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2013年8月14日 (水)

下野竜也 ワーグナー ワルキューレ(第1幕)/ベートーベン 交響曲第1番 キリシマ祝祭管弦楽団 東京公演 8/6

【概要】

霧島国際音楽祭は1975年、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のコンマスとして来日していたゲルハルト・ボッセに、鹿児島の教育者らが直訴し、この地で始まった音楽講習会を起源としている。当時の日本は世界からみても奇跡的な経済成長を遂げていたが、まだまだ発展の遅れた部分もあり、留学したくてもできない経済的基盤の脆弱な有志のために、ボッセから講習の参加者たちへ、さらに、そのまた弟子たちへと「ネズミ講」式に教えを広めていくのが狙いであったと思われる。現在は規模も大きくなり、幅広いマスタークラスと、その成果披露であるオーケストラ演奏のほか、その講師となる国内外の一流アーティストやその仲間たちによる多彩なコンサートが合併して、南九州における夏の文化圏を形成しているわけだ。

キリシマ祝祭管弦楽団の活動はその一環で、PMF方式ではなく(自註:アカデミー・オーケストラの活動もある)、サイトウキネン方式で国内外の優秀なアーティスト、オーケストラのコンマスや首席奏者、ソリストなどを集めた音楽家が一堂に会してオーケストラをつくり、音楽を披露するものである。34年目の今年、東京公演がおこなわれた。昨年2月に立役者のボッセ氏が亡くなり、喪の明けたシーズンに再出発を誓う大イベントとなった。会場には鹿児島の物産も集められ、県のゆるキャラも駆けつける盛況ぶり。1600席弱しかない東京オペラシティでの、たった1日の公演では勿体ないぐらいの催しである。演目はメインに、ワーグナーの歌劇『ワルキューレ』第1幕と、前半にはベートーベンの交響曲第1番が用意された。オペラでは独自の教育システムをもつロシアのマリインスキー劇場が協力し、強靭な声をもつ歌手たちが日本に派遣された。

後半のオペラは確かに盛り上がったが、演奏の密度としてはるかに優れているのは、ベートーベンのほうであった。ワーグナーを演奏するには独特の勘どころがあり、それを徹底的に鍛え上げて、アンサンブルに憶え込ませないと、いくら上手なオーケストラでも薄い印象しか与えることはできない。『ワルキューレ』のような傑作では、ひとつひとつのフレーズが生きているような響きで聴こえなければならず、それはドイツの劇場でも、あるいは、総本山のバイロイトでも簡単にできることではなく、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのような成功を収めることは、今日、ますます困難となっている。クリスティアン・ティーレマン? 「言うに及ばず」だろう。見事なほどに、平板だ。かつて、バイロイトを率いたジュゼッペ・シノーポリも、そんな風に平板な音楽しか奏でられなかった。生で聴けば、また別なのであろうか!

【不条理の欠如】

下野竜也がいくら楽譜を綿密に調べようとも、そこには書いてない秘密がワーグナーの作品には山ほどあるのだろう。ベルリンのリンデン・オーパーから第1コンマスのローター・シュトラウス氏を招いても、すぐに全部が解決するわけはない。下野はアイディアを膨らませ、それを必死にオーケストラと歌手に伝えたろうが、それでも、シノーポリの平板を乗り越えることまではできていない。それに加えて、後半は歌手が疲れたという実際上の問題も生じていた。ガツガツ飛ばして、声の迫力を序盤から感じさせたのは良いが、ジークムントの「ヴェルゼ!」あたりを境に、歌もオーケストラも安全運転になってしまった。ワーグナーにおいては、歌手がエンジンの役割を果たすのだから、その馬力が十分に使えないのでは、どんな経験豊富な指揮者でも如何ともしがたかったはずだろう。

そのことを割り引いても、下野のリスクの採り方は、この作品の本質に見合っていないという感じもする。ワーグナーの作品は、その構えの比類なき大きさにもかかわらず、思ったよりも単純で、簡明なシステムによって構成されている。その単純さをいかに深く抉り、奥深い人間(あるいは神、ワルキューレ)どうしの関係に辿り着くかということが、なによりも寛容なのである。今回の演奏は、大風が吹き、カタカタと窓枠が揺れるような描写、猟犬が強拍でがぶりと噛みつき、さわさわと野草が風に揺れるという事細かな描写が巧みである。下野がドヴォルザークを演奏するなら、それでもよい。だが、ワーグナーの音楽では、そうした細部にこだわりすぎると折角の単純さが失われ、ダイナミックな音楽の運びと見合わない部分が出てくるのである。だから、下野は本来、彼が見つけ出した細部の響きをいかに超越するかを考え、そこに生じる音楽的メッセージを楽譜から、もういちど立体化していくことにエネルギーを使うべきだったのだ。

また、下野の演奏で物議を醸すのは、旋律を徹底的に排除して、素材につくというような姿勢をみせたことだ。例えば、フォアシュピール(前奏)でも、低音ベースとヴァイオリンを中心とする機動的な素材が絶妙に噛み合ったときに生じる、ゆたかなメロディが感じられない。既にさらっと触れたように、強拍に大きなトレモロをつけ、小さなトレモロはこの上もなく磨き上げられて「つるり」とし、素材から素材へと目にも見えそうな美しい直線を描くのは見事だ。いわば幾何学的な模様のなかに、あとで種明かしされる素材が強調的にゴツゴツと示されている風景だった。この強拍のトレモロは想像よりも高い位置でとられ、強烈な違和感をもたらすが、コンマスの席にシュトラウスが座っていることで、ある程度、意味あるものであるはずだと受け取られる。実際、それはジークムントの語りにおいて、徐々に解き明かされていく謎なのだ。

特徴的なフォアシュピール(前奏)の演奏は、しかし、あまりにも細部に流れてしまう。このフォアシュピールはジークムントの逃避行を描くとともに、作品全体の象徴でもある。たった数分間のメッセージで、この作品に含まれる様々な神秘的な要素が語り尽くされねばならない。ワルキューレや魔の炎、ヴォータンとブリュンヒルデの対立、死と再生、近親どうしの結びつき、悲劇的英雄の胚胎、つまり、あらゆることの前兆!

ジークムントの謎解きだけを、上手に拾っていくのは不十分なのだ。なぜなら、彼はヴォータン(ヴェルゼ)の準備した運命のレールの上を走って、ここに来るからだ。ワーグナーが例えば、汽車の運行をイメージして、このフォアシュピールを描いたと考えるのも、不自然ではないような気がする(第1幕の最後なども、疾走する蒸気機関車の姿と重ねあわせてイメージしてもよい)。ジークムントは、何かに運ばれてここにきた。そして、妹と出会う。剣を手にする。すべてが、周到に仕組まれたことなのだ。下野の演奏にはそのように、見えないエネルギーに押し流されていく不条理な部分の表現がないのである。

【エンジン=歌手の質について】

それには功罪があり、例えば、最大の災厄から思いも寄らない喜びが生まれるような、そういう第1幕の喜びだけは鮮やかに浮き上がってくる。この時点では、まだ、ヴォータンの計画に綻びはない。急に響きが明転する部分から先、あまりにも爽やかな切り替えの見事さは、彼の指揮が失敗ばかりではないことを物語っている。そのあとの場面について、むしろ、問題があったのは歌手のほうで、明らかに前半より言葉に力なく、スピント的な跳躍も弱まった。このような状況下で、プランAを貫くことは難しかったろう。

マリインスキー劇場から参加した3人の歌手は、それなりに作品をふかく理解しており、世界ツアーを敢行したのを皮切りに、レパートリーで作品を扱うなかで培われた劇場の底力は十分に感じられる。この程度の歌手は、いつ、いかようにも供給することができるということだろう。アレクセイ・ステブリアンコ(ジークムント)のような大ベテランと、エカテリーナ・シマノヴィチ(ジークリンデ)、パヴェル・シムレーヴィチ(フンディンク)という若手(中堅)が組んだ公演であるが、声の強さという点ではまず申し分ないキャストだ。だが、その持続力は十分でない。特にシマノヴィチは歌曲のようにうたう部分はニュアンス豊富で、官能性が高いが、すこし声を張り上げると途端に下品な歌唱となり、後半にいくにしたがって、その「本性」が露わになってしまうような歌手であった。

細身にもかかわらず、このなかで、もっとも強い声を誇るのはバスのシムレーヴィチであるようにみえるが、そもそも、フンディンクの出番は少ないから、正統な評価はできかねる。ステブリアンコはベテランらしい安定した歌唱で、この公演を盛り上げた立役者のひとりではあろう。頻りに喉を気にしたり、咳き込んでいるような感じも見受けられたが、そのことはおくびにも出さない立派な歌唱である。ただ、後半にもういちど、より出力の高いエンジンに点火するには至らず、「ノートゥング」と剣を名づける場面も迫力に欠けた。この部分から、例えば、クナッパーツブッシュはテンポを徐々に落としていき、場面に奥深い輝きを導いて、最後、強烈な夜明けを印象づけるが、そのエンジンとなっているのは、明らかにラモン・ヴィナイの強靭で、深みのある歌唱のエネルギーなのだ。フルトヴェングラーはテンポは落とさないが、ルバートを強烈に印象づけ、響きにみるみる厚みをつけていくことで特筆できる。

そのような目立った特徴は、下野たちの演奏には指摘できず、ふかい高揚のなかにも、正直、残念に思う部分がなかったといえば嘘になる。しかし、それにもかかわらず、彼らのベストを尽くそうとするオーケストラの弛まぬ上昇力については敬意を払うべきだ。歌手を中心に下がりかけるテンションを必死に持ち上げ、勢いよく湧水が噴き出すように弾力のある響きを保とうとしたことは見逃されてはならない。

あるいは、このように言うこともできる。ステブリアンコは、きわめて知性的な歌い手である。彼らが最大の課題として取り組んだのは、むしろ、中間のまどろみの場面で、ジークムントが披露する歌曲のような部分の抒情性だと言えなくもない。もっとも謎めいて、時折、会話を遮ってドストエフスキーのように内面を詳細に描き出す間奏の神秘的なことは、今回の演奏でいちばん強調されるべきことかもしれない。

【藤原浜雄のボウイング】

さて、ワルキューレについては以上のような印象だが、実のところ、より大きな感銘を受けたのは、ベートーベンの交響曲第1番のほうだった。下野は以前から、あらゆる作曲家の「第1番」に注目して演奏しているが、これもそのなかのひとつである。ベートーベンにおいては、スケルッツォなどにおいて、既に強烈な「楽聖」の個性が表れているとはいえ、まだまだ、ハイドンやモーツァルトの肖像も浮かんでは消えしており、この機会に演奏される曲目としては当を得ているように思われる。

下野による演奏は、小気味よく爽やかな演奏にもかかわらず、十分な厚みを感じさせ、それをつくるためには、ここに集ったコンマス・首席級のメンバーがときどき音を外すような、そんな厳しい造形も辞さなかったぐらいだ。その上、演奏にいっそうの活力を与えているのは前半のコンマスで、読響時代から下野とは相通ずるもの大きい藤原浜雄氏である。微に入り、細を穿つ氏のボウイングは見た目にも美しく、機能的で、特にザクザクとしたインパクトと、浮揚的な弱いフレーズを交代を巧みにした点が特筆できる。読響を引退し、その見事な弦さばきを、もう、あまり見る機会がないのは残念すぎることだ!

【グループとしての勝利を目指す祝祭管】

ここでキリシマ祝祭管について触れると、予想以上に、志の高いアンサンブルだという感じがした。近年は教育水準の高まりを背景に、世代交代の進んだオーケストラでは、技術的に飛躍的な進歩があった。ここ十数年のあいだに、サイトウキネンをトップに、その凝縮版である水戸室内管、紀尾井シンフォニエッタ東京、それに、キリシマ祝祭管のようなタイプの「スーパー・アンサンブル」は急速に意味をもたなくなったのが現状である。いまでは、アンサンブルの精度や大胆な踏み込みでは、十分な経験を積んだ常設のアンサンブルとは比較にならないので、室内楽的な味わいを追求することで他と差別化するぐらいが関の山である。つまるところ、一過性の、お祭り騒ぎにすぎない。

ところが、キリシマ祝祭管の演奏を聴くと、オーケストラとして妥協がないという点が最初に印象づけられるのだ。状況からすれば望み得ないような、コツコツとした積み上げが演奏のなかに感じられる。ほかの道は探らず、一重にそのことに賭けているのではないか。その証拠のひとつが、先に述べたようなボウイングの問題である。また、終楽章の最後では、センターの厚いサウンドの左右にわかれたステレオで、管の響きが正しく均等に鳴って、かつ、それぞれが見事に生きているという神業をも成し遂げた。この「神業」は残念なことに、若干荒く、これがあとすこしでも、丁寧に磨きがかかっていれば、それだけで世紀の大名演と言ってもよいぐらい、衝撃的な響きであったのだ。

彼らが求めたのは、徹底的にグループとしての勝利であった。このようなアンサンブルでは、普通、それぞれの所属団体では求められないような自由に浸って、自分の表現に徹することを目的とする音楽家も少なくない。例えばフルートの工藤重典氏は、2管以上の編成があるオーケストラで、それぞれの楽器の音がちがってくるのは当たり前なのに、それを無理にもあわせろと求められないのはサイトウキネンと水戸室内管だけだという趣旨のことを言っていた(LFJのマスタークラスにおける発言)。そういう意味でいえば、キリシマ祝祭管は「いつも」の延長線上でしかない。音楽家たちはなぜ、正当な自由を求めないのだろうか。そして、彼らはとうてい望み得るはずもない、完璧なアンサンブルの完成に情熱を空費しようとするのか?

その答えを断言するための、いかなる根拠も私はもっておらず、これ以上、推測に推測を重ねることは好まない。ただ、これだけステイタスのあるメンバーが集まりながら、彼らが意地もプライドも捨てて、オーケストラとしての表現に臨んでいることは誰にも反論の余地がない。そして、それを自分たちの母体に持ち帰って、実際に生かそうとすることで、「キリシマ」を反芻しているのであろうか。多くのメンバーにとって、サイトウキネンは自分を試す場であろうが、キリシマはオーケストラとしての実践を伴う講習会のようなもの、というちがいがありそうだ。

【下野の図太いアイディア】

もしも、下野竜也という指揮者がそれに値する図太いアイディアの持ち主でなかったら、いかに郷土、鹿児島の名士とはいえ、彼がボッセの志を継ぐような地位を襲うことは考えられない。その点、ベートーベンの交響曲第1番においては、第2楽章で、予想のつかないアイディアに驚愕せざるを得なかった。この楽章=アンダンテ・カンタービレは、対位法(フーガの技法)を使ったバロック的で素朴な歌謡が印象的である。だが、下野はここに、いかにもベートーベンらしいといえる、ひとつの仕掛けを組み合わせてみたのだ。それは、ルバートである。この効果により、揺るぎない安定をもたらすはずのフーガ構造が、内側からぐらぐらと揺らぎ始める。

このことにより、第2楽章が紛れもない第1スケルッツォであることがわかる。妙な言い方になるが、ハイドン風スケルッツォといっても構わない。これに対し、第2スケルッツォがベートーベン的な真のスケルッツォであることは勿論である。三連符を契機とした激しい上下動と響きの厚み、独特のリズムなど、このあと、ベートーベンの交響曲にはつきものとなっていくものが確認される。これらの対比が浮き立つことで、終楽章冒頭の和音提示からロンドー主題を繰り返してのソナタの展開は、俄然、優美さを増し、高貴に輝く。そこにモーツァルトの肖像が浮かんでくるのは、偶然ではないだろう。そして、既に述べたとおり、この楽章の最後ではステレオ展開し、中央に陣取る帝王の響きに対して、2人の天使が軽快に舞うという姿が拝めるのである。

このような明確なプランの下に、オーケストラを導いた下野の手腕たるや、流石というほかない。これを先の『ワルキューレ』に対する印象と比較すると、私があたかも、下野はオペラよりも交響曲の指揮に向いていると言っているように、誤解を受ける可能性がある。本意は、「オペラの準備には時間がかかる」というシンプルな事実が言いたかっただけなのだ。確かに、第1幕だけなら、マーラーやブルックナーの交響曲と演奏時間は大きく変わらないはずだ。しかし、そういう問題ではなく、オペラにおいては独特の準備が必要なのだ。単に響きが良ければそれでよいのではなく、その音がそこに書かれている意味が明確で、より生きたものでなくてはならない。交響曲や管弦楽作品でも同じことだが、オペラでは、より緊密な「肉親の情」が求められるというべきだろう。

いずれにしても、この2つの演目で、キリシマ祝祭管の演奏は熱烈に、この首都で受け入れられたのは、終演後のホットな会場の雰囲気からも明らかである。無論、これは空騒ぎではないのだ。下野をリーダーに、あらゆる悪条件をクリアしながら、短期間でこのレヴェルまで到達したということに、多くの人たちが心底、驚いていたのだろう。だが、それならば尚更、私は思う。このオーケストラをいつか、霧島の地で聴いてみたいものだと。そして、現地で、人々は音楽祭とどのように向き合っているのか、知りたいと思った。

【プログラム】 2013年8月6日

1、ベートーベン 交響曲第1番
2、ワーグナー 歌劇『ワルキューレ』第1幕(演奏会形式)

 コンサートマスター:
 (1)藤原 浜雄 (2)ローター・シュトラウス

 於:東京オペラシティ(タケミツホール)

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