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2013年8月 4日 (日)

プラッソン オッフェンバック ホフマン物語 東京二期会 初日 7/31

【シューダンス版】

東京二期会が、粟國淳演出のオッフェンバック『ホフマン物語』を上演した。今回のプロダクションは2010年9月にプレミエを出したあいちトリエンナーレの舞台と装置を引き継ぐもので、公演後、それを引き取ったスロヴェニア/マリボール歌劇場からのレンタルによる公演(リサイクル)。ただし、装置や衣裳は共通するものの、今回は演出家の粟國と指揮を執ったミシェル・プラッソンの協議により、20世紀前半から100年以上も「定本」として上演されていた「シューダンス版」を用いることが断り書きされている。これによるもっともわかりやすい変化は、第2幕と第3幕を構成するアントニアの場とジュリエッタの場が新しい版とは反対になり、3人のヒロインがオランピア、ジュリエッタ、アントニアの順に登場することである。無論、それだけではなく、主要役ではニクラウスの歌唱部分が減少することも大きく、同役はより内省的な味わいを放ってくることから、作品の印象も大きく変わってくることだろう。

今回の演出は、そのニクラウスの役割が派手な出番の減少に反比例して、大きくなっており、終幕ではミューズとして本性を表した彼女が、ヒロイン三役の合成であるステラの欺瞞を指弾して、ホフマンから遠ざけ、詩人をオルペイウス的な大勝利に導くというドンデン返しまで演じるのだから凄い。ホフマンはステラに代わって、ミューズの舞台の上で感動的な歌を披露すると、フロントに配置された学生たちがそれまでとはまったく別の意味で酒を賛美する合唱をうたいながらディオニュソス的な高揚をつくり、華々しくおわるという意外な結末を迎えた。「酔っているの?」と尋ねるステラに対して、ニクラウスは「酔いつぶれているのよ!」といって、詩人の恋に値しない女優のことを猛然と突き放すのだ。

例えば、新国のフィリップ・アルロー演出では、最後にホフマンがピストル自殺して、決定的な敗北を迎えておわるが、大抵の演出はほとんど歌わないステラを偶像化して讃美し、出ずっぱりのホフマンを慰み者にすることで風刺的であろうとする。彼の傲慢と頽廃はクラインザックに始まり、重畳しているというわけだろう。だが、粟國演出はあくまでも、直向きなホフマンの生き方にふかい人間性を感じようとするもので、それゆえに、悪役もヒロインたちも、ニクラウスも、すべてが輝くという解釈なのである。ここで面白いのは、粟國が3人のヒロインには深い愛情を注ぎながら、それらの合成である実像のステラだけが、ホフマンの愛情に値しないという解釈を採ったことである。シューダンス版では、終幕にあるホフマンとステラの二重唱がないので、このような解釈もより自然に受け取ることができるだろう。

【声+ロマン主義との対峙】

3人のヒロインは、オッフェンバックの愛情と風刺を一身に背負っている。オランピアは超絶技巧の象徴であり、ベルカント・オペラの技巧性重視に対する批判と、それ(機械人形オランピア)を生み出す資本力と技術力に対する風刺を含んでいる。アントニアは音楽、とりわけ感情的な表現の象徴であり、イタリアからドイツに輸出されたロマン主義に対する深い反省とともに生きている。ジュリエッタはオペラの官能性に対する一種の風刺から来ており、名前のイメージがよく似ていることからもわかるように、ヴィオレッタ的な、象徴の大げさなデフォルメ―ションについて、猛毒を吐いているわけである。これらの要素のどれを欠いても、その当時の舞台芸術は成り立たなかったし、いまだって、その事情は変わっていない。

こうしたものが当たり前となった結果として、それがニセモノとわかっていても、観客は平気で(むしろ、そのことを面白がって)熱狂し、話は聞いているようなのに、実際のところ、何も聞いてはおらず(フランツが象徴的)、歌手が過酷な仕事で声を潰しても気にも留めなければ、果ては愚かな官能の虜となって、ゲイジュツ的官能と下の世話の見境さえもつかなくなってしまった。

この作品は、ワーグナーの『パルジファル』やビゼーの『カルメン』と、そう隔たらない時期に書かれている。最初の幕でのリンドルフの歌は、ちょうど、『カルメン』のエスカミーリョのそれと酷似しており、さすがにオッフェンバックは同時代の傑作に世評とは関係ない独特の輝きを感じ、つよく意識していたのが窺える。そう考えると、ジョゼ(ホセ)とホフマンが対応しているが、真の敵はイタリアに在った。アントニアの父親の言葉を思い出そう。彼は娘に対するホフマンの影響を嫌い、ミュンヘンに逃げてきたが、無駄だったという。前の幕がオランピアであろうと、ジュリエッタであろうと、その前はイタリアにいたことになるのは変わらない。さて、歴史を紐解いてみると、『ホフマン物語』がパリのオペラ=コミーク座で不完全ながらも初演を迎えた1881年に、ヴェルディは大作『シモン・ボッカネグラ』の長きにわたる改訂を終えて、ミラノでようやくの成功を掴みつつあった。2つの作品は、まるでちがう。オッフェンバックが畏れたのは、声と声とのぶつかり合いだけを通して、あれほどダイナミックな政治的問題の本質を浮かび上がらせながら、そこに生きるキャラクターどうしの人性の基本を問うイタリア・オペラの邪悪な魔法である。

しかし、魔法はあくまで魔法でしかなく、そこに真実はないとオッフェンバックは信じていた。

そうは言いながらも、彼は、そうしたものを愛しているのである。例えば、アントニアの場から聴こえてくるのは、紛れもない、シューベルトの音楽だ。まず、ヒロイン登場の美しい歌は、シューベルトの宗教曲にありそうな清らかさを湛えている。ということは、より遠い時代の聖歌とも、どこかでつながっているということだ。また、アントニアの部屋に忍び入ったホフマンが朗々と、その調べを歌い出したところで、アントニアが出てきて再会の喜びを歌うのも示唆的だろう。ここで出てくる歌は、より世俗的なリーダーの味わいにちかい。ミラクル博士の態度には、そうしたものに依拠するアントニアの美しさを風刺する意図がある。しかも、娘はマザー・コンプレックスで、20歳にして母親と同じ病気だという。この幕は、象徴的な和音に始まり、その和音はベートーベン的だ。このように意図を手繰っていくと、オッフェンバックが暴き出したロマン主義の正体が明らかになるだろう。

ミラクル博士は一見、娘の自己を解放する役割を演じ、演出の粟國淳も、父親とミラクルのこころが同じといったというのだが、それが事実なら、大きな過ちだ。ミラクルが解放しようとしているのは、アントニアの過ちであって、そのなかにある、真の人間性ではない。父親はそれを娘のなかに押し込めて、もう、何も表現するなと言っている。これは明らかに、冷酷な態度である。ホフマンだけが、アントニアの本当のこころにアプローチしようとしているが、それはうまくいかない。それは、彼女がホフマンとともに、新しいものを生み出すという発想に至らず、2代つづいた(例えば、ベートーベン→シューベルト)ロマン主義の誘惑に勝てないからである。オッフェンバックもロマン主義の特徴のいくつかを示してはいるが、彼の作品はより遠い未来に向かって書かれ、ロマン主義から離脱するためのテキストを選んでいる。

【100年つづいた嘘の重みを歌うホフマン】

オッフェンバックが描いたのは、もう、惨憺たる救いようのない現実であろうか。もしも、そうであるなら、80歳になるフランスの巨匠、ミシェル・プラッソン氏の愛するシューダンス版は作者、オッフェンバックの真実の声とは遠い。多分、氏はその版を当たり前のように受け継いで、そこに含まれる真実を音楽として紡ぎだすことに命を賭けてきた。無論、その後の資料的発見や、批判校訂によって、版の正当性が大きく揺らいだことをプラッソンほどの大指揮者が知らないはずはなく、それらに対して目をつぶるということもあり得ない。では、プラッソンはなぜ、この版にこだわるのであろうか。それは多分、作品を完璧に仕上げずして作曲者が亡くなったことに始まり、それを惜しみながらも、関係者たちがこの歴史的遺産をいかにして残すべきか、過ちも含めて、たくさんの努力をして100年以上のつづいたこと、それ自体に作品の歴史性をみるからである。

なるほど、オッフェンバックの意図を正確に、作品から読み取って伝えていくということは重要だ。しかし、そのことを大義名分にして、過去の人々の苦労を、作品の価値を歪め、恣意的に解釈したものとして嘲笑うのは不遜である。シューダンス版をベースとして上演することで、カンパニーは、あらゆる過ちも含めて、『ホフマン物語』を生かそうとした様々なレヴェルでの工夫に価値を認めた。そもそも、それがなければ、今日の批判校訂の流れもあり得なかったであろうとみて、作品をめぐる「情熱」の原点をそこに求めたのだ。粟國淳の演出は、そうした巨匠の意図に、いかにも忠実である。

題名役の福井敬は、いま書いたような演出意図を完全に歌いきったといえるだろう。彼の歌を聴いて、近年、私はそれらのどれもが同じような声に聴こえるのに不満を覚え、すこしも感動したことはなかったが、第1幕、時計の針が数十年、逆回転したような驚きがまずやってきた。無論、その間、積み上げてきたものがすぐに、完全に打ち壊されるわけはなく、一進一退を繰り返しながら、福井はそれぞれのヒロインとの出会いを通して、ひとつひとつ仮面を捨てていったように見える。

オランピアの場。役柄に合わない安井陽子は、確かに高音の「あり得ない音域」が清らかに出たものの、声は転がらず、ホフマンを変えるには不十分だった。つづくジュリエッタの場で、ヒロイン役の佐々木典子が最初のアンガージュマンをかける。彼女の声からは聴いたこともないほど、強く、しぶとい響きが聴かれ、彼女もウィーンで歌っていた時代に戻ったような気がする特別なパフォーマンスをみせた。舟歌の弱く、繊細な強さのある声と、その後の誘惑シーンで発する輝かしいスピントの発声は裏表になっている。ニクラウスが絡むと、この2人が東京フィルで上演した『グレの歌』の際には、トーヴェと山鳩だったことを思い出す。日本のオペラ界で、いま、もっとも気品のある組み合わせのひとつだ。

ついでにいうと、この幕の最後でジュリエッタが去っていき、ホフマンが絶望する場面で、加納悦子演じるニクラウスが発する台詞「ホフマン、ホフマン、それでも、私はあなたを見守りつづけるわ!」は、今回のプロダクションで、2度、心臓に突き刺さったナイフの1本である。

ジュリエッタにつけきって、ペース配分もクソもない強い声で応じた福井に、私は再び驚かされた。競走馬と同じで、オペラ歌手もずっと同じ足で走りつづけられるわけではない。佐々木はその1幕を歌えばよいが、ホフマンの物語には、まだ長いつづきがある。これだから、この幕はアントニアのあとにしなくてはならないのだと批判的な気持ちにもなったものだ。あゝ、ホフマンは影を喪い、どの面下げてアントニアの恋人になるのか。鍵の話も出てしまって、それは船長(悪役四役のひとつ)に奪われた。アントニアの場において、ホフマンは正直、精彩を欠いた。疑念は深まっていく。しかし、エピローグにドンデン返しが待っていたのだ。

私たちは、現実へと戻ってきた。ホフマンは深く傷ついているが、新国のプロダクションと比べれば、まだ、落ち着いている。客観的に、落ちていく自分を把握しているようなところもあって。ニクラウスを突き放すところも、確信犯だ。劇場から賭けつけたステラは、大上段からホフマンを見下ろし、リンドルフにエスコートされている。だが、ここから真の闘いが始まるのだ。ホフマンは何事もなかったかのように、舞台奥のもうひとつの舞台・・・多分、ミューズの用意した舞台で、両側に観客を置いたようなシルエットで歌い始める。ホフマンとステラの役割が入れ替わり、彼が舞台上の大俳優のようだ。そして、ミューズの独白。普通なら、ホフマンの敗北を決定的にするはずの台詞が、ステラに向かって投げつけられる。お前は、この男に値しないという痛烈な宣言だ!

愚かな女優は、ホフマンに声を掛ける。酔っているの?ホフマンは目覚めず、ステラの愛を失うという敗北の結末
が、すぐさま、ミューズによって切り裂かれ、思いも寄らない勝利にホフマンを誘う。酔いつぶれてるわ!これが、ミューズ=加納による2本目のナイフだった。もはや、こうした表現は歌でなくっても、構わないという時代に入っていたのか。ビゼーの『カルメン』でも、生の舞台ではよく省略されてしまう台詞部分が、実は、とても重要な意味をもっている。オペラ好きほど、この台詞付きを好まない。しかし、好きか嫌いかはともかくとしていちどでも聴けば、作品に対する印象は変わる。やがて、「シュプレヒシュティンメ」という手法が誕生する数十年前に、オッフェンバックやビゼーが、歌でもなければ、単なる台詞でもない、このような表現を手に入れていたことは驚くべきことだ。加納がどの場面よりも美しく響く言葉で発する、あの声を聴くためだけに舞台をみるのも損ではない。

そんなとき、ホフマン=福井はどのような歌を歌っていたのか。それはもう、声にはならないほど神々しい声といってよかった。確かに、彼らしくもなく、技術的には潰れていたかもしれない。しかし、この歌を聴いて、カーテン・コールでブーイングするような手合いに、私は音楽を語ってほしくはないのだ。リンドルフを演じていた小森輝彦は正直に、舞台上で後ろから聴いていて「泣きそうになった」と漏らしている。さすがに、私の尊敬する歌い手というべきか。そういう歌手だから、支持しているというべきか。僕は音楽を大してわかるわけではないけれど、この公演に賭ける福井の想いというものは尋常ではないし、それは誰にでも、多くの人たちに伝わったはずだ。

【様々なる意匠】

同じ舞台を演ずるのでも、それぞれの歌い演じる方法は様々である。例えば、アントニアの場でフランツ役を歌った大川信之は、ひとりでコンヴィチュニイ演出の反芻をやっていた。『サロメ』に出て(ナラボート役)、よほど印象的だったのだろうし、こうしてありがたい教えをしっかり守るのも大事なことだ。別の演出家のときだって、そうすることが自然な場所ならば、教えを実践すればよいのだが、この場における出番などは確かにそれが有効であろう。

オランピアの安井陽子は、どんな場所でも動じずに、自分のいちばん魅力的な声を生かそうとするだけだ。役に合っていないなんて、関係ない。彼女の歌を聴いて、オッフェンバックはこの場で、すこしも超絶技巧を楽しませようとはしておらず、ガタピシ、デコボコに歌わせたいのだと思ったほどだ。「あり得ない音域!」と印象的な台詞を残して、ニクラウスが後ろにゆっくり倒れる演出が、そうしたユーモアを滑らかに語る。エリアス倒産の発覚からコッペリウスによる破壊に至る流れも、新国のアルロー演出と比べて淡白であり、それは版のせいでもあるが、全体的にこの幕のリリカルさを軽く、冷たげに描くという表現意図とも無関係ではない。

象徴的なのは、序幕から第1幕(オランピアの場)に入るときの導入部の音楽に聴かれる。今回、効率的な装置で、これらの幕の間に舞台転換が入らなかったため、音楽はほぼアタッカで第1幕に突っ込んでいく。このとき、第1幕の音楽は、明らかに序幕の音楽と比べてレッジェーロに奏でられる。これには、あっと言わせられた。そして、瞬時に、そのメッセージに気づくとこの幕全体の見方が変わるだろう。

プラッソンはこのように、硬軟の使い分けで巧みに作品表現の本質を語るが、こうした意味でいうと、もっとも重いのは第2幕(ジュリエッタの場)である。「舟歌」のレッジェーロで始まるものの、既に述べたように、佐々木を中心とする歌声には弱音でも深い芯があり、先の場とは明らかにちがうことがすぐにわかるのだ。それはさらに、よりハッキリ歌うあとの場面で顕著になる。佐々木&福井のペース配分を度外視した、つよい声の競演はこのように準備されたわけである。

福井敬が、どうしてあれほどの意外なパフォーマンスをみせられたのか。それは、やはり、プラッソンの影響としか思えない。傍からはジェントルな物腰に見えるが、どうして、ピット内に身を潜めた悪魔は舞台上の悪魔4役と比べても、遜色ないないほどに辛辣だ。といっても、下から、管弦楽の響きで上を煽るという場面はほとんどない。むしろ、それをせず、静かに舞台上を見上げているような音楽が恐ろしいのである。こうした手法こそが、オッフェンバック独特のアイロニーを支えている。確かに、ときどきは身も凍るような美しいオブリガードもつけるが、基本的には、下からじっと見ているのだ。かといって、孤立無援というワケでもない。それどころか、歌手が少しでもサボれば、もう音楽は成り立たないというようなやり方だ。つまり、それほど親密に、舞台の上下が結びついているということだ。

室内楽的なホフマンと言ったら、嘲笑が来るだろうか。しかし、リーダーから積み重ねて、だんだん大きなものになっていくような、そんな味わいを感じた。特に、アントニア役の木下美穂子はリーダーを歌っているようにしか聴こえないのだ。深い情念のぶつかり合いというよりは、詩情と詩情の緻密な交流が関係を育てていくようなオペラのつくり方だった。こうしたベースのなかでは、悪役はどのようにつくられるべきか。歌手の健闘にも関わらず、その点では、粟國の導きは十分でなかった。例えば、コッペリウスが、スパランツァーニの愛と幻想の象徴であるオランピアを壊してしまうときの不敵さを、どのように処理すべきなのか。演出は人形の上半身が投げ落とされ、それが次の幕の最初にも登場する工夫だけはしているが、これは、いま申し述べた音楽表現の本質とは十分に噛み合わない。単に暴力的な表現では、コッペリウスの存在が薄くなってしまうのだ。

多分、必要なことは、声を出さないところでも、もっとコミットを深めるというような方法だろう。結局、彼がすべてを握っているのだ。ジュリエッタの場では、必然に動かされるようにして、ホフマンは鍵を船長に渡してしまうが、あの部分も、演出的にはきわめて不自然だ。粟國の演出は全体的に安定感があり、多様なインスピレイションをもたらすが、このような深いところでは、いくつか見逃せない瑕があった。序幕で、知らないうちに舞台下手の椅子にリンドルフが現れているような、ああいう工夫が良い。ホフマンとリンドルフの間の緊張が高まるなか、ニクラウスがすっと間に立つ部分も同様だ。マスの動きのなかで人を隠しておき、必要なところでパッと出すという操作は面白いように決まっていた。

そして、例えば、その動きはニクラウスの働きを説明的にではなく、端的に、具体的に、そして、効果的に印象づけるものだ。彼の役割は、ホフマンがリンドルフら4役と正面衝突することなく、詩人が詩人らしく美しくて、情熱的で、真っ直ぐな道を歩めるように助けることだ。ホフマンは悪役にぶつかるべきではなく、彼の恋人たちにぶつかるべきだから、ニクラウスはホフマンにその能力とエネルギーを浪費させたくないのである。そして、ホフマンが絶望的にやっつけられたとしても、「それでも見守る」価値があるというのだ。それは、どうしてであろうか。ホフマンはなぜ、かくもミューズに守られるべきなのか。それは、カルメンに対するジョゼと同じ理屈であるかもしれない。つまり、彼だけがミューズに靡かないから!

【真に過酷なもの】

ミューズ=音楽の神の代表的な形態は、もちろん、歌の姿をしている。これを徹底的に利用したのが、ロッシーニと、それにつづくヴェルディだった。彼らほどに、ミューズの熱い寵愛を受けた作曲家もほかにいない。一方で、これをできる限り解体して、台詞を含むあらゆる形態のなかに、柔軟に表現が行きわたることをめざしたのはビゼーであろう。オッフェンバックは多分、ニーチェと同じようにビゼーを支持し、新しく、明晰な音楽語法を生み出すことを飽くなきまでに追窮した音楽家だ。それだけに、彼の音楽はいつも一直線に、成長を遂げたわけではなかった。ホフマンと同じように、失敗し、傷つき、絶望し、酩酊した。そのわりに、大抵は、いつも誰かが彼のことを守ってくれた。それが、ニクラウスとして最初で最後のオペラに登場することになったものだ。

出ずっぱりの三役に、ホフマン、悪役四役とニクラウスがいる。純粋さ、弛まぬ批判と否定の精神、そして、追認と再生の女神という装置によって、この物語は紡がれていく。そして、いつも、何かの理由によって必然的に生み出され、父親か誰かに守られており、一方で、絶えず何かに責め苛まれている3人のヒロインたちが花を添えた。例えば、オランピアは自らの死という宿命を背負っており、科学の力で娘を蘇らせるという父親と、狂人、コッペリウスの見事な連係プレーのうえに立っている。オランピアやアントニアの場のロマンティックな味わいは、少なからず、彼女たちの父親と無関係ではない。そして、父親たちが抱く愛情の結果として、生まれる矛盾こそが作曲家にとっては格好の風刺対象なのである。ジュリエッタにはそれがなく、守護者のシュレーミルはいたく頼りない分、悪役のダペルトゥットがコミットを強める。そして、本来は、これによって現実が近づいてくるわけだ。序幕でリンドルフが手にした鍵の話が出てきて、ヒロインたちの正体は明らかになってくる。

影を失ったホフマンは闇に呑まれ、泥酔して、すべてを失う。残るのは、死の雰囲気のみだ。そういう風に、僕らは慣らされてきたから、このシューダンス版はひどく頼りないもので、傑出した作曲家の個性と向き合うには、あまりにも楽天的なように思えたかもしれない。だが、昔はちがったのだ。プラッソンはきっと、現代の主流となっている解釈のほうにジャーナリズムめいた、底の浅い風刺(知性)しか見つけることができないでいる。一見、ホフマンが救済され、生易しいフィナーレが生まれる感じがして、作品が生煮えのようにも思えるだろうが、実際には、私たちがいま、当たり前に知っているような批判校訂版の最後よりも、今回のほうが過酷な皮肉を含んでいるように思えたはずだ。この状況で、生きねばならないホフマンの心情も考えてみたまえ!

およそ、芸術家とはそういうものだ。映画(風立ちぬ)の最後に、「生きねば」とテロップを入れた宮崎駿の精神はいかにも参考になる。あそこで描かれた堀越二郎の生き方にも、諸君は多少の違和感を覚えなかったはずはない。主人公は最後、山のほうから姿も見えず、ただ風となって、彼のゼロ戦の完成を助けたヒロインにただ一言、「ありがとう」と言う。この言葉をノウテンキなものととるか、あるいは、命がけのこころの声ととるかは、観る人の感性の成熟度によって、明らかにちがうものとなる。性別によって、この感性には、いくらか補正が加わるかもしれない。いずれにしても、芸術家は生きようとすることよりも、死ぬことを描くほうが簡単で、宮崎の選んだ表現は当然、より困難な道である。

所詮、オッフェンバックは、そこで死ぬことしか描けない作曲家だったという見方もなくはない。あるいは、それが真相なのかもしれない。だが、もっともらしい結論であるにもかかわらず、どうしても解せない要素があるときには、必ずどこかに誤りがあるはずだ。例えば、ジョシュア・リフキンはバッハの宗教曲を、各旋律線をひとりずつで歌うのが正しいとしているが、そういう演奏を聴いたときの、どこか満たされない心情をどのように説明すべきなのであろうか。繰り返すが、プラッソンは現代のもっとも新しい研究の成果を百も承知で、まだ、その先に、私たちがまだ知り得ないような、とんでもない真実が潜んでいると直感しているのであろう。

空想家の私なら、そうした直感を頼ること頻りであっても、相手がプラッソンほどの男ともなれば、その直感も、上質の資料と同じように扱うことができるほど、重い意味をもつことだろう。粟國も様々な不利を受けることをわかっていながらも、それには逆らえなかったのだろうか。歌手もオーケストラも、全員が自分たちはマイナスからスタートするという、そういう強い気持ちで帆を上げた。そして、結局のところ、これらの情熱が随所に特別な意味を醸しだす結果となって、今回の物凄い公演を仕上げていく秘密のエネルギーとなっていく。

美しく、愛らしい月をみていた自分が、ある日、それとはまったく別の姿をした月の姿を目にして、腰も抜けそうなほどに驚愕するという、そんな公演が繰り広げられた。まだ初日で、いくつかの瑕がみられたのは止むを得ないことで、また、主要役に比べて、脇役の底の浅さが顕著なのには、もちろん、感心しなかった。二期会に、歌手がいないのではない。ただ、有為の人材が十分に用いられないというだけのことなのだ。なぜなのか。将来の公演情報について見ても、歌手たちがフェアな競争下にあるかとは考えにくいほど、二期会のキャスティングには十分、納得のいかないところは見受けられ、実力以外の何かが作用している印象もなくはない。しかし、それはそれとして、舞台に立った瞬間から「ノーサイド」になるということは徹底されているように思うのだ。本公演はダブル・キャストの場合、僅かに2日ずつである。そこではもう、あらゆる思惑を越えて、人々が一所懸命に結びあう。

今回は、その「結びあい」が極限まで深まったというべきだ。

【まとめ~もうひとつのホフマン物語】

オッフェンバックは、この作品で、死に場所を求めていたのか。実際、この作品は遺作となり、周囲の人たちの協力によって、はじめて陽の目をみた。しかし、私はプラッソンの考えに共鳴する。死を意識するjとき、キリスト教徒は必ずしも憂鬱な気持ちにはならない。この世を去り、身近な人たちと別れることは辛いが、その分、神さまの御許には近づくからだ。あるいは、念願の地獄行きを楽しみにする人もいる。ジャック・オッフェンバックは、そうした奇妙な人物のうちのひとりだと思う。明るい音楽のなかに、ふかい頽廃と絶望の精神を詰め込んだ音楽は、終幕の大逆転を経て、再生と希望・・・あるいは、勝利の音楽として客席に提示される。最後の合唱のエネルギーに横溢した声の跳躍、活力に満ちたオーケストラの響きの解放は、あまりにも感動的である。ただ、そこに楽天的なエネルギーしかみられない人は底が浅い。

ところで、オッフェンバックの同時代人に、ヴェルディがいるのは意外なことだ。この古いようで、斬新な音楽性は、これも同時代に生きたヨハン・シュトラウス(Ⅱ)よりも、フランツ・レハールやリヒャルト・シュトラウスの時代を予感させ、オルフやシェーンベルクのような存在だけが、同等に新しい印象をもたらすことができる。同じ作曲家による喜歌劇『地獄のオルフェ』の序曲をミンコフスキが録音したオリジナル・ヴァージョンで聴くと、彼の音楽は、ロッシーニの系譜を継いでいたことが明瞭にわかる。そこから始まって、ジャンルは解体し、歌が消えていくという、そういうところまで『ホフマン』は連れていってくれたのだ。彼の音楽は明らかに数十年後を先取りし、いまに至っても、なお斬新な印象を与えている。

そういう音楽が、どういう姿をしているべきかについて、プラッソンの表現は示唆に富んでいる。そして、それを忠実に形にしたのが粟國淳の演出だ。あいちトリエンナーレからの経験を生かしつつ、彼はきっと、まったく新しい舞台を作り上げるつもりで今回に臨んだ。歌手たちが、その悲壮な決意に完全につけきった。それゆえ、一体感のある素晴らしい舞台に仕上がったのである。コンヴィチュニイ演出の完璧さには及ばぬが、音楽のレヴェルから強く組織された優れた公演を目にした喜びは大きく、その意義も大きい。粟國は基本、音楽から発想する演出家であり、そうした舞台を表現過多に陥ることなく堅実に支えたというべきである。

とにかく、私はこの舞台で、新しい(正確には古い)もうひとつの『ホフマン物語』について知ったのだ。その喜びは、計り知れないものである!

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