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2013年5月 1日 (水)

Still Life at the Peguin Cafe ほか三本立て 新国立劇場(バレエ) 4/28

【ビントレーの特長】

デヴィッド・ビントレーの新国立劇場での功績は非常に大きいが、その彼を短期間で喪うことになったのは非常に残念だ。表向きはビントレーの多忙が理由となっているが、あまりにもプロフェッショナルではない運営体制に、本場を知る英国人が不満を抱いたのは想像に難くない。ビントレーの要求するいくつかの重要な訴えに、新国の運営サイドが応えられなかったのだろう。例えば、昨シーズン、突如として所属ダンサーの序列変更が発表され、結果的に多くのダンサーのたち地位が向上することになったのは、ビントレーのゴリ押しで決まったことだと推測している。

無論、根拠はなく、なにかの裏付けを経ているわけではないが、ペンギン・カフェカルミナ・ブラーナアラディンパゴダの王子など、新作を含む自らの重要な振付作品を次々に導入し、ダンサーたちとの関係も良好であった芸術監督が、この短期間で去ることになった事情が、表向きのもののようにシンプルであるはずがないのは自明であろう。そこにはきな臭いものを感じるし、新国が多分、ビントレーに捨てられたらしいことを見抜くのは難しいことではないのだ。世界的に通用する芸術監督を頂き、輝かしく独創的なレパートリーで黄金時代を築いた新国バレエ部門の繁栄期は、来季をもって終了するであろう。

ビントレーのコリオグラファーとしての特徴は、古典からコンテンポラリー、フォークロアからモダン・ダンスに至るあらゆる舞踊形式に精通しており、音楽、美術、衣裳などの優れたスタッフとの図太いネットワークを築いていること。それらの抽斗から選び抜かれ、自由な発想で取り出される特徴ある動きと、その組み合わせ。世評に惑わされず、良いものを見抜いた上で、徹底的に鍛えて舞台に上げる感覚の厳しさである。結果的に、ビントレーは老若男女、あらゆる知的レヴェルを一刺しにするプロダクションを生み出し、単なる娯楽的要素を脱して、舞踊と社会、個人をつなぎ、会場のなかでひとつにしてしまうのである。

【グレード・アップしたペンギン・カフェ】

いわゆる『ペンギン・カフェ』=”Still Life at the Penguin Cafe” は、そうしたビントレーの特質を象徴する作品である。着ぐるみを使ったバレエ作品といえば、アシュトンの『ピーター・ラビットと仲間たち』がよく知られているが、ビントレーはその作品に対するオマージュを含めながら、彼の新しい動物たちを描き、そして、それらが絶滅の危機にあるという点から、社会風刺の視点を導入するわけだ。動物たちは単純に個性的で、可愛らしい容貌をしているので、そのレヴェルでは、社会性にまだ染まらない子どもたちの視点でも楽しめる。だが、彼らを劇場へと連れていく親たちには、それだけでは済まさない。

君たちが子どもたちを守りたいというなら、この動物たちをも守るべきだというのである。

作品のメッセージについては、初演時の記事で非常に端的に語っているのでリンクをつけ、これ以上は繰り返さない。今回、前回とはちがうキャストをみているが、キャストのちがいというよりは、2回目ということで、驚くほど成熟した舞台に仕上がってきた。宣伝用の「リレー・トーク」をみると、まだ作品を経験していない新参のダンサーに対して、初演に参加したダンサーが勘どころなどを語るところがあるが、これに象徴されるように、もはや、作品はビントレーの手もとから離れつつあるようだ。2回目にして、これだけの落ち着き払った・・・ということは、つまり、自分のアタマで考えたパフォーマンスができるというところに、新国にいるダンサーたちの高い吸収力と、卓越した理解力の発端をみる想いがする。

ペンギン・カフェ2013は、明らかにグレード・アップした舞台になった。

それにもかかわらず、インターネット上で感想などをチェックしていくと、前回と比べて、人間の部分が出すぎているという批判がみられたのは、私には興味ぶかいことだった。一瞬、反発を感じるが、ある意味、当然の批判だと思うのである。この作品は多分、人間の部分をしっかり出さなくては、メッセージがきっちりと浮かび上がらないようにできている。前回のダンサーたちは、動物をいかに踊るかということに迷いすぎて、バレエ本来の動きの味わいを磨き上げることに中途半端だったのだ。今回、私は踊りそのものを食い入るように観ることができたし、それは踊り手がひとつひとつの動きに対して、前回よりずっと、ストレートに魂を込めることができたことを示している。

細部についていえば、高橋有里のノミ役が際立って印象的だった。前回は、本来なら、エレガントな役どころを得意とする西山裕子が、コミカルなこの役を踊ったのに接しており、しかも、あとで嵐の部分で役割が豹変したときの動きの美しさについて、私は書き残している。だが、高橋のパフォーマンスはこれらの両場面で、あまり齟齬がないのが特徴となる。つまり、ノミ本来の場面のフォークロアの雰囲気と、マスク・オフしてからの優雅なシーンで、本質的に動きの質に代わりがないことを示したのは、この作品のイメージを根本的に変えるものであった。

つまり、踊り手たちは前半のあらゆる特殊な役割に、あまりにも没頭してはならないのである。動物たちの魅力的な特徴を生かしながらも、同時に、客観的な表現の知性が鋭く磨かれていなければならないのだ。水の入った瓶の底に溜まった、色鮮やかなビーズを想像するとよい。それらの玉がひとつひとつの個を維持できず、溶けだしてしまうようなものだったら、この作品は面白くないのだ。小さいけれども、凝縮した粒としてのバレエの基礎的な動きが、動物たちのもつ愛嬌を惹き立てるのである。もっといえば、踊り手の人間的な部分と、マスクに象徴される動物の部分が、それぞれのビーズとしてキッチリ凝縮していなくてはならない。人間たちと動物たちの共存というテーマは、そうして明確に体現される仕組みである。

【共生と過ち】

先のノミは寄生虫であり、絶滅危惧種の豚鼻スカンクは直接、登場しない。スカンクのほうが愛らしく、舞踊表現に向いてるが、宿主がないと生き残れないノミを登場させることで、「共生」のテーマを強調しているのであり、この場面に賭けるビントレーのアイディアは豊富である。例えば、この場面の中盤でノミが(その気はないのに)自分勝手な行動をとったことから、民族衣装の人たちは徒に攻撃的となり、ノミのことを棒で打とうとする。終盤、彼らは和解し、同じく棒を打つけたたましい音が牧歌的な雰囲気に変わる。

これと対照的なのが、つづくシマウマの場面である。この場では、動物と人間の対立的な関係が序盤から描かれている。シマウマのほかに出てくる何人かのマダムのうち、もっとも尊大なご婦人が最初からシマウマのことを毛嫌いしており、感じわるく振る舞っているのがわかるからだ。初めはシマウマを温かく見守っていた婦人たちも、この婦人に引きずられて、ついに銃撃のフォーメーションをつくる。そして、片目を隠してみえないようにして、シマウマの悲劇をやりすごすのだ。最後は、尊大な婦人にも、後悔が多少は芽生えたのか、今度は、片目を隠すパフォーマンスに呑み込まれていくのであった。

結局、こうした意味合いが徐々に作品を覆っていくのであって、なにかを機にして、突然、事が起こるわけではない。高橋のパフォーマンスは、そのことを私たちにハッキリと物語ってくれた。

レインの場面で、私はもう、堪えきれないほどの情動に包まれた。雨が降り出し、数人が最初に去る。そして、まだ残っていた者のうち、ひとりが突如として斃れる。みんなが驚いて、顔を向けた。そこから去る者、残る者の生存競争が始まる。必死の想いで踊られる美しく、エレガントな踊り。この場面の象徴として表現される、手足をいっぱいに使い、跳ねるようにして走る踊り手の姿。それらが、序盤の和やかな踊りと関連してみえることが重要なのだろう。

だが、名刺代わりの動物たちの踊りは、いつも、その動きの厳しさに比例して緊張感のあるものとして受け取られるというわけではない。例えば、テキサスのカンガルーネズミの場面では、ネズミ自体は「あ~あ、かったる~」というような怠惰な若者の姿を表現しているのであって、そのダラダラとつづく、かえって大変な動きのタフさが客席に伝わることはない。否、伝わってはならない。だけれども、しっかりとした動きをとっていれば、その印象は後半のクライマックスで明らかに呼び覚まされるのだ。私たちはそれまでにみたピースのなかから、思いがけない美しい動きのもとを発見して驚く。そういう点で、私はまだ、この作品を隅から隅まで観たような気はしていないが、本来、驚きはもっと豊富で、多彩なはずである。

そのことに気づいたのが、今回、いちばんの収穫である。

【E=mc2】

三本立てのなかで、ビントレーが2009年に英国で発表した”E=mc2(乗)”は、新国におけるプレミエ(つまり、日本初演)である。作品はアルバート・アインシュタインの特殊相対性理論の帰結となる有名な方程式を題名とするが、実はデヴィッド・ボダニスがその方程式の成立めぐって、各要素にわたってアイディアを広げた著作に基づいている。音楽はオーストラリアの作曲家、マシュー・ハインドソンに委ねられた。この人は一応、クラシックの分野にいる作曲家とみてもよさそうだが、その範囲でクラウドな特徴をもっている。音楽的には一種のシンフォニーのような構造をとり、「4楽章」構成で、「エネルギー」「質量」「マンハッタン計画」「光速の2乗」が描かれ、最後に小さなコーダらしきものがつく。

このうち、「マンハッタン計画」では和服を着た祭司のような人物(女性ダンサー/湯川真美子)が現れ、核爆発をイメージする轟音の下で扇の舞を披露する。これは日本特別仕様かもわからないが、ワールド・プレミエから引き継がれているのだとしたら、明確に、世界で唯一の核兵器による被爆国である日本を意識したものである。

全体の動きが、それぞれのテーマとどのように関係するかは俄かには読み解くことができない。私は相対性理論も計算抜きで、さわりを習っただけであるし、ボダニスの本も読んでいないからだ。だが、全編を通して、重く強烈なスケルッツォであることは誰にでも理解ができる。ビントレーは作品をいたずらに衒学的にするのではなく、アクション自体にはスポーツ・アスリートの動きを取り入れるなどして、『ペンギン・カフェ』と同様に、人々がその知的レヴェルにあわせて作品を受け取れるように工夫をした。2008年夏に北京五輪がおわり、いよいよロンドンへの準備が始まるという社会的背景も影響しているのだろう。ただし、「エネルギー」の主要モティーフを構成する動きはスピード・スケートの滑走をイメージさせるものであり、ビントレーの発想は自由である。

ほかの演目に比べて、会場からの反応は鈍いが、多くの観客は難しく考えすぎていないだろうか。幸い、私には音楽における「スケルッツォ」という発想がある。それはトリッキーで独創的なアイロニーを含む諧謔的な音楽のことを指すが、その原型は大抵、何らかの舞曲に基づいており、意味よりも動きそのものを楽しむことに第一義がある。メヌエットと比べて、僅かに自由なユーモア(形式)を追うというにすぎない。”E=mc2”もそのような作品であり、無論、その深部には重い意味が隠されてはいるものの、作品自体はすこぶる娯楽性が高いものとして見ることができる。そして、これまでのビントレーの作品と比べれば、かなりパワフルな作品であり、男性の力業が目立つように思われた。その意味で、「エネルギー」を踊った福岡雄大の役割が重要である。

新国の男性ダンサーには力強さが欠けており、一方で、スピードや知性に優れ、組織力が高いのは世界に誇れる長所といえる。その個性を生かしてビントレーは『アラディン』や『パゴダの王子』をつくったが、やはり、男性ダンサーの頼りがいのある支えが育たなくては、カンパニーの本質的な発展はない。ビントレーはこの作品を導入することで、男性ダンサーたちにひとつの課題を突きつけたのかもしれない。そして、やればできるもので、この日の福岡などは日本人ばなれしたマッチョな演技で魅せたのである。低空で米沢を「浮かせた」アクロバティックな動きは、これまでの作品にはあまり見られなかったもので、特に印象が強かった。

音楽自体は、明確にクラシックの分野に根差しているものの、その発想はビントレー同様に自由なものである。「質量」のところだったろうか、下向のグリッサンドが多用され、エネルギーの不思議な動きを象徴するものとして使われているが、その技法のイメージはかつての用法と比べれば、ずっとポップなものになっており、一言でいえば、美しい。このこぎれいさが踊りのポップな新鮮さと結びついて生きており、唯一、現れる上向のグリッサンドが絶妙のアクセントになっていたり、ビントレーの卓越した音楽センスを物語っている。

ただ、「マンハッタン計画」の場だけはアコースティックをほとんど使わず、スピーカーで轟音を聴かせるばかりだ。それによってダンスの可能性はきわめて狭められており、そのことが、核開発計画のグロテスクさを示しているようであるが、また、同時に、音楽のないところに踊りがないことをも示している。この音楽は、人間が制御できない力の象徴である。

初演にもかかわらず、新国バレエ団は、この作品を力づよくワガモノにして踊っていた。だが、質量の女性トリオそれぞれの役割などは、まだ煮込んでいく余地もありそうだ。ここにビントレーは主役級の踊り手を3人(小野絢子、長田佳世、寺田亜沙子)も起用しているのだが、その意味がよくわからなかったのである。

【凄いものをみた】

いちばん最初に演じられた、お馴染みの”Symphony in C”については、取り立てて述べることもないが、凄い出来だったと思う。この作品は高いモチベーションを維持した、質の高い踊り手が各層に必要であるが、新国バレエ団はその条件をハッキリと満たしているのだ。日本にはバレエをこころから愛するダンサーたちが数多く育っており、彼らはその才能を磨いて次々に列についているのだが、彼らがバレエのプロフェッショナルとして成功できるチャンスは残念ながら、非常に限定的である。そのなかで、新国の存在が彼らのための、夢と希望の部分を担っているのは間違いない。

一体、世界じゅうのどこのバレエ団が、これほどの弛緩のない演技を見せてくれるだろうか。この高貴なる夢が、なるべく長くつづくように、私は願うばかりだ。

最初、キャスト表を見ずに鑑賞したが、第2楽章の女性ダンサーは大胆でリスキーながらも、精確なアクションで、正に教本の如き素晴らしさだと思った。その人の名前をあとで確認すると、小野絢子となっていた。さすがである。彼女が身を任せるパートナーは厚地康雄で、このコンビはやはり、現在の新国では非常に目立つコンビだ。第4楽章の本島トレウバエフ組もダイナミックなパフォーマンスで、アンサンブルを引っ張る役割を果たす。この2組が、現在の新国の顔であることは言うまでもない。

これらの「スター」を柱に、稽古場を覗きみるような”Symphony in C”の舞台が、明らかなプロフェッショナルな舞台として輝いたのは、バレエ団の実力だ。総じて速いテンポを選び、音楽的感興はすこし弱まるが、キビキビとした動きをこれでもかと凝縮させ、最後のコーダでは圧倒的に観客のこころを頂点まで高揚させた。カーテンコールは短すぎるくらいであった。

ビゼーの音楽はもうすこしフォークロアに寄ったものであり、その点、耳で聴いているものと目でみているものの間に、まったく齟齬がないわけではないが、それはそもそも、バランシンの振付に見られる問題点なのであろう。しかし、新国バレエ団の踊りはそのバランシンの踊りを限界まで尖鋭化したものであり、それだけに、ビゼーとの開きが際立つ。このようなパフォーマンスをみると、バランシンが本質的には、フランス民族楽派としてのビゼーを十分には理解していなかったことに気づかされる。音楽家の一家に生まれ、音楽と舞踊の関係を重視すると言われるバランシンでさえ、ビゼーは簡単には征服できない作曲家であったともいえる。

だが、一方では、このように考えることもできる。この作品は、もっと「のんびり踊らなければならない」。

いずれが正解か、わかったものではない。しかし、ひとつだけ言うことができるのは、たとえ、どれほど深刻な音楽解釈的な齟齬があるとしても、今回のパフォーマンスは明らかに優れているということだ。凄いものをみた。そして、どれだけ深い伝統を重ねたカンパニーの公演であったとしても、この演目で、今回以上のものは、なかなか望めないであろう。

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