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2013年7月16日 (火)

クァルテット・エクセルシオ ベートーベン:弦楽四重奏曲第7番/ブラームス:弦楽四重奏曲第1番 ほか 東京定期 7/9

【静かなところにいるエク】

クァルテット・エクセルシオ(以下、愛称で『エク』と呼ぶ)の定期演奏会は、東京、札幌、京都のコアな室内楽ファンが集う場所である。ワタシなどよりも、はるかに年季の入った、音楽に理解の深そうなオジサマ/オバサマ方がたくさんいらしゃって、若輩者には肩身が狭いところもある。そんな場所で演奏できるのは光栄なことでもあり、また、同時に、恐ろしいことでもある。彼らの期待に応えるのは簡単ではなく、また同時に、そのこころを長きにわたって掴みつづけることはさらに困難だ。かつて、日本では、巌本真理弦楽四重奏団というアンサンブルだけが、そういう危険な挑戦に勝利しつづけることができた。

私も、そんなオジサマの末席あたりには座っているのかもしれない。近年のエクの活動に十分な満足は感じていたけれど、一歩、古典四重奏団(クラシコ)がときどき出すような(=時々しか出さない)「決定打」には欠けると思っていた。それがこの日、ようやく出たのである。そして、この演奏を達成したということは、エクが新たなステージに立ったということを意味するだろう。

結成20周年を迎えようかというエクには、もう、そこいらの腕利きが集ってもそう簡単には到達し得ないであろう「個性」が備わってきた。腕自慢たちがその素晴らしい才能を競い、4人が打ち揃って懸命に力を出しきったとしても、彼らはその時点ではまだ、エクとはまったく別の方向に行ってしまう可能性が高いのではなかろうか。エクはそんな演奏を聴くと、「昔とおった道」と思うかもしれない。彼らは50mプールを何度もターンして、往復し、その度に、新しい泳ぎのコツを見つけて、技術とこころを絶えず更新してきた。そうして、20年もの年月が経とうとしているのである。彼らの泳法は実に無駄がなく、特にこころの面では、その「若さ」に似合わない。彼らのようなアンサンブルは、世界中のどこにでもあるというわけではないはずだ。

最近、『25年目のクァルテット』という映画が公開されている。予告編等をみて、大筋は想像がついたが、よく調べてはいるものの、この映画の作り手は音楽について、何も知らないのは明らかだろう。「25年」は無論、長い月日だが、映画のように、音楽家にとっては絶望的に長すぎた歳月ではまだないように思われる。エクは進みつづけるだろう。20年目も、25年目も、30年目すら突き破って(東京SQはメンバー交代を挟みながらも44年つづいた)。それが、この団体の掛け替えのない個性だ。そして、いま、彼らはとても「静かなところ」にいる。僕が彼らの演奏に最初に接して、フォローし始めたときからみると、飛躍的にクールな耳を育て、自分たちの居場所をしっかりと見きわめている。そんな演奏だった。

【緊張から優しさ・温かみへ】

この日の気候は、決して演奏に有利ではなかったろう。最高気温35℃。湿度は69%。湿度に関しては、やや高めというに止まるが、楽器に対して優しい状況とは思えない。特に高音の楽器の響きは初め、湿り気を含んだ響きにも聴こえることがあった(特に、ベートーベン)。無論、室内は空調が効いており、音楽たちは楽器の扱いにも細心の注意は払っていようから、それは気のせいであったのかもしれぬ。だとしたら、第1ヴァイオリンの西野は、ここのところの演奏会と比べると、すこしばかり技術的な精度にズレが生じていたと評するしかないだろう。山田の演奏も非常にセンシティヴで、楽器や体を動かすこともほとんどなかった。前回の定期とは、いくつかの要素が明らかにちがっているのだ。

そうはいっても、いかなる悪条件があろうとも、もはや、エクの演奏はそう簡単に揺らぐことのないレヴェルに到達していた。私はちょっとした弾き損ないを得意げに指摘して、悦に入るようなタイプの人間ではない。むしろ、その可能性の中心を捉えるように努力してきた者だ。実をいえば、そんな言い訳も要らない。彼らはちゃんと帳尻をあわせてきたし、なにより、あれだけ静かな演奏で客席を深い安心のなかに置いてしまった。それも、「ラズモフスキー第1番」で! なんということだ!

かつて、エクの弾く「第2番」の演奏によって、私は「今更」ながら、ラズモフスキー・セットのロシア的な性格について気づくことができた。いま、「第1番」の緩徐楽章で、同じようにロシア主題が浮かび上がるのを聴いて、私はハタと膝を打ったのである。献呈されたラズモフスキー伯爵が真の愛国者で、十分に繊細なこころをもつ人だったなら、彼は深い郷愁に打ちひしがれたことであろう。だが、そこで思考を停止してはならない。なぜ、この楽章が、これほど真摯にこころに響くのか、その理由に気づく必要があったのだ。なぜ、エクの演奏によって、この楽章はこれほどに際立っているのか?

ロシア主題の直接的な指示は、第4楽章にある。だが、静かな大地に雪が舞い落ちるような第3楽章のテーマは、既にロシア的である。この楽章は「第1番」をキャラクターづけるのに重要な楽章であり、その演奏姿勢は千差万別だ。感情(と響き)が昂揚する部分では、それ以前から漸次、劇的な高ぶりを示しておいて、力づよく泣かせるのが普通である。だが、エクがこの日、執拗にこだわったのは室内楽ならではの上品さを極限まで突き詰めるということであり、ダイナミクスや内面的なパッションを押し出さずに、静かさをベースに置き、和声の美しさやその連携の神秘をじっくり見せることで、聴き手を納得させることであった。

エクの演奏では、この楽章で想定されるあらゆる誇張とは無縁である。例えば、遅いテンポや、強弱のコントラストによる感情の惹起、過度に甘いヴィブラートなどは意図的に排除されている。それに代わって、彼らは一本一本の楽器が受け持つラインを大切に紡ぎつづけた。全体ではなく、ひとつひとつの響きを感じるのである。逆説的な言い方になるかもしれないが、そのことによって全体の音楽的視野が大きく広がるのだ。「広大な」ロシア主題は、こうした真心によってしか開かれない。雪が降り出し、スラヴの大地が明確なヴィジョンとして我々の目の前に広がるためには、それらのイメージがまず小さく凝縮している必要がある。

高音が集められ、次第に高揚するパッセージも、私たちが普通、それとイメージしているポイントより少し遅れて結集する。このディレイが非常にゆたかな意味をもち、無意味な硬直を解いて、優しいモティーフを形成すると、そこに聴き手は一定のイマジネイションを抱く。そうこうしているうちに、次のモティーフがまことにスムーズに、しなやかに出てくるという仕掛けである。

あとのブラームスでも、エクがやったのは同じようなことだ。より大きな、緊張した響きの凝結を解いて、別の優しく、温かいモティーフへと生まれ変わらせること。それでも、ブラームスの場合は、4本の楽器の一体性がよりシビアに求められる箇所がある。そうした部分まで解体するのは無理なことで、エクだって、そこで無理を押し通すようなバカはしない。クァルテット・エクセルシオには珍しく、「オーケストラ」の響きがした箇所もあって、彼らの読みの深さを示す部分として指摘することもできる。だけれども、エクは同時に、このように言っているかのようだ。それはブラームスの音楽がめざす本筋ではない。ただ、ブルックナーがつまらない対位法の教師につかなければ、自分の音楽を確立できなかったというような、そういう類の寄り道であろう・・・。

最近の演奏では、ラズモフスキー・セットでも、ブラームスのクァルテットでも、あまりにも「緊張」に偏った演奏表現が多いように思われる。なにも、それは最近の傾向ばかりではないが、近年、欧米から輩出される、若くハイテクなアンサンブルは特に、その腕っぷしに合わせて、かなり強引に緊張を強いるような演奏スタイルで、聴き手を圧倒することに夢中になっているようにも見えるのだ。例えば、リンクにつながるゲヴァントハウス四重奏団のような演奏は、伝統的にもごく少数のホンモノだけによって守られてきたスタイルなのではなかろうか。世界的に超有名といえるアンサンブルでさえ、彼らほど粘りづよい演奏を貫くことは難しい。エクは、そうした演奏スタイルに近づきつつあるが、これは凄いことだと思う。

ベートーベンの最後の楽章が始まったとき、ドイツの森のなかに迷い入って、いままで聴いたこともないほどゆたかな野鳥の声に囲まれて、深い感動を味わうといったような美麗な演奏は、こうしてつくられたものだった。冬が明け、春が来たときの感動とでもいうのであろうか。一方、時々くる力強さは、ラズモフスキーの祖国、ロシアの強さを持ち上げるものであり、今度は外交官としての伯爵を喜ばせるのだが、これらの要素が裏表のように張りついているクァルテット・エクセルシオの演奏に深みがある。転調し、響きが高くなるにしたがって、徐々に力強さが増していくけれども、いつも、それをすかすかのように悠々と響くのは、大友の弾くチェロの響きだ。最後の喜劇的な終止に至るまで、こうした多義的で、刺激に満ちた対話がつづく。

【ブラームスの奥ゆかしさ】

ブラームスも、基本的なスタイルはベートーベンのスタイルを踏襲している。より厚みのある書法はところどころに感じられるが、それはむしろ、ブラームスの「若さ」のように描かれていて、エクは徹底して、ブラームスの冷徹なまでの静謐さというところに注目している。この日のエクは、ピアノやピアニッシモにこだわり、それをベースにしたとき、どれほど作品がゆたかに膨らんでいくかという点を容赦なく磨き上げてきたようだ。かといって、迫力不足というようなことはなく、室内楽的なダイナミズムもしっかりと取り出しており、いろいろと同好の士の感想を眺めてみると、人によっては、その点のほうが強調されている場合もあるぐらいだ。

音をデカくし、精力的な演奏をして、バリバリやることだけが演奏の迫力を生むのではないということが、ココからハッキリと見えてくる。むしろ、そうした手法は作品が本来もっている、堂々たる味わいを損なうことになつながりやすく、素材を大切に扱って、自然な抑揚を浮かび上がらせた場合よりも、小さな効果しか生まないものだ。労多くして功少なし。エクの場合は表面上、消費されるエネルギーはきわめて小さいが、それを成り立たせるために背後に隠れているモノがあまりにも濃厚で、私たちを驚かせる。そして、ブラームスという作曲家の本質も、そうした奥ゆかしさのなかにあったと思わせるだろう。

【象徴的なモーツァルトの凝縮】

そうしたものの極みとして、モーツァルトがあることは言うまでもない。モーツァルト初期の作品(いわゆる、ミラノ四重奏曲&ウィーン四重奏曲)を13番まで、エクはこの日をもって、すべて演奏することを達成したという。このあと、モーツァルトはよく演奏される「ハイドン・セット」と、晩年の傑作「プロシア王セット」を仕上げて、この世を去ることになるが、モーツァルトがモーツァルトになっていく過程を、エクは定期という機会を通じて、大事に育ててきた。最終回となる今回に、12番が残っていたのは偶然ではなさそうだ。なぜなら、この作品は次の13番ほど高く評価されてはいないが、「凝縮」というキーワードでみれば、十分に象徴的な作品であるからだ。

私には、この作品は3楽章+簡潔なエピローグという風に聴こえた。その理由のひとつは、エクの弾くメヌエットが非常に多義的な味わいをもっているからだが、しかし、それが十分に意味をもつための条件として、最初のアレグロとアダージョの楽章がともにメッセージ豊富で、充実していることも欠かせない。そして、終楽章のアレグロ・アッサイは、「これから何が始まるんだろう?」というところでおわる。少なくとも、エクの演奏ではそのように聴こえる。これは多分、先に演奏されたメヌエットとの対比のなかで起こる現象だ。そのメヌエットは型通りの舞踊楽章というよりは、なにかオペラの一場面をみる感じになっている。しばしば第1ヴァイオリン=1に対して、他の声部=3で、1:3にグルーピングされるが、「1」は舞踏会を颯爽と歩くドン・ジョヴァンニとか、そんなイメージになってくる。特に簡潔ながらも印象的な中間部を通ると、主部では「1」が「3」とふかく拮抗しあい、『フィガロの結婚』第3幕で、マルツェリーナとフィガロの血縁関係がわかるまでの論争部分のようなイメージで聴こえる。

そして、第1楽章も第2楽章も多かれ少なかれ、このような歌劇のイメージと無関係にはできてはいない。ところが、最後のフィナーレだけは、こうしたものとあまり関係がなく、いわば、歌劇の本筋がおわったあとのバレエ音楽(例えば、イドメネオにおけるバレエ音楽)のような簡潔さが顕著なのである。そして、おわってみると、実は、この簡潔さこそが作品全体を覆うをテーマだったことにも気づくことができるだろう。モーツァルト初期の作品の不思議な特徴は、このように、一見、別のイメージを与えるはずの舞踊部分が、いろいろな形で意味合いを変えていく過程にあったように思えてならない。歌劇のあとのバレエ音楽のように、単に慣習的な決まりごとであるような部分でさえ、モーツァルトの場合は油断がならないのである。

【まとめ】

このように、多様なインスピレイションを与えたエクの今回の定期は、演奏の出来栄えからいっても、私の聴いた限り、彼らにとって過去最高レヴェルの出来だったと言っても誤りではないように思う。この上に、なにか注文があるとすれば、「宗教性」という厄介な代物をいかにして、攻略するかという観点ぐらいではなかろうか。良くも悪くも、現在のエクは敢えて、そこに踏み込む表現を選んでいないように思える。よりパヴリックな分野(つまり、規模の大きな交響曲やオペラなど)に対して、室内楽では表現における、内面的な必然性のなかで宗教が占める割合は比較的、限定的である。このことについては、誰しも納得がいくはずだ。本当に信心ぶかい人は別としても、私たちが1人でベッドに入って、人生について考えているとき、神さまから直接に影響を受けることは、それこそ特別な奇跡でもない限りは、きわめて稀なことだろうと思う。

良いアイディアが浮かび、その啓示を神さまに感謝することはあっても、神さま自体がそのアイディアを与えてくれるわけではない。だが、信仰者がいつもバイブルをベッドの下に潜ませておくように、エクも信仰というものを常に隣に置き、4人はクリスチャンかどうか知らないが、仮にまったくの無信仰だとしても、音楽家として、知り得る範囲の節度だけは一所懸命に守るようにしているという感じなのだ。ベートーベンを弾くにも信仰心は不可欠だが、いま書いたようなレヴェルは守り、きっちり彼の書いた対位法を生かして弾いていれば、天国、あるいは、地獄のベートーベンもきっと赦してくれるのにちがいない。だが、そこにふかい表現を掘り下げたいと願うときが来るとすれば、それはエクがもうこれ以上はないというほど、極限まで行ったあとのことであろう。

僕には、そんなエクも満更、想像がつかないわけではない。だが、いましばらくは、「フレッシュ・アーティスト」としてのエクを応援していたい・・・というのが正直なところである。

なお、4人のポジションは前回、前々回につづき、ヴィオラとチェロが内側に入るスタイルで、ヴィオラが客席側を向いて正対し、第2ヴァイオリンが背中を向ける形である。ヴィオラの吉田は女性ながら、大きなサイズのヴィオラをもち、かつ、それをノンビリ良い音で聴かせることが持ち味なので、この判断はきわめて妥当と思える。彼女をいかに生かすかということが、エクの生命線ともいえるのかもしれない。

【プログラム】 2013年7月9日

1、モーツァルト 弦楽四重奏曲第12番 K.172
2、ベートーベン 弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」
3、ブラームス 弦楽四重奏曲第1番

 於:東京文化会館(小ホール)

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