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2013年3月14日 (木)

Trina vol.1 メンサー華子 ほか 歌曲のコンサート 3/10

【手を抜かないプロ精神】

このイベントのタイトルにある’trina’とは、レース編みの「レース」のことを指すのだそうである。あの美しい模様をつくるために、どれほどの苦労が要るのか、私にはわからないが、手の込んだものなら、何週間もかかるにちがいない。今回の演奏会もきっと、そんな手間のかかる準備を経て本番に辿り着いたのであろう。出演した3人のソプラノ歌手と、それを支えたピアニストについて、技術的にはもっと上のレヴェルにいる人はたくさんいるはずだ。それなのに、彼女たちはそれを補って余りある発想のゆたかさと、枠に捉われない感性で、私に大きな感銘を与えた。たとえ聴き手が内輪の人たちを中心とした、ごく少数のものであったとしても、一切、手を抜かない厳しいプロ精神も際立っている。

3人の歌手たちは交代で出演し、イタリアからはプッチーニとヴェルディ。フランスからはアーン、ドビュッシー、フォーレに、ドリーヴ、グノー、そして、ビゼー。日本の橋本國彦。チェコのドヴォルザーク、ドイツのブラームスの歌曲だけで、演奏会を構成した。

その内容に入る前に、3人のパーソナリティをまとめてみたい。3人は一応、ベルカントの基本をしっかりと身につけた訓練の行き届いた歌手である。そのなかでも、教科書的な美しく、透明な歌唱で聴かせるのは新美賀子。人為的に固めたクリスタルな声の持ち主。イタリアのメッシーナ歌劇場でも歌ったという田渕夕紀は、ちょうどネトレプコのような(これは、このページでは必ずしも褒め言葉ではない)、ソプラノといってもすこし重めの声質をもっており、たおやかな表現力とつよい跳躍力をもった声の響きが持ち味になっている。そして、メンサー華子はよりスケールの大きな可能性をもった歌い手であるが、能ある鷹は爪を隠す。自然体の表現で、肩肘張らない歌の世界を味わわせることでは、前の2人に大きく水をあけるだろう。

【独特のプレゼンテーションについて】

これらの特徴を生かしたレパートリーの選び方と、そのプレゼンテーションの方法に、このグループの味わいが詰まっている。

日本において、歌曲のコンサートが開きにくいのは、言葉の問題があるからである。「ガラパゴス」化した日本においては、職務上の必要性がある一部の人たちを除き、著しく外国語への関心が薄い(私もそのうちの1人だ)。歌曲はなんといっても、言葉を味わうものであり、その言葉を解しない人たちを前にして、歌曲の繊細な表現を工夫することは、あまりにもロスが多いのである。オペラなら、まだ関係のなかで言葉の意味を探ることもできるだろう。しかし、歌曲は多くの場合、たった一人だ。これに対する一般的な解決法としては、歌詞や対訳をプリントして聴き手に配る方法と、オペラ公演と同じように字幕を使う方法がある。字幕というと大がかりな仕掛けにも思えるが、最近では、小森輝彦&服部容子が字幕掲示板を用いた小規模の公演を実現しており、決して手の出ないものでもないようだ(無論、それを実現するための様々な苦労があることは想像に難くないとしても)。

しかし、メンサーたちのグループは、まったく新しい方法を考えた。それは別に、この日、生まれたというようなものではないかもしれないが、それでも、彼女たちのパフォーマンスに斬新なイメージを与えたのである。それは各々が工夫して、曲の大意を語ったり、歌詞を訳して読むという発想であった。3人のやり方は少しずつちがうが、単にいま述べたようなことをやるだけではなく、そこから既に、歌曲の表現が始まっているという点で徹底しており、それが特別な緊張を舞台にもたらす原因ともなった。曲間の気の利いたトークや、付け足しの説明ではないのである。だからこそ、3人のスタイルがめいめい異なっているのも当然というわけであった。

この部分が、同じように外国語の歌曲を表現したいと願う歌手たちにとって参考となるところだろう。従来、曲の背景や、その意味を面白おかしく話して人気をとる歌手はいないわけでもなかった。また、レクチャーのようにアカデミックな内容にすることもできたし、反対に、わかる人にはわかると腹を決めて、器楽奏者のような気持ちで歌いつづける人もいた。なにかわかりやすいパフォーマンスをつけたり、踊りと組み合わせる例もある。また、いっそ聴き手にわからない言語ならば排除して、邦訳して歌うという手段も十分に多い。最後に、もっとも表現に傷のつかない着地点として、字幕を用意する、歌詞をプリントして渡すというものがある。

これらの方法に対して、メンサーらの方法が優れているのは、外国語と日本語という壁が、むしろ、それら二重の可能性に転じているということである。無論、オリジナル言語における歌曲の表現は、作品の鑑賞に貴重な味わいをもたらす。たとえ言語がわからない人たちに対しても、その良さや、作品のなかで大事なポイントを示すことができるのが素晴らしい歌手の条件となる。それはそれとして、自分たちが煮詰めた表現をもう一度まとめて、声楽家として、オペラ歌手として培った表現を適切に選びながら、その味わいを今度は母国語に直して、二重に表現していくというのは手間がかかっている。

この過程で、彼女たちの表現はより一層、味わいぶかく、精確なものになるはずだ。なぜなら、こうした表現をつくるときには、自分の声をしっかりと聴き、自分たちがいかに表現したいのか、一から見つめなおすことにつながる。ひとりひとりがどのような道を辿り、どのような結論を出したのか、私には想像がつくような気もするが、これはあまりにも推論に推論を重ねることになるので、文章化するのは避けたいと思う。重要なことは、彼女たちがそういう道筋のなかで、真に自分らしいものを見つけ出して、実際に表現できたことである。

新美はやや従来のトーク型にちかいが、メリハリをつけて、短いブリッジから表現に移っていくときの鋭さがあった。田渕は演劇的な表現にもっとも長けており、とろけるような低い地声の甘みを生かしつつ、作品のイロニーをきっちりと表現する。そして、メンサーは既に書いたことの繰り返しになるが、自然体の表現で、歌詞をきっちりと伝えるということに重きを置いていた。3人のうちで、誰の表現にもっとも説得力があったか、比較することは適切でない。それよりも、私の印象に残ったのは、めいめいが自らの声や表現について、この上もないほど、よく向き合って、知っているという事実だ。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と孫子の兵法にいうが、このうち、「己を知る」ことがまず何よりも難しいことであるのは、誰にでも思い当たる節があろう。

【新美賀子】

ここからは、3人のパフォーマンスを個別に見ていきたい。

まず、新美賀子は、フランス歌曲を中心に、5人の作曲家の作品を歌い分けた。そのなかで、特に自信をもっていたのは、ドリーヴだった。フランスではグノーとともに、もっともベルカント寄りで、声楽的な見せ場の多い傑作『ラクメ』を擁する作曲家として知られる(というよりは、バレエの作曲家として、より有名であろうか)が、『カディスの娘』はこの作品の歌曲としては、特に知られた者のひとつである。ラテン的なウィットの利いたこの作品を、新美は真正面から歌った。表現の柔らかさはいまひとつとしても、豊富な起伏を味方につけて、キレの良い表現を試みていた。だが、テクニカルな作品というよりは、たっぷりと歌うフォーレ『秘めごと』や、ドビュッシー『後悔』のような作品のほうが、彼女のもつ豊満な歌唱力は活かしやすい。

【田渕夕紀】

田渕夕紀は、プッチーニとヴェルディを歌った。イタリアで『つばめ』などを演じた経験も生かしているのか、歌曲からオペラへの転用などをひとつのテーマとしていた。しかし、歌曲のほうでも、専門的な知見が表現に生かされる。例えば、著名な『ストルネッロ』が子守唄であるとは初耳であったが、決して歌いすぎない抑制のなかで輝く、この作品の特性を見事に表現すると、彼女のいう言葉に偽りがないことがわかるだろう。その曲を含み、『乾杯』から歌い始めて、最後、『ジプシーの歌』に抜けるヴェルディのシーケンスが素晴らしかった。もともとバリトンのための曲であるが、3つ目に歌った『誘惑』は、彼女の声の表現力がより自然体で生きる曲のように思われた。

そのほかの曲では、オペラのアリアのような歌い方が通用する『エリーザよ、疲れた詩人は死ぬ』(6つのロマンス/1838年編集版より)も印象ぶかい。

ただ、ヴェルディという作曲家は、言葉の選び方に、そのほかの作曲家にはない個性を感じることが多いが、田渕はまだ、その表現にまでは至っていない。というよりは、清楚で無駄のない表現を志すあまり、言葉の表現に、ある種のくどさがないのである。このことはヴェルディ作品の表現において、必ずしもプラス点につながらない。むしろ、その癖をハッキリと表現するほうが、いわば、「なまっている」ほうが味わいが深いのである。彼女の表現に物足りなさがあるとすれば、言葉の田舎くささ(の欠如)という点に求められる。

【メンサー華子】

メンサー華子については、やはり、ドヴォルザークの曲の表現に個性を感じた。『民謡調で』(op.73)の4曲を歌ったが、重い第1曲の表現に対して、その後の3曲がむしろ本質的に響くのが、私を楽しませるのである。特に、第4曲『僕は素敵な馬をもっている』は、ヴェルディ作品に対して田渕が落としたのと同じような点を、むしろ、積極的に拾っている点で味わいがある。

メンサーは自分でも言っているように、ビゼー、橋本國彦、ドヴォルザーク、プーランクと、ほかに真似のできない作曲家の個性に惹かれる傾向があるようだ。ビゼーでは、『てんとう虫』という作品が傑作で、何度でも聴きたいと思う。『カルメン』よりはずっと上品な味わいがあり、可愛らしいウィットに富んだ、起伏のある楽しい作品だ。彼女は自らのブログ「メンサー華子通信」のページに、このてんとう虫を飾りつけているぐらいで、作品に対する思い入れは深い。ひとつひとつの味わいを大事に歌うその姿勢が、この演奏会を象徴することになる。

プーランクの『モンテ・カルロの女』を、こういう形で取り上げるのも勇気がいることだ。きわめて多様な表現力が求められ、演じ歌うのは、まるで共感できない、イカれた女である。ブロードウェイのようでもあり、決して、そうではなく、オペラのようで、また、決してそれではあり得ず。もちろん、単なる歌曲=シャンソンでもない。ジャン・コクトオの意地の悪く、謎めいた歌詞。跳躍する音符、微妙な音程。歌手として、あるいは、人間としてのあらゆる引き出しが求められるこの曲で、メンサーはこのリサイタルの実質的なトリを飾ると決めた。素晴らしかった。なにより、彼女が「モンテ・カルロの女」になりきっていたという時点で。

だが、その作品を含め、メンサーに注文があるとすれば、それはしばしば、音符の保持が甘いことである。

このホールはピアノ商会の併設ホールであり、コンサート・グランド・ピアノの響きをしっかりと受け止められるような音響デザインがなされている。ということは、つまり、声楽家にとって十分な音響はないということである。それにもかかわらず、メンサーはより響きの優れた場所で、どういった声が響くかをハッキリと想像させるだけのイメージを示すことができていた。だが、時折、メンサーは楽曲のフォルムを鋭くとり、ゆえに、音符を十分に保持しないまま、次のフレーズに向けて準備するという傾向が窺えるのである。

例えば、最後の『モンテ・カルロの女』についていえば、「カルロ・・・」という引き延ばしのなかで、私たちは、この不思議な作品のイメージを思い描くことができるのだ。歌詞に加え、音楽的な面でもプーランクは、この不気味にも輝かしいキーワードに対して、様々な繋ぎ方を試みている。そこに、作品のポエジーが広がっていくための鍵があるわけだ。一方、十分な保持なく次のフレーズに移っていってしまうと、我々のイマジネーションは中途半端にしか喚起されないでおわってしまう。実際の時間にすれば、1秒にも満たないはなしかもしれないが、その時間が、作品を味わううえで決定的に重要なのである。

【まとめ】

このように、一長一短はあるとしても、3人の表現には結局、それなりにふかい共感を抱いてしまうことがほとんどだ。それは単に私の好みに合っているからというよりは、むしろ、その反対である。彼女たちの表現がたとえ、私にとって十分、納得のいかないものであったとしても、その磨き上げの過程に否応なく反対しかねる重みがあるから、私は滅多なことは言えないと思うのだ。音楽家はみな、頑張っている。それでは、彼女たちがそのなかで、どのような点で特別といえるのだろうか。それはやはり、自分の歌や表現とどれだけ誠実に睨み合ったかという、その誠意のなかに求められるほかない。

特に、メンサー華子の姿勢にその誠意をより多く感じるのは、自分が歌う作品への愛情・・・というよりは、その歌を歌わなければならないという使命感が、誰よりも強いせいなのではあるまいか。

最後は、まったく内面的なはなしとなってしまった。付け加えるなら、この演奏会を支えた名鏡由梨のピアノ伴奏も素晴らしかった。完全に黒子に徹しきった公演であるが、アンコールを含めて13人の個性的な作曲家の歌曲を、3人のまったく異なる特質をもった歌い手にあわせて、ひとりで弾くのは、決して簡単なことではなかったはずだ。服部容子、河原忠之のような強烈なインパクトはないとしても、それらのひとつして、少なくとも伴奏のところで「あれ?」という疑問を生じさせないパフォーマンスは、歌手たちの安定した歌声を引き出すには重要なことであったろう。彼女もまた、歌手たちに負けない誠実なパフォーマンスをみせた。

この’Trina’シリーズ、’vol.1’となっているが、回を重ねてつづけていくなら応援したいと思う。ただ、ホールは、もうすこし声楽に向いたところを使ってほしい。

【プログラム】 2013年3月10日

〇ビゼー(S:メンサー華子)
 4月の歌、てんとう虫

〇フォーレ(S:新美賀子)
 ある修道院の廃墟で、イスパーン野ばら、秘密

〇プッチーニ(S:田渕夕紀)
 進めウラーニア!、太陽と愛、大地と海

〇ドビュッシー(S:新美賀子)
 ロマンス、後悔

〇ヴェルディ(S:田渕夕紀)
 乾杯、ストルネッロ、誘惑、ジプシーの娘

〇橋本國彦(S:メンサー華子)
 お菓子と娘、お六娘

〇アーン(S:新美賀子)
 もし僕の詩に翼があったら、リラの木のナイチンゲール

〇ドリーヴ(S:新美賀子)
 カディスの娘たち

〇ドヴォルザーク(S:メンサー華子)
 民謡調で op.73

〇ヴェルディ(S:田渕夕紀)
 墓に近づかないでくれ
 エリーザよ、疲れた詩人は死ぬ

〇グノー(S:新美賀子)
 悔悟

〇プッチーニ(S:田渕夕紀)
 そして小鳥は、素敵な夢、死ぬこと?

〇プーランク(S:メンサー華子)
 モンテ・カルロの女

〇ブラームス/ヴィアルド(全員)
 ボヘミアの女たち

 pf:名鏡 由梨

 於:スタインウェイサロン東京(松尾ホール)

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