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2013年7月 3日 (水)

キタエンコ ラフニノフ 交響曲第2番 ほか 東京交響楽団 サントリー定期 6/30

【弦に託されたラフマニノフのすべて】

前回のキタエンコ&東響の組み合わせ、2008年の演奏会について旧ブログから記事を再掲した。前回も名演となったが、その記事について自分が書いたものを読んでいると、東響もこの間に、随分と前向きな発展を遂げたことがわかるのだ。チャイコフスキーを弾くとき、キタエンコの棒に必死でしがみついてクタクタになって、それでも指揮者の棒に応えつづけたあの日と比べると、この日のラフマニノフの演奏には余裕があった。キタエンコの指揮スタイルは、無論、この年、既に60代後半を迎えていたことも考えると、変化の余地はあまりないように思える。チャイコフスキーよりもラフマニノフのほうが尺は長く、演奏の大変さはすこしも変わらない。そしてあの日と同じように、キタエンコは弦にすべての響きのウェイトを賭けることで、音楽の厚みをつくりだしていった。でも、あの日よりも、ずっと表現に自由が増している!

弦の頑丈さが、いまや、格段の成長を遂げたのである。5年前と比べれば、チェロの首席のボウマンが抜けたりしたが、一方で、奇しくも、この日は4月から新しくコンマスに就任した水谷晃が、初めて定期演奏会で楽団を率いる機会ともなっていた。ソロ演奏も美しく、楽団にとって期待の人だが、東響の弦がその実力を遺憾なく引き出されたこのような演奏会で、コンマスの椅子に座れたことは光栄の限りだろう。オーケストラの要は、なんといっても弦なのだ。ブリュッヘンの新日本フィルにおけるリハーサルでも、管楽器に要求を出すことは少なく、ほとんど弦への指示ばかりが目立った。管の人は自分の感性で、自由に吹いて、味のある響きを出していれば、それでいいのだろう。あるいは、管どうしのアンサンブルに、より多くの心づかいをすればよい。

問題はそうしたものを生かし、あるいは、逆に、その響きに生かされる弦の扱い方だ。結局は、オーケストラの半数以上は弦が占めているのであり、その響きがなんと言っても、楽団の演奏を左右してしまうのである。オーボエ、フルート、ホルンなどが「楽団の顔」と言われることもあるが、その場合、弦はボディであろうか。ボディが弱々しく、顔だけが素晴らしく美しかったとしても、それはあまり魅力的なこととは言えないはずだ。人々の本質はむしろ、ボディに表れており、スティーヴン・セガールのように、それだけで表情を示すことができるような役者も存在するほどなのである。

例えば、スダーン&東響の演奏もしばしば、フィジカルなものに譬えられることが多かった。彼の演奏では、東響は見えない筋肉によってつながれて一体化し、指揮者のための大きな身体となって、細かいニュアンスを表現することで、演奏は深い支持を得てきた。キタエンコの場合は、弦がなんでも吸いとる真綿のような働きをする。しかし、その真綿はどんなつよくて逞しい響きをもまともに受けることができ、同時に、どのような優しく繊細な響きをも逃すことはない。筋肉というよりは、こころによって育まれた身体なのである。キタエンコは、この真綿の発する響きの美しさ、魂のつよさにこだわり抜く巨匠であり、それゆえにこそ、弦管のこころの通じ合いというものに重点を置くのだ。

こうして示された重厚で、輝きに満ち、ゆたかなこころを感じる弦の響きに、この日の成功は詰まっていたといえようか。当の奏者たちからしてみれば、自分たちが真綿の働きであるというよりは、もっとリアルに、神輿の担ぎ手のような充実感を味わったのではなかろうか。例えば、ラフマニノフの3楽章では、無論、クラリネットのソロが目立つことになる。だが、私がより心惹かれたのは、そのメロディの美しさではなく、これを拾う巨大なエコーとしての弦楽器の響きが届いてきたときのことである。それは単に、ヴァイオリンとか個別の楽器の音色だけでは表現できない、何かを示していた。その「何か」とはきっと、すこぶる多様で、かつ、多義的な味わいをもつ要素の集合体であり、つまりは、ラフマニノフのすべてであるといってもよいものだ。

キタエンコは木管や金管の個別的な素材を、まず弦に吸わせて内部化し、その高揚を伴ったエネルギーをクライマックスの全奏部分において、幅広く爆発させるという手法をとり、さらに、それが一度の爆発だけでおわらずに、聴き手のなかで凝縮することが大事だと考えているようだ。だから、すべての楽章にわたって、キタエンコの音楽の止め方もデリカシーに満ちていた。

【解き明かされる『すべて』の中身】

ところで、いま申し述べたような「ラフマニノフのすべて」は、作品のなかですこしずつ解き明かされていくようになっている。例えば、第1楽章冒頭(ラルゴ)では、プクプクした泡のような響きが、聖なるものを包み込むような雰囲気を醸しだす。地上と天界の境目で、まだ天上に吸収されない魂がプカプカと浮いているかのようだ。ラフマニノフにおいても、キタエンコが最初に示すのは信仰の神秘、それへの慄きから筆を動かし始める作曲家の姿だった。第1楽章は、そうした精神的支柱の下に織り成された、歌劇やバレエ風のドラマティックな世界である。アレグロに入ると、チャイコフスキーの影響が顕著であり、そのアイディアがどのような方向からやってきたか、誰にでもよくわかる。この歯切れの好いチャイコフスキー的な主題と、息が長く、粘りづよいラフマニノフ的な旋律が並立して用いられ、もどかしい懊悩を断ち切るような勇壮な動きで第1楽章が閉じられる。

第2楽章でキタエンコが示したのは、小さな対位法と、その集合体を用いた単純な実験的(マイケル・ファラデー的)音楽だ。ラフマニノフがここで、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律を用いているのは有名なことだが、むしろ、それをベースに、非常に使いやすい形に凝縮され、大胆な変容を交えながら、とっかえひっかえ使われる対位法的なオーケストラの動きに注目するほうが、実は有益である。その真骨頂はABACABAコーダという典型的な複合三部形式のなかで、その中心に置かれるC部にみられ、また、特に、そこからA部への回帰が起こるときに顕著に観察できる。これは無論、復活的なテーマと無関係ではなく、A部の様相が目前に迫り、それが明確に示唆されるときの音楽的高揚は、なんとも堪らないものである。

第4楽章はギラギラした野心を示すような第1主題(アメリカ的、あるいは、モンテ・カルロ的)が、実は宗教的な高揚に基づくワーグナー的な響き(ローエングリン的)と関連することが、既に序盤から示されているといえる。これらの衝突は、ただちにラフマニノフのピアノ協奏曲にみられるような主題として生成され、衝突を繰り返しながら、核反応のようにエネルギーを増していく。

私がツィッターで紹介したミトロプーロス&ミネアポリス管の演奏では、この衝突運動が、常に僅かなヴィブラートだけで構成されているという点が物凄い。それは精確で弛みないリズムと、常に揺るぎのない機動力、そして、厳しい音程のコントロールなくしてはあり得ない成功だ。しかし、キタエンコの場合は、もうすこし自然な、使いやすいエネルギーをたっぷりと用いるように、東響を導いている。例えば、コーダへの橋渡しになるボロディン的(韃靼人の踊り的)な下降音型では、流星が駆け下るようなミトロプーロスの急速な造形に対して、キタエンコはゆったりと薪に火をくべるような粘りを要求した。

それだから、ついにコーダに入って、管楽器がいよいよ元気よく響きを持ち上げ、「こんなの支えられるのか?」という不安をよそに、神輿を力づよく持ち上げる弦のラインが雄渾な響きを示して、僅かばかり季節を先取りしたミルキーウェイの迫力を織り成すときに、聴き手の感動は最高潮に達するのだ。このミルキーウェイは、最初に戻って、どこかチャイコフスキーの面影を宿しており、それが直ちに、ラフマニノフのオリジナルなものに接続されるのは偶然のことではないだろう。ここでは既に述べたように、すべての楽器の魂を肩に担いだ弦の響きこそがポイントだったが、思えば、これはチャイコフスキーの演奏でも十分に力を発揮するテクニックだ。驚くのは、それほどの働きをしながらも、東響の弦は以前のようにへたってしまう寸前までいくようなことはなく、最後まで堂々たる響きを支えて余裕があったことである。いまや、涙というよりは、笑顔があったのだ。なんと、素晴らしいことであろうか!

【様々な偶然】

このあとに、なにを語るのも無駄なことかもしれない。しかし、イェンツ・ペーター・マインツを独奏チェロに迎えた、プロコフィエフのシンフォニー・コンチェルトについても、多少、関心を向けておきたいと思う。私の行動は、どこかで見えない糸によって導かれている。この作品は、プロコフィエフが革命の喧騒を避けてドレスデンにいるときに書かれた。そうである、ドレスデン・フィルの演奏は1週間前に聴いたばかりだ。ドレスデンは日本人には寒い土地だろうが、孤独なロシア人にとっては「避暑地」のような雰囲気をもっていたのかもしれない。古くからイタリア系の人たちや文化が流入したドレスデンでは、通常、イメージされるようなドイツ的な響きよりも明るく輝かしい響きが主流であるというのは、ピアニスト、ペーター・レーゼル氏の証言であり、これをミヒャエル・ザンデルリンクが彼のオーケストラでハッキリと証明した。

この日のソリスト、マインツと、先日のザンデルリンクが同僚のチェリストとして、あるいは、ボス=部下として、「チーム・メイト」だったことはないようだが、その活躍圏は当然ながら、似通っている。ただ、マインツは、ミヒャエルよりもかなり保守的な奏者である点が異なっていそうだ。マインツはプロコフィエフを弾くにも、その超絶技巧を見せびらかすような演奏は決してしない。むしろ、それに見合っていないと思われたとしても、この作曲家の本質のなかにある静かなものに感性をあわせているのである。彼が音楽に対して抱く信念からすれば、プロコフィエフと、アンコールのバッハではそれほど変わりがないのだ。

無論、常に新しいものを選びつづけたプロコフィエフには、確固とした個性がある。この作品においても、キタエンコはプロコフィエフのすべてをみせようとしたし、青春時代に構想され(協奏曲第1番)、人生の終わりちかくで若いパートナー(ロストロポーヴィチ)を得て書かれた、この作品には、すべてが託されるべき理由もあったのだ。第1楽章冒頭には、既にバレエ音楽『ロメオとジュリエット』で聴かれたような節まわしが聴こえる。この作品では『ロメジュリ』、ラフマニノフではチャイコフスキー『白鳥の湖』の幻聴が聴こえてくるのが、これらは今回のプログラムを貫く要素のひとつだ。

【舞踊的要素との対比としての3楽章】

キタエンコの演奏によれば、この作品は、常に舞踊的な要素との対立によって、何かが生まれてくるようにできている。例えば、アンダンテによる第1楽章は単純な三部形式によって構想され、前半のA部と後半のA部での対比がきわめて重要になる。ここでキタエンコが選んだのは、ダンサーのようなチェリストのアクション(前半)から、響きだけを純化して抽出する(後半)という手法であった。これが象徴的なことであり、第2楽章以降は、こうした対比がより複雑な経路を辿ることになるが、第2楽章などは、舞踊的な要素の「埋葬」がテーマである。「アレグロ・ジュスト」とし、テンポにメッセージを置いた作曲家の意図は明白である。もはやテンポが失われ、舞踊的な動きが完全に息絶えたときに、この音楽の本質が見えてくる。そして、こうした部分においてこそ、マインツの音楽性はプロコフィエフと重なり合うのである。

その本質とは、静寂だ。ドレスデンの特徴が明るさや輝きにあるとすれば、ドイツ全体の特徴は、森の静けさにある。マインツの音楽は、その典型的な美学を示しているだろう。プロコフィエフは明るく、華麗に生きることが好きだったろうが、その性格どおりに音楽を演奏することが必ずしも成功につながるわけではない。むしろ、そうしたものの裏に隠された真実の声を捉まえるべきなのだ。そして、それがこの場合、「静寂」であるというのは、マインツの見事な演奏によって、いよいよ納得がいく。

第3楽章のテーマは、またも「復活」である。ここでは第1楽章のように、陽気で民謡的な舞踊的主題がいちど否定されたあと、もういちど、見事に起き上がる様子が見事に描かれる。マインツはアンサンブルの中心に嵌まって、紙芝居師のように語りつづけた。確かに、技巧的なパッセージはあるが、そうしたものに音楽がすこしも依存していないのは驚くべきことだろう。むしろ、彼が大事にしているのが語りくちである。例えば、ラジオ・プログラムで、本当に優れたパーソナリティがいれば、内容はもはや問題ではなく、その人がなにを言うかよりは、どのように言うかのほうが大事になってくるだろう。例えば、毒蝮三太夫の考え方が嫌いでも、あの喋り方に惹かれる人はたくさんいるわけだ。ただ、ラジオ・パーソナリティと異なるのは、マインツがあくまで、作品を書いた作曲家のこころでメッセージを発していることだろうか。

マインツの語りくちは優しく、滋味に満ち、しかも、きわめて親密だ。少しずつ語り、その味わいに人々はじりじりと身体を寄せてくる。そのような音楽性が根本的に美しく輝くのは、アンコールにおけるバッハのような曲目であろう。彼にその気はないとしても、マインツには聖職者の才能がある。なぜなら彼は、人々の知らない秘密を、誰にでもわかりやすく、丁寧に語り聞かせてくれるからだ。

プロコフィエフにおいても優れたソリストの力を借りて、ラフマニノフ同様、十分に大事なメッセージは伝わってきたが、メインの完成度と比べれば、やはり一歩も二歩も譲るのは止むを得ない。だが、この作品は実のところ、作曲家晩年のイメージを大きく変える可能性をもっている。プロコフィエフは晩年に至って、体調不良のなかでも旺盛な作曲意欲を維持しつづけたが、その彼に多大なインスピレイションを与えつづけていたのは、若き天才チェリストであったムスティフラフ・ロストロポーヴィチである。それは彼の協力を得て書いていたと思われる、いくつものチェロ作品が未完のまま残されていることからも明らかなことだ。改めて、氏の偉大さを思わざるを得ない。

いま、彼らは天国で、仲良く創作活動をつづけているのだろうか?

【まとめ】

東響にとっては、素晴らしく充実した1週間だった。オーケストラにとって大事なことは、良い指揮者を呼びつづけることだと誰かが言っていたが、キタエンコもその筆頭に来る巨匠だろう。アクションこそ激しくないが、アンサンブルをガッツリと把握し、その可能性を限界まで引き出してみせる。可能性を引き出すためには、まず、奏者を自ら目覚めさせることが欠かせない。また、ロシア的なエネルギッシュな巨匠というよりは、ハンス・スワロフスキに習っているように、ドイツ的に緻密な正統派である。だから、僕は彼の指揮で、ハイドンが聴けたら、どれだけ楽しいだろうと思う。だから、次回は、こんなプログラムで来てもらいたい。

空想のオーケストラ・コンサート〈キタエンコ篇〉

1、バッハ/ストコフスキ カンタータ:わが楽しみは狩りのみ~羊は安らかに草をはみ
2、シューベルト 「未完成」交響曲
3、ラフマニノフ ヴォカリーズ
4、ハイドン 交響曲第85番「王妃」

【プログラム】 2013年6月30日

1、プロコフィエフ 交響的協奏曲
 (vc:イェンス・ペーター・マインツ)
2、ラフマニノフ 交響曲第2番

 コンサートマスター:水谷 晃

 於:サントリーホール

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