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2013年3月31日 (日)

クラウス・フロリアン・フォークト シューベルト 美しい水車小屋の娘 東京・春・音楽祭 歌曲シリーズ vol.11 3/27

【成長期のステージにあわせて】

テノール歌手のクラウス・フロリアン・フォークトによる、シューベルト『美しい水車小屋の娘』のパフォーマンスは甚だ未熟なものであった。しかし、フォークトは通常の歌い手よりも、長い人生をこの歌のなかで生きたと言えそうである。休憩のときに、ある見知らぬ女性が彼の歌を評して、「ウィーン少年合唱団のようだ」と言っているのが耳に入った。そのときは「ウィーン少年合唱団にローエングリンは歌えまい!」と思ったものだが、その人の考えとはちがうところで、生きてくる言葉というものもあるものだ。そういえば、フォークトが序盤の部分を我々が思うよりも、幼い少年のイメージで歌っている可能性はあるな・・・と思い当たったのである。

この歌曲は、水車小屋の娘に恋する青年が失恋するまでの、ごく短い時期を描いた青春物語だと捉えられることが多い。そして、この青年はついに失恋から死に至るという解釈も往々にみられるのではなかろうか。例えば、2004年にイアン・ボストリッジが内田光子の伴奏で歌ったときには、そのようなイメージが濃厚であった。もし青年が死を選ぶなら、それこそ、歌い手はごくごく短い人生を生きるにすぎない。その儚さも悪くはないが、これを讃美するのは、神風特攻隊を美しいというような精神につながってしまうのではなかろうか。人生に、失恋のひとつぐらいはつきものである。それを苦にして死んでしまうとしたら、これまでの歴史のなかで、一体、いくつの若い人生が浪費されたことか。最近はこの作品から、「死」という解釈が遠のいているように思われ、それは歓迎すべきことである。

フォークトの場合も、全然、死を感じさせるような要素はない。彼の歌に感じられるのは、むしろ、より長い人生のなかで演じられる一コマにすぎない。そして、彼はそれを、かなり幼いときから描き起こしたと考えるのは不自然ではない。彼は作品を、4つから5つぐらいのステージに分けた。そして、それらのステージにあわせて成長し、変化していく少年・青年の姿を客観的に描き出してみせたのである。最初の数曲は、ロー・ティーン、もしくは、それ以下とみても自然である。

’Am Feierabend’あたりは、もうミドルからハイティーン。’Pause’ぐらいまでで高校は卒業し、後半は一端の男として歌う。そこから「所有」が問題となり、それをめぐる対立が生まれ、喪失がやってくる。そして、最後、’Gute Nacht,Gute Nacht...’と歌うときに、青年はその若年で人生のすべてを見通したかのような、シューベルトの境地にいきなり達するのだ。大詰めで、フォークトと伴奏のイェンドリック・シュプリンガーは、信じられないほど深いパウゼをとり、聴き手を思いも寄らないカオスへと誘い込む。あそこに、すべての秘密があった。これを正当化するためでもあるかのように、彼らはこの作品を丹念にルバートで彩ってきた。正確にいえば、ルバート「だけ」で彩ってきたのである。終曲のパウゼは、いささか牽強付会の感はあれども、このルバートによって引き延ばしたものだという論理によってのみ説明可能となる。

【ふかい時間のなかで】

このような表現が作品に相応しいものなのかは、私には疑問がある。しかし、この場面で何らかのふかい時間の存在を、優れた歌い手たちは感じ取るのだろう。例えば、ジークフリート・ローレンツはリンクの録音で、パウゼをとる代わりに、直前のフレーズで長いリタルダンドをかけている。ふかい時間が、青年をどのような人生に誘うのか。その考え方は様々であっても、ここで多くの歌い手はリタルダンドをかけたり、最後の一連の言葉にフェルマータとストレス(強調)を宛ててたり、何らかの工夫で空間を広げるようにしているようだ。だが、これほど目立つ休符のフェルマータは珍しい。音楽が何らかの理由で止まってしまったような、そんなショッキングな印象を与えるのである。

ただし、今回のパフォーマンスでもっとも印象的な部分はそこではなく、同じフレーズの冒頭、’Gute Nacht’と歌い出すときのソット・ヴォーチェ。これに尽きることだろう。私の場合は、ここで完全にこころの壁を打ち破られたのだ。ワーグナーの場合もそうだが、クラウス・フロリアン・フォークトが歌うとき、私たちは必ず、どこかでそういう瞬間を味わうことになる。今度の場合はあまりにも遅く、詩でいえば、たったの一段しかこころを開くスペースがなかったことになりそうだが、実際には、これを十分に納得させる「過程」があったことも重要である。

【フォークトの言葉とルバート】

フォークトの歌の本質は、言葉にありそうだ。私はそれをしっかり語るほど、ドイツ語に通じているわけではないのだが、そんな人間からみても、フォークトの言葉はいかにも優しく、きれいなのである。ネイティヴだから、ドイツ語がうまいのは驚くに値しないが、もしかしたら、この人の歌うドイツ語は、ドイツ人の誰よりも美しいのではないかと思わせるほど、言葉の透明感と立体性が際立っているのではなかろうか。アーティキュレーションの点で、この美しさをさらに際立たせる方法はありそうだ。声の深さや表情の多彩さも、まだまだ、この曲のなかでは十分でない。しかし、すべての時間で共通しているのは、フォークトのあまりにも甘い美声であったろう。ひとりの天使が、ここに降り立って歌っている。フォークトの歌は、ドイツ語が生まれたときの新鮮さで語りかけるのである。生温かい南風に包まれたような、そんな春の響きが印象的であった。

表現の面では、ルバートが上品に用いられているのが特徴である。『美しい水車小屋の娘』という歌曲において、私はこれまで、ルバートによる表現をあまり重く感じたことはなかった。ボストリッジも、あるいは昨年、見事なパフォーマンスを披露した小森輝彦も、また、LFJのなかで鈴木大介によるギター伴奏で雰囲気いっぱいに歌い上げた吉田浩之でも、その点では非常にニュートラルだった。無論、彼らがルバートを活用していなかったのではなく、そうした仕掛けを「隠す」というところに自分たちの表現の美点を見出していたというにすぎない。これに対して、フォークトは若干、露骨なのである。「露骨」ではあるが、品がある。では、「品がある」とはどういう意味であろうか。それは、フォルム全体からみて、自然であるということに尽きる。それが先に述べたような言葉の味わいと結びついて、細かいアラを打ち消していくのである。

【歌い手の特長】

確かに、’Trockne Blumen’(萎れた花)の歌いなおしをはじめとして、目立った歌い損ないも少なくない公演ではあった。しかし、それを強調してフォークトの未熟さについて書くのは、フェアでない印象をもっている。暗譜が十分でないにもかかわらず、譜面を立てない「パフォーマンス」も、私には良い印象をもたらさない。それがしっかりした表現に役立つのなら、むしろ譜面を立てて、視覚から飛び込んでくる豊かなインスピレイションのなかで歌ったほうが、見かけのアピール効果よりもはるかに大事なものを掴みやすいからだ。例えば、フランチェスコ・メーリは譜面を立てて歌っても、十分に立派な表現を楽しませてくれたし、それはスコアを慎重に読み込んでいく歌い手の特長を、かえって強く印象づけたものだ。

フォークトのパフォーマンスのすべてが、理想的というつもりはないが、いずれにしても、細かいアラに拘泥して、表現の長所に注目しないのは愚かである。彼が多くの失敗を犯したことよりも、そのポテンシャルにおいて語るべき段階でもあろう。多忙のスケジュールのなか、フォークトはシューマンの『リーダークライス』など、歌曲のリサイタルもしばしば入れてはいるようだ。しかし、もとがホルニストで、ここ何年かの間に一気に伸し上がった駆け出しの歌い手に、すべてを期待できるわけがない。例えば、今回のメイン公演である『マイスタージンガー』のヴァルター役に、いまの彼が向いているとはどうしても思えないだろう。

クラウス・フロリアン・フォークトは、天才的な歌手だ。しかしながら、天才だけで、オペラや声楽表現のすべてをカヴァーすることはできない。これは弦楽器や鍵盤楽器の場合よりも、より切実な問題である。いまのところ、彼に備わった表現の特色は、いかなる場合でも清純に、澄明な言葉と歌を響かせることができるところに求められる。伝統的なヘルデン・テノールの内側から絞り出すような表現がなく、どこにも力を入れないで、同じぐらい本質的なつよい歌を表現することができるのは驚きだ。また、この作品(水車小屋の娘)に関しては転調が多く、特に主人公が精神的に不安定になる後半に顕著だが、こうした要素をフォークトは苦もなくカヴァーする。彼の声の器楽的な柔軟性は、ほかの歌手のパフォーマンスに対して傑出しているようだ。だが、私たちは歌手たちが楽器のようには歌えない、その悩みにこそ面白さを感じる部分もあり、いまのところ、フォークトはそのような違和感を彼特有の爽やかな魅力で補っている感じである。

【まとめ】

例えば、小森輝彦が自らの人生の岐路において、それに重なるような表現を作品に加えながら、かつ、シューベルトの仕込んだ様々な革新性や多彩さを織り込んで、ピアノと高いレヴェルの室内楽的共演を繰り広げたのと比べると、今回のパフォーマンスが語るメッセージは少ない。伴奏のシュプリンガーも主に『マイスタージンガー』の音楽コーチの役割で来日しているが、ドイツ人というよりは、イタリア人のメンタリティで語るピアノだった。ウィーン少年合唱団が、イタリア人の起伏ゆたかなピアノで歌うという、そのミスマッチが興味ぶかい。この言語ゆたかなコレペティに対して、フォークトがどれだけの独創性を発揮できたかは疑問である。しかし、ナンバーを追うにしたがって、2人の表現は「トンネル効果」を起こし、思いもかけず懐深くに飛び込んできた。

その象徴としての、終曲のソット・ヴォーチェであり、最後のパウゼだったのである。

ある程度、粗っぽいパフォーマンスは想定の範囲内だった。それでも、『マイスタージンガー』よりは、はるかに興味ぶかい企画だったこの日のリサイタルに、私は十分な満足を味わうことができた。彼が不世出の歌い手であることは誰もが認めるところで、この『水車小屋の娘』にしても、今日から始まるといっても過言ではないぐらい出来たてホヤホヤのパフォーマンスにはちがいない。そうしたものに接するこおができたことは、まあ、それなりにプレミアムなことである。この「東京・春・音楽祭」も何年かにわたる試行錯誤の時期を経て、オペラや小澤征爾以外に、この場所にしかない、いくつかの見逃せない柱をもつようになったのは喜ぶべきことだろう。そして、この多少、無理のあるチャレンジに果敢にも挑むことを肯んじたフォークトに、変な嫌味も出ることなく、オーディエンスがつよい支持を表明したのも当然のことだった。

そして、思えば、私たちはこの歌のなかで、随分と長い時間を過ごしたのだ。

クラウス・フロリアン・フォークトが時代に潰されず、その独創的な歌のポジションを正しく守って、育んでいけることを私はつよく願っている。この過消費の時代のなかで、イエス・クリストのように犠牲になった素晴らしい歌い手たちも少なくないが、彼がその列に並ばないことを願うのみだ。そのことに貢献はできないとしても、彼だけはどうしても守っていきたいという想いはつよいのである。

【プログラム】 2013年3月27日

〇シューベルト 『美しい水車小屋の娘』

 pf:イェンドリック・シュプリンガー

 於:東京文化会館(小ホール)

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