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2013年5月29日 (水)

河村幹子(fg) The Bassoonist vol.8 5/19 マチネ&ソワレ

【すべてを出しきろうとする河村幹子】

藤倉大の個展でパスカル・ガロワが言っていたように、ファゴットは古くは独奏楽器として花形を飾っていた。なぜ、ファゴットなのか。そのことを知るためには、ガロワのような名手の演奏を聴くよりも、実は、見るからに歌のうまくないアマチュア・ファゴット吹きの演奏を聴くほうが、直截にヒントを得られるかもしれない。どの楽器も程度の差こそあれ、同じことだとは思うが、特にファゴットという楽器は、吹き手がもつ歌のセンスに演奏が左右されやすい特徴がある。そして、あれだけ長い管をもつファゴットを吹くには、入力でまず多量の息を吹き込み、かつ、先を計算しながら、絶えず、相当量のブレスを必要に合わせて送り込んでいく必要があり、これは肉体的にも過酷なこととなるのは想像に難くないし、アタマも使う。これらの理由から、下手なファゴットの弾き手の演奏は、まったくもって聴いていられないほど、ひどく聴こえてしまうものなのだ。

タフな楽器であることから、元来、女性の弾き手は多くない。だが、日本には、この日、異例の2部構成で演奏会をおこなった河村幹子が広く活躍するほか、東響にも福士マリ子が首席でおり、コントラバスやホルンにも女性奏者が珍しくなくなった今日とはいえ、彼女たちのパフォーマンスにはアタマが下がる想いだ。河村の演奏を聴いていると、まるで海女さんが息を詰めて潜行し、私たちが驚くような時間を経て上がってくるような、そんな印象をもたらした。もちろん、循環呼吸はしているのだろう。だが、河村はその息を限界まで使うということに、この上もなくシビアな弾き手だ。

これはもしかして、新日本フィル(NJP)の奏者には共通する気質のようなものかもしれない。例えば、ホルンの吉永雅人氏もオケでの演奏中、よく観察していると、自分の吹くところがおわると、思ったよりもすぐに力を抜いてしまい、それが「一丁あがり!」的な雰囲気を漂わせて、どことなく乱雑な感じを与えることがある。なにか理由があるのだと思っていたが、河村の演奏を聴いて、それがどういうことを意味するのかが、初めてわかったような気がした。

そう広くない空間であるし、最前列で聴くことになったことから、彼女がしばしば、パッセージをおわって「ハァ!」と息をつくのに、初めのうち、私はなんというか、すこしコケティッシュな感じをもった。それは悪くいえば粗雑、よく言えば、あけひろげで気風の好い感じを与え、どちらかといえば、私は後者のイメージで聴こうとしていた。だが、そうではないのだとわかってきた。彼女は並の弾き手なら、もうすこしラクに演奏できるものを、究極まで突き詰める演奏をしたのだ。それゆえに、響きが切れる一瞬、彼女は無防備になる。それを、最前列で拝んでいたというわけだ。だが、そのせいで音楽的に「切れて」しまうものは何もない。息を使う楽器だけに、この印象はなおさら、こころを打つものである。

【ゼレンカから感じる2つのメッセージ】

話がすこし逸れたが、ファゴットがバロック以前の音楽において愛された理由は、バロック以前の音楽が言葉と密接に関連していたことと関係があるだろう。ファゴットほど、それを吹いて言葉を感じさせる楽器はない。それゆえに、音楽修辞法によって演説にも似た機能が発揮されていたというバロック以前の音楽において、ファゴットが重用されたのは当然といえば当然なのである。

この日の演奏会で河村がメインと位置づけ、マチネ公演とソワレ公演の2回にわたって演奏したゼレンカのソナタ第5番などは、その典型のようなものである。河村は今年で、この楽器をはじめて30年になるということだが、ファゴットのほか、オーボエ2本、さらに、コンティヌオ(この日はチェロ+電子式チェンバロを使用)という編成はなかなか集めにくく、オーケストラで首席奏者の地位を占め、アカデミーでも活躍する河村のような立場であっても、高校のとき以来、ようやく念願の演奏が実現したというほど特別な機会となった。さて、その雰囲気はやはり宗教と色濃い関係にあり、私のような門外漢でもそれとわかる象徴に満ちている。

例えば、楽曲は全体のユニゾンで始まる。コンティヌオを除くと、ファゴット1、オーボエ2であるから、これは三位一体で音楽が始まるということを意味するはずだ。やがて、2本のオーボエは離れて、容易に出会わなくなり、これが「父」と「子」である。これらを一歩、離れたところから見守り、調整するのがファゴットの役割になっており、いかにも「精霊」的であろう。ゼレンカの書いたのが、父と子と聖霊のための音楽であるのは言うまでもない。だが、高校生の河村のこころを捉えたように、その楽曲はより豊富な音楽的インスピレイションに満ち、ときにロマンティックですらあった。ただ、「ロマンティック」とはいっても、それはバッハの受難曲において、マイナーコードで聴かれるような性質のものである。

彼の音楽を聴いたときに、そこに生成する響きが表面上のものとは、なにか質のちがうもうひとつの膜で覆われているように感じることは、特に優れた感覚の持ち主でなくとも、十分にできることだ。そして、もしも、その聴き手がそれなりに宗教曲を聴いたことがあるなら、その経験が鮮やかに呼び起されるだろう。僕は、その段階だ。そして、音楽修辞学に深く通じた方ならば、もっと明確な筋金の通った解釈を示すことができるはずだろう。だが、私にはその条件が欠けているので、想像することしかできない。例えば、終楽章の最後などは、河村自身による文章での端的な示唆もあり、確かに、平和なイメージで捉えられようかと思う。離れていた3つの声部が再び近接し、三位一体による結びつきが温かい響きとなって、Dona nobis pacem という言葉を連想させる。そして、アーメンで締め括られる。

この日の演奏は、どちらかというと、やや華美な印象に寄っている。歯切れのいいオーボエ、ファゴットの響きを中心に、コンティヌオも若いメンバーで、アンサンブルに活力があった。ただ、2回の演奏では若干、ちがう印象を与える。マチネの回ではより繊細に、ファゴット中心のメッセージに焦点を絞ったもので、よりダイナミックで、宇宙的なイメージを感じさせた。第1楽章はどこか天地創造を思わせ、そこから人間が出現し、イエスが生まれ、人間たちと結びついていくという、凝縮した聖書の雰囲気が漂った。印象的なのは第1楽章、激しい下降音型を下っていく部分で、そのパッセージがおわったあと、オーボエが2人の天使のように、その響きを作りなおし、コンティヌオを含めて、ファゴット(イエス)を天上に上げようとするかのような部分である。

ソワレの回では全体的に音量が上がり、とにかく、全部を出しきろうとする意図が見て取れた。それだけではなく、アンサンブル全体の緊張感が先刻より、ぎっしり凝縮した感じもあった。宗教的テーマというよりは、こうした響きを活き活きとさせる演奏姿勢が、より壮大なイメージを失わせたとしても、かえって身近なもの=「普遍の平和」というイメージを力づけたところはあった。序盤の三位一体や、そこから声部が動いて関係をつくっていく過程も、ずっと見易く、河村のイメージどおりで音楽が伝わったといえる。

ひとつ難をいえば、ゼレンカの演奏で、電子式のチェンバロを使ったことだろう。この楽器でも、ロバート・カーぐらいの素朴な作品では、それほど気にならなかったが、ゼレンカぐらいの厚い書法になると、どうしても音色が足りないのは明らかだった。ホンモノのチェンバロをつかえば、専門の弾き手と調律師が必要で、レンタルにも費用がかかることから、この選択は止むを得ないとしても、本来、期待できるコンティヌオの役割がところどころで失われていたのは、やはり惜しいというほかないだろう。念願の演奏だというのに、それでも、まだケチがついてしまうようなことはすべきでなかったかもしれない。

だが、この問題も、2回目の演奏では、意外に気にならなかった。

【親しみを追求したマチネのコンサート】

さて、マチネのコンサートと、ソワレのコンサートでは、多少、焦点が異なっていたようである。最後にゼレンカをやるという大前提は動かないが、それまでのストーリー・テリングのキャラクターが異なっている。例えば、マチネでは、楽器に親しみをもってもらうという視点が濃厚だった。事前発表になかったが、最初にオケの同僚で、作曲活動もしている荒川洋の未完のソナタ第1楽章が、特別に供与されて演奏されたが、それは朝の連続テレビ小説で流れそうな温かい旋律を有し、構造的にはわざとらしいほど単純で、例えば、コーダの名技性とか、無駄な部分が限界まで削られている。当初はファンファーレ的なものをお願いしたが、荒川はまったく別のものを書いてきたということだ。この作品の雰囲気は、「ファンファーレ」ではないにしても、河村のプログラミングの意図と照応しあうものである。

なお、作品には(op.91)の番号が振られており、彼にとって作曲が余技ではないことがわかるのだ。ただ、作品のめざす方向性にちがいがあるとはいえ、ピアノ・パートから感じる表現性の凝縮度などみると、次のプレヴィンとは明らかに差があったのも事実。

このあとのプログラムについて言えば、つづくプレヴィンのソナタには、その作曲家のイメージに相応しいジャズの要素が濃厚に生きており、そのあとのベートーベンでは「街の歌」による素材が使われている。後半は教本から選ばれた1曲、そして、上にかいたようなファゴットの良さからはもっとも遠いパーシケッティの作品が演奏され、やや視点が変わったものの、それでも、肩肘を張らずに聴ける曲というのが意図的に選定されているのは変わらない。そして、ゼレンカである。

まず、リコーダー教本の作曲家として僅かに名を留め、詳しくは何もわかっていないロバート・カーの作品であるが、これは荒川同様、旋律線のゆたかな響きが特徴の佳品である。近年、ピアノのツェルニーについて、よく言われるようになったことだが、教本だからといって、音楽性まで手抜きで書かれているわけではないということは、この作品を聴いてもよくわかろうというものだ。

パーシケッティと、ゼレンカが並ぶのは、非常に興味ぶかい。パーシケッティは1915年生まれ、米国の作曲家で、名前から想像できるようイタリア系。フィリップ・グラスや、最近、亡くなった指揮者にして作曲家のジェイムズ・デプリーストの師匠としても知られる。『パラブル(寓話)』という題名を使い、いろいろな編成、スタイルの作品を書いているが、この第4番はクラスタリングを用いたような前衛的な味わいがあり、ブーレーズのようにアクティヴなものではないが、現代のまったく新しいイディオムで書かれているからだ。

親しみをもってもらうといっても。わかりやすい部分だけを受け取ってもらうのでは長続きがしない。この人は気難しいけれども、ほかの人にはない良さがあるな、という発見まで聴き手を引っ張っていこうとした河村のチャレンジには拍手を送りたい。また、この試みは聴き手の感覚をすこし拡大するための試みでもあろう。ヒンデミットの言葉に、このようなものがある。「受け容れようとするこころが整うまでは、どんな音楽も騒音である」。そんなこころを育てようとする、河村の努力もこれはこれで捨てがたいものだ。

【発展篇のソワレ】

ソワレのコンサートは、より大人の趣向に訴える発展篇のプログラムだといえる。まずは、大クープランの『趣味の合奏曲集(融合)』から抜粋し、フランスのチェリストが編曲したものを演奏した。この曲集が気に入り、マチネのアンコールでも1曲を演奏した河村だが、このソワレの公演でも魅力的なナンバーを繊細に吹いて、短調と長調のコントラストが鮮やかで、かつ、柔らかかった。この「コントラスト」ということが、演奏会のキーワードであったかもしれない。

次のジョリヴェの『ソナチネ』は、ファゴットとオーボエという楽器の関係が、既にコントラストをなしている。N響の青山聖樹との組み合わせだと、2人がともに「+」で反発しあうような組み合わせだが、全部わかっていながら、容易には歩み寄っていかないところに、この演奏の面白さがあったように思えてならない。リムスキー・コルサコフとか、ストラヴィンスキーの幻影も浮かんでは消えして、独創的なジョリヴェといっても、やはり、音楽の歴史の重みを感じさせる。本来は、もうすこしユーモアの深い作品とも思えるが、河村と青山はキッチリと吹いた。

後半はゼレンカにつなぐプログラムだが、1曲は前半と同じくベートーベンで、『魔笛』のアリアを使ったヴァリュエーション。もうひとつは1940年生まれの作曲家、ディーター・アッカーの無伴奏の作品『モノディ』である。アッカーは日本では、まったく知られていないが、河村の留学時代には、ミュンヘンでハラルド・ゲンツマーの後任として教授職に就き、教鞭をとっていたらしい。若かった河村はアッカーによくしてもらったようで、早朝から指導を受けたりしたという思い出話も書かれている。そのとき、作曲家は若書きの作品のテンポを直したりしたそうなので、河村の演奏は誰も手にしたことがない、特別エディションに基づくといえるのかもしれない。パーシケッティのときもそうだったが、こうした作品で河村のファゴットは実に活き活きと響く。

私もアッカーについては、ここに至るまで何も知らなかったが、作品をいくつか聴いてみると、ジャズのような音楽性を入れてみたり、また、楽器の音色の活かし方が非常に器用な印象でもあった。無論、それらを引き出すためには、フレキシブルなスコアの読みと、技術的裏付けが不可欠だが、河村はその点、何も申し分がない。モノディは古い歌唱の形式で、多声音楽に対してソロと伴奏をもつ形式として発達した。ファゴットのゆたかな重音に注目したのは、昨年の「個展」で協奏曲が演奏された藤倉大も同じだが、このアッカーの作品は、もうすこし素朴な発想に基づいており、河村もまた、そこに共感があるようだ。

【まとめ】

駆け足だが、全体をまとめてみて、昼と夜でテーマを微妙に入れ替えながら、ゼレンカを中心に、2つの発想を示した河村のプログラミングに、ポイントがあったと思える。この構想やよしとすべきだが、弾き手にとって、タフなコンサートでもあったのは事実である。最初に言ったように、河村は、全部を出しきろうとする演奏家だし、それに共感する仲間たちが集っている。それにもかかわらず、一歩も後退せず、2つのコンサートを押し通したのは立派だ。

しかも、ファゴットといえば、バロック以前と現代にレパートリーが豊富なのであるが、様々な工夫を施し、より幅広い時代を大きく包み込むような構成を考えたのも重要なことといえる。

これらのコンサートを通じて、白眉となるのは、ベートーベンの三重奏曲「街の歌」である。オーボエ、ファゴット、ピアノの特別編成で演奏されたが、以前、聴いたときには正直、オリジナル編成でも、この曲の価値はよくわからなかった。だが、河村は快活でリラックスした響きのなかに、ベートーベンらしいチクッとしたアイロニーが混ざる作品の特徴を、非常にうまく引き出したといえる。特に、ニックネームの由来となった終楽章冒頭の旋律は、文字どおり、「街の歌」であるように演奏され、それが次第に歌い広められ、徐々に高貴なものへと高められていく過程を聴けて面白かった。このような形で、ファゴットの音楽が広まってほしいという河村の意図が、ココに示されているのは間違いないが、私もそのことに、つよく共感した。

バロック時代の輝きを取り戻し、再びファゴットにスターの座を用意せよ!

【プログラムⅠ】 2013年5月19日/マチネ

1、荒川洋 第1楽章~ソナタ op.91(未完)
2、プレヴィン ソナタ
3、ベートーベン クラリネット三重奏曲「街の歌」
4、R.カー イタリアのグラウンドによるディヴィジョン
5、パーシケッティ パラブル第4番 op.110
6、ゼレンカ トリオ・ソナタ第5番

【プログラムⅡ】同/ソワレ

1、クープラン 趣味の融合(抜粋)
2、ジョリヴェ ソナチネ(for ob&fg)
3、ベートーベン モーツァルトの歌劇『魔笛』のアリア
            「恋を知る者は」の主題による7つの変奏曲
4、D.アッカー モノディ
5、ゼレンカ トリオ・ソナタ第5番

 fg:河村 幹子

 ob:青山 聖樹、中山亜津紗

 pf:宇根 美沙恵惠

 vc:松本 亜優

 於:アーティスト・サロン”Dolce”

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コメント

アリス先生、改めアリスさん、お疲れ様です。
仙台国際音コンのツイート、ありがとうございます。note
仙台にいらっしゃるんですね。

私は日曜の予選に行ってきました。
相変わらず、良し悪しの判断はついておりません。
(エントリー№1とか、迫力があってよいと思ったのですが、アリスさんの
いうところの「バースト系」だったでしょうか・・?)
№32、36は予想通り、逆に№26、34は意外でした。

このあとはファイナルを予定しています。
(残念ながら、日・月はいけません。)

引き続き、観戦記をよろしくお願いします。
(&仙台の旅をご満喫ください。)

ありがとうございます。どこかで一目でもお会いできれば、よかったのですが。

1番は、完全にバーストですね。十分に才能のある人だと思うのですが、精神的に追い詰められると、自分でも思ってもみなかったようなことをやってしまうのではないかと思います。予選通過しましたが、5もそういう傾向がありました。

26は、すこし意外です。見たところ、18歳じゃなく、中学生ですね。差別的な言い方になってはいけませんが、発達障害でもあるように見受けられます。スラヴ人が皆、大きいわけじゃないでしょうが。

34は、「ココで弾けただけで幸せ!」というやりきった感が出ており、大物感はまるでありませんでしたが、粗削りながらも好きな演奏です。年齢からいって上積みないですが、彼女の演奏が聴けるのは楽しみに思っています。

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