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2013年7月21日 (日)

準・メルクル マーラー 交響曲第1番 ほか 国立音楽大学 オーケストラ定期演奏会 119th 7/14

【不思議な死】

1884年6月25日、ひとりの青年が低地オーストリアの精神病院で結核により亡くなった。まだ26歳だった。その青年の名前は、ハンス・ロットという。友人となるマーラーとともにウィーンのブルックナーの下で学び、もっとも優秀な生徒のひとりであり、多分、その師にもっとも忠実な敬意を示すワカモノでもあった。一方、そのことを疎ましく思ったブラームスからは冷遇され、精神的な脆さから内面に異常を来してしまう。そして、3度もの自殺未遂を経て、最期は結核に罹患して亡くなったのだ。

彼にとってウィーンの水は決して住みよいものではなかったが、、師たるブルックナーや友人のマーラーからは一目置かれていた才能の持ち主でもあったのである。とはいえ、そもそもブルックナー自身が生涯にわたって不遇だったわけで、マーラーも作曲家としては、同時代の世間の高い支持を得られなかった人物だ。2人はうまく、ロットのことを守ることができなかった。そこで、マーラーはロットの亡くなった1884年から、最初の交響曲に着手する。友人よりは処世術に長けていた彼は、この頃、まだまだ貧しかったとはいえ、指揮者としての地道なキャリアを先行させていた。リーダーなどで少しずつ作曲の経験を積み、それが交響曲にも生かされているのは有名なはなしである。完成は4年後。マーラーの運はようやく、開きかけていた。

マーラーの交響曲第1番は、不思議なムードに包まれている。ロットの自殺を象徴する一発の弾丸のような響き。準・メルクルと国立音大の演奏では、その響きが随所で大きな意味をもつことを強調している。だが、最終的に、その響きは劇的に転換されるし、また同時に、すべての楽節が仄暗く演奏されるわけでもない、メルクルの表情は、非常に明るく作品の快活さを語ってもいるのだ。

ボヘミアでは、葬送の際にポルカなどの明るい音楽を演奏し、踊ったりして、死者を弔う習慣があったそうだ。そのこととも関係するだろうが、マーラーの作品では、「死」を単に暗鬱なイメージでは捉えていない。キリスト教的にみれば、この世との別れは、神の御許へと近づく第一歩だ。マーラーはよく言われるように、「死」に憧れる部分もあり、むしろ先に逝った友人に対して、「お前だけ、イイところに行きやがって!」と言いたいくらいの雰囲気が、例えば、第1楽章の最後ぐらいには聴こえてくるのだ。

だが、「死」という厳然とした事実に、マーラーが無頓着だった訳ではない。メルクルは第1楽章の序奏に、非常に大事なメッセージがあると考えているようだ。センシティヴで張りつめた弦の響き、その上で多少、固めに響くオーボエとファゴットのアンサンブル。天上の厚い雲のようなこの響きをたっぷりとって、すこし裂け目がみえてしまっても平気な顔で、ゆったりと維持するのだ。僕はこうした雲のつくり方にこそ、マーラーの新しさが潜んでいることに勘づいた。やがて、意を決してクラリネットの柔らかな響きが、カッコウの初音を聴かせるが、このクラリネットは本番に至るまで、この部分をどう吹こうかと答えのない問いとトライを繰り返していたにちがいない。オペラの一場面のようなイメージで、朝の風景が広がり、歌曲からの引用’Guten Tag’がたっぷりした響きで、鮮やかに歌われるとき、私は最初のつよい感動を味わった。

なお、この場面は終楽章でもういちど再現され、何事もなかったかのように、まったく元のカタチと同じように繰り返される。この「再建」については、メルクルと楽団が非常にこだわった点のひとつだろう。

【運命の一撃】

これもよく知られるようになってきたが、マーラーはこの作品のなかで、ハンス・ロットがその交響曲のなかで書いた素材をモティーフとして、数多く引用している。彼のなかで、この交響曲は友人との共作のようになっていた。そればかりではなく、ジャン・パウルの難解なドイツ小説『巨人』をモティーフに、交響詩として作曲されたことも知られており、それらのハイブリッドとして作品があるので、解釈はどうしても複雑になる。だが、私はロットのことを前提に作品を読み解いたほうが、シンプルに響きを理解することができると思う。そして、先にも述べたように、打楽器による運命の一撃が、この作品を読み解くためのキーになる。

この一撃は、ダイレクトに銃声を思わせるものだ。無論、それはロットの自殺未遂と関係がありそうである。この銃声の前後では、音楽の緊張感が桁違いに異なっているのだ。例えば、第1楽章の展開部で印象的なホルンのソロがあるが、この響きさえ、終盤の一撃と比べれば、ずっと穏やかに描かれている。一撃は多くの演奏よりもしっかりと保持されて、その後の喧騒を呑み込んでしまう。例のホルンの響きが、前とはまったくちがう様相で鳴らされる。だが、「悲劇」というよりは、先に逝ってしまった友人への怒り・・・というより、「なんで、お前だけが!」というような嫉妬のような感情で、激しい無窮動が描かれるのをみて、私はハッとした。

まず、マーラーにとって、ハンス・ロットとは羨ましい存在であったのだ。第2楽章では、そんな華やかな友人の姿が描かれている。複合的なトリオ形式で、ここでは主部がおわるときに「一撃」が鳴る。トリオは、例の明るい葬送の雰囲気を示すものでもあるが、それでも、まだ、決定的なものではない。主部に戻り、速い流れのなかで2発目が、そして、最後に3発目が鳴る。このあたりの展開も、すこぶる丁寧にすくわれている。思えば、、ハンスは3度の自殺未遂を犯したのだ。第2楽章で積もった感情は、やはり、第3楽章で解放される。女学生によるコントラバス・ソロは幾分、外れた部分もあったが、それをフォローする周りの冷静さのほうが、こうした場面では重要だ。明らかなラクリモサの響きは、どれもこころがこもっている。そのなかで、特に深いアクセントを刻むのは、ファゴットの響きだろうか。この日が新盆のころに当たっていたせいか、向こうからロットがわざわざ訪ねてきて、学生たちの背中を押してくれているような気がしたものだ。

深いルバートなどは使わず、表向き、淡々と進むのが、第2楽章中間部の「葬送」場面を引き継ぐのにふさわしいと言えるだろう。ひとつの楽器からメッセージが拡散し、全体で悼むような響きに発展していく様子が、丁寧に描かれて面白い。時間的には、明らかに夜の雰囲気で、引用される歌曲と対応している。終盤は動きも激しくなるが、楽器が細かくリレーをして旋律が組み立てられていくのが、荘重な雰囲気を上塗りするのだ。そこにあるはずの深い哀しみを消化しきれないまま、緩徐楽章はおわってしまう。だからこそ、終楽章は「怒りの日」だという印象を明らかにすることができるのだろう。ここでは「一撃」が数多く使われるから、そのイメージが拡大されていることがわかる。

だが、友を裁くであろう真の「一撃」はもちろん、ひとつだけで、それはコーダに入るところで、ひときわ厳しく響くそれなのである。ここで初めて、作品は真の明転に入り、マーラーが友人の死とともに潰れていくのではなく、むしろ、その忌むべき「生」を堂々と切り開いていかねばならなくなったことが宣言されるのだ。そして、本当のところ、この部分だけがマーラーにとって「新しい」のである。コーダの響きは、先日のキタエンコとはまたちがって、弦のベースをあくまで支えとしてしか用いずに、管楽器の響きを積極的に動力としたものだ。このバランスで、下が潰れないのがメルクルの音楽の面白さで、その卓越したバランス・コントロールはちょっと、他人では真似ができないものだろう。

【新しい朝】

もうひとつ印象的な場面は、最初のほうにも述べたが、クライマックスの構成が予告され、怒りの日のシーケンスが一通りおわってから、第1楽章冒頭部分に回帰する部分だ。ここで例のカッコウの鳴き声に呼び覚まされて、また新しい朝が来たことに、私たちはハッと気がつく。それまで、あんなに覚めた意識で聴いていたというのに、まるで眠っていたような気分になるのは不思議なことだ。なにも変わらない朝。ただ、ハンスがいなくなったこと以外は! だが、バロック風の響きで、彼が見送られるところは逃さない。つづいて、ヴィオラによる呻き声から対位法で作品が構成されるが、これはブルックナーのシンパだった友へのオマージュであろう。しかし、マーラーはこれをぶっ壊して、轟然と突き進もうとする。その致命的な決断が、コーダの一撃につながるのである。

そして、コーダは学生ならではの凄い響きであった。こうして、ハンス・ロット氏は天上へと戻っていった。

【メンデルスゾーンと細川】

なお、演奏会は、マーラーだけではなかった。このうち、中間に演奏されたメンデルスゾーンの有名なヴァイオリン協奏曲については、対照的に厳しい評価をしなければならない。あれほど美しい響きをもった久保田巧女史にして、どうして、あのような汚い演奏をするのか訳がわからないのだ。私はメンデルスゾーンなら、もっと起伏に富み、自然な息吹きの伸縮による音楽を聴きたいと思うが、オケもソリストも、あまりにも直線的な演奏である。練習量にも限りはあったと思うが、メルクルも、こうした古典寄りの作品に関しては、その素晴らしさを発揮できない難点があるようだ。それがなければ、彼はもっとドイツでディープな活躍ができたであろうに!

最初の細川俊夫『雲と光』は、素晴らしい演奏であった。といっても、そのほとんどは、独奏の宮田まゆみが吹く笙の魅力に依存していたともいえる。私は基本的に、日本人が和楽器を使った曲で、世界に出ていくのは好ましくないと思う。それをやれば、向こうで受けるのは目にみえているし、ある程度、研究を重ね、力量も十分な作曲家ならば、まず失敗はないだろう。それだけに、もしも私がその道を行くなら、別の道を敢えて採ろうとするはずだ。まあ、それはそれとして、この作品は笙がもつ多様な可能性を、宮田という経験豊富な奏者のパフォーマンスによって効果的に引き出すものであり、例えば、音色と和声の多彩さで、アコーディオンとの共通性を感じさせるような部分もあった。また、笙の響きの強さという点においては、これはかなり驚くべきものがあった。オーケストラのトゥッティに対しても、笙は十分に優位を保つことができたのだから。しかも、その響きの優雅はすこしも損なわれずに、である。

準・メルクルは細川作品をあらゆる機会に演奏しており、作曲家とはかなり親密な関係を築いているので、学生相手でも、これだけの演奏ができたわけだ。そもそもこの作品は、PMFが共同委嘱に入った作品であり、それなりに修練を積んだ若者ならば、十分に演奏できる作品として構想されているわけだが、それはそれとして、この日の国立音大の演奏も十分に称賛に値する。

【まとめ】

マーラーを聴いてもわかるように、学生のレヴェルは正直、きわめて高水準とは言い難いように思う。メルクルとの組み合わせでは、何年か前にマーラーの3番をやったのを聴いたが(2006年7月)、そのときと比べても、全体の水準はやや下がったというほかない。そうであっても、メルクルはこのオーケストラから、完全にすべてを引き出した。国立音大の特徴は、日本に常設のオペラハウスがひとつもないなかでも(新国立劇場はそれと見做さない)、オペラを弾くのに役立つような柔らかい響きを重点的に醸成している点にある。多分、そうしたものが音楽の基本的な要素として、特に重要との教育哲学に基づく方針であろう。メルクルは、ドイツの歌劇場でカペル型のキャリアを積んできたので、そのようなオーケストラと息が合うのは当然である。そして、歌劇のなかで大事なことはなんといっても、歌がある部分か、そうでないかに関わらず、音楽の上には常にメッセージが載るということに尽きるのだ。

私はメルクルの指揮で、国立音大のほか、水戸室内管(2004年)、放送ではN響を聴き、録音ではリヨン国立管ライプツィヒ放送響のものなども聴いた。そのなかで、彼がいちばん実力を発揮しているのは、意外にも国立音大のときだった。彼が招聘教授として、年に1回、このようなコンサートの面倒をみるようになったのは偶然ではない。彼らが発する明確なメッセージに、耳を傾けよう。そうすれば、私たちは幸福な気持ちになれるだろう。たとえ、どんな深刻な音楽が奏でられるときでさえ! そして、学校はそうした体験を学生たちが卒業までに、しっかり味わうことができるように、思いきった人事をした。採算度外視のふかい配慮で、教育者としての良心を感じる。

いずれにしても、このようなコンサートに出会えたことは幸運であった。多くのオーディエンスが同じように感じたものか、おわったあとのアプローズは、マーラーの3番をサントリーホールで弾いたときより、ずっと熱烈で長いものになった。コンマスを務めた女学生が頭を下げても、それは一向にやみそうもなかったので、指揮者が再び出てくる。そのあと、さらに2回か3回、メルクルは袖と舞台を行き来しなければならなかった。コンマスが2度目のお辞儀をして、ようやく騒ぎは収まったのである。そんな状況だから、音大の演奏史上に残る成功といっても過言ではないはずだ。ブラーヴィじゃすまない。ブラヴィッシモだ!

【プログラム】

1、細川俊夫 雲と光~オーケストラの笙のための
 (笙:宮田 まゆみ)
2、メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 op.64
 (vn:久保田 巧)
3、マーラー 交響曲第1番

 於:東京オペラシティ

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