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2013年4月12日 (金)

ブリュッヘン・プロジェクトⅠ ベートーベン 交響曲第2番&第3番 with 18世紀オーケストラ 4/4

【序】

フランス・ブリュッヘンがキャリアの晩年(それが今だとするなら)に、もっとも愛情を注いだのがベートーベンである。この作曲家は交響曲第1番から第9番に向かって「アップ」と「ダウン」を繰り返し、個性的な作風を確立してきた、とブリュッヘンは述べていた。だが、ブリュッヘン自身はといえば、「ダウン」のほうに身を置いた音楽だったとということを考えるなら、これら「アップ」と「ダウン」が単純な芸術的価値の多寡を表現するとは必ずしも言えないことは自明のことである。当初、4番から3番へと戻るプログラムが構想されたこの日の演奏会だが、蓋を開けてみれば、2番から3番への飛躍を直截に舞台上で確認することになったわけだ。この選択は、非常に興味ぶかいように思われる。

2番にはモーツァルトの『フィガロ』の素材が挿入されており、ベートーベンが古い時代へのオマージュから脱皮を図ろうとした作品とみられる。この時期、ベートーベンの聴力は著しく低下し、反面、作品は活き活きとして揺るぎない光彩を放っている。闇はなくもないが、それは遠い彼岸に注すもののようにみえ、まだ作曲家を完全に捉えきってはいない。否、この巨匠は終生、神に選ばれしその光の眩しさによって守られた人物だった。たとえ「遺書」を書こうとも、それはもはや、生きようと決めた証でしかなかったのだ。

彼の「英雄」はナポレオンというよりは、バッハでありモーツァルトであった。ナポレオンに失望し、スコアのページを破り割いたなどというのは疑わしいはなしで、彼の英雄は、常にスコアのなかにしかいなかったであろう。確かに、ベートーベンは政治的諧謔からいくつかの作品を書いたかもしれないが、それ以上に宗教的理由から多くの作品を書き、而して、本当に多いのは音楽的理由によってのみ書かれた作品なのだ。交響曲第3番「英雄」。その第2楽章の葬送行進曲で、ここに登場する「英雄」をいかにして表現するかで、その指揮者の立ち位置はすぐにわかる。英雄を否定的に描き、ゆったりした曲想を丁寧に醸し出す人は古典寄りであり、一方、英雄を最終的にはつよく肯定し、音楽のもつドラマ性に強く注目して響きの甘み(=苦み)を徹底的に抽出するのはロマン派寄りなのである。

だが、ブリュッヘンは否定も、肯定もしない。彼が注目するのはそうした部分ではなく、音の重なりや展開といった構造の中心部にあるものなのだ。英雄とは、音楽そのものである。その英雄がどのような響きで・・・つまりは、どのような楽器の組み合わせ、テンポ、タイミング、強度で、もっとも効果的に構成されるかという、その一点のみに集中は傾けられている。彼の相手にするのは、古楽器だ。ガット弦・弓を張らず、バルブのついた金管楽器を使う新日本フィル(NJP)を相手にする場合でも、その発想は基本的に変わらない。彼は古楽器の機能において考え、常に、その発想のみに基づいて演奏を組み立てる。

【古楽器の弱点からみる構造】

ところで、古楽器の特長は、いろいろに説明することができる。特に、新しい楽器に対して明らかに勝るものは、響きの温かみであろう。人間的・・・というよりは、自然的であり、木の香り、土の臭いと親密である。だが、それ以上に大きな味わいとなるのは、古楽器の弱点のほうなのである。それもまた、多彩な視点から述べることができるが、その最大の特徴は、機能が限られているということだ。例えば、バルブのないトランペットやナチュラル・ホルンでは、現代の楽器に比べて、できることは少ない。フラウト・トラヴェルソも、後世の楽器のような華やか音色は出ないし、そのほかの木管楽器もすべて、いまの高機能な楽器と比べれば、はるかに使いにくく、音色や響きの大きさに制限がある。そうであるからこそ、チェンバロ(ハープシコード)やオルガン、あるいは、ティンパニを中心としたパーカッションの多彩な音色が役に立ったのだろう。

鍵盤楽器においては、古い楽器よりも、新しい楽器の音色は多彩ではない。一方、弦楽器や管楽器においては、古い楽器のほうが淡彩で、新しい楽器は華やかに鳴るのだ。

ブリュッヘンの音楽を聴いていると、そのような古楽器だからこそ、作曲家たちが繊細に響きを重ねているということがよくわかるのだ。英雄ということに関連づけていうなら、彼にとって、英雄とは完璧な人格ではあり得なかったということになろう。彼の愛する英雄(=楽器)たちは、常に何らかの欠点をもっていた。それゆえに、重ね合わせることが重要だったのである。いま、私たちが当たり前のように耳にしている音楽が、なぜできたのか。ブリュッヘンは、私たちに向けてシンプルに語った。それは説明らしい説明がほとんど必要ないほど、あまりにも自然なことでもあった。私たちは、ひとりでは生きることができない。オーケストラというのはその象徴にすぎず、音楽がまた、その象徴なのである。

恐らく、彼のオーケストラばかりではなく、ブリュッヘン本人にとっても日本に対するフェアウェルとなるこの公演で、彼が訴えたいと思ったのは、そういう小さなメッセージだった。

【ベートーベンの雲】

音楽そのものに関しては、毀誉褒貶があるのは予想できる。18世紀オーケストラの面々も技術的には、レ・ミュジシャン・ドゥ・ルーヴル・グルノーヴル、イル・コンプレッソ・バロッコ、レ・タラン・リリクなど、ハイテクな音楽集団がいくつも存在する今日においては、いくつかのパートが飛び抜けて素晴らしいに止まるレヴェルだ。だが、彼らのつくる音楽は、技術だけで乗り越えることができるほどヤワなものではない。フランス・ブリュッヘンは真に個性的な音楽家であるが、その個性を支え、体現するのが18世紀オーケストラの役割だ。普通、「個性」とはテンポやアーティキュレーション、強弱、バランス、あるいは、ルバートなどの組み合わせによって、あるいは、そこに加わる内面的な要素をも踏まえて、多彩に色分けされるものだ。だが、ブリュッヘンの音楽では、これらすべてが根本的に異なって聴こえてくる。

例えば、交響曲第2番のテンポやリズムに関する感覚は非常に独特で、最近、切れ味勝負でクルクルと回るような曲想を軽快に操る演奏が多いのと比較すると、際立って重心が低い。そして、第1楽章では、フラッシュバックのように、太鼓の響きと連動して力づよい響きがたっぷりと閃き、我々を見知らぬ領域に誘い込んでいくのである。一昨年、私はNJPのベートーベン・プロジェクトにおいて、交響曲第1番から第3番までの演奏会を聴いたが、それと比べても、ブリュッヘンの音楽は格段に独創性を増した。単にオーケストラのちがいというには、あまりにも差が激しすぎるのである。

繰り返しになるが、この演奏会は当初、交響曲第4番と第3番の組み合わせで構想された。2011年の公開会見の内容を思い出せば、ブリュッヘンをしても、ベートーベンの4番は「わからない」作品であった。だが、その神秘が、交響曲第2番においても十分に発揮されていることを、彼は確信したのちがいない。雲のなかから、突然、私たちの知る素材がぬっと顔を出す。その素材を細かく検討すれば、テンポ感やリズム、響きのイメージが驚くほど似通っており、NJPとの演奏で聴いたものとまるきり同じであることも多い。つまりは、基本的なルールについてはあのときと比べて、ブリュッヘンがすこしも筋を曲げていないことを感じさせる。しかし、あの雲の部分については、NJPの演奏では聴かれなかったはずである。

2番の演奏についてもっとも深い驚きとなったのは、この雲の美しさである。そして、その隙間から窺いみることのできる、「ルール」の明晰さ。これこそが、ブリュッヘンの描く本論なのであった。この雲は、正にブリュッヘンのいう「ダウン」の要素と親密だ。飛躍(アップ)には、誰にでも説明がつく。しかし、そこで「ダウン」を選んだ作曲家の選択の重みは、僅かな優れた音楽家にしか見抜けないものなのだ。右肩上がりが常に良いのは、経済のはなしだけであろう。芸術家は「ダウン」の要素とどう向き合うかによって、その芸術性の息の長さを保つことができるかを考える。その点、所詮、モディリアーニは長生きできない仕掛けなのである。先をめざす芸術家は、それだけ慎重に後ろを振り返るものだ。ベートーベンが優れた作品を手にしかけたとき、いつも神への感謝の言葉のように美しいフーガを書いて、自分の立ち位置を落ち着けることを怠らなかったことを思い出せばよい。ブリュッヘンは、その価値に誰よりも敏感に反応している。

交響曲第2番は全楽章がきわめて印象的で、知的刺激に満ちた名演だが、そのなかでも、緩徐楽章のラルゲットに敬意を払わないわけにはいかない。ブリュッヘンと18世紀オーケストラは Glossa というレーベルで、史上空前の美しいベートーベン全集を上梓しているが、そのときと比べても、18世紀オーケストラは雲の厚みを増したといえる。旋律線はひときわ丹念に隠され、旋律の浮かび上がり、転調の機微はより鋭く(この言葉には語弊がある)表現された。もしも、この録音を聴き込んで会場に来た人があっても、驚きばかりが先に立ったにちがいない。それほどに、何もみえないのである。そして、それゆえに、ときどき「見える」ときの驚きの深さが堪らなかった。

【現在進行形でつくられていく響き】

だが、無論、私たちはみている。ベートーベンは適切なタイミングで、必要最小限の響きを足していく。そのとき、どのように奏者たちが動き出し、どのように振る舞うかも、私たちはみていた。そして、それは、作曲家の思考の跡を窺うようなものであったろう。それぐらい、ベートーベンというのは無駄なものをすこしも書かない人だった。その点では、彼もモーツァルトやハイドンの忠実な使徒であったといえる。ベートーベンは私たちがなにか、それだけでは表現に厚みが足りないと思えるときに、すかさず響きを付け加えてくる。意外な発想で来ることもあるが、多くの場合は、第1ヴァイオリンの旋律に第2ヴァイオリンの響きを薄く塗り込むような、些細なことなのだ。

別に、それに詳しいわけでもないが、女性のメイキャップとイメージが似ているかもしれない。楽譜上、やっていることは誰だって同じなのかもしれない。でも、本当に「顔」の味わいを引き出せるメイクというのは、誰にでも簡単にできるようなものではなく、ナチュラル・メイクほど手の掛かるものはないのである。ブリュッヘンは、このあたりを徹底しているアーティストである。

スケルッツォなどは、下手に神秘的ないかなることもしない。ただ、その響きの豪華さは、明らかにハイドンに倣ったものである。単に薄っぺらな顔をつくるのではなく、飾り立てず、厚塗りせずに、最高のイメージを引き出すために、ブリュッヘンはひとつずつ響きを丹念に調節し、それがまるで、いま生まれたような新鮮さを引き出すのだ。私たちがみているのは、単に何百年も前の作曲家がつくって博物館に飾ってあるものではなくて、現在進行形で、ベートーベンが作品を生み出すときの緊張感だったのである。そして、私たちはそうした響きを聴いているときに、自然に、楽器について考えているはずだ。あのトランペットがいかにも不器用に、同じ響きしか出せないから、作曲家が響きを重ねるのだということを痛切に感じるわけである(無論、そのために私たちは、かえって、このトランペットの不器用さに感謝する)。

このような積み重ねの結晶として、終楽章のコーダにみられる激しい振動音もあるわけだ。これを経て、クライマックスでいったん響きが遠のき、パウゼを経て、『フィガロ』の素材を伴いながら、いちばん最後は、たったひとつの響きでおわる。この終止形の美しさ、心臓が止まるような印象的な終止も忘れることはできない。物事には始まりがあって、おわりがあるのだ。この終止は、この演奏会でブリュッヘンが特につよく言っておきたかったメッセージのうちのひとつになっている。

【決定的な新鮮さ】

さて、上に書いてきたような響きと響きの関係が、第2番よりも象徴的なメッセージとして用いられているのは、第3番の演奏である。第2番は結局、響きのみの芸術といっても差し支えないが、第3番はそれだけでは消化しきれない芸術的メッセージの濃厚な傑作である。それは無論、時代背景とつよい関係性のなかにあり、時代精神の強烈な発露でもあった。後世からみた批判は別として、ベートーベンにとって、この時代は絶対王政に対する下からの突き上げによって、歴史上、世界がもっとも輝ける時代としてみられるのだ。この運動の重要な部分は、結局、ただひとりの英雄によるのではなく、より大きな連帯のなかで何かが胚胎していくという構造的特徴にあった。

このような時代は、単なる旋律の美しさやその組み合わせの妙を脱して、複雑な構造による響きの協力(連動)を基礎とした、音楽の進化と無関係ではあり得なかったのだ。バッハ、モーツァルト、ハイドンという優れた手本を片手にしながらも、ベートーベンはそれらのイメージをまったく新しい発想で飛躍させることが、自分に課せられた使命だと思った。そして、このタイミングでついに準備された飛躍は、対位法の厳格な書式に基づいている。第2番で印象的だった雲は追い払われ、そこではあまり優勢でなかったフーガの響きが、この作品では要所で鍵を握ることになった。だが、そのフーガの技法の傑出した新鮮さこそが、ベートーベンの飛躍を象徴するものとなるわけだ。

第1楽章に、それが出てくる。ここで最初のクライマックスを打ち、リタルダンドを伴いながら張りつめた印象をつくったあと、地団駄を踏むような低音への急下降で一気に響きを解放する。形式がぶつかり合うなかに光が生じる「アレグロ・コン・ブリオ」の象徴的な場面であり、最強奏部から弱奏への転換には多くの指揮者が頭をひねっている。ほとんど強奏部と同じくらい重みのある低音を打ってしまう演奏もあれば、リタルダンドを後ろまで引き延ばすやり方もあって、後者の代表選手にフルトヴェングラーがいる。しかし、ブリュッヘンは、低音の打音が、直前の流れを受け止めるだけの重みをまったくもたせずに、まるで暖簾のようにしているのだ。

また、終楽章にも、顕著にフーガを利用した響きが聴かれる。だが、その響きはもう、第1楽章の先に示した部分とは根本的に意味合いが異なり、響きの重なり方にも新味がある。こうしたところに、ベートーベンの決定的な飛躍は感じられ、しかも、「クラシック」らしく、古いものに立脚して新しいものが構想されているのが明らかだ。ベートーベンはこのように、「ダウン」の要素を内側から踏破することで、まったく別の新しいフーガの形式を生み出したのだ。その新しい形式によって、巨匠はまったく新しいメッセージを組み上げようとしている。ブリュッヘンはここで、その忘れ去られたメッセージをいまいちど復元してみせ、そして、それがまた、今日の社会にとっても、なお切実な問題であることを示そうとしたのかもしれない。

【まとめ】

いずれにしても、フランス・ブリュッヘンの演奏するベートーベンは、とびきりに温かく、優しい表情をしている。そして、ときに子どものように無邪気な楽しさをもっている。そう、演奏のあと、車椅子のうえではしゃいでいた指揮者その人のように。18世紀オーケストラとは、ブリュッヘンを父親とするひとつの家族であり、同時にまた、ブリュッヘンの「声」といってもよいであろう。この公演が日本におけるフェアウェルなのだとしても、彼らによって語られたブリュッヘンの音楽は、永遠に不滅である。否、誰あろう、ブリュッヘン自身がまだ終わったわけではないのだ。たとえ、身体が著しく弱ったとしても、この年老いた子どもは夢見ることを決して放棄しないであろう。死ぬまで、変わりつづける。暇さえあれば、なにか新しい発見を求めてスコアを開いているはずだ。

評者のなかには、彼が生きながら墓を掘っているようだという感じの言葉をはなつ者もあったが、私としては、そういう言い方には誇張めいたものを感じる。ブリュッヘンの音楽が紛れもない宗教性に基づいており、2つの交響曲がともに死からの発想であることを考えあわせても、甚だ滑稽だ。たとえ、あれほどに足腰が弱って、頼りなく見えるとしても、それが何だというのか。無論、あの状態で日本に来てくれたということは、彼なりにこの国を愛していたことを示すのであろうし、また、そこで出会った人々のことを大事に思うのでなければ、できない行動でもある。それは素直に喜ぶべきことで、ありがたくも思っている。だが、人間の足が悪くなるのは自然なことで、それで世界のおわりというわけではない。

足が悪くなっても、認知症によって意識が崩壊しようとも、人間の尊厳は必ず、どこかに存在する。彼が墓を掘っているなんて、私にはとても言うことができない言葉だ。

どちらかといえば、ブリュッヘンがつくっていたのは、「ネヴァーランド」なのではなかろうか。この場合、「ネヴァーランド」とは、妖精ティンカー・ベルの棲む国であってもよいし、あるいは、それを夢見たパフォーマンス・シンガー、マイケル・ジャクソンの造ったそれであっても構わない。いずれにしても、終わらない王国である。墓とは、その人が確かにそこにいたことの証だが、ネヴァーランドなら、個人の生き死にを乗り越えることもできるだろう。ブリュッヘンの音楽とは、正に、そのようなものではなかろうか。例えばNJPに、彼から教わったものがあるとするなら、その「ルール」だけは、どんな優れた人の主張に対しても譲ってはならず、ましてや、忘れてしまうことなど許されない。彼らはネヴァーランドの住人でいることができるのだ。万が一、そのことが「墓」ということの本意なら、私はその人の考えに同意してもよい。

私は最近、都響において、明らかな悪例に接した。単なる聴き手の私が憶えているようなことを、なぜ、プロの音楽家である人たちが10年足らず、守ることができないのであろうか。例えば、4月にエリシュカが札幌にやってくる。彼にもいつか終わりはあるはずだが、ときに、札響のメンバーは彼から教わったものを10年も守りきれないとするなら、私は絶望的な気持ちになる。そんなことはあり得ないはずだ。その点、聴き手のほうが思い出を大事にしていることも多い。それは、同じ道の愛好家との語らいにおいて、しばしば感じることだが。ブリュッヘンも、そういう大切な思い出を残してくれたうちのひとりだ。

最後に結ぶ言葉は、これ以外にないだろう。ありがとう。ダンク・ウェル!

【プログラム】 2013年4月4日

1、ベートーベン 交響曲第2番
2、ベートーベン 交響曲第3番

 於:すみだトリフォニーホール

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コメント

アリス先生、こんにちわ
3年前にコメントしました g.g.です

あれから3年・・
今年は仙台国際音楽コンクールが開催されますね~

できればまた、先生の解説をお聞かせ願えればと思い
コメントしました

お時間あれば是非是非お願いしますnotes

g.g.さん、1週間も放置して申し訳ございません。この1週間、あまりに早かったです。

仙台国際コンクールは、できる限り、応援します。震災後、初の大会となり、被災地でもあった仙台にとって特別な意味合いがあります。

ただ、以前と比べて生活に余裕がない感じがします。ご期待に応えられるかはわかりませんが、できる限りはやります。ただ、恐縮ですが、「先生」は止めてくださいませんでしょうか。

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