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2013年6月20日 (木)

フェリックス・アーヨ ヴァイオリン・リサイタル ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」 ほか with マルコ・グリサンディ(pf) 6/14

【現代の音楽事情】

最近の音楽を聴けば聴くほど、古い時代の音楽への憧憬はいよいよ強くなる。私がせいぜい、ここ十数年で醸成されたクラシック音楽のファンであることを思えば、これはノスタルジックなものの見方ではないはずだ。せかせかした深みのない表現や、現代の便利なシステムのなかで、2、3日でぽんぽんと製造されていく多消費型の表現には、一時、満ち足りた感じがしたとしても、だんだんと飽きが来る。それは我々の生活スタイルや、経済原理に従った自然な形ではあるのだろう。だが、もし、そうだとするなら、私はそうした人間のカタチに飽き足らないのだ。せめて芸術の世界では、もうすこしノンビリと、余裕のある表現に接したい。音楽のはなしなら、尚更のことである。

知恵は、いくつかある。単に古いものをそのまま守るのも貴重なことだし、音楽監督や首席指揮者が長くトップに君臨して、プローベの最初に関係をつくる手順を省くこと。あるいは、もう、そうした人間関係を捨てて、音楽だけに集中することだ。ベースとして、技術的な水準は圧倒的に高くなり、世界的な教育水準もめいめい高まった。いまやアジアや中南米からも、質の良い人材が大量に供給されており、欧米での地盤沈下を埋めているのである。だが、そうしたグローバリゼーションのなかで、重要なものが失われていく構造はなにも、社会・経済の問題に限らない。生産の効率化が企業利益を押し上げ、安価な製品を市場に送り出す一方で、労働者の賃金の低下や生活水準の劣化を引き起こす状況は、芸術の分野でも、やはり同じような価値観と現象を生む。

いまや、西欧の若者は容易に、音楽家の道を志さないという。オーケストラのメンバーであっても、尊敬されるのは、ようやくアカデミーで重要な位置(教授職など)を占めるようになった人たちだけで、あとはブルーカラー扱いだ。日本では、オーケストラの団員をしているだけで、ひとつの道を究める専門家として敬われるが、本場の欧米ではむしろ、そうした敬意は得られにくい。だから、欧米の音楽家は口を揃えて、日本のオーディエンスは素晴らしいという。所詮は労働者と低くみられもしないし(注:労働者は低い身分とは言ってない)、ハリウッド・スターのようにバカ騒ぎして祭り上げることもなく、まだ、芸術家として音楽家を敬うという正常な文化が残っているからだ。

とにかく、私はこの分野に本格的な興味を抱き始めて十数年の間、いろいろな音楽家に接してきたが、いちばん強く、こころ惹かれるのは、難しい曲の練習には何ヶ月もかけ、その結果として、とても穏和で温かい音楽がつくられた、そんな時代の息吹きを感じさせる人であった。エリシュカやハウシルトのように、冷戦期の特殊な状況のなかでつくられてきた、高度に管理された音楽のなかにも魅力がある。だが、その魅力を発揮するには、音楽に対する深い奉仕のこころがなくてはならない。最悪なのは、ただ整然として立派な響きだけがあるような音楽(セミヨン・ビシュコフ)や、もはや、いかなる向上心も感じられない自由気ままな音楽(クラディオ・アッバードジュゼッペ・シノーポリ)だ。

イタリアの名門アカデミー、サンタ・チェチーリア・アカデミーで育てられた優秀な卒業生たちで構成されたイ・ムジチ合奏団は、そういうところからは、まったく遠いところにいた。無論、私はその往時を知らず、録音に頼るのみだが、彼らの音楽は、ラテン系特有の自由さと明るさを十分に湛えながらも、絶えざる向上心に支えられた音楽の厳しさも同時にもっていた。その創設メンバーで、リーダーでもあったのがフェリックス・アーヨである。1933年生まれのスペイン人で、ロー・ティーンで早くも音大で名誉ディプロマを得たという天才だが、彼の探求心は常に前進をつづけ、ついに、バロック時代の弦へと行き着いた。

この日の演奏では、ガットなどは張ってないかもしれないが、音楽の本質はマテリアルのみに左右されないということは明らかだったろう。グスタフ・レオンハルトはバッハをピアノで弾く愚かさを指摘したし、ニコラウス・アーノンクールはモダンに改造した「古楽器」の問題点を鋭く指摘したが、たとえ、それが正しい知見だとしても、ウィレム・ブロンズの弾くバッハは本物であり、フェリックス・アーヨの弾くヴィヴァルディにも間違いはない。アーヨは、頑固一徹のガーディアンとして振る舞うよりは、新しい世代ができる形で、音楽の本質を守り、かつ、伝えていくことに人生を賭けた。そういう彼からみて、週末までおこなわれ、審査副委員長として関わった仙台国際音楽コンペティションには、どのような想いがあったのだろうか?

【こころを映す鏡】

彼がリサイタルの最後で示したのは、ジョン・ウィリアムズの音楽でさえ、彼のこころを映すための「鏡」としては十分だという事実である。映画『シンドラーのリスト』のテーマに浮かぶ、青臭いヒューマニズムのなかにも、彼は真実があると主張した。それは多分、最初に演奏したメンデルスゾーンと関係があるのだろう。メンデルスゾーンは、ユダヤ人の家系に生まれ、差別に苦しみ、彼の父親はついに改宗することを選んだ。そして、ユダヤ人のファミリー・ネームを捨てるという証拠に、メンデルスゾーン=バーソルディと名乗ったのである。ナチスの時代ほど異常な虐殺がなかった代わりに、差別が社会全体に当たり前のこととして浸透していた厳しい時代であった。メンデルスゾーンはそうした時代にいつか、雪解けが来る日を願って、苦労人の使徒を扱ったオラトリオ『パウロ』を生み出した。

一方、アーヨが生まれたスペインは彼の出生した1930年年代の半ばから、狡猾にもナチスに与しなかった代わりに、ドイツやイタリアよりも長くファシストが君臨する国だったのは周知のとおりである。アーヨの父母がどのような立場にあり、その息子がスペイン内戦の時代をどのように生き抜いたかは知らないが、少なくとも、母国で安心して生きることはできなかったはずだ。フランスを経て、イタリアに出ているのだから、彼本人は音楽の才能に恵まれていたが、やはり、一家は大変な苦労をしてきたのだろうと推察できる。

こうして描かれたのは、アーヨの人生そのものであったのかもしれない。だが、映画『戦場のピアニスト』で主人公のシュピルマンが、ピアノを弾くことでドイツの将校にいのちを救われたように、アーヨ自身には天から恵まれた要素もあった。その幸福を、彼ほど聴き手と率直にわかちあえた音楽家も珍しいのではないか。この日のリサイタルも、そんな幸福で会場が満たされた。渋谷区の生涯学習施設「文化総合センター大和田」のさくらホールは若干、ヴァイオリン独奏には広すぎるとはいえ、その幸福を感じるには十分な場所だ。では、幸福はどのように生まれたのだろうか。

【もうひとつの答え】

まず、最初のメンデルスゾーンが見事なものだった。私はこれをメインの位置にもってくると思っていたので、最初、プログラムをみたときには驚いたものだ。だが、これからどういうことをするかを示すためには格好の材料が、冒頭に配置されたのだともいえる。その音楽はリンクの録音で聴けるような、このような格調の高いものというよりは、もうすこし親密な、書斎で覗きみる秘蔵の原稿のような味わいをもっていた。無論、アーティキュレーション等には、既に練り込まれた完成があるのだが、さらにゆったりした表現の落ち着きが感じられた。ベートーベン的なタッタララーというリズムを柱とする響きも、より薄く、涼やかに響く。だが、それは決して、「枯れた」響きなどではないようだ。彼の場合、そういう音楽を大昔からやってきた気がする。そこに、ただ戻ってきただけのことであろう。

このフラグを過ぎれば、音楽は徐々に過去のアルバムへと遡り、メンデルスゾーンは彼の憧れていた伝統との対峙に時間を使うようになる。それを示すグリサンディ(pf)による対位法の表現は、3年前よりもずっとスムーズだ。最初のテーマに戻り、その懐古的な意味がいよいよ明らかになる。ここで私は、(op.4)という作品番号を思い出した。7月が来ると傘寿になるというアーヨが今回、取り上げたのは、いずれも作曲家の初心を表すような作品ばかりである。彼はコンペティションに合わせて、前回もこの東京コンセルバトワールの主催でリサイタルをおこなっており、次回があるとすれば、日本の別の招聘元の特別な努力でもない限り、2016年のことになるだろう。そのとき、83歳の彼が次回の審査を引き受けるかを含め、次があるかは誰にも予断が許されないが、そんな彼が示したメッセージは「初心忘るべからず」であった。

メンデルスゾーンは、モーツァルトに並ぶような天才タイプだった。その「天才」という意味は、本当なら、よく勉強して成熟した物知りの音楽家や、その道にふかく親しむインテリ貴族やブルジョアジーだけしか知らないはずの秘密を、既に幼いうちから体得していたということである。作品番号4は習作と見做し得る1920年の作品につづき、1925年に2つ目のヴァイオリン・ソナタとして書かれたが、それはフェリックスがまだミドル・ティーンにあったころだ。しかし、その時代には既に、今日、名品として知られる3つのピアノ・クァルテットと、名品のオクテット、生前は発表されなかったにしても、これもまた、今日では十分に芸術的な佳品として扱われる13のシンフォニアがすべて書かれていたし、次の年には、あの単純にも、無限のファンタジーに満ちた劇付随音楽『真夏の夜の夢』の序曲となる作品すら書かれていたのである。

アーヨは素材を噛みしめ、その時代に相応しい慎重な弓さばきで、音楽のメッセージを丁寧に紡いでいった。前回は「上げ弓のアーヨ」と書いたが、今回、そのことは強調するには及ばない。だが、その繊細な楽曲のコントロールにもかかわらず、弓づかいはいつも表情に満ち、ダイナミックだ。そして、弓が動けば動くほど、表現は静まっていく。どういうことだろうか。そのことについて堂々と展開するほど、私にヴァイオリンの奏法が具体的にわかるわけではない。

すこしも腕前は後退していないが、3年前よりも相手の響きに耳を傾ける時間は長くなり、技術的に平易な曲を選んでもいる。それはあるいは、ヴァイオリン学校のニーズによるものかもしれない。旋律線はよりオペラのアリアにちかくなり、その流れは以前の穏やかさと比べても、さらに天国に近づいたようだ。それは、前半の2つのソナタのそれぞれ緩徐楽章において、特徴的に感じられる。フィナーレはアーヨ自身、先の録音などではちょうどフェルメールの絵のように、より秘めやかなロマンスを感じさせてミステリアスに弾くこともあったのに、この日の解釈では、もっとシンプルな響きの芸術に徹している。

巨匠は、示しているようだ。答えは、ひとつだけではないと。

【安らぎと静けさが示すもの】

ベートーベンのソナタ第5番「春」は、メンデルスゾーンよりも直截に、先人の知恵と向き合った作品のように思える。この作品のなかではベートーベン自身のほかに、バッハとモーツァルトがゲスト出演しており、彼らは主にピアノの響きのなかに現れては、ベートーベンの伴奏をするのであるが、その役割はしばしば反対にもなっていた。こうした特徴をアーヨとグリサンディはきわめてクリアに表現しており、キャラクターの捉え方にはすこしも紛れがない。アーヨの演奏は前曲と同じく、非常にシンプルなものだが、ベートーベンらしい強い響きがロングトーンで出現する際には、2往復、堂々と大きく弓が動いて、聴き手をハッとさせるようなこともある。また、響きが細かく短調に振れる際などには、音色がぐっと深くなって、これも私たちを油断させない原因のひとつとなっていた。

とにかく、アーヨの演奏はよく集中して、注意ぶかく聴いていないと、知らないうちに、自分が地獄に落ちてしまったような、そんな目に遭いそうな感じを抱かせる。響きがマイナーに切り替わったときなど、モーツァルトが開発した手法を駆使して鮮やかな転調が起こるまで、聴き手はしばし身じろぎもせずに音楽を受け止めるよりほかにない。そうした仕掛けが、彼の演奏には無数に存在する。そのなかで、もっとも効果的なのは、バロックの響きを呼び覚ます、ということだ。一口に「バロック」といっても、それは「歪んだ真珠」というのが語源になっており、つまりは、様々な要素があるということを示している。アーヨはそのなかで、今回、安らぎや静けさというものに焦点を当て、そこから愛情や信仰という、人間にとって必須の感情を自然に引き出すようにした。

だから、彼の演奏を聴いて、こころゆたかで、美しい聴き手ほど、その鏡である音楽に照らされ、よりふくよかな世界を感じることができたはずだ。私などより、もっとゆたかにその音楽を受け取った人がいるのは間違いない。その安らぎのなかに出現する、スケルッツォの響きなども本当に見事だ。短いが、これほど歯切れよく、凝縮した響きも、そう聴けるものではない。そして、この粒立ちから得られるのは、ロンドー・フィナーレとの幸福な「結婚」だった。再びバッハやモーツァルトの支えを受けて、ベートーベンが歌い出す。ここで、はじめてフォルテが出るような気がする。それほどに、アーヨの音楽は奥ゆかしく響いていた。

【優しく、親密な美学】

後半の音楽は、いわゆるヴィルトゥオーゾ・プログラムに属するものだが、アーヨの音楽は根本的に変わるものではない。フリッツ・クライスラーの音楽ですら、彼が感じさせるものは限りない安らぎばかりである。本来は3曲をつづけて演奏する意図も見えたが、オーディエンスのアプローズに対して、1曲目でグリサンディが起立してそれを受けたのを機に、アーヨはその構想自体はキッパリ捨てた。だからといって、どうこうということではない。

リヒャルト・シュトラウスは、この流れのなかで、どのように演奏されたのであろうか。その特徴は、ルバートにある。言うまでもなく、ベートーベン以来、ウィーン音楽の魂ともいえるものはルバートのなかにあった。その伝統は薄れるどころか、どんどん深耕されて、いわゆる「白銀の時代」までつづいた。もしかしたら、そのあとの時代においてさえも・・・。そして、いまやヨハン・シュトラウスを象徴にして、広く世界に知れ渡っているほどなのだ。だが、フェリックス・アーヨの価値観においては、ルバートはそう簡単に見せびらかすものではない。そこで彼はポジションを工夫し、川底にある岩に腰掛けるようにして、構造全体を受け止めるのである。

この工夫によって、我々の知るリヒャルト・シュトラウスの作品は、そのイメージを大きく変貌する。楽曲のもつ華やかさはそのままに、よりシンプルで高貴な造形が浮かび上がるのであった。しかも、それは人々のこころを寄せつけない孤高の美ではなく、もっとゆったりした親密さを覚えさせる。初期作品としてのガチャガチャした部分が研磨され、後世のシュトラウスを思わせる力強く分厚いロマンスが顔をみせるのだ。ただし、それは副産物であり、アーヨの意図は実に、この作品がバロック期の発想に基づいていることを示すことにあった。第2楽章はインプロヴィゼーションであり、率直であるがゆえに古い形式だ。それは歌曲のような雰囲気でもあり、多重的な思惑が感じられる。多分、アーヨはその歌曲のような部分につよい警戒感をもった。

例えば、ヤッシャ・ハイフェッツはこの曲を熱烈に歌い上げることで、作品の奥にある若い作曲家のエネルギーを爆発させようと試みた。多分、仙台でコンペに挑んだような若いコンテスタントたちも、大抵はそういう表現を選ぶのだろう。だが、アーヨがみているのは、ベートーベン「春」で描いたような世界だ。そこにあるのは安らぎの世界であり、若さに任せた情熱ではない。終楽章でより大きな情熱を輝かせるとしても、それさえも、アーヨの音楽にとっては、まだ安らぎに満ちている。それでも、ロンドー・フィナーレともなれば、ピアノのラインは既に、相当のエネルギーを押し出してはいるものの、重音を駆使した終盤のアクションを含めて、独奏の落ち着きは決して崩れない。ただ、ピアノの響きの温まりを常に、ヴァイオリニストは感じている。それだけでいいのだ。応じる必要はない。

以上のように、アーヨの音楽にはいつも筋が通っている。逆にいえば、彼は自分が生かしたいと思う音楽の持ち味と、逆に、これだけはやるべきでないという美学のうえに、そうした筋書きを組み立てているのだ。そして、そのこころは、のんびり、じっくりと組み立てる伝統音楽本来の美しさに通じている。ヴィオラスペースの場で、ジュリアードSQの古いメンバーが示したのと同じような、優しく、親密な美学だ。

フェリックス・アーヨとマルコ・グリサンディの表現は、こうして幕を閉じた。もはや、誰もがアーヨの音楽に魅了され、その温かさの前に首を垂れるほかなかったのである。だから、言わんこっちゃなかった・・・応えはひとつではない。巨匠が示したのは、たったひとつの定まったカタチではない。むしろ、これからも煮詰めていけそうな、古くて新しいやり方だ。これぞ、クラシック音楽というべき表現だろう。最近、私はようやく、デイヴィッド・ボダニスの著書”E=mc2”を読了した。それを読むと、大抵の学者たちは、年齢を重ねるにしたがって新しい発想ができなくなるものだということがわかる。だが、音楽の世界においては、このような例外が多いのも事実だ。80歳の老人が、まだ先に出ようとしている。その原動力となっているのは、非常に安らかなエネルギーなのであった。

【プログラム】 2013年6月14日

1、メンデルスゾーン ヴァイオリン・ソナタ op.4
2、ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」
3、クライスラー ウィーン風小行進曲/シンコペーション/愛の悲しみ
4、R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ op.18

 pf:マルコ・グリサンディ

 於:渋谷区文化総合センター大和田

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