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2013年6月28日 (金)

ミヒャエル・ザンデルリンク ベートーベン 交響曲第6番&第5番 ドレスデン・フィル @所沢 6/23

【オーケストラに希望を与えるミヒャエル】

ミヒャエル・ザンデルリンクは、名指揮者であった故クルト・ザンデルリンク氏の遺した3人の息子のなかで末弟に当たる。次兄のシュテファンと同様、後妻の子で、生まれたとき父親は50歳をすぎていた。母親のちがう長兄のトーマスと、同母兄のシュテファンは指揮者となったが、ミヒャエルとは将来、あわよくば共演もしたいとの腹積もりだったか、チェリストの道を進ませた(親父が勧めたのか、自分でそういう道を選んだのかは正直なところ、なにも知らない)。ミヒャエルはその道である程度の頂点をきわめ、ドイツの伝統あるオーケストラで首席奏者を務めたりし、アカデミーでも教授職を得るほどだった。そのミヒャエルも、2001年からは指揮者としてのキャリアをはじめ、もう十数年になるが、その道でも才能があるのは明らかなようだ。

2人の兄、トーマスやシュテファンとは、明らかに異なるタイプである。彼はよりモダンで柔軟な指揮スタイルをもち、相手を活かすということを第一に考える。兄たちのように、ドイツ本流の響きを守るという視点はいつも忘れないが、反面、いつも少しずつなにかちがう視点を見つけたいと願っているし、また、同時に、それをどれだけ効率的に客席へ伝えるかという視点も忘れない。三兄弟のなかでは、目下、シュテファンの守る響きの高貴さには及ばないが、ミヒャエルには、それを補って余りある閃きでオケと客席を同時に魅了する力がある。

この日、指揮したドレスデン・フィルは、ミヒャエルがポストを得た最初のフル・オーケストラということになるが、着任は2011年でまだ日が浅い。これまで、オーケストラはヘルベルト・ケーゲル、ミシェル・プラッソン、マレク・ヤノフスキのあと、2004年からラファエル・フリューベック・デ・ブールゴスが率いて、多彩なベテランと組んでやってきたが、新しい首席指揮者はまだ50代にも届かない。そのせいか、彼の肩書には、歴代のシェフたちのように「芸術監督」がついていないのである。

キラボシの如き名匠たちの努力にもかかわらず、1870年生まれ、東ドイツの工業都市にある古豪は、往時のレヴェルを維持しているとはとても言い難いだろう。マズアやケーゲルが活躍した時代のような、一糸乱れぬ響きの輝かしさはなく、ベートーベンともなれば、日本のトップ・オーケストラでも、もうすこし自由が効きそうなぐらいだ。管楽器はみな、名手だが、アンサンブルの緊密度は局所的にあやしく固まる以外では、十分な相乗効果を生んでいない。弦を含め、聴きあおうとする意思はみられるものの、そのレヴェルが低いと言わざるを得ないのである。

だが、そんなオーケストラに、ミヒャエルは明らかに希望を与える存在だ。器用ではないものの、このオーケストラは音楽家のこころを感じ取る能力には長けており、それを素直に客席に伝えようとする点では非常に真面目である。どこか日本のオーケストラにもちかい特性をもったドレスデン・フィルの演奏は、結局のところ、指揮者の個性によって、クオリティが決まってくる面も強い。そして、ミヒャエルが指揮者であるとき、彼らの力は自分たちの想像以上に高められたものとなるのだ。

【緩徐楽章とスケルッツォ】

ベートーベンの交響曲第6番は、とても表情ゆたかな演奏である。オーケストラに関しては序盤、あまり芳しい印象をもたなかった。アンサンブルとしてのまとまりに欠け、縦は揃わず、響きも全体的に雑なところが目立った。最近の指揮者には、こういう感じで、オーケストラに任せて、自分が責任をとらない傾向がある。しかし、ミヒャエルの演奏では同時に、2つの点で聴き手を喜ばせる特徴がある。1つは南仏的な明るい音色であり、もうひとつは、急にボーッと燃え上がるような機敏で、燃焼度の高い響きだ。つまり、これらのものは裏表であろう。ラテン系の響きは、プラッソンや前任者のフリューベック・デ・ブールゴスの時代に培われたであろう、サウンドの記憶を呼び覚ますようかのようで、ミヒャエルも、そうしたものを上手に表現のなかに取り込んでいることが想像できる。

ベートーベンが汽車に揺られて向かった先はドイツの田舎ではなく、プロヴァンスの避暑地だったのであろうか。

だが、第2楽章、森の風景はさすがにお国ものの味わいがした。最後の鳥の鳴き声などは、この3人だけでどれだけ練習したんだろうというぐらい、響きが生きている。細かいニュアンスに満ち、繰り返される2回とも少しずつちがいがあって、オシャレなうえに生命感に満ちた響きの呼び交わしだ。この場面に限らず、ミヒャエルはこうした場面で、聴き手の耳目を自然に「ソロ」へ向けていくことがうまく、その秘密は多分、テンポをそれと気づかれないような滑らかさで、少しずつ遅くしていくことにあると思われる。といっても、リタルダンド、ポコ・ア・ポコ・リタルダンドではないのだ。ディミヌエンドでもない。もっと静かに、速度が奪われていくのである。

これと並んで印象的なのが、スケルッツォだ。全体的にはオーソドックスな表現になっているが、ちょっとしたリズムの扱いなどが実にコジャレており、響きの厚みなどが良い具合に嵌まってきて、こればかりは、日本のオーケストラで出すのは難しそうなニュアンスばかりだ。のちに述べるような第5番終楽章に象徴的な、タフな響きと並んで、このオーケストラがもっともドイツらしい一面を輝かせた部分である。

嵐のところなどは、あとの第5番から比較すれば、大分、軽めに切り上げている。ここで聴き手を威圧し、恐怖で押し込めておいてから、安らぎで解放するという、いかにも東ドイツ的なシナリオではない。ミヒャエルがより重く描いてみせたのは、むしろ、最後の楽章の「牧歌」の美しさである。ロンドー主題を重ねるごとに純化していくような、感動的な終楽章と比べれば、その前の部分で空騒ぎしないことが、いかに大事なことであるかがよくわかろうというものだ。この楽章ではベートーベンの深い信仰心と、古い音楽への敬意がハッキリと示されている。それに素直に従えば、音楽は自然と優しく、雄大で、潤いに満ちたものとなるはずだ。ミヒャエルは明らかに、その秘密を知っているとしか思えなかった。

【過去と将来に対するイマジネーション】

この信仰心というものも、やはり、ドイツのオケでは特徴的で、最近、テレビ放送されたマリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響によるベートーベンでも、顕著に、響きの味わいのなかに溶け込んでいたものだ。だが、このドレスデン・フィルはもっと素直に、そのメッセージを語ることができる。彼らはその点、非常に開け広げで、秘密がない。ドレスデンのオーディエンスは、そんな彼らの演奏を聴きたくて、世界的なオーケストラ(SKD)があるなかにも、ドレスデン・フィルの存在意義を認めるのであろう。

私がこの作品から即座に思い浮かべたのは、メンデルスゾーンの交響曲第5番である。「ドレスデン・アーメン」を引用したこの曲を、地元オーケストラがどのように演奏するのかは興味ぶかい。僕が招聘元なら、こんな風にプログラムを組むのに...

1、ワーグナー 舞台祝祭神聖劇『パルジファル』前奏曲
2、メンデルスゾーン 交響曲第5番「宗教改革」
3、ベートーベン 交響曲第6番「田園」

空想はともかくとして、このようなテーマが、やはり、ベートーベンのなかに隠れているということである。古典派~ロマン派作品において良い演奏のひとつの条件は、その作品から同種の、別のアイディアが思い浮かぶということである。ベートーベンをやる場合は、より古い要素としてはバッハ、ハイドン、モーツァルトを中心とした直接の「過去」が浮上するが、あまりにも偉大な足跡を残した巨匠だけに、過去よりは、その後の作曲家たちが残すことになる様々な将来に、より大きなイマジネーションを広げることができる。

ミヒャエル・ザンデルリンクの場合は、こうしたメンデルスゾーンへの敬意と、もうひとつ、イタリア・オペラへの決定的な影響を感じさせる。なるほど、客寄せパンダ2頭を連ねた公演で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を取り上げて、ギリギリ妥協しているのは偶然ではないようだ。イタオペに関していえば、先の放送でみたヤンソンスの公演では、より元祖にちかいロッシーニのイメージが喚起されたのに対して、今回の演奏会ではやっぱり、ヴェルディのつくるような音像が浮かび上がってくることが多かった。いずれにしても、ベートーベンは偉大なのだ。彼の音楽には、その後に追究された数百年の音楽の歴史が閉じ込められているわけなのだから。

【ミヒャエル・ザンデルリンクのやり方】

そうしたイメージとともに、ミヒャエルの音楽づくりは僕のイメージによく合っていることが重要となる。否、「僕のイメージ」は無論、何程のこともない下らないものにすぎないが、それでも、僕は質の良いものだけを食べて育った豚のようなものでありたいとは心掛けているつもりだ。つまり、私が理想と思うような巨匠たち、彼の父親やドレスデン・フィルの歴史からみれば、遠い先輩にあたるヘルベルト・ケーゲルや、あるいは、ウィルヘルム・フルトヴェングラーといったような名前が紡いできた音楽と、彼の演奏は基本的に深く関係している。だが、ミヒャエルはそうしたなかで、必ずオリジナルの発想を入れることも得意だ。

そこが、兄のトーマスやシュテファンとは異なっている。ファゴットの吹く旋律が異様に太く浮き上がって、滑らかに位置を占めたりたり、(第5番では、)全奏の華やかな展開のなかで、ヴィオラ・パートが思わぬ支柱を堂々と構成して、あっと言わせるようなことがよくあるのだ。「田園」はそもそも豊富なアイディアに支えられた表情ゆたかな作品であり、ミヒャエルのもつ、こうした発想の逞しさを遺憾なく発揮させるには十分な味わいがある。

その点、第5番はあまりにも単純だ。そうした作品においてはまだ、多分、兄のシュテファンに敵うものではない。オーケストラの特性もあり、その演奏はいささか真っ直ぐすぎたところもある。ただし、その真っ直ぐさが、第1楽章では非常に効果的でもあったのだ。ミヒェエルは、きっちり裏で振る。オケは決して、それに従ってはならない。ベートーベンはこうやって、指導者などに従ってはならぬと言明しているのだから。英雄的な指導者への幻想は、既にナポレオンでコリゴリだったし、その上、今度は甥の養育に対して自分自身が指導者として墓穴を掘った。彼は人々が、自らの力で育っていくよりほかに、神の偉業は達成されるはずがないと確信したのだ。だが、その想いを無理にも徹底しようとすると、今度は裏から相手を縛ることになりかねないではないか。井上道義が9人リレーの、大晦日交響曲連続演奏会でこの曲をやったとき、あるいは、そういうことになっていたのかもしれなかった。

ミヒャエルは、別の道を採る。つまり、これをベートーベンの理想どおりに実現するためには、オーケストラが自分たちで自分たちを律するという態度が絶対不可欠なのである。ミヒャエルはそれをつよく尊重して、あまりに不安定なところだけ、上手に支えるようにした。

美しいのは、またも緩徐楽章である。この楽章を中心に、要所でファンファーレが鳴りっぱなしで、音楽が常に国歌のようであり、殊更、愛国的なものになってしまうのは、先日のバイエルン放送響の放送でも感じられたし、こういうことは当該の作品においては、よくあることなのだ。全体の構造をしっかりつくり、そこに生きる呼び交わしをきれいにイメージし、実現することでしか、こうした問題は解消されない。ミヒャエルの音楽では、こうした面は非常に繊細である。特に、木管楽器がアンサンブルをつくるときにフォーカスを定めるときの工夫は、既に書いたとおりだ。こうしたものを応用しながら、全体の均整を保ちながらも、作品があまりにマッシヴな特徴をもちすぎることには警戒した。

そうはいっても、第4楽章ではそのような心配は要らないだろう。この楽章では、ドレスデン・フィルが自分たちらしさを徹底的にアピールできる機会となった。無論、「らしさ」はひとつではない。例えば、「田園」で出したプロヴァンス風の明るい響きも彼ららしさを醸し出しているし、そのことは、SKDとモーツァルトの協奏曲を録音したピアニスト、ペーター・レーゼルの証言とも一致する(雑誌『レコード芸術』2013年7月号)。しかし、この場所(ドレスデン)においては、いかにもドイツ的なマッシヴな作品を堂々と演奏できる基盤も同時に重要であることは変わらないはずだ。ベートーベンの交響曲第5番終楽章では、明らかに、その面で期待に応えるオーケストラの響きが聴かれたのである。

どれだけ負荷を強くしていっても、なかなか管の響きが潰れないのである。これはドイツ的なワーグナー演奏、あるいは、ブルックナー演奏において欠かせない特徴だ。反面、アンサンブルのムラも十分に目立った。このあたりが、オーケストラの限界点を示しているのであろうとは思うが、しかし、もうすこし細密に詰めていく時間があったなら、まるきり克服できない問題でもなかったかもしれない。いずれにしても、こうした粘り腰のタフさをみることは、ドイツのオケを聴く楽しみなのであろう。

【まとめ】

なお、管楽器はトップが2曲で交代し、コンマスとともに、ターン・オーヴァー性をとっていた。これらのうち、あとから出てくるメンバーのほうが、多分、技術的な裏づけはしっかりしており、アンサンブルの精度も高い。コンマスも、「田園」のほうのやや若いコンマスは合理的で、小さな動きを中心にボウイングを組み立てていたのに対して、5番でトップをとったコンサート・ミストレスは、ときに大きな動きも取り入れて、古典的なメッセージ性をハッキリさせる弓付けをおこなっていたようだ。オーボエなどは、「田園」の女性奏者と、5番の男性奏者で、そう力量はちがわず、その女性奏者の耳の良さについていえば、楽団のなかでも多分、傑出したものを誇っており、前半のアンサンブルの中心には、常に彼女がいたといっても過言ではないほどだ。一方、クラリネットのトップは、あとで出てきたベテランの奏者のほうがはるかに締まった響きを出していた。

確かに、それほど上手なオーケストラとはいえないが、確たる個性をもっている楽団だ。わが街にこういうオケがあったら、SKDはSKDとして、こちらも十分に存在価値があるのは間違いない。そして、このオーケストラが、ミヒャエル・ザンデルリンクを獲得したのは、きわめて貴重な財産であるにちがいない。この日はオケが早めに切り上げたこともあり、一部の聴衆は粘りづよく拍手をつづけ、ミヒャエルを呼び戻す算段だったろうが、舞台裏の反応は鈍く、楽器のメンテナンスをしていた一部の奏者たちが慌てて下がっていくだけだった。熱心なファンが追いかけたであろうサントリーホールでは、この努力が実ったようで祝着だ。

ドレスデン・フィルと一緒でなくとも、ミヒャエルには、日本にたくさん来てもらいたいと思う。彼の場合は、チェロの弾き振りなんていう選択肢もあろうし、人気者になりそうな要素は十分である。今回の収穫は、ひとえに彼を「見つけた」ことにあるのかもしれない。

【プログラム】 2013年6月23日

1、ベートーベン 交響曲第6番「田園」
2、ベートーベン 交響曲第5番

於:所沢市民文化センターミューズ「アークホール」

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