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2013年8月 9日 (金)

荒川区民オペラ ヴェルディ シモン・ボッカネグラ (2日目) 佐野正一 ほか @サンパール荒川 8/4

【オペラを彩る言葉たち】

先日はオッフェンバックの歌劇『ホフマン物語』についてレヴューを書いたが、ほとんど間をおかず、ヴェルディの歌劇『シモン・ボッカネグラ』をみる機会があった。ヴェネツィアのテアトル・フェニーチェでの初演は当たらず、24年後、晩年のパートナーとなるアリーゴ・ボーイトとの初共演で改訂がおこなわれ、ミラノにおける改訂版初演はようやく成功をみた。それが、『ホフマン』のオペラ=コミーク座初演と同じ1881年であった。

この作品の初稿で、ヴェルディは明らかにイタリアの将来を見通していたようだ。その後、イタリア王国はハプスブルク帝国やフランスの影響力を徐々に押し出して、混乱のなか、真の統一(リソルジメント)へと進んでいくのだが、王国と教皇との対立はなお残り、ファシズムの時代まで解消することがなかった。作品は複雑な政治的対立を背景に、行方知らずになった女児の転身や、時代のなかで転々と変わっていく人々の立場が問題となり、一筋縄では理解できない構造になっている。結果として、貴族派と平民派の長期にわたる政争が終結に向かう一方、キング・メーカーだったパオロと、総督として25年の長きにわたってジェノヴァを治めたシモンが同時に死んで、新しい体制への不安と厳しい足取りを背景にしつつ、民衆と身内はシモンを悼み、同時に、シモン自身が神の平和を力づよく讃美する形でドラマは閉じる。

作品は、いろいろに読み解くことができる。しかし、一見して明らかなことは、作品の筋書きは大体、祈りや呪詛の言葉、宗教的なメッセージに溢れていることだ。それなのに、神秘的な運命の力が働くというよりは、結局、それらの言葉を実現しようとする人々の想いが、国や周りの人たちを動かしているように見えるのは不思議なことだ。ヴェルディはほかの作品でも、予言とか祈り、呪術的な問題によく筆を走らせているが、この『シモン・ボッカネグラ』ほど、それらと現実世界で起こることとの関係が濃厚に描かれたドラマもない。シモンの娘の名前がマリア、その母親で、フィエスコの亡くなった娘もマリア。そして、パドゥレ(父親)という台詞がたくさん出るようなシチュエーションをつくり、しばしば、人々が誰に呼びかけているのか、一瞬、わからないほどになる。

また、それらは時折、激しい衝突をみせた、例えば、第2幕の最後では、反乱軍が勝利を祈って「パドゥレ(神さま)!」と天に呼びかけるのと、マリア(アメーリア)が、戦いに臨み、娘とガブリエーレの結婚を許可しようとする父親に「パドゥレ(お父さま)!」と呼びかけるのが同時である。また、第1幕で父娘の関係がそれと分かったあとの場面(第7場)で、マリアが別れ際に「パドゥレ・・・」と呼びかけるところでは、それがシモンのことであってもよいし、神さまのことであってもよいようにできている。このとき、マリアは「愛らしい鳩となる」と誓い、シモンと神の共通の営みである平和の使者とならんとする重要な場面だ。これに対し、もうひとつ重要な信仰的キーワードである「マドゥレ」は、あまり出現しない。それはシモンとガブリエーレが和解する場面で、マリアが祈りを捧げる場面だ。これを契機に、シモンは完全にガブリエーレを承認し、2人は互いに協力して叛乱の鎮撫に努めるのである。

結局、この作品でもっとも重要なキーワードは、パーチェ=平和であろう。この平和は、聖書のなかで非常に特殊な意味をもっているようだが、ヴェルディはそうしたものを思いきって、私たちのイメージのなかにある平和と同じものにすることを厭わない。同胞間でのあらゆる争いを停止し、より大きな脅威に向かい合うことだ。作品のなかでは、総督就任後の議会の場面で、貴族派と平民派の議員たちの前で、まずタルタリア人(韃靼人)との和平に理解をとりつけ、つづいて、海の利権をめぐる最大のライバル、ヴェネツィアとの和平について審議している。そうした外交問題ばかりではなく、国内では貴族派と平民派の分裂(正確には、教皇派と皇帝派と平民派の分裂だが、ヴェルディは前二者を一括りにしている)、これがプライヴェートにも影響しているわけだ。

【声の配置について】

これらの関係は、バス、もしくはバリトンによる3つの声質で、端的に分けられている。まず、フィエスコがバス。しかし、シモンに対立し、まずは呪詛を担当する役柄でありながらも、老人ということもあり、思慮ぶかく穏和な側面も同時に描かれている。同じバスでもパオロとちがって攻撃的ではなく、ロングトーンが多くて、粘りつくような低音を歩くように歌う。一方、シモンを押し上げる平民派のボスでありながらも、パオロの役柄には一切の滋味が消され、求められる声質も鋭い。音域はすこし上がってバリトンだが、シモンは序盤とそれ以降で、多少、求められる声の質が変わる。総督就任前の彼はパオロと同様に鋭く直情的で、若々しくなくてはならないし、テノール的な役割も担う。しかし、就任後、特に、第2幕以降ではフィエスコの声質に近づいていかなければならないのだ。音域的にも、やや高めのところが得意なバリトンでは歌えないような低さが出てくる。

これらに対して、紅一点のマリアもソプラノではなく、メゾが歌う。メゾだが、重くはなく、上に抜けるようなレッジェーロな性質が求められる。そうでなければ、彼女はオバサンか、さもなくば、修道女のように聴こえてしまうことだろう。性格的には明るいが、先を見通す賢明さが彼女を憂鬱にする。ガブリエーレだけが爽やかな高音を出し、典型的な技巧的テノーレ・リリコ。ときどき、スピントも使わなければならないが、極端な高音趣味ではない。素直で騙されやすいが、こうと決めたら動じない性質が示される。

【オペラのなかで流れる歳月とのつきあい】

作品のひとつの難しさは、プロローグ~第1幕で、25年もの歳月が飛ぶことだ。これを経験するのは、主要役ではシモン、フィエスコ、パオロ、ピエトロの四役である。このうち、パオロとピエトロはほとんど変わる必要がない。フィエスコは最初から老人だから、そう変わらないが、序幕でシモンを中心とする暗い運命をつくった彼の呪詛は、だんだん祈りに変わりつつある。そして、シモンだけが、決定的に変わらざるを得ない。彼は序幕で、恋人の死を背負って総督となっている。その罪のゆえに、彼は仁君たらんとしているわけだ。シモンが憎むのは、人々の対立である。そして、齢もとった。序幕では青年期の働き盛りにあった彼が、本編では「老人」と呼ばれている。「マリア」の恋人は、同名の娘から父親と呼ばれる世代に。そして、直接、描かれはしないが25年の治世もある。ジェノヴァの混乱期だ。これらへの想像力の鋭さが、歌役者の歌い方を変えるであろう。

この日の題名役、佐野正一はどうだったろうか。まず、堂々としていた。第1幕以降、ちょっとしたことに動じない粘りづよさがあり、声の強さと慈愛が十分に感じられた。それはシモンの歩んだ苦境を、明らかに踏まえたものだった。ここに出ている歌手は、目立って巧みというほどの人ではないが、誠実に、役を掘り下げていくことのできる内省的なキャラクターが多い。佐野はそのなかで、名実ともにリーダー格であろうが、低声の男声三役は、いずれもよく練られた歌唱で、しっかりと役割を演じきっている。パオロ役の細岡雅哉も、フィエスコ役の伊藤純も、人間はそう簡単に変わるものではないという頑固さを表している。

細岡はそうすることで、シモンを押し上げるのも、殺すのも、同じような力に基づいていることを匂わせるのだ。全体のなかで、彼がいちばん強い声を出した。それは、いかにも必要なことだ。この役は功利的で、小悪魔的で、あまり共感をもたれない。悪役好きな人でも、イヤーゴーにはつよい共感を得ても、このパオロにはあまり感心しないはずだ。煽動家で、デマゴーグである彼には、いかなる理想もなく、危険の矢面に立つような度胸もない。しかし、人々はしばしば、そういう人物にも動かされてしまうものだ。結局のところ、彼は人間の弱さの象徴になっている。第1幕の最後で、彼は自分で自分を呪うという災厄を演じなければならないが、それ以後、そのときに発せられるこころの台詞「オロール(恨めしや)!」が、彼を象徴するものとなる。

今回のように、演出的に特別なことは何も行わない声の競演を聴くかぎりでは、ヴェルディの傑出した声の配置と、それが演ずる役割のアイロニカルな効果について、ハッキリと実感することができる。どのような解釈を採るにしても、人々は自分のほかに、誰が味方で、誰が敵なのかは、よくわからないで行動するよりほかにない。真実は混乱し、誰も本当のことを言うことはないのだ。そのなかで、貴族派と平民派が表面上は手を結び、議会を構成しているのが面白い。非常に現代的な様相を呈する。総督が有能であろうとなかろうと、このような体制のなかで輝くことは難しい。その斜陽が、25年後のシモンを覆っている。そのなかで頼りになるものは、ただひとつ、肉親の情でしかない。シモンはそれを頼りに、強い信仰をバックにして、神の平和を実現することに賭けているのだ。

『ホフマン』のパリと比べれば、イタリアの状況はきわめて難しかった。歴史的にフランスやドイツ、スペイン、あるいは、イスラム教徒やノルマン人の権力に国土を引き裂かれ、統一が遅れたほかに、教皇という厄介な存在もあった。ヴェルディは、オッフェンバックのような徹底した風刺家として生きる余裕がなく、まず、祖国に正義と秩序、平和をもたらす義務があると考えた。同時代だけに両国で共通していることは、あらゆる倫理的な規範が崩壊し、嘘と真実が入り乱れて存在していることだ。オッフェンバックはこういうときに、ひとりを三人に分けて見つめなおし、もうすこしふかく見るような癖をつけようとした。一方、ヴェルディはもはや信仰だけが、こうした混乱を収めるとしか考えられなかったようだ。ここでヴェルディの考え方で面白いことは、その信仰と行動を結びつけようとしたことである。

【信仰と行動、真実の言葉】

そこで、フィエスコの声について見てみよう。彼は多分、賢人であり、ほかの貴族派とは一線を画す思索の人であった。ところが、彼には行動がないのである。シモンを憎んでも、彼を除こうと手を尽くすわけでもなかった。ただ、呪詛するだけだ。彼は世捨て人のように、超然としている。そんな、神々しい声を発する人だ。それだけに、彼の受ける罰は厳しい。入牢ののちに、彼が目にしたものは老人には堪えがたい悲劇である。そんな彼が言うもっとも重要な台詞は、「地上のすべての喜びは、幻想の喜びにすぎない」という絶望の言葉だ。シモンの死という高揚のなかで、さらっと言われるが、これは多分、ヴェルディがこの作品で示した創作論とも解釈できるものだ。「果てしもない涙の泉なのだ、人間のこころは!」。オペラなんて、所詮はそんなものにすぎない。ヴェルディが自分を託したのが、フィエスコであるというのは示唆的なことだろう。そして、一歩まちがえれば、パオロになっていた。

ゲイジュツ家というのは、いつも迷いを抱えるものだ。彼らの多くは、アクティヴィストではない。パオロになるか、フィエスコになるか、それはセンス次第である。あるいは、フィエスコがもうすこし愚かで、適度に行動力があれば、パオロになっていたかもしれない。いずれにしても、彼は行動力がないために救われた。ヴェルディはいつも、そういう自分へのコンプレックスと闘っていたであろう。彼のヒーローは、なんとしてもシモンのような男である。確固とした信念に基づいて行動し、信仰の真理に支えられ、平和を実現するものだ。シモン・ボッカネグラは彼の書いたあらゆる作品の主人公たちのなかで、もっとも崇高で、清らかな存在かもしれない。

新総督の就任を望まず、「ノ、ボッカネグラ!」というのは、ヴェルディのこころの声でもある。だが、時代劇はもうたくさんだ。平和とともに、祈るという意味をもつ pace という言葉で、状態を表す言葉から行動を表す言葉に転化して、最後にフィエスコが人々に語りかける。「彼はもういない。安らかなることを祈ってくれ・・・」。

最後のところ(第3幕第2場)は、もう、ほとんど宗教曲のような言葉だけで語られている。こんなオペラが、ほかにあるだろうか。ここには司祭も修道女もひとりもいないのに、人々がそれを語ることにリアリティがあり、聴き手の共感も十分に得られる。それは要するに、人々のこころの声が自然に歌われたということを意味するはずだ。社会的に強いられたものとしての宗教的言語ではなく、暮らしや行動のなかから反芻されて、再生してきた言葉なのだ。

今回の上演は、非常に質素なリソースのみでつくられ、菱餅上の主舞台が中央にあり、ほかでは、白黒(序幕のグリマルディ家)、もしくは、カラフルな高い柱が何本か、その周囲に立てられるだけで、演出的な工夫は最小限度である。そのなかで、歌役者たちが頼りにしたのは、なんといっても、この言葉のエネルギーなのであった。

シモン=佐野正一、マリア=金見美佳、パオロ=細岡雅哉、ガブリエーレ=川久保博史、フィエスコ=伊藤純という主要五役には、有無を言わせぬような声楽的魅力はさほど感じられなかった。よく歌ってはいるが、ヴェルディが求める要求はより高度なものだ。それにもかかわらず、この「声のオペラ」において、彼らが十分にその持ち味を発揮できたのは、ひとつには、彼らが初めから技巧的な愉悦よりは、言葉の誠実というところに焦点を絞って表現を煮詰めてきたところに理由があり、また、そのことが実に、この作品の語りたいことの中心にあったからではなかろうか。

そのなかでも、金見と伊藤の歌唱が、とりわけ、誠実なものに思えたのは、その役柄のなかでかかる言葉の重みが、あるいは、シモン以上に重要な二役というところからきていることなのかもしれない。

金見は前半と後半で、大きく成長した女の姿を見事に歌いきったことで、オペラ歌手として重要な資質のひとつを、モノにしていることがわかる。登場シーンにおいて、マリア=アメーリアは、ただ政治的な圧力に脅える無力な恋人にすぎなかった。それが、シモンやガブリエーレの背中を押す役へと転じ、最後は気高い修道女のような雰囲気にまで変わっていくのだ。このような個性を場面の特徴に合わせて、適切な表現で歌えていることが重要だ。例えば、シモンと語り合う最初の場面で、単に脅える草食動物のような姿でいるのではなく、成長するための「余力」がしっかり歌われていることは重要であろう。その余力をどこで、どのように解放していくのかということが、歌手のセンスを示すのである。金見はその点で、十分に思慮ぶかい。

逆に、伊藤の場合は、より晩年を生きるキャラクターを演じるだけに、本質的には何も変わらないということが重要なのだ。それだけに、老人が環境の影響を受けやすいということは、なにも今回の舞台の内容に限ったことではないだろう。だから、伊藤はむしろ、その環境の変化を歌うということに、気を遣わなければならない。確かに、彼を取り巻く時代がどう変わったか、それを歌うのがフィエスコの役割である。老人にとっては、厳しい時代からさらに厳しい時代への推移だ。彼は支配者の一角から落ちぶれた名家の長老という立場で登場するが、終幕では、「悲しい自由」「残酷な運命」のなかに放り込まれる。その終幕におけるフィエスコの役割は、彼の声を聴いてもそれと気づかないシモンの姿に象徴的だ。彼は隠者のようであり、昔の恨みもいまは遠くにある。その隠者に、アメーリア=マリアという真実が強烈な一撃を与えるのだ。

伊藤は特に、この隠者のパートが素晴らしく良かった。声の特徴もモノにして、特殊な役柄を次第に手中にしていったといえる。

この2人に比べて、どちらかといえば、技巧に特徴のある川久保は若干、物足りなさを感じさせた。見せ場の超高音で硬くなり、ここぞという感情を示すべきところが、声が身体の周りから飛ばないというのではあまりにも惜しい。ロイター板を使って高く跳び上がりすぎ、距離が出なかった跳馬の選手のようなのである。私は、彼が十分に「脚力ある選手」だとみている。しかし、少しでも遠くへ飛ぼうとする思いきりと、そえを支える構想・・・つまり、声を客席に伝えるためにとらなければならないリスクの選び方が十分でないようだ。

【まとめ】

市民合唱団は率直にいって、下手であり、特に言葉の硬さは如何ともしがたいが、そんなことは初めからわかっていることで、どれぐらい、作品に誠実な歌を聴かせられるかが重要だ。その課題はオーケストラにしても同じことで、その点で、彼らはなにも恥じ入る部分はないと思う。特にオーケストラは、指揮者の小崎雅弘が奮闘して、動かないオーケストラだが、無理に動かそうとはせず、よく我慢して、徐々に狙い通りの柔らかい響きを取り出したことを称賛しなくてはならない。オケは序盤からガチガチで、それはこのような大舞台では止むを得ないことと思うが、休憩に入り、リラックスが入ってから、徐々に動きが大胆になってきた。

なんといっても、作品が素晴らしい。こころにジワジワ、ガッツリと響いてくるものがあるオペラで、それはヴェルディの傑作のなかでも、一、二を争うものだろう。そのことは実際に聴いてみてもらわないと、説明できるようなものではない。首都でこの舞台を逃した人でも、秋にN響でネッロ・サンティが指揮する機会があるので、是非、耳にしてもらいたいと思う。非常に独特で、言葉が美しく、情感を揺さぶられる作品である。

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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

ありがとうございます。また来てください!

初めてコメントを送らさせていただきます。今日偶然、アリスさんの記事を発見し、感銘を受けましたので突然で僭越とは存じましたがコメントをお送りさせていただくことにしました。歌舞伎や能に見巧者という人々がいて新聞などでそういう人達が書くコメントを読むのは(特に自分が能や歌舞伎に深い知識があるわけではないのですが)以前から好きでしたが、今日、アリスさんの文章を拝見して、とくにオペラの分野において見巧者という言葉が頭に浮かびました。自分はオペラはその中に出てくるドロドロした人間関係についていけないことが多くて(そういうものを取り込むからこそ台本というものは面白くなるのでしょうが)
あまり見ない事が多い(財布の都合もありますが・・・・)のですが、今日はアリスさんのコメントを読ませて頂いて、劇構造の構造の襞の細やかな所まで明細に明らかにされていてとても勉強になりました。わたしは今日アリスさんのカンブルランさんの演奏に対するコメントを読んで、アリスさんはオーケストラの響きに対する繊細で創造的な感性をお持ちの方だと思いました。自分はカラヤンやチェリビダッケの入魂の楽章を聴くのが好きですが(それは早いテンポの第三楽章である事が多いと思うのですが、カラヤンの場合はシェヘラザードとかではフィナーレも)、そこでは響のシェフぶりを発揮して特に入魂の仕上げを行い絶品ともいえる演奏を見せてくれていると思って居ります。そういう観点からは、チェリビダッケの演奏では戦後すぐから1985年ぐらいの演奏が好きです。彼は最初からヴォワヨンで、音楽の創造の現場に対する神のような洞察力の持ち主ですから、いくら戦後の混乱期ではあったとは言え、いきなりベルリンフィルという快挙を達成出来たのだと思います。この私のささやかな鑑賞経験をふまえさせて頂ければ、アリスさんがドイツ音楽以外でのティーレマンの演奏を高く評価なさらないというのはよく分かりました。正直申し上げますならば1、2年前まではドイツ音楽においてもティーレマンの演奏は個人的には私の好みとは違うのではないかと思っておりましたが、先日NHKの衛星第二で偶然彼のマイスタージンガーの前奏曲を聴いて、この考えを改めました。その前にも彼のバイロイトでの練習風景を放送で見てすごく良いのではないかとは思っては居りましたが、この前奏曲の演奏を聴いて、その対位法的局面での表現が新たな次元を迎えたのではないかと感じました。対位法を巧みに処理するだけでなく、そこから新たな表現が生まれていると思いました。ここ1,2年で彼はさらに急速な進化を遂げたようです。私は今日、私のフェイスブックの好きなミュージシャンの欄に彼の名前も加えさせて頂こうと思って居ります。彼が当初から欧米、特にドイツでは高い評価を得ていたというのは、やはり本場ですから、彼の成長の余白の先までも見据えた見巧者な方がヨーロッパにもいらっしゃったという事なんでしょうか・・・・長々とお付き合いいただきどうもありがとうございました。

亀レスになり、失礼いたしました。最近、どうも疲れているようです。ああ、どうしようと思って迷って横たわっていて、ふと気づくと、眠っていることが多いのです。言い訳はともかく、長文でありがとうございます。

なお、「アリスさんがドイツ音楽以外でのティーレマンの演奏を高く評価なさらない」とお書きになっているのは間違いで、ドイツ音楽を含むすべての表現において、彼の表現に納得していません。

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