレイションを受ける。狂人・カルディヤックの「盗人」の部分と、「三分の道理」の部分に、ともにゆたかなメッセージが詰まっているのだ。

【公演は「失敗」だった】

その前に、公演が成功か失敗かということでいえば、私は失敗だと思う。多くの歌手は小粒で、話にならない。やはり研修所でやるには、あまりにも重すぎる作品で、軽い役から徐々に声を育てていくという声楽家の理想的な筋道には合わないのだろう。

ちなみに、このオペラは前半の数十分、つまり、最初の場景描写と、カルディヤックの登場、そして、殺人事件の一例となる騎士と貴婦人のエピソードまでは、歌を中心につないでいく構造になっている。特に、その中心となる騎士と貴婦人のエピソードは歌の魅力に満ち溢れ、イタリア・オペラ的な味わいを柱として、作品が組み上げられている。艶やかな貴婦人は巷を騒がせるカルディヤックのネタで騎士の真心を量り、それが真実のものだったがゆえに死を迎えるのである。

騎士役の伊藤達人は、まず歌によってその誠実をハッキリと観客に印象づけ、次に、軽いダンスのついた演技の巧みさ(これには助演の2人の効果もある)で、ヒンデミットの音楽のもつ特徴を魅力的に強調しながら、バリトン寄りの力強い声の味わいを積極的にアピールしていた。これを受け止める貴婦人、立川清子の歌も艶やかな声と豊麗なカンタービレに支えられた甘い表現力で、作曲家が音楽のなかに仕込んだ毒・・・つまりは、エロティックな表現の直截さで観客を魅了した。

だが、作品は、この1組の誠実な恋愛を否定している。あまりにも純粋な2人の愛の結びつきは、彼らが死んでしまうという予定どおりの結末により、あっさりと断ち切られてしまうのである。この作品でヒンデミットは、純粋で直截な感情の結びつきを柱とするイタリア・オペラの甘美な特徴を疑い、ベルカントとヴェリズモを同時に否定する。ベルカントの否定は、この最初の1組のシーケンスが殺人で断絶することで、ハッキリと印象づけられるはずだ。一方、作品はヴェリズモ的な色彩をつよく放つものの、例えば、カルディヤック以外の登場人物に名前がないことも含めて、ヒンデミットは写実主義にも徹底的に反対している。彼の物語は、あくまで幻想的なもので、例えば、あの『ホフマン物語』と同じ原作者による「ファンタジー」であることを忘れてはならない。

ベルカント否定のあと、残りの1時間ほどはより複雑な、綜合的な要素によって作品が抉られていく。もしも最初の数十分で得た印象に、あとの1時間あまりで培った印象が勝てなかったら、公演は失敗なのである。その点で、後半を支える3人の歌手はあまりにも非力だった。特に、カルディヤックが甘い。声の重さはともかくとして、表現にも工夫が足りないようだ。もしも演出の三浦が助演をつけなかったら、彼はもっと弱々しい表現力しか示すことができなかったであろう。その娘と、士官役はなかで健闘はしているものの、ほんのすこしの対話だけでつないでいくヒンデミット劇、独特の味わいを十分に理解していたとは言い難いようだ。

例えば、士官はどうして、ここまでカルディヤックと互角にわたりあえるのか。それは、彼と同じくらい純粋だからである。その清らかさを最初から最後まで、観客によって疑われてはならない。だが、実際に日浦眞矩(士官役)がそれを真正面から訴えることができたのは、彼がカルディヤックに襲われ、それを撃退して説教する場面の純粋さだけであった。

【2つのものに語りかけるカルディヤック】

それにしても、この場面は非常に重要である。士官の言葉によれば、このときのカルディヤックは只ならぬ力で襲いかかってきたとある。だが、その只ならぬ力をはね返したのも凄いことだ。私はここで、シェークスピアの暴君、マクベスが魔女の予言によって、ある意味では守られながら、最後に予言を超越した要素をもつ(帝王切開により、母親の腹を切り裂いて生まれてきた)マクダフが出現することで討ち取られてしまうことを思い出す。このとき、マクベスはすべてを知って、ようやく邪悪な予言の呪縛から脱け出し、「死」という救済に向かうのだと私は解釈している。このマクダフと、士官が同じ役割を果たすことは自明であろう。

カルディヤックの難しさは、単に声楽的(技術的)な難しさばかりではない。彼は2つのものに、同時に語りかけねばならないからである。「2つのもの」とは、作中の登場人物と、舞台をみる我々のことを指す。この手法はバロック時代前後には豊富にあったもので、ヒンデミットが相当に古い時代の作品を参考にしながら『カルディヤック』を描いたのは間違いないところだ。彼はつづく『往きと復り』でも「デウス・エクス・マキーナ」というギリシア劇以来の古い手法をアイロニカルに用いているが、2つの作品では同じように、この作曲家の新古典主義的な傾向が窺えるのである。ここで歌い手にとって、きわめて重要なことは、作中の対話として自然ななかで、観客にとって大事な言葉をいかに活かしきるかということに尽きるわけだ。

たとえ、その言葉を解さない相手に対してさえ、優れた歌い手ならば、観る者にそれと気づかせることができる。村松恒矢(カルディヤック役)に現時点で、そこまでのレヴェルを求めるのは、もちろん、フェアなことではない。しかし、この役では、その能力が絶対に必要であるのは自明であり、これを上演し、研修生に歌わせると決めた人には多少の批判がいくのも当然だ(だが、同時に、どんな形であれ、この作品を上演してくれたこと自体に対しては、ひどく感謝をしている)。

対照的に、このレヴェルをしっかりと歌いきっていたのは、合唱団である。今回は自前の新国立劇場合唱団を使わず、栗友会合唱団を、ヒンデミット作品に思い入れのある栗山文昭が指揮したが、これが素晴らしかった。本来が混沌たるアンサンブルにもかかわらず、非常に機能的に組織されており、場面場面で時代を真正面から見据えた歌の響きが聴かれた。今回は演出上、回り舞台を用いたが、遠くから聴こえてくるときも、非常に効果的なバランスを上手に見つけていた。

【シンフォニー的な構造】

このような演奏のなかで、合唱や管弦楽が非常に目立つことになったのは遺憾の極みである。だが、高橋直史率いるオーケストラの響きは、この公演をガッシリ支えてくれた。沼尻竜典の指揮以外では初めて耳にする、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ(TMP)の名前がクレジットされているが、私の知っている時代からするとメンバーもかなり違っているので、TMPを土台としながらも臨時編成的な色合いがつよいのかもしれない。

ドイツの中小規模の劇場でポストをもつ指揮の高橋の手腕で注目に値するのは、それほど大きくない編成であっても、要所では十二分に張りのある、ガッシリした響きを絞り出すことができる点である。バンダも、vn1、cb2、ob1、hr2、tp1、tb1という編成で、多分、マイクの使用はなく、それでかなり実のある響きを耳にできるのだから、手間を惜しんでいない証拠だ。同時に、これは今回、集められたTMPのメンバーが非常に自主性の高いメンバーだけで構成されていることをも示しているかもしれない。

ヒンデミットはこの作品で、音楽的には、非常に多様なイディオムを取り込んでおり、衒学的な響きを弄ぶようなことは少ない。むしろ、その音楽の構造は誰の耳にも聴き取りやすい対位法の典型的な用法に似通っており、しかも、それにもかかわらず、徹底的に新しい印象をもたらすのである。強烈に膨れ上がったフーガの技法は、この時代を表現するに相応しいもののひとつだ。また、リンチされたカルディヤックが士官と娘によって助け出され、その共感のなかで安らかな死を迎える終結部では、ブラームスの交響曲の締めに用いられるような、単純な三和音が用いられ、観る者をかえって呆気にとるであろう。私たちはこの作品が、正に交響曲のような構造でつくられていたことを、いちばん最後に知り、随分と暴れまわりはしたが、どうやら、カルディヤックが救われるべき存在であることをも実感するのだ。

【狂気の時代に】

この言葉は最近、よく使う気がするが、「倫理によって(カルディヤックを)裁くことは無意味である」。なぜなら、ヒンデミットはその倫理自体が、もはや、人間を守り、秩序づけるものではないことを描いているのだから。狂気の時代とは、正に、倫理的なものがこの作品における合唱のように、もはや修復不可能なほどの亀裂で覆われている、そういう時代である。

カルディヤックは娘を手放すことをなんとも思わず、自ら生み出す金細工に抗えないほどの価値を見出す。このことについても、モラリストは疑問視するかもしれない。その気になれば、彼はそれをいくらでも生み出すことができる技術があるのに、ひとつひとつの作品に固執している・・・その誠実さについて知っているのは、娘ぐらいのものである。彼は自分の手で生み出したものだけが、大事であると言っているのだ。娘もまた、彼が生み出したものではあろうが、人間はやがて自立していくものだ。もはや娘は半ば士官のものであり、完全に自分のものではない。完全に自分のものでないものをどうして愛せようか、とカルディヤックは言い、娘を愛している士官を怒らせる。

だが、この言葉は、政治的な現実と照応させると面白い言葉だ。例えば、フランスとドイツが主に争ったのはエルザス・ロートリンゲン地方、もしくは、フランス読みでアルザス・ロレーヌ地方の所有権であり、こういうところに固執する政治的判断が戦争の抜き差しならない状況を招いた一因であった。どこか、今日の日本の状況にも通じるが、ヒンデミットが痛烈に批判したのは、こうした政治的態度なのであろう。そんなに欲しいなら娘はくれてやろう、でも、俺の生み出したもの(芸術的作品)はどんな方法を使っても守り抜くというわけである。そうした主張をするヒンデミットが、カルディヤックによる暴力的手段を認めてもよいものか。それは自己矛盾なので、彼はカルディヤックにも罪を与えることにした。

しかし、それを裁けるのはマス(大衆)ではなく、ワーグナーにおける「神聖なる愚者」のような立場の士官だけである。そんな士官に対しては、傲慢なカルディヤックも「不思議な人」と呼びかけることで、ある程度、尊重する態度をみせていた。だが、この重要なキャラクターに名前すらないのも皮肉なことである。

【まとめ】

いずれにしても、ヒンデミットは時代に真正面からぶつかっていった数少ない作曲家のひとりである。彼以外の作曲家も、このきな臭い時代を畏怖し、警戒し、あるときは、遠回しな批判にも至っている。だが、ヒンデミットほど、真正面から切りつけた人はいない。ヒトラーは、それなりに賢かったのだ。彼は特別に、彼を選んで弾圧したのだから。ドイツ国内で、ヒンデミットを守ろうとしたのは恐らく、フルトヴェングラーひとりであった。その彼もゲシュタポに命を狙われたりしながらも、戦後は「戦争協力者」の烙印さえ押され、一時は公職追放の憂き目にあっている。どういった陣営につくにしろ、時代が狂っていることがわかるだろう。

新国研修所の舞台は、そうした時代を完全に写し取るほどは優れていなかった。それは声楽家が、十分に役割を果たさず、作品の焦点がぼやけてしまったせいだ。三浦の演出プランも、彼と同じ時代に生きた映画ファン以外には、ピンとこない要素も多い。例えば、”M”はドイツのフリッツ・ランゲ監督による作品の題名であり、プロットがよく似ていることからの連想であるらしい。ペダンティズムは結構だが、作品と直接、関係のないところでペダンティズムを発揮した演出は、私には納得いかないものがある。だからといって、三浦をつよく批判したくなるほど、弄りまわした形跡もないから、私は今回の「戦犯」として、彼を裁くことはフェアではないと思う。うまく煮込んでいけば、この発想はもうすこし化けるかもしれない。特に、最後の場面で、助演がそれまでにこの世を去った人物だとわかるあたりは、なかなか面白いアイディアとも思った。

回り舞台を用いたコンパクトな上演は、昨年、鑑賞したクラウス・グートの『パルジファル』を連想させるものだが、グートの場合、磨き抜かれた展示室(聖杯の安置場所が典型)のような味わいを示していたのに対し、三浦の場合は、どうも電子レンジにのっけた冷凍食品を思わせるものがある。この忙しない、安っぽい印象がどこから生まれたか、私にはしかとした理由が見つからないのだが、多分、序盤から簡単に場面を変えすぎたのだと思う。ワーグナーと比べれば、ヒンデミットの歌劇のテンポは速い。それを踏まえて、この電子レンジを使った効率的な発想が生まれたと思われるが、装置全体の重みに対して、その使用法がいささか軽いように思われる。

最後に、肝心の研修生のことでいえば、過去の研修所公演と比べて、それほど楽しみな人材は見つからなかった。そのなかでは、短い出番で判断しにくいものの、立川清子(貴婦人役)と伊藤達人(騎士役)のふたりが良い味を出していたのは確かである。とはいっても、既に述べたように、彼らが目立つような舞台は作品上演の失敗を意味するわけで、積極的には、彼らのパフォーマンスを評価しにくいというのが正直なところなのだ。

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