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2013年7月30日 (火)

カリニャーニ ロッシーニ スターバト・マーテル ほか 紀尾井シンフォニエッタ東京 90th演奏会 7/26 (初日)

【導入】

先日のスダーン&東響のコンサートでは、ベートーベンの描いた筋道とはまた異なる、フランスの、そして、そこから全世界にわたるもうひとつのシステムがベルリオーズによって大成され、ルーセルによって、さらに凝縮されて世界へ輸出されるようになる、間際の姿までが同時に描かれた。対して、この日、パオロ・カリニャーニが2度目の登場となる紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)で表現したのは、そのベルリオーズと同じくらいの時代に、つまり、ベートーベンの前後に、イタリアの音楽にどのようなことが起こっていたかを示す試みであった。

フランクフルト歌劇場時代の実績が輝かしいカリニャーニは2005年にKST初登場=初来日となった公演で伝説的な成功を収め、芳醇で自由の効いた音の響きもさることながら、マスカーニ、ストラヴィンスキー、ペルゴレージという演目で、イタリア・バロックと新古典主義の時代を見事につないでしまう知性の深さにも高い支持が集まった。その後、カリニャーニは読響や新国立劇場に呼ばれ、二期会の公演も指揮するなど、日本を活動拠点のひとつとして重視しているようだが、私の接するところ、まだ2005年のあのときほど、彼が自由にイマジネイションを発揮したコンサートはないかもしれない。いま、8年ぶりの舞台で、KSTのメンバーにも少なからず変化があるものの、両者の息の合い方はやはり運命的なものと思えた。

【オペラの時代を準備したケルビーニ】

さて、前半に演奏されたニ長調の『交響曲』を書いたルイジ・ケルビーニは1760年生まれで、ベートーベンよりも10年早く生まれ、モーツァルトやハイドンとのあいだに活躍した作曲家だ。代表作には『レクイエム』があり、特にハ短調の第1番(太陽王ルイⅩⅣの死に際して捧げられた)が有名なので、次にカリニャーニが来演することがあるなら、きっと、これをやりたいと思っているにちがいない。なお、ケルビーニは主に舞台作品で評価を高め、交響曲は1つだけ、中期に書いている。後期になると、もうひとつのニ短調『レクイエム』や、弦楽四重奏曲第3番~第6番などを書いており、幅広い分野で、徐々に作品を円熟させていく過程が窺われる。ただし、知名度では中期の作品が優勢であり、これらを決定的に世界へ広めたのはトスカニーニの功績とされているようだ。

このニ長調の『交響曲』は、ハイドン・モーツァルトからベートーベンにつながる交響曲の歴史のなかでは、ミッシング・リンク的な役割を果たすだろう。その作品は古典派のハイドンの系列を受け継ぐものであり、また、のちのベートーベンの作品に聴かれるような素材も見つけられる。例えば、緩徐楽章は「田園」交響曲のようであり、舞踊楽章はもろにハイドン的である。序奏付きの第1楽章も、ハイドンの好んだ形式だ。終楽章では、「運命」交響曲のイメージを思わせる音型や構造の盛り上げが最後に来ており、カリニャーニ自身、KSTに客演できたことが運命的だったと考えていることが窺われるのだが、こうしたところから、後発のベートーベンがいかに、この作曲家をふかく尊敬していたかがわかるはずだ。

多分、「楽聖」のアタマのなかでは、ケルビーニが、師匠・ハイドンの化身のようにみえたのではなかろうか。

ただ、全体的な構造を考えると、とてもドイツ的とは思えない特徴もあるのだ。ベートーベンが見抜いたのは、ケルビーニが同時に、2つのシステムを行き来するときの不思議である。つまり、ケルビーニはコツコツと形式を積み上げながら、限られた主題を緻密にメタモルフォーズさせていくような職人的仕事には向かなかった。彼の生み出す素材はひとつひとつがとても強く、それを贅沢にもぶつけ合わせることで、遺憾なく輝きを発する。素材の組み合わせは非常に大胆で、意外性があった。それゆえに、演奏は非常に難しいといえるかもしれない。まず素材の性質を確かめ、これを丁寧に磨き上げるところから始まり、最終的に、それをぶつけ合わせて、どのような光を得るかを決めなければならない。カリニャーニはそれを、KSTならではの高い「個」と「室内楽的な意識」において乗り越えようとしたが、この試みは見事に成功していた。

こうしてみると、イタリアではベートーベンやベルリオーズのように、それぞれの文化圏で独自のシステムを生み出すような人は出なかったが、音楽の源泉としてのイタリアの地位はなお堂々と保有し、舞曲をベースとした素材の見事な展開法においてはドイツを真似ながらも、一方、そのシステムからの大胆な変形にはフランス的なシステムを導入するという折衷的な姿勢が窺われるのである。こうした手法は正にオペラ的というべきものでもあって、程なくロッシーニが登場するのもいたく自然なことのように思われるのだ。今回の演奏会では、ケルビーニという橋頭堡を構えたことで、ロッシーニの位置づけもまた、わかりやすい。

【所信表明と管弦楽のベース】

その傑作のひとつ、『スターバト・マーテル』に関しては、宗教曲でありながら、オペラティックで劇的な表現性も含まれており、例えば、第2曲で歌うテノール独唱には、宗教作品にはとても似つかわしくない技巧的な高音の見せ場が出現するなど、その表現を決めるには何らかの覚悟が要りそうである。この公演までにカリニャーニが腹を括った解釈は、多分、次のようなものになる。≪イタリア人は、「歌」を愛する民族である。たとえ宗教的な機会であろうと、その好きなものに囲まれていたいと人は思うだろう。ロッシーニはそのこころを素直に掬い取って、仕上げただけであり、宗教曲だからと、卑屈に悲しみや質素ばかりを装うのは演奏者の姿勢として正しくない。声楽を前面に押し出し、オーケストラが丁寧にフォルムを整えることで、「歌」と同様にカソリックの総本山であり、信仰に熱い「イタリア」の特徴も同時に現れるはずだ。ロッシーニも、敬虔なキリスト教徒であった。これらの要素は、作曲家のなかですこしも矛盾しないはずである。≫

カリニャーニ自身も、非常に純粋な信仰心に支えられて生きているのは想像に難くない。それは前半とは打って変わって、この曲を指揮するときの真剣そのものの表情からも窺えることだ。多分、イタリア人一般にとって、ロッシーニのこのような作品は「国歌」のように、こころに響くものなのだろう。ドイツ人が宗教的でないと感じるのとは、まるでちがう感覚が働くはずだ。そして、どちらかといえば、私たち日本人にとっては、ドイツ人よりはイタリア人のそれのほうが理解しやすいかもしれない。合唱団にとっては、どうだったろうか。翌日の2日目のほうが、ずっと良い出来だったという合唱指揮、冨平恭平の証言がある。それを忘れたとしても、私はいくつかの場面で、彼らのパフォーマンスに十分な共感を得なかった。

これに象徴されるように、KSTが公演2日目にすべてを出しきる傾向は変わっていないようだ。限定された準備期間などからみて、それは止むを得ないことで、それでも初日にしか来られない事情があったのだから、それは覚悟の上だった。木管にもホルンにも稚拙な吹き損ないがあり、例えば、オーボエの蛎崎耕三やフルートの一戸敦があんなだらしない響きを出すのは初めて聴く。それでも、私はそうしたものは、すぐによくなるだろうと予感ができた。音色に関しては、カリニャーニも難しい要求をしているのだ。それはバロックの響きになるべくちかくなるように試みようとするもので、オーボエなら三宮正満、トラヴェルソに有田正広とかいうメンバーがいれば、より素晴らしい演奏になったことだろうが、この日のメンバーも必死に要求に喰いついてはいる。

藝大の玉井菜摘をコンマスとするストリングスは、感動的な響きをつくるのに貢献した。透明度が高く、響きに一体感があるのが素晴らしい。この美しいラインをベースに組み立てられた演奏であればこそ、具体的な表情が組み立てやすい。ボウイングは総じてコンサヴァであり、それを通した豊富な言語的意味まで鋭く感じ取ることはできないが、しかし、情熱的に歯切れよく、かつ、丁寧に組み立てられているのがわかり、特に低音弦について非常に活力があるのは、KSTがいまもって、周囲の常設の楽団に勝っていることのひとつといえるだろう。

【個性的な声楽陣の操縦法】

声楽陣は良くも悪くも、非常に個性的なメンバーがそろった。第1ソプラノのラウラ・ジョルダーノは紐のついいてない風船のように、こころがフォルムを突き破って浮遊する歌手で、アジリタは下手だが、独特の可憐さがあるうえに、それに見合うルックスがあるので売れるのだろう。コレを上手につなぎとめるのが、第2ソプラノでメゾのエレナ・ベルフィオレで、彼女のほうがジョルダーノよりも独唱での技術は格段に高く、特に響きを転がすときの滑らかさが際立っている。テノールのフィリッポ・アダミは小柄だが、イタリア特有の明るい響きをもつスピント系のテノールで、第2曲の高音も堅実に決めた。積極的なポジションをとり、前へ前へと出ていく優秀なハイ・テノールだろう。

そして、このアンサンブルにおける王は、バスのジョヴァンニ・フルラネットである。指揮者と同じような立ち位置から全体を見渡せる歌手で、およそジョルダーノとは正反対のタイプだ。同姓のバスなら、ベテランのフェルッチョが有名だが、彼も行く行くは世界有数のバス歌手として活躍するであろう。

カリニャーニはこうした歌手たちを自由に踊らせながら、ほんの僅かなところで、上手につかまえておくのがなんとも巧いのである。彼は基本的に、いちいち歌手を細々とコーチングしたり、どこかへ意図的に誘導するようなタイプの指揮者ではなく、彼らが「行きたいところ」を瞬間ごとに読みきって、安全に走れるように守ってくれる警官のような役割を果たし、かつ、そうすることを愛している。例えば、第2曲の高音に向かうテノールとの対話は、指揮者が歌手からどのようにして信頼を得るかの、見本のようなものだった。まず、基本的に安定したベースをきっちり守り、その上で、歌手と一緒に彼が望む本当のペースへと少しずつ近づけていく。さらに、相手がいちばん気をつかう部分では、さらに僅かながらの余裕をあけて、歌手を安心させることも怠らない。落ち着いて肩の力を抜く時間を得たアダミは、見事な高音をものした!

その分、オケやコーラスには我慢をさせるが、大事なところではガッツリ響きを取り出して、最終的に楽曲が目指すものに齟齬なく調和させるのだ。合唱も、いくつかの問題を除けば、十分に感動的なパフォーマンスを示していた。ただ、このアンサンブルには非常に期待が高いだけに、反面、到達度が厳しく評価されるだけである。

【2つのクライマックス】

音楽的なクライマックスは、前半が第6曲の四重唱、そして、後半はフィナーレのアーメンである。とりわけ、合唱により誇示されるフィナーレ冒頭のアーメンでは、私たちは紀尾井ホールではなく、由緒正しい聖堂の地下に放り込まれる気がした。こうしてある種の孤独とつきあわされる私たちを、再び地上に救い出してくれるのは、オーケストラのつくるダイナミックな響きである。クライマックスでは、近藤顕の叩くティンパニや、河原泰則らによるコントラバスの低音が無双の機動力を発揮して、力一杯にベースを持ち上げる。その上にある冒頭部分の再現だからこそ、意味が出てくるのだ。最後のギャロップは十分な重みを保ちながらも、非常に明るい音色であり、天上から眩い光が注すかのようで、こうした響きはカリニャーニのような指揮者にしか出せないものだろうと思う。

このフィナーレと、独唱者の自由さが効いた第6曲とは、興味ぶかい対照を成している。そして、カリニャーニの演奏で作品がひときわ輝くのは、こうした要素の対比、あるいは、その絶妙なバランスによるところが大きい。気持ちは熱くても、指揮台のうえできわめて冷静に、彼は観察している。それゆえに、歌手もオーケストラも結構、自由にやらせてもらってはいるものの、羽目を外しすぎて、作品の美しさが損なわれるようなことはない。ジョルダーノのような歌手でさえ、そうなのだ。それが徐々に求心力となり、演奏に関わる者、また、それを聴く者が同じところに集うのを可能にしている。「同じところ」は、同時に作品の勘どころと言ってもよい。

終演後は会場も大いに盛り上がり、それを確認した舞台上の人たちにも満足感が漂っていた。KSTの初日は基本、リハーサルの延長線上にあるはずなのに、初日にして既に、このような出来にあるのは特別なことと言うべきだろう。この1日を経て、急速な上昇カーブを描くのは確実と思われたし、実際、そのようになったらしいのも頷ける。とにかく、良い演奏というものは多少の失敗があっても、それがなくて、うまくいったときの物凄さが明確にイメージできるものだ。生演奏だから、大きなものであれ小さなものであれ、瑕が出ることは否めない。要は、そうしたものが聴き手のイマジネイションを阻害する性質のものか、そうでないかということが重要だ。

【ロッシーニの偉大さ】

イタリアにはヴェルディもプッチーニもいるし、古い時代にはモンテヴェルディもヴィヴァルディもいる。しかし、そのなかで、やはり、国民的な作曲家はロッシーニなのであろう。20世紀後半から、あらゆる貴重な作曲家の再発見が進んだが、そのなかで、ロッシーニの再発見ほど深く、かつ、決定的だったルネッサンスはあまりない(ヤナーチェクとヒンデミットの再評価はこれに並ぶ)。例えば、同じイタリアのサリエリ再発見と比べれば、ロッシーニ再発見の重みは計り知れないほどのものだ。彼は同時代を代表する独創的な音楽の書き手であって、ベートーベン、ヴェルディ、ワーグナー、ショスタコーヴィチなどにとって、義理の父親のようにさえなった偉人であった。何十年も、彼の音楽は未来を先取りしていて、その点では、ベートーベンと比べても、なんら遜色ない。カリニャーニは、その父親が「歌」と「信仰」という2つの車輪で、「イタリア」をつくったと主張する。音楽とは、「人間」の謂いである。そして、人間の集いこそが「国」なのだ。こういう言葉の遊びが、いつの間にか、カリニャーニの音楽を語っているのは面白いことではなかろうか。

それかあらぬか、彼は演奏の出来の如何に関わらず、これが凄い作品だということを決定的に印象づけた。ロッシーニの、なにが凄いのか。それは声楽的なエクスタシーの究極を追いながらも、それが正しく歌われたときには、まったく質素な、敬虔な、素朴な表現として、聴こえてくるからである。これをして、世俗的だとか、宗教的内容がないと評するのは、正直、音楽を捉えるセンスに欠けることだといえる。それは、音楽の表面しか聴かないことを意味するのだ。反対に、カリニャーニは、その「表面」が立脚する様々な要素を浮き立たせることで、作品の真実に迫ろうとした。例えば、作品がやはり、イタリア・バロックの流れに立脚しているという事実等である。それは声楽と管弦楽の音色からも、ハッキリと窺えることだろう。

かつて、ロッシーニの響きは、『セヴィリャの理髪師』のような明るく、楽天的なブッファ作品にしか向かないと思われた時期があって、それを証明するように、「あなたはブッファ以外の作品を書くべきではない」というベートーベンの言葉がよく知られていた。実際には、ちがっていたのだ。ロッシーニには、『ギョーム・テル』のようなシニカルな作品もあれば、『マオメットⅡ』のようにトスカ的な厳しさを湛えた作品もあって、反対に、『ランスへの旅』のような時代を数百年も先取りしたような、新しい感覚で貫かれた作品も存在するのだ。これらのそれぞれに、「傑作」といえる出来栄えがあることは近年、日本でも、アルベルト・ゼッダらの協力によって実証されてきたところだ。そして、『スターバト・マーテル』のような宗教作品も、こうしたことの延長線上で、ふかく捉えることができるだろう。カリニャーニはゼッダにつづいて、あるいは、ヴィート・クレメンテにつづいて、日本において、ロッシーニの奥深さを掘り下げてみせた功労者のひとりである。

声楽陣の活躍にしても、もし、これがヴェルディだったら、同じようにいくわけはない。彼らは、もっと厳密に管理されるだろう。ロッシーニだけが、彼らをあのように自由に生かすことができるのだ。これは、大変に興味ぶかい事実である。そして、カリニャーニもそれを邪魔して、なるべく几帳面に、整然とみせようとするようなセコい感覚の持ち主ではなかったことが重要だ。彼はロッシーニが思い描いた、自由のうえにしか、いかなる秩序も成り立つはずはないと覚悟している。そして、その曲のほとんどが派手なオペラ・アリアのような姿をしていても、最後の数音、鍵となる響きをじっくりと収めてやるだけで、伝書鳩が鳥かごに戻ってくるように、さっと正しい流れに引き戻すことができるという神業まで見せた。

やはり、この公演で、カリニャーニは凄いということを確認せざるを得ない。いま、彼は定まったポストに就いて、煩雑な日常業務に時間を浪費し、大事なことだが、音楽人としてはあまりにも神経をすり減らされる営業活動にまで追われるのを嫌って、フランクフルトを離任してからはいかなるポストにも興味を示していないようにみえる。心ある音楽家たちは近年、ますます、一定の土地に腰を落ち着けてマネージメントの仕事をこなすことに慎重な態度をとるようになった。昔のように、手兵をもち、そのランクで指揮者の価値が概ねわかるような時代ではなくなっている。その分、プロのビジネスマンである「インテンダント」が進出してきた。その出自は、舞台の演出家、指揮者、作曲家、ビジネスマン(実業家)、政治家などである。

その点、カリニャーニは純粋に音楽家だ。いまや、純粋な音楽家が、純粋な芸術的意図でオペラハウスを統治したりすることは難しくなった。社会にそれだけの余裕がなく、同時に経済性、社会性、集金力を追求でき、公的セクトからも堂々と支援を引いて来られるような人材が貴重なのである。パオロはそんな能力はあまり持っていないだろうが、実際には、やや落ち目のフランクフルトで、それまで類を見なかったような、強力なプロジェクトを成功させて長期政権を築いた。彼がなぜ、成功できたのか。こうした興味ぶかい事実について、ジャーナリストは多くを語らないから、私はなにも知らないわけだ。だが、彼の音楽から想像する限り、カリニャーニは人々がなにを求めているか、その先を読んで必死に動きまわった事実がみえてきそうだ。見当外れなら、ご指摘を賜りたい。

これが事実なら、ロッシーニも、同じようなことをしていたといえる!そうなのだ!それだから、彼は数百年も、時代を先取りできたのである。

【プログラム】 2013年7月26日

1、ケルビーニ 交響曲 ニ長調
2、ロッシーニ スターバト・マーテル

 コンサートマスター:玉井 菜摘

 於:紀尾井ホール

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