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2013年5月21日 (火)

井上道義 ブラームス 交響曲第2番/ショスタコーヴィチ 黄金時代(組曲) ほか 新日本フィル サントリー定期 5/16

【黄昏において】

この日の指揮者、井上道義のコメントから「黄金時代だけじゃつまらねえだろ?!」というキャッチをつけておこなわれた、このコンサート、「黄金時代」だけではなく「黄昏」に惹かれるという井上の言葉がすべてを象徴するものとなった。物事には始まりがあり、おわりがある。そして、おわりは確かに切なく、生産的でないが、そこをどのように過ごすかで、実は、その「黄金時代」の実質が問われるのかもしれない。例えば、ウィンナー・ワルツの歴史においては、フランツ・レハールら「白銀時代」の完璧な美しさと情感のゆたかさによって、ヨハン・シュトラウス・ファミリーのつくった量産品の、真の輝きがわかったという面もある。

それぞれの黄昏において、3人の作曲家がどのような立場に基づき、いかなる作品をつくったか、そのちがいが演奏会のメイン・テーマでもある。簡単にいえば、ショスタコーヴィチは思いきりふざけることにしたし、ルトスワフスキは新しい形式へと、果敢に飛び込んでいく。そして、ブラームスはといえば、自分はココに残ると言い出した。ショスタコーヴィチとブラームスは、よく似ている。彼らは自分がその場に居残ることを決めても、時代を一歩先に進めようと努力することだけは怠らなかった。シェーンベルクはブラームスをよく研究し、彼の究めようとする新しい道を耕したという。そして、ショスタコーヴィチは音楽における「アイロニー」を掘り下げ、20世紀後半以降、とても重要なキーワードとなる、そのイメージで音楽を編み上げた。

【ショスタコーヴィチの風刺】

ショスタコーヴィチは、ロッシーニをふかく尊敬している。この作曲家こそ、クラシック音楽の歴史のなかでも際立って可笑しな風刺家のひとりであり、その人生の半ばで、余力をもって筆を折ってしまったのも、実のところ、彼のもつ毒があまりにも鋭すぎて、この時代に見合わなかったせいなのかもしれない。井上は2時間超もあるバレエ音楽からの抜粋となる、『黄金時代』組曲において、もちろん、風刺の可笑しさを強調したわけではない。むしろ、彼は完璧な構造物としての4つの舞曲を、パントマイム付きで雄弁に語ったといえる。「皮肉」にも様々なスタイルがあり、ロッシーニとショスタコーヴィチでは、得意な方法が異なっている。ショスタコーヴィチの風刺の面白さは、道化が道化になりきれず、あまりにも真面目であることだ。彼は仮面を被っていても、いつも素顔を見透かされてしまう不器用な人物である。

例えば、第2楽章で資本家の手先であるオンナが誘惑する場面では、良い雰囲気になってくると、必ずトレモロを出して、オンナが舌を出すような響きを入れている。このバレエ自体はよく知らないので、オンナが結局、どのような行為に出るのかはわからないが、結局、自分が相手に対して本気であることに耐えられなくなり、すべてを曝け出してしまうのではないかという印象をもつ。それはショスタコーヴィチと同じように、オンナが裏表をつくれないタイプであるように見受けられるからで、この作品のアイロニーのひとつは、どんな使命を背負っていようと、愛情はいつも本物であり、イデオロギーを越えて人々はわかりあえるというところに向かっているように思われるのだ。組曲にはないが、全曲版のフィナーレを聴くと、その印象はさらに高められる。

井上はこうしたアイロニーに対して敏感であるだけに、いま述べたようなトレモロの使い方などはきわめて巧みで、ときに優雅な印象さえ与えるが、一方で、リンクのキタエンコの録音にみられるような労働者のリアリティ(例えば、終楽章の最後では力いっぱいに鉄を打つような響きが印象に残る)はさほど真面目に描こうとはしていない。彼はむしろ、それぞれの立場よりは、関係に、より重く注目しているというべきであろうか。そして、それこそが、ショスタコーヴィチの風刺の真骨頂であるとでも言いたげである。

【耽美主義者=ルトスワフスキ】

ルトスワフスキの弦楽合奏による『葬送音楽』は、ハンガリーの作曲家、バルトークの歿後10年のメモリアルのために作曲されたが、その祈念の年には間に合わず、1958年になってようやく完成した。一体に、ルトスワフスキは1954年から58年までの間、すべての分野を通じて、ごく僅かしか作品を発表していない。この時期は彼のような天才的な音楽家にとっても、新しく出会った西欧で発展した前衛音楽のイディオムと向き合い、自分の音楽のなかに、どのように生かそうかと悩んだ試行錯誤の時期であったと思われる。この時期は同時に、スターリンが亡くなり、後継体制が徐々に固まっていく時期とも重なるため、『葬送音楽』は多重な意味をもつ作品と見做されているであろう。

井上は日本ルトスワフスキ協会の会長の任にあるが、その地位が単に、名誉職的なものでないのは明らかだ。彼の描く『葬送音楽』は、この方向でもっとも尖鋭なアクティヴィスト、ブーレーズの作品に匹敵するぐらい、容赦ない完璧さで出現したルトスワフスキの音楽の完成度の高さを物語っていた。ともかく響きがとんでもなくクリアで、かつ、辛辣ではなく、すっと人々の胸に忍び込んでくる音楽というべきだろうか。この演奏なら、スターリン云々という話は持ち出すべきでなく、「葬送」音楽であることを言うだけでも誇張的に思える。また、この作品は2011年4月、直前に起こった東日本大震災の犠牲者を悼んで、ベルリンの演奏会場でベルナルド・ハイティンクが演奏した曲としても知られるようになったが、これを言うのもあまり重要そうなことではない。

こうしたモノが表現される「期待」をかなぐり捨てて、井上が表現したのは、ルトスワフスキのもつ芸術至上主義とでもいったようなものだ。「耽美主義」と言い替えても構わない。そして、それを追ったこの時期こそ、ルトスワフスキの「黄金時代」だったとでも言いたげなのである。ルトスワフスキの創作は無論、1994年の死のときまでつづくが、それまでは社会的に、とても許されなかった創作的態度が解禁され・・・否、正確には「解禁」などという生易しいものではなく、自ら戸をこじ開けて荒涼たる大地に踏み出していった、この最初の時期に、作曲家の頂点をみる態度はすこぶる刺激的だ。

現代の我々は、こうしたものを自由自在に用いる権利が確立されているというのに、むしろ、そうしたものに文句ばかりを垂れているのが現状だ。これは政治に対しても言えることで、我々は我々の自由を使いこなしていないようにみえるが、その分だけ、文化的にも貧困なのである。恐らく、彼はそのことを、最近の北朝鮮行きを通じて実感したように思われる。日本は恵まれているのに、なぜ、こんなにも貧困なのか!

【ブラームスと宗教性】

最後のブラームスは、すこし不思議な演奏であった。最初のほうは20世紀前半のアメリカ・・・例えば、ディミートリー・ミトロプーロスジョージ・セルのような精巧で、つくりものめいた音楽づくりが耳につき、長閑な表現もどこか、プログラムされた響きとして受け取られた。そういう面では、シェーンベルクがブラームスを参照したのも、なるほど頷けることであったかもしれない。だが、井上は徐々に「宗教性」をキーワードに、このもっとも典型的なドイツ音楽のひとつに根差した特長を紐解いていくのである。

宗教性?

確かに、友人のドヴォルザークも、ブラームスの信仰心のなさには驚いている。しかし、この素朴な田舎者には、ブラームスのあまりに複雑な信仰心を見抜くことができなかったというだけのことで、私は、彼もまた、自分を律する神の存在を真摯に探し求めていたことは事実だと思う。ただ、彼は自分が納得のいくような神父や教派に出会えず、既存の宗教的な枠組みのなかでは、どうしても彼の魂を託すべきものが見つけられなかったのである。だから、彼は稚拙なものであれ、自らの力で信仰について考えるほかなかった。音楽を書くことによって。そのとき、参考にしたのは、尊敬するベートーベンは無論として、本質的には、それよりずっと古い音楽だっと思われる。

交響曲第2番についていえば、緩徐楽章にそれが顕著に表れており、それは『ドイツ・レクイエム』のどこかにあったような音楽だと思われるし、また、ベートーベン「田園」交響曲から得たものも参考にしている。このような発想は、ブラームスについて、本当によく理解した指揮者しか表現することができないもので、例えば、マイケル・ウィグルスワースやマリン・オルソップの音楽には、すこしも出てこなかったが、井上はこの壁を久しぶりに打ち破ってくれた。遡れば、この前はジャン・フルネの都響における最後のコンサートであったかと思う。批判する人もいたが、この点においてフルネの音楽はまったく健在だったのだ。身体は衰えても、思考は衰えないのである。

井上の演奏では、特に第4楽章に驚かされた。彼がブラームスの「信仰心」について、もっとも輝かしく、明瞭なイメージを示し得たのは、実は第4楽章なのである。ここで井上は金管の響きのつくり方と、それと関係するすべての声部のバランスに細心の注意を払い、作品の高貴な(というのは宗教的な、という意味と直結するが)意味を浮かび上がらせた。そこでは下の声部が金管の発する「コラール」の印象を越えることは絶対になく、例えば、オルフの『カルミナ・ブラーナ』のフォルトゥーナの部分で、どれだけ優雅な響きが起こっても、サウンドはいつも金管のファンファーレの下にしか存在せず、それが「世俗カンタータ」の限界を示すものであるという、あの状況によく似ているのである。

金管についていえば、それが常軌を逸したほどにつよく吹かれるというわけでもない。否、むしろ、その柔らかく、気品のある響きが、もっとも力づよい天井を構成していることが驚異的なことなのだ。ある意味、それは人工的な印象ももたらし、この響きから私がパッと思い出したのは、ショパンの協奏曲を宗教色鮮やかに彩った彼の先生たちの発想だった。無論、その発想の根にあるものは、もっと古いものであろうし、これは先程、申し述べたこととも重なってくる。いずれにしても、井上はこの徹底して動的な、無窮動の世界から、落ち着き払った神の静寂の世界をイメージさせたということだ。最近、流行のスポーツ的なブラームスの弾き手には、とても思いつかない発想であろう。

【転調】

均整のとれたブラームスの交響曲では、第1楽章で、既にこのフィナーレを連想させる要素が効果的に構造をつくっている。そこで予覚させたものと、最終楽章で実際につくられる響きを、井上は敢えてちがうものにした。つまり、その時点ではまだ「普通」と思われた動的なモティーフが、静的なものに転換したのである。そして、テンポは予想以上に落とされ、フルネのときほどではないにしても、たっぷりとスペースが空けられた。大抵の指揮者はこのスペースを持て余して、動きすぎてしまう結果として、何も表現できなくなってしまうのだ。井上は、天上から見下ろす神の響きを、明晰に描きとる。オルフは運命の女神を下から見上げて、その手に届かぬ威容を示したが、ブラームスは天上から人間の小ささを端的に写し取るばかりだ。

だが、井上の「転調」はつづく。「天」の圧倒的な勝利が予言されたその瞬間、地上からの激しい反撃が始まるのである。残念なのは、その最後の反撃のイメージが、NJPの奏者によっては、完全には明晰でなかった事実であろうか。ただ、このコーダを真に思いどおりのものとすることは、どんな高レヴェルの楽団にとっても簡単なことではない。また、いつも同じように、演奏することもできないし、いつ、どこで最高の形が出るか、誰にもわからない。この交響曲にはそうした点で、室内楽的な面白さがあるといえるだろう。大事なことは、それが最高にできたときのイメージが、どれだけしっかりとした形で聴き手に伝わるかという、その問題だけなのである。

井上の演奏に、宗教性が欠けているという感想もちらほら見かけるが、それは正しい認識ではない。それはいま申し述べたようなことからも明らかであるが、第2楽章も徹底して「信仰」の神秘を感じさせる。また、同時に、この楽章を経て、オーケストラの響きがすこし・・・否、劇的に変わる象徴的な潮目でもあった。つまり、今回の演奏の第1楽章では、前半の演奏の色香がまだふんだんに残っていたものである。それは指揮者のつよい個性に基づく、あまりにも精巧な人工物であったことは既に述べたが、それがいつしか、いまは名実ともにない、東ドイツ的な音へと変わっていくのである。

政治的にはホーネッカーを象徴とする暗黒時代でも、商業的な心配がない東ドイツで守られたドイツ音楽の伝統は、皮肉にも文化的な「黄金時代」を構成した。それを聴き、演奏してきた人々の記憶や、残された録音から感じ取れるサウンドは、いまからみれば明らかな「理想郷」を形づくり、大木が幹を育て、自由に枝を伸ばすような、そんな懐の大きな演奏が多くなっている。ヘルマン・アーベントロートフランツ・コンヴィチュニイオトマール・スイトナーヘルベルト・ケーゲル・・・、さらに、こうした記憶を受け継ぐのは、現在ではクルト・マズアヴォルフ・ディーター・ハウシルトなど、もう、商業的にはほとんどアピール力のない老体の巨匠ばかりであり、若い世代では唯一、そこから漂ってくる空気を味わったにすぎないインゴ・メッツマッハーといったところが、数少ない例外となろう。

井上道義はセルジュ・チェリビダッケを介して、その記憶を僅かに継承した可能性がある。自身はアメリカにルーツをもち、合理性の高い思考と音楽センスをもつが、それがいつも、彼が理想とみる「黄金時代」と衝きあわされることで、音楽は独特の緊張を孕んでいる。ここからみる黄金時代→黄昏の関係は、きわめて示唆的であろう。井上の音楽は少なからず威圧的で、ホーネッカー的な部分もなくはない。例えば、9人の指揮者でつないだ大晦日の、ベートーベン交響曲全曲演奏会(2006年末)で5番を担当した彼の、炎のように激しい音楽など、私は一生、忘れることができないだろう。彼は頑固なまでに裏で振り、オーケストラがついてくるのを絶対に許さなかった。

あのときの井上は非常に特殊な精神状況であったことを、自身、告白しているが、そうであったとしても、あそこにはこの指揮者について、ひとつの象徴的なものをみることができる。イベントのディレクターである三枝氏が彼よりも、コバケンのほうを選んだのは商業的人気もさることながら、彼のこのような姿勢・・・ホーネッカーの面影が、一部のメンバーに対しては、耐えがたい不満を与えたためであったと想像する。井上は、あまりにも効き目のある薬草なのだ。そして、薬物とは常に、毒物のことである

だが、この日の演奏で印象づけられたのは、ホーネッカーの部分ではなく、「大樹」の響きである。この大樹を構成する最大の要素は、信仰心だ。ブラームスの4つの交響曲はいずれも、それに先行して書かれた『ドイツ・レクイエム』が基本になっていて、これらは、ブラームスが自ら書き上げた「聖書」のようなものなのである。「ブラームス訳聖書」、あるいは、「ブラームスによる福音書」だ。無論、これらは音楽によって書かれており、演奏することによってしか読み解くことはできない。そのようなことを考えた人は多分、それまでの音楽史のなかで存在しなかった。優れた作曲家の多くが、聖書や四福音書、教会や聖職者を根本的には疑わなかったからだ。彼らはそれらの教えに基づいて、作品を書いた。ドヴォルザークもそうである。ブラームスだけが、そうした教えとはちがう観点から、キリスト教を丸のまま見なおして、オリジナルな宗教観によって作品を書こうとした。

最後の『パルジファル』で立場があやしくなったものの、ワーグナーも基本的には、同じようなセンスの持ち主だったかもしれないが、ブラームスはこれと比べて、もうすこし素朴である。ブラームスについて残念だと思うのは、彼がニーチェのような天才と比べれば、思想家としては非常に稚拙なレヴェルにあるということだ。その点で、彼はドヴォルザークとわかりあう余地があったし、あまり知的すぎないこと(そして、適度に情熱的なこと)は彼の魅力でもあった。また、人々がある程度は現世を肯定しないと生きていけないことを考えれば、ブラームスの考え方は理に適ったものでもある。第2楽章のおわりで、聴き手に十字を切らせようと思うのは良い演奏だと思うし、井上もこの日、切実に、その「行為」を呼び起こすことに成功したが、知的レヴェルからみて、この「行為」はブラームスが批判的にみていた宗教的概念に対して、自ら妥協に赴いた事実を際立たせるものでもある。

やはり、ブラームスはシェーンベルクとはちがっていた。なぜなら、決定的な「転調」をもたらさなかったから。そして、そのことが、彼の「黄金時代」を特徴づけている。俺は、ココに残ると言い出したのだ。まだ、彼にはやり残したことがあった。そして、彼は交響曲室内楽鍵盤音楽の分野で、これ以上はないほどの「黄金時代」を生み出して、去っていく。それらを生かすべく、懐疑的ながらも、ブラームスは現状を肯定した。彼の本質は、ルトスワフスキやブーレーズ、あるいは、シェーンベルクのような、アクティヴィストと同じものではなかったということだ。しかし、彼の悩みは高貴である。最後の作品 op.122 のオルガン作品には、ブラームスの強烈で、独り、虚しく彷徨った信仰心の象徴が表れている。それはルッター派のコラールに基づいていたが、決して、ルッター派そのものでなかったのは言うまでもないことだろう。

【プログラム】 2013年5月16日

1、ショスタコーヴィチ バレエ音楽『黄金時代』組曲 op.22a
2、ルトスワフスキ 葬送音楽
3、ブラームス 交響曲第2番

 コンサートマスター:豊嶋 泰嗣

 於:サントリーホール

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