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2013年6月10日 (月)

ヴィオラ・スペース2013 「ヒンデミット」 ~弦楽四重奏曲全曲演奏会を中心に 5/25-5/29 記事Ⅲ

【世代を越えた成長】

2009年に東京国際ヴィオラコンクールの第1回がおこなわれ、チェリストとして唯一、審査に加わった堤剛氏の発言は、私を一生、追い立てるように思えてならない。周知のように、現在の堤は日本でトップのチェリストであるだけでなく、教育者としては桐朋音大の学長、さらに、日本で最高のホールとも目されるサントリーホール館長を務めており、もはやなにかを学ぶような立場にはないと思わせる。だが、一般聴衆にも開放された記者会見の席で、堤は自分を含む音楽家は、常に成長しつづけねばならないと発言したのだ。これは恐ろしい言葉であり、多くの人たちを震え上がらせることだろう。

そういえば、今井信子女史も弟子に稽古をつけたことを、しばしば「一緒に勉強した」という。これは言葉の飾りではなく、今井の音楽的な姿勢と本質的に関係している。ヴィオラスペースの趣旨のひとつには、教育という言葉が挙がっている。だが、それは例えば、安倍総理やその側近が口にするような「教育」とは、根本的に意味が異なっているようだ。政治家たちの発想には国民を自分たちに都合よく・・・敢えて、彼らの言葉でいえば、国益に適ったようにつくりなおすために教育があり、一方で、彼ら自身のなかに欠陥があり、自分たちのほうに成長する余地があるという視点は皆無である。一方、ヴィオラスペースというイベントは、教えるほうにむしろ、成長の余地が大きいという発想で成り立っているように思う。

例えば、今井信子は秋に予定されているリサイタルで、ヴィオラ以外に、ヴァイオリンで1曲弾くことになっている。こんな発想を、彼女以外の誰が思いつくのであろうか。世代を越えた成長・・・これが、2013年のヴィオラスペースのメインテーマだ。70歳になっても、今井は成長しつづけたいと願う。それがなくなったら、音楽家としては成り立たないのである。今回のディレクター、アントワン・タメスティもヴィオラ奏者として、不世出の天才であるばかりではなく、その可能性をいつも使いきっているような音楽家だ。そんな彼も、この趣旨につよく賛同する一人のようだ。ヒンデミットの(op.11-4)でみせた、新人のような演奏を思いだせば、そのこころがわかるであろう。

5月29日のガラ・コンサートにも、そういうメッセージが詰まっていた。まず、前座として、記事Ⅱのように2組の学生クァルテットが、ヒンデミットのSQツィクルスを締め括った。

次に、ガラ本公演の最初に登場したのは、バーバラ・ブントロックである。ブントロックはヴィオラスペースが新たに備えるようになった教育システム、コンペティション第2回から出現した才能であり、自身も既に、リューベックでは教職についている。彼女は日本に着いたその日、26日の公演でヒンデミットの(op.31-4)の無伴奏ソナタを披露、ガラではヘンデルのファンタジーを弾いた。その音色はコンペティションで感じられたときと同じくふくよかで、同年のコンペで優勝したカン・ウェンティンと比べても、落ち着いた表現のコントロールの持ち主だ。条件の悪かった日曜日も、ガラのヘンデルでも、ともに、安定したフォルムをじっくり演奏し、聴く者を夢心地にしてしまう。

ちなみに、この日の曲目では、「幻想曲」が意図的に多く選ばれている。幻想曲は比較的、自由な発想の生かしやすい形式であると同時に、古い時代の音楽への尊敬を示し、そのイディオムを取り込む意味でも使われてきた。今年のイベントのテーマ作曲家であるヒンデミットには、直接、『幻想曲』と題された作品はないものの、幻想曲をつくる作曲家の精神は、そのままヒンデミットを示唆するイメージとなるかもしれない。また、この日のメインで演奏された『白鳥を焼く男』なども、ヒンデミットによる大規模な幻想曲とも言い得るものであった。

【ジュリアードSQの継承について】

成長とともに、継承はクラシック音楽にとって永遠の課題だ。変わりつづける時代に対して、音楽がどのように継承されるべきかについては様々な発想があり、例えば、現在、ウィーン・フィルの第1コンサートマスターを務めるウィーン音楽の絶対権威、ライナー・キュッヒル氏の師匠であるフランツ・サモヒルは、今日、偉大といわれる弟子を多数、育てた一方で、広いホールに対応できる音楽語法を広めたことは、ウィーン音楽の大事な伝統の一部を切り崩す結果になったと言われることがある。ジュリアード弦楽四重奏団にとっても、その悩ましい問題がいま、喫緊の課題になっているようだ。

ジュリアードSQは周知のように、NYにあるジュリアード音楽院の教授たちによって創設され、教育と演奏の両面で歴史的な役割を果たしてきた。2011年に第1ヴァイオリンがニコラス・イーネット(短期間で去った)からジョセフ・リンに交代したが、ほかのパートは皆、ベテランが席を守っている。そのなかで、ローズ氏がこの夏で引退。後任に、かつてタカーチQのメンバーだった人物が選ばれているそうだが、中継ぎ的な人事に思える。ジュリアードSQは音楽院の教育と密接に結びついているので、メンバー同士のウマが合わなくなっても、解散というわけにはいかず、空席をつくることも許されない。だが、ベテランのメンバーとリンのような世代では、サモヒル門下とそれ以前を比べるよりも、はるかに溝が大きいようだ。

ヒンデミットの二重奏曲断章を演奏したローズと、チェロのジョエル・クロスニックの音楽は、非常にのんびりとしている。ジュリアード音楽院の所在地はNYで、米国メトロポリタンを象徴するような生き馬の眼を抜く派手なイメージもあるのだが、その本質として守られてきたものは、実は、もっと大らかなものなのであった。2人は世界のジュリアードSQのメンバーとして威風堂々と弾くというよりは、そこらにいるような音楽好きな爺さんとして演奏するのだ。そして、その飄々とした音楽のなかに、不思議と垣間見える音楽の厳しさに身震いを覚えた。作品は10分もないもので、何の派手さもないものだが、あとのモーツァルトと比べれば、私はこの断章の演奏において、30年以上も共演してきたジュリアードSQメンバー2人の真価をみたように思うのだ。

それと比べれば、ジョセフ・リンは「神聖なる愚者」である。確かに、彼の弾く第1ヴァイオリンは何の曇りもなく、鮮やかな技巧で、世界の誰にも引けをとらない。だが、これに先立つデュオの演奏を耳にすれば、彼がベテランのメンバーにより多くのものを学ぶところがあるのは否定できない。だが、世界の最先端を走り、リンのような新世代の天才が放つ響きの際立ちを、アンサンブルのなかで、いかに自然な形で生かしきるかということも、ジュリアードのアンサンブルならば考えなければならないことなのだ。ローズ氏は単に高齢のためというよりは、こうした努力が結局、実を結ぶことはないという諦観のなかで、SQを去るように思えてならない。リン自身がどうこうというよりは、時代そのものが、自分たちのような音楽に飽きてしまったのではないのか・・・。

そうはいっても、今井信子を第2ヴィオラに加えたモーツァルトのクィンテット第5番(K.533)は、それなりに素晴らしい演奏であった。まず、チェロのクロスニックが、なんでも知っているお爺さんのように語りだす。ほかのメンバーがそれに寄せて、静かに歌う。このチェロの役割から、私は最初に『コジ・ファン・トゥッテ』のアルフォンソ、やがて、『魔笛』のザラストロを思い起こした。そのメッセージは謎めいていながら、不思議と明晰なようでもある。この原イメージから発想を膨らましていくモーツァルトの機知を聴きながら、私はより後世の音楽にイメージを広げた。

リンはアンサンブルのなかで、あまりにも浮き上がっている。それは第1ヴァイオリンの使命でもあり、ある程度は許容範囲だが、しばしば、その鋭すぎる響きはアンサンブルのなかで孤立していた。だが、そのおかげで、このヴァイオリンが未成熟なキャラクターを意図的に演じていることはわかりやすい。これは、『魔笛』でいえば、タミーノの役割である。そして、熟練のマイスターが未熟者を育てるという発想は、後世の音楽のイメージでいえば、例えば、ワーグナーの作品に何度も出てきた構図だったと思いつく。ワーグナーの作品はロッシーニやドニゼッティをはじめ、イタリア・オペラのつよい影響下に生まれたと思ってきたが、それ以前にモーツァルトをつよく愛することに始まっていたのかもしれない。

【重ね合わせ】

こうした重ねあわせの視点でみれば、ヒンデミットの場合、バッハとワーグナーについて、非常につよい憧憬を感じることができる。メインで演奏された『白鳥を焼く男』では、ワーグナーの『マイスタージンガー』の素材を模した旋律が、調子を外してパロディ的に出現する(ように私には聴こえた)。今回のイベントでは強調されなかったものの、ヒンデミットのワグネリアンぶりはよく知られたところであり、そのイメージがこういう形で風刺的に出現するのも刺激的に思われる。「白鳥」といえば、ワーグナーの『ローエングリン』や『パルジファル』などで重要な素材となっているが、音楽的モティーフは『マイスタージンガー』のものを借用し、これらの作品のもつ本質を端的に示しているのも興味深い。素材となった民謡自体についてはよく知らないが、その題名は『あなたは白鳥を焼く男ではありませんね』というものであり、これは、パルジファルが神聖なる白鳥を射た愚者として出現するのとネガポジの関係を連想させ、多重的なアイロニーを含んでいる。

ときに、いま申し述べた作品に共通するテーマは、何も知らない愚か者が神的な啓示や奇跡から力を得て、超人的に成長するところにあるように思えるのだ。昨今の演出では、エルザはローエングリンの存在から何も学べない、見てくれの馬鹿娘として描かれることが多いが、ワーグナーの本意は、エルザが自らの馬鹿げた疑問を克服し、重大な過ちを経て、神(最後に奇跡的に復活する弟、ゴットヴァルト)と一体化するという秘蹟を示すことにあった。ほかの2作品は、より成長と直接的に結びついている。このような作品を、タメスティが桐朋の学生で編成されるオケと演奏しようと思ったのは、もちろん、偶然のことではない。

この作品は前日のメイン、『葬送音楽』とも無縁ではないようだ。この「葬送」には無論、祈念的な意味と、祝祭的な意味の両方がある。つまり、この作品がつくられるきっかけになった英国への演奏旅行中、国王ジョージⅤが亡くなり、その追悼のために急遽、用意されたのがこの作品だ。元来、演奏が予定されていたのは『白鳥を焼く男』であったと言われ、いま、申し述べたようなパロディ作品であることから、機会に相応しくないと判断されたのだ。なおジョージⅤは本邦の皇室とは縁が深く、昭和天皇が師のように慕い、今上天皇の養育に際しても範として示したという生粋の帝王だ。ここでも、二重三重に「教育」というキーワードが関係しているというワケ。

ヨーク・ボーエンの『幻想曲』もヴィオラ4本という編成から、実際の演奏については、ヴィオラの師匠と弟子3人というシチュエーションが容易に想像できる。この連想は近年のヴィオラスペースで、デイルの同様の作品が演奏されたことから来るものだったかもしれないが、それだけではない。私はある部分から、この作品を師匠がある弟子について、初めて訪ねてきたときのていたらくから鍛錬を重ね、すこしはマシになっていく過程をうたったものとしてイメージしだしたせいである。その「部分」とは第1ヴィオラの佐々木亮が、突拍子もない調子外れを弾く部分である。

思えば、この演奏会では「調子外れ」も多かった。

4番奏者というか、これといちばん離れた場所に菅沼準二がいて、ベースを図太く支えている。佐々木のファーストがストーリーテリングをおこない、まずは突拍子もない調子外れを弾く。誰もが、初めはこうなのだ。キイキイ言うだけで、マトモな音は出ない。そこから開放弦ができるようになり、まだ粗っぽかったヴィブラートが上手にかけられるようになり、高い音もきれいに出るようになる。弦の演奏を学んだことがある人なら、この音楽の面白さがもっとよくわかるだろう。菅沼の演じる師匠はそれをずっと見守っており、時々、見本を示したりしながらやってきたのだ。先輩の徒弟たちも、ときに合いの手を入れたりしながら、新人も立派に演奏ができるようになっていく。響きが静まり、夜の場面。徒弟はそうなっても、まだ努力を止めない。暗くなっても稽古を怠らない徒弟の姿が描かれて、最後、凄いコーダがついておわらないところに、作品の味わいがある(つまり、徒弟はあくまで徒弟のままでおわり、静かに響きが切れる)。

佐々木、菅沼を中心とする4人のアンサンブルが、こうしたメッセージを非常に端的に表していて、私はこんな作品にもかかわらず、不覚にも涙を禁じ得なかったのだ。こうしたテーマを追いながら聴いていくヴィオラスペースは、いつにもまして表情ゆたかなものであった。

【ダブル・メイン】

その後、「注文の多い主催者のための華麗な転換」を挟んで、ダブル・メインとなったフンメルの『幻想曲』と、ヒンデミットの『白鳥を焼く男』は、それぞれに味わい深い特徴があった。オーケストラはいずれも、原田幸一郎の指揮による桐朋の学生オーケストラ。先日、河村幹子のリサイタルに参加していたチェリストの松本亜優も、トップ・サイドで弾いている(彼女がサイドだから、トップはさらに凄いという桐朋のレヴェルの高さ)。まず、コンペティション優勝者のカン・ウェンティンによるフンメルは、確か、昨年も着ていた赤いドレスでの演奏となり、継続的なイベントのファンを少しばかり喜ばせた。ブントロックとは異なり、カンは華やかな響きを持ち味とする生粋のソリスト・タイプで、前年よりも格段に成長している姿を確認できたのも嬉しいことだ。

既に言及した『白鳥を焼く男』では上手にオーケストラを集め、下手に大きくスペースを空けて、ハープのみを独奏者の下手側に配置。ヴィオラ独奏が放射状の隊形を支持するポイントに立ち、非常に凝ったポジションでの演奏となった。第2楽章で伴奏をするハープのほか、木管楽器にも優れた学生が多く、タメスティもそうした若い人からインスピレイションを貰って、発想ゆたかな演奏をした。26日に弾いたソナタにおいても、ピアノの有吉亮治を徹底的に弾けさせ、「君がなにをやろうと、僕が支えるから大丈夫だ」という前提で、アグレッシヴな演奏に徹した彼である。私は従来、タメスティは理知的に、ショーケースのなかから音楽を救い出して活き活きと生まれ変わらせることの天才だと思っていたが、それ以上に、一回的な演奏の生命感に価値を置くアクティヴな音楽家でもあった。

このほか、ヴィオラ・ソナタ・ツィクルスなどにおいても、重要なパフォーマンスがあったし、この上野学園大学界隈のことについて書きたい気もするのだが、そのことは割愛したいと思う。

とにかく、ヴィオリストみんなが尊敬するヒンデミット記念の年に、彼をテーマにして行われたヴィオラスペースは本当に面白かった。継続、継承、成長のサイクルで、このイベントがより価値を高めていけるように願いたいと思う。今回、今井信子に加えて、タメスティという柱を置けたことは、きわめて重要なことだった。この体制が来年はどのようになるのか、私にはわからないが、彼のような存在がイベントの質を高めてくれるのだということは実感した。タメスティ氏には、こころからお礼を申し述べたいと思う。

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