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2013年5月 9日 (木)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン @東京 記事Ⅰ パスカル・ロフェ指揮国立ロワール管 vs エル=バシャ のラヴェル ほか 5/5

【はじめに】

地下鉄のポスターで、江戸の三大祭や東南アジアをテーマとしたフェスティバルと並び、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LFJ)も紹介されているのをみた。ことしで9回目となるLFJも、ここ数年はスポンサー不足が厳しく、1~2億円規模の赤字を出す状況とは言いながら、東京都の財政が潤っていることから、開催取り止めが検討されるというような話は聞いていない。私は震災の年に起きた混乱を無責任なものと見做し、以来、LFJ参加は見送ってきたが、ことし3年ぶりに解禁。ただ、仕事の都合で、5日の最終日だけになった。

アーティストにとっては、悪条件が重なる内容にもかかわらず、今年、私が選んだ公演もすべて高レヴェルだった。また、ことしは「ぴあ」でのフレンズ先行販売を1公演だけにし、チケット購入をイープラスに改めたことで、条件の良い席を手に入れることができたことは、音楽をより親密に楽しむことにつながった。LFJの会場の多くは響きがデッドで、席によって聴こえ方の差が激しい(これは悪いホールの典型例である)が、一方、条件の良いところならば、普通のホールでは味わえないようなアーティストの生の音楽に触れられるメリットもある。ことし、私が手にした席は、大体がそのような素晴らしいポジションだった。

【フラメンコ】

私にとって最初の「公演」は、本場のスペインでも認められているという河内さおりと、その門下生(さおりフラメンカ)によるフラメンコの舞台だった。フラメンコはまったく見たことがないので、踊りのルールなどがまったくわからないが、今回のパフォーマンスはセヴィリャの春祭りを模したものということで、ソロからセヴィジャーナスという群舞に至るまで、華やかなラインナップが組まれた。河内のアカデミーは非常によく訓練されているが、基本的なルールを共有するなかでも、踊り手のもつ個性を丁寧に尊重しているのがわかる。この人はアスリート系の経験があり、あの人は舞踊に賭け、いろんな踊りに通じている人・・・というのが、動きを通じて伝わってくるし、それを出すことを妨げていないのだ。

あらゆる個性のなかでも、センターをとるような踊り手から感じ取れることは、最終的に、優れたダンサーほど動きがシンプルだという事実である。

フラメンコは演劇と舞踊というちがいはあれども、ちょっと歌舞伎と似ている。カタカタというリズムのとり方や、野性的な音響構造、視覚的には、キメのポーズで場面が進んでいくようなところだ。ただ、それを語るには、私はそれぞれのものに対して、あまりにも無知である。ただ、ひとつ言えることは、フラメンコは基本的な動きに、既に演劇的なもの、あるいは、歴史的に積み重なった民族の「劇」がとり込まれており、何らかの具体的な情景を容易に呼び覚ます特徴がある。例えば、バレエについてみると、基礎となる動きのなかには、それ自体が劇的であると感じられるような要素はない。プロットや音楽との関係をつくっていくなかで、そうした動き、もしくは、その組み合わせが意味あるものとして認識されるようになり、踊り手の内面的表現を可能にする。はじめから、綜合的な特徴をもっているのだ。

これに対して、フラメンコの動きは単体で何らかの歴史を帯びているようだ。何の意味もなく、抽象的につくられるシルエットはないのである。

群舞では録音を使ったが、ソロや数人でのヴァリュエーションには、生歌とギターを伴う。ギタリストはグラナダから招いた本場の人で、女性の歌い手、カンタオーラは佐々木紀子女史。フラメンコのカンテの良し悪しなど、とてもわからないが、恐ろしく音域が広く、それらのどの部分でも厚みのある強い声で歌える彼女の特徴は、非常に得がたい。しかも、フラメンコのもつ演劇的な特徴を繊細に拾うこころの肌理細やかさがある。上品で、機能的なのだ。それがフラメンコに合わないといえば、合わないのかもしれない。でも、少なくとも日本人は、こういうのが好きだろう。

今後、私がフラメンコにのめり込む可能性はないと思うが、この世界はかなり深そうである。カンテについても、いろいろと調べてみたいとは思った。とりあえず、高名なカンタオールとして、故カマロン・デ・ラ・イスラを知った。こんなのは真似できないし、すべきでもない。カンタオール、アントニオ・マイレーナはカンテが危機的な状況にきたときに現れた天才ということだ。彼の歌はよりエネルギッシュで、生命感に溢れる野性的なカンテの名手の歌声とは一線を画すものだ。民謡の歌い手のようでもなく、とても広い浸透力に恵まれた歌をうたう。彼の声を聴いていて思い出すのは、キング牧師の演説である。高貴な声がいつか我々の声のように聴こえはじめ、彼の内側から入って、魂そのものに共感してしまうような不思議な体験をさせる。

なお、この公演はエリア・コンサートに属するもので、会場は隣接のTOKIA、西ガレリアだった。ここは、ほかのエリア・コンサートと異なり、周囲の喧騒とは仕切られた空間である。もっとも条件の良い会場といえるだろう。

【アリアーガSQ】

私にとって最初の有料公演は、【332】のアリアーガ弦楽四重奏団(アリアーガSQ)のものだった。ベルギーにもアリアーガの名前を冠するクァルテットがあったが、こちらはスペインから招かれた団体で、別々のグループであるようだ。このアンサンブルの演奏では、上手/下手というよりは、まずマテリアルが非常に親密に生かされているのが印象的になる。ここでいう「マテリアル」とは、楽器そのもの、あるいは、それに張られた弦や、楽器を構成する木の味わいといっても過言ではない。そうしたものを味わうには、都合の良いプログラムだったということもある。特にファルセット、つまり、倍音を印象的に使った曲目だったからである。

最初に、彼らの母国からトゥリーナの10分前後の作品が2曲。そして、ヴァンサン・ダンディの弦楽四重奏曲第3番というプログラム。ダンディが30分を越える作品で、室内楽の作品としては規模が大きいが、正直、そんなに魅力的な作品とは思っていなかった。

ダンディはいわゆる「フランキスト」のひとりで、その首魁ともいえる人物だ。その作品も十分に素晴らしいが、同じフランキストのショーソンなどと比べると渋めのものが多く、どちらかといえば、教育面での功績が輝かしく語らられる。パリにスコラ・カントールムを開き、コンセルヴァトワールでも教えて、門人には今日も著名な作曲家が多数いて、そのなかには、例えば、ルーセルやカントループの名前もある。弦楽四重奏曲は3曲あり、1番と2番はいずれも若書きで、3番だけが円熟期に書かれたが、2番のほうがまだ、作品としては聴きやすい。

生演奏ともなれば聴ける機会は滅多になく、今回、その貴重な機会のひとつとなったが、ヴィオラがキーを握っている作品であることは間違いなく、意外にも私好みの特徴があった。第2楽章はその象徴的な部分であり、ダンディはこの作品のなかで、ヴィオラや第2ヴァイオリンに非常に重要な役割を与えており、裏口から作品を描き上げるようなことを試みた。ピッチカートや倍音を使う特殊奏法の部分があり、濃厚な響きの厚みを生かすべき部分も多くて、そうした点では、アリアーガSQにとってはよく合っている。また、このクァルテットのなかで、ヴィオラのミゲル・アンヘル・ルカスはもっとも表情ゆたかな弾き手だということもあろう。

作品は第2楽章がやや短く、第3楽章がやや長いとしても、実感としては、すべての楽章が均等な厚みで構成されるという特質をもっており、かつ、素材の扱いにも大胆さはなく、特殊奏法はあるとしても、全体的にはいたって大人しい印象を与える。それがぼってりした構造的印象につながり、作品を退屈なものにみせる面があるのだが、アリアーガSQの演奏ではライヴということはあれ、そのような負の特徴から作品を救い出す、何らかの特別な味わいが身に染みた。そのなかでも、もっとも重要な鍵となるのは、既に述べたように楽器の鳴らし方の巧さなのであろう。だが、それだけではない。

過去において、このイベントに出演した他の若いグループ、例えば、エベーヌQモディリアーニSQのように、生き馬の目を抜くような爽やかな技巧性があるわけではない。そうであっても、魅力的なことに変わりはない。アリアーガSQの演奏にどんな秘密が隠されているのか、残念ながら、ここで十分に語りきれるほど、説得力のある根拠を示すことはできないだろう。ひとつだけ、各々の楽器が互いの領域をつよく意識して、いちど展開したアンサンブルが、「必要に応じて密着することもある」というポジションの面白さは指摘できる。この離合集散の鋭さは、作品表現を細やかにする意味で、効果のある武器である。ただ、一方では、チェロなどについては、もうすこし全体を包み込むような深い響きが欲しいと思わせることもあった。

いずれにしても、機会があれば、じっくり聴いてみたいアンサンブルではあったと報告する。

【ラヴェルの理想と現実】

つづいては、ホールCに移動し、国立ロワール管の演奏で、ドビュッシーとラヴェルを聴いた。ロワール管は正確には、ペイ・ド・ラ・ロワール国立管であり、ナントやアンジェ、ル・マンという都市を含む大きな都市圏を根拠としており、フォル・ジュルネにとっては「ホスト・オーケストラ」ともいうべき存在である。2010年以来、ジョン・アクセルロッドが音楽監督を務めているが、短期間で関係が終結したところをみると成功とは言い難いようで、来季からパスカル・ロフェが同職を襲うことになっている。そのロフェが指揮を執った今回のLFJであるが、この指揮者とは非常に相性が良さそうな団体だ。

ミュンシュ時代の名声が念頭にあり、また、佐渡裕が長く率いたことで、コンセール・ラムルーの日本での知名度は高く、人気もある。フランスらしい個性も、濃厚とは言えないにしても僅かながらに残ってはいるようだ(これは放送で聴いた印象にすぎないが)。だが、安定した経営基盤をもつロワール管のほうが技術的には明らかに高レヴェルで、オーケストラとして確たる個性はないものの、ロフェのような知将となら、優れたマッチングを発揮するわけである。なお、コンマスはアジア人の女性で、あるいは日本人かと思ったが、楽団HPをみると、パク・ジヨンという韓国人の名前があった。

3曲弾いたなかで、メインとなるのはドビュッシーの『海』であるが、この作品の演奏に関しては、フランスのオーケストラであってもままならない印象を受けた。

良くなかったわけではない。インスピレイションもあった。ロフェは多分、第1楽章では浮世絵の印象を描き、第2楽章では内省的なスケルッツォを、そして、終楽章では生きものが登場し、多分に動画的なイメージに変わっていく(第1楽章はあくまで静止画、あるいは、連続画である)様を表現した。ロフェにとっては、ドビュッシーは映画の誕生と無関係ではないようだ(実際には1908年、同時代のサン=サーンスが世界初の映画音楽を制作した)。単なる風景画から出発し、鳥の声が聴こえだし、映像が動き始めるまでの仕掛けは、なかなかに鮮やかな発想だ。しかし、こうした瞬間がいつも、上手に体現されていたわけではない。

その点でいえば、前の2曲のほうが完成度はずっと高い。なかでも、私が注目したのは、ラヴェルの『高雅にして感傷的なワルツ』だ。原曲はピアノ独奏で、のちに、バレエ音楽のために管弦楽編成に編みなおされた。男女が交し合う植物の花言葉をシニカルに用いて展開する、甘いストーリーである。ピアノ版による初演は1911年。音楽は耽美主義的で、無論、この方向にラヴェルの理想は向いている。ロフェ&ロワール管の演奏はコンパクトにまとまっており、キビキビと詩情をまとめながら、ところどころ鋭いイロニーが挟まる(音色も鋭くなる)。「高雅」な部分に対して、「感傷的」な部分の表現がうまく、辛口で考えさせる演奏だ。前者はラヴェルの理想であり、後者は世の中の現実だ。本来、ワルツを彩る華やかさの象徴であるはずの打楽器の響きが、世の中の現実(軍楽マーチ)と手を結んで、効果的に提示される。

ラヴェルの声が聴こえるようだ。私たちだって、美しいものだけに囲まれていたい。しかし、世の中は、そのようにはなっていない!

【エル=バシャの場合】

このことに対して、エル=バシャは多少、異なった見解をもっているようだ。ラヴェルの鍵盤作品全曲を弾くシリーズの最終回(Ⅲ)で、彼が弾いた演奏について私はすこしばかり、戸惑いを感じた。彼はラヴェルの作品から、舞踏会で使うカラフルな仮面ではなく、能面のような美しさを引き出した。デュナーミクはあまり活用されず、アーティキュレーションも平板だ。こうした表現のどこに、あれほど優雅な詩情が隠れているのか、驚かされる。果たして、エル=バシャの演奏は高く評価されたが、その半ばは揺るぎない技術力に対する素直な敬意に根差しているのではなかろうか。その意味でも十分、ファンタジーに満ちているが、一方、残りの半分はそれだけには止まらない、どこか冷酷な表現に対する不思議な共感によっている。

ある意味では、彼は今回のLFJに対して、内側から強烈な懐疑を示しているともいえるのかもしれない。つまり、この音楽祭では明らかに、ラヴェルは人気の作曲家として意識されている。『ボレロ』があり、『ラ・ヴァルス』があり、『夜のガスパール』やピアノ協奏曲もあって、切り札として使いやすい。だが、人々の抱く親近感にもかかわらず、ラヴェルほど複雑な精神構造をもつ作曲家も少ない。例えば、『ラ・ヴァルス』はそんなにわかりやすい作品であろうか。商業的には有利なこのようなイメージを敢えて、疑うことで、ピアニストはラヴェルの新しい魅力について気づかせようとしている気がする。

例えば、彼の残している録音で『夜のガスパール』を聴くと、ミニマリズムの音楽のようにも聴こえる部分がある。今回の演奏ではそこまで機械的な演奏ではないが、エル=バシャはラヴェルのなかに、ある種の機械づくりをみているような気がしてならない。実際、ラヴェルの父は蒸気機関や内燃機関に精通した技術者だったという。

私は正直、このようなエル=バシャの解釈が好きではない。私は好き嫌いで音楽を論じることに、とても深い嫌悪感を感じるが、今回ばかりは、すこし釈然としない想いを吐露しておくとしよう。エル=バシャのどこに問題があるのか、いまの私には十分なアイディアがない。いずれにしても、彼の解釈が正しいなら、ラヴェルは相当、筋金入りのニヒリストだったことになる。「あのラヴェルが!」である。

ただ、この解釈はどこか、先のオーケストラの解釈とも通じるものがあるような気もしてきた。ラヴェルの「高雅」な理想が、現実世界ではまったくの空虚であると知悉されたとき、そこには、エル=バシャのような解釈が生まれるわけである。

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