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2013年7月26日 (金)

ユベール・スダーン 劇的交響曲『ロミオとジュリエット』 ほか 東響 サントリー定期 7/20

【スダーンとフランス】

東京交響楽団の音楽監督を今季いっぱいで辞するユベール・スダーンの四本柱は、モーツァルトを中心とするドイツ音楽、オペラ、現代もの、そして、フランス音楽だ。キャリアをみるとザルツブルクのモーツァルテウム管(+アカデミー)で活動するのとほぼ重なって、フランスの国立ロワール管で長期政権を築いているし、生地のオランダ、マーストリヒトも歴史的にフランスとの関係は深い。オランダの公用語は無論、オランダ語だが、その言語自体、周辺の国々の言葉と関係が深く、ドイツ語、英語、フランス語を同時に話すことができる国民は多い。スダーンがフランスものを重くみる理由はいくらでもあった。そもそも本人が、フランスものに対するこだわりをしばしば口にしている。

彼のフランスものは、私はそんなに多く聴いてこなかったが、2010年に楽団首席ヴィオラ奏者の青木篤子をソリストに演奏されたベルリオーズ『イタリアのハロルド』の演奏は忘れがたいものがあった。今回も、ベルリオーズの劇的交響曲『ロミオとジュリエット』がメインだが、今回は合唱と独奏を抜いた抜粋での演奏となる。

【ルーセルの体現するシステム】

そして、前半はルーセルの交響曲第3番だ。私はルーセルの4つの交響曲を愛しているが、第3番は、ほかのものと比べて、すこしワイルドな特徴をもつ。作品は大指揮者、クーセヴィツキーが北米においてフランスの作品を紹介するなかで委嘱されたもののひとつであり、1930年、楽団50周年のアニヴァーサリーに寄せられたものでもあった。だが、いかにも祝祭的な典雅な形式をとるのではなく、舞曲・・・それも大衆的な舞曲をイメージさせる自由奔放なリズムによって構成している。ここで思い出すのは、例えば、マルティヌーとかヤナーチェクといったチェコの作曲家が、頻りにルーセルの作品を研究していることだ。この影響で、後世のチェコのアンサンブルも、ルーセルの作品にシンパシーをもって演奏していることが多い。

ルーセルという作曲家は、私にとっては、まずもって舞踊と関係の深い音楽家である。最高の傑作は、『バッカスとアリアーヌ』であることは論を待たず、その次に『蜘蛛の饗宴』がきて、いずれもバレエ音楽だ。だが、単に華麗というよりは、ワイルドな味わいをもつ作品なのである。その点で、私は、ルーセルが先に述べたようなチェコの作曲家に対して、影響を与えるのはごく自然なことのように思えるのだ。

ルーセルの交響曲第3番は、「交響曲」とはいっても、提示された主題がどのように展開し、繰り返されて、終結するかという分析にはそぐわない。必要なら、それに当て嵌めて説明することもできるだろうが、それよりは、瞬間瞬間に生成する響きのイメージを大事にしたほうがよい。形式の純化こそが究極の美であると考えるドイツ的な交響曲のシステム、その頂点にあるブルックナーやブラームスの作品、あるいは、モーツァルトの作品とは根本的につくりがちがっているのだ。ドイツ音楽が厳格な韻文詩のようなものであるのに対して、ルーセルの音楽はそれをかなり崩した自由詩の世界につづく、一歩手前である。そういう意味で、第1楽章の奔放さは正に見事だった。この日は足の負傷により、椅子に座っての指揮となったスダーンだが、両手で馬の手綱を操るようにして、この複雑なリズム構造をオーケストラが完全に使いこなせるようにした。

だが、第2楽章以降は、その自由が完全には爆発しきらなかった憾みがある。スダーンの演奏はいつも、予想がつかないが、その原因のひとつは、リハーサルから本番のあいだに「飛躍」があるせいだ。恐らくは、オーケストラの団員でさえ、そうなるとは思いも寄らなかったことが、この指揮者の下では起こる。それが、このルーセルの演奏に関しては、十分、爆発しなかった印象を抱かせるのだ。その原因のひとつとしては座っての指揮を余儀なくされたこととも関係するだろうが、より本質的には、リハーサル終了までに手にした自由が十分でなかったせいだろう。

【ベルリオーズの生み出した世界的システム】

これと比べると、メインのベルリオーズは見事というほかない。皆さんは、ベルリオーズにどのようなイメージをお持ちだろうか。私は映像でみたヤニス・コッコス演出、J.E.ガーディナー指揮による歌劇『トロイア人』(シャトレ座)のイメージがあまりにも強烈で、気宇壮大な感覚、名人的な大神輿のつくり手として感じていた。しかし、スダーンの演奏は、そのような偏ったイメージを、大きく現実に引き戻すものだった。抜粋版として扱う時点で、スダーンにはひとつの腹案があったのではないか。それは90分のフル・ヴァージョンで、歌がつくヴァージョンではどうしても押し隠されてしまう「システム」を明確に描き出すことだった。

現代においても、ベートーベンは非常に根強い尊敬を受けている。多かれ少なかれ、ベートーベンの遺した9つの交響曲、とりわけ、最後のそれに敵わないと感じる作曲家は多いだろう。それに対する自然な反応として、ベルリオーズが登場したのは歴史の必然だ。「ドイツ vs フランス」というナショナリズムによって論じられることもあるが、この作曲家のもつより大きな歴史的意義は、「楽聖」とはまったく別のカタチで存在する、交響音楽のシステムを見事に体現したことにあるだろう。ベートーベンが到達したものと比べれば、ベルリオーズのそれはより古い時代の音楽と関係が深いように思われる。リュリやクープランといったフランスの栄光だけではなく、ヴィヴァルディなどイタリア・バロックの精華、さらに、それがスカルラッティ父子らによって伝播したスペイン・バロックの味わいなども、『ロミオとジュリエット』のなかに聴こえてくるのだ。

スダーンはこの作品を、真の世界音楽として、ベートーベンに拮抗するものとしてイメージさせたかった。それは無論、荒唐無稽な発想ではなくて、ここに書かれた音楽を虚心坦懐に読み込んでいくときに、当然、気づくべき要素だったはずだ。それら多様な要素が、物語(登場人物)の複雑な交錯のなかで巧みに生かされて、自由奔放なイメージを与える。必ずしも、音楽を表情ゆたかに描くことばかりはせず、モーツァルトの論理でシンプルに響きを思い描くことを優先した。「劇的」であることも、そんなに強調はしていない。オペラをみるというよりは、それの演出に加わったドラマトゥルクに話を聴くという感じだった。そのくせ、音楽的な感興は決して乏しくないのである。

指揮者のニコラウス・アーノンクールは著書のなかで、英国バロックについて高く評価し、大陸と比べ、限られたコミュニティのなかで親密に、それだけに静かな環境で受け取られた音楽として尊重している。私はこの日、ベルリオーズの音楽がそれに当たるような気がした。奇しくも英国人のガーディナーがドーヴァー海峡の向こう側で描いたものは、同じ作曲家について、誇張された「愛国心」にすぎなかったのかもしれない。リンクの録音で名指揮者、モントゥーが描いたような輝かしい具体性というものは、スダーンによって見事に抽象化された。「抽象化」とはつまり、作品を室内楽的なシンプルな論理のなかで、細かくみてみるということを意味している。その意図は、見事に当たっただろう。

【性格の穏やかさを下地にしたショパン】

中プロで演奏された、ショパンのピアノ協奏曲第2番は、楽団とは親密に共演を重ねる中村紘子による独奏である。単にショパンがパリで活躍したことによるつながりでプロミングされ、多分に「客寄せパンダ」的な臭いがする演目でもあった。ところが、どうして、意外な名演とはなったのである。

中村紘子はクラシック・ファンの間では毀誉褒貶が激しく、率直にいえば、「毀・貶」が目立つアーティストだ。しかし、多分、いま検索していくと、どうも、2002年のことだろうか、中野ZEROでおこなわれた彼女のリサイタルにおいて、私は彼女の演奏で大変な感動を味わったことが記憶にある。演奏会がおわると、隣席の見も知らぬ老婦人に声を掛けられ、「良い演奏会でしたね!」「まったくです!」と声を掛けあった思い出までが残っている。メインは、変ロ短調のソナタだったはずだ。当時、まだ私は、この芸術にふかくのめり込んでいたとは思えないので、聴き手としての経験の浅さがニセモノを見抜けなかった可能性は否定できない。しかし、世間的な女史への批判に対し、私はずっと、つよい違和感をもっていたものである。

あれ以来、10年以上を隔てて聴いた中村紘子は、やっぱり素晴らしかった。ほかの演目では知らないが、少なくとも、このショパンの協奏曲を聴くかぎりにおいて、彼女が権威ある国際コンペティションの審査員席のひとつを占めるのは、ごく当然のことのように思われる。スダーンのつくる繊細のうえにも繊細なサポートを受けて、中村は作品のイメージを完全に塗り替えるようなパフォーマンスをした。それは驚くほど現代的で、近年のナショナルエディション編纂に関わる成果や、彼女が深くかかわるコンペティションで披露される若きコンテスタントたちによる純粋な表現とも照応するもののように思えた。

ショパンの協奏曲はピアノ部のみが作曲者のオリジナルで、伴奏部には彼の教師たちの手がふかく入っていることがよく知られており、若いころの作品であることからいっても、ややワイルドな表現性で捉えられることも少なくはない。しかし、中村のタッチはラファウ・ブレハッチについて、よく言われるような優しく丁寧なタッチで貫かれており、「グランド・ピアノ」のもつ一種のあざとさを感じさせないので、最近、しばしば試みられているプレイエールやエラールの「オリジナル楽器」によるショパン演奏のイメージまで取り込んでいるように思えた。そして、彼女の演奏では、第1番に比して、より先行して書かれたといわれる第2番のほうが、ショパンらしい独創性に満ちているという解釈によっている。先生たちの入れ知恵は、宗教色を付け加えるいくつかの発想にみられるだけで、すこしも顕著ではない。

そのことは、スダーンの手綱さばきとも関係があるかもしれない。指揮するスダーンの抑えた動きから、私たちには、こんなメッセージが聴こえてくるようだ。君たち(オーケストラ)が目立とうとすればするほど、この作品は醜くなる。自重したまえ。喜んで自重したまえ。そうだ。賢明なショパンの先生たちは、腫物に触るようにして、ショパンの楽譜に手を入れたのである。

特に見事だったのは、第2楽章だろう。歌のラインが細かく揺れ、ヴィブラートがかかっている(ように聴こえる)が、その柔らかな歌いくちは、クラウディオ・アラウアダム・ハラシェヴィッチアルフレッド・コルトーのような歴史的名手にも劣らないほどに瑞々しい。むしろ巨匠たちは、そうしたヴィブラートを敢えて硬くしてポイントをつくったりすることで、ふかい跳躍や、屈みこみをつくり、音楽のダイナミズムを広げようと試みた。これに対し、中村の演奏では、ショパンがいかに、オペラに関心が深かったかを示すようなパフォーマンスになっている。彼自身はオペラを書く機会はなかったが、観客として、ショパンは足しげく劇場に通ったという。そして、多くの同時代人と同じようにマリブランのような名花に熱をあげ、近年では、ショパンによる歌曲も広く取り上げられるようになった。ショパンの書いた楽譜に、過去の巨匠たちよりも精確に従っていることが、このようなメッセージを明らかにするのである。

ルバートは必要最小限しか使わず、基本的にインテンポだが、それがむしろ、声楽的に聴こえる理由のひとつでもある。トリオで鮮やかに浮き立つ、ポロネーズ風の響きの悠然たる美しさ。だが、それも途中で器楽的にいきなり浮き立つわけではなく、大きなアリアを構成する要素として取り込まれている。とはいえ、その印象は最後の楽章で、ショパンの強烈な愛国心となって、甦ってくるものでもあった。この方向の名手としては、フェリシア・ブルーメンタールの名前が思いつくが、ポーランド人らしいショパンの激しい(感情の)起伏を捉えながらも、中村はそれを情熱的に、露骨に彫り上げるのではなく、むしろ、舞曲の快活なリズムのなかに優しく溶かし込むような解釈を採った。

中村&スダーンの表現において、終始、貫徹して描かれているのは、ショパンの穏やかさを下地にしたものであって、それが響きの面では、室内楽的な細やかで、薄く、しっかりしたベースのなかから、ときどき、ふわっと力づよい反応が持ち上がるような音像としてまとまっている。弱い打鍵であっても、いつも響きが明快で、メロディも浮き立って聴こえるのは、そのような秘密によっているのだ。このスタイルを完成するまでには、中村女史の血も滲む苦労が窺われ、プロフェッショナルとして、いまも日進月歩をつづけているピアニストの凄まじさばかりが感じられる。

このプログラムのなかで、ショパンが重点的に扱われたはずはないが、それでも、この成果なのだ。中村が主役になるようなコンサートが組まれたら、一体、どういうことになるのであろうか。是非、楽団に企画をお願いしたいと思った。それも、「定期」のなかでやるべきだ。

【まとめ】

なお、この演奏会におけるキーワード=「システム」という関係で話せば、このショパンの作品はドイツ的なシステムのなかで機能していることで、ベルリオーズ、および、その「後継者」であるルーセルとは一線を画する。ドイツ的なシステムも、依然としてパリのなかに堂々と入り込んでいるのだ。その後の音楽史、例えば、チェコ音楽史に関していえば、ベルリオーズ、ルーセルのラインからマルティヌーやヤナーチェクが生まれ、一方、ショパンやブラームスを強力な媒介に、ドイツ的なシステムはスメタナ、ドヴォルザークのなかに移植されていく。面白いことに、スメタナは音楽家としての下積み時代には、ショパンを得意とするピアニストとして名を馳せた時期もあったというぐらいなのだ。

ショパンはパブリックな(規模の大きい)作品をほとんど書かず、ピアノに作品が集中し、しかも、政治を動かすような権力とも無関係だったことから、音楽史的に過小評価する言論も目立っているが、実際には、このように、後世にも重要な影響を与えている。チェコ音楽にとっては、ショパンの音楽は揺りかごのようなものだ。したがって、チェコには、ショパンのことを重くみて、得意のレパートリーとしているピアニストなども多い。例えば、ラドスラフ・クヴァピルは世界最高のショパン弾きのひとりといっても過言ではないだろう。彼らは同時にスメタナのピアノ音楽に傾倒し、ヤナーチェクをレパートリーのなかに入れ、他のドイツ音楽にも深く通じている場合が多いはずだ。これらの音楽はみな、家族のようなものである。

残念ながら、このプログラムのなかでショパンは不要という同好の意見もみられ、そのことに反対はしないが、この演奏を聴いて、なお、それを言っているのは不見識というほかないだろう。見事な、三題噺であった・・・・・・否、そんな話もいまは止そう。「また夢になるといけねえ」。そうなのだ、落語の『芝浜』も三題噺なのである。ルーセル、ベルリオーズ、ショパン。世界の音楽!

【プログラム】 2013年7月20日

1、ルーセル 交響曲第3番
2、ショパン ピアノ協奏曲第2番
3、ベルリオーズ 劇的交響曲『ロミオとジュリエット』(抜粋)

 コンサーマスター:ニキティン・グレブ

 於:サントリーホール

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