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2013年8月24日 (土)

志村文彦(主演 モーツァルト ドン・ジョヴァンニ ラボ・オペラ「絨毯座」 vol.6 8/21 (2日目)

【アイロニカルな笑いを追究する舞台】

モーツァルトが一体、どういう人物だったのかについては、実に様々な解釈が披露されてきた。『フィガロの結婚』に象徴されるような反権力、自由主義の尖兵としてのイメージがかつては優勢だったように思うが、近年は、よりバランスのとれない気ちがいじみた側面も掘り下げられてきた。例えば、下ネタ満載の手紙に象徴される人格的破綻や、フリーメイソンとしての神秘主義への傾倒(リンクはPDF)などの要素である。一方、欧州各地での宗教的ジングシュピール『第一責務の戒律』上演の連続現象や、『レクイエム』『ミサ曲ハ短調』以外の宗教曲の再発掘もさかんであり、モーツァルトがやはり、信仰心ゆたかであることも、改めて世に示されてきた。一体、どれが本当のモーツァルトなのであろうか?

この日、上演された演目『ドン・ジョヴァンニ』題名役は、そうした混乱の、いわば中心にいるといっても過言ではない。彼はディオニュソス的ダーク・スターとみられないこともないし、一方、来るべきフランス革命で打ち倒される貴族支配者の横暴そのものでもあり、神をも畏れぬ非倫理的存在でもあると見做され得る。女性たちは無論のこと、彼に関わる男性たちに対しても、ふかい印象を刻まずにはいない強烈な個性をもった人物でありながら、同時に、彼らすべてに怒りと恥辱を与える悪魔のような存在でもある。ドン・ジョヴァンニの存在は、時代やそこで重視される倫理や哲学、宗教によって、または、それを生きる人々の階層や境遇によっても、大きく姿を変えるだろう。例えば、それほど信仰の圧力がつよくない、自由主義下のほんわかした空気のなかでは、彼は大多数の自由市民にとって一種のステイタス・シンボルたり得るだろうし、反対に封建主義下のあらゆるプレッシャーに曝される農村や都市の下層民にとっては、反発の対象でしかない。

いま、「絨毯座」の舞台上に現れたドン・ジョヴァンニは姿からいっても、きわめて異質な存在であった。題名役のバリトン、志村文彦は声は良いものの、背が低く小太りで、頭のサイドに毛は残るが、禿頭である。気障で、女たらしの色男という感じには見えない。さて、序曲の間じゅう、舞台上はこれから始まる劇の楽屋の風景として描かれた。いよいよ衣裳がやってきて、役者たちはそれを奪い合う。いちばん最初に楽屋入りしていた志村は結局、いちばんモタモタして、自分には不釣り合いの豪奢な貴族の衣装をまとうことになった。その象徴が、序曲の序盤に出るおどろおどろしい和音と同時にみせられる、バカバカしいコケネタであった。金ぴかの衣裳に身を固めて、いよいよ「本編」に登場した彼は、歌の面ではすこしもおちゃらけていないし、むしろ、英雄的な真っすぐな声質とあって、自分などは直ちに「秀吉」を想像したほどである。確かに、これは「時代劇」だった。『水戸黄門』でもしばしば、相撲取りの大鵬をしばしば泣かせたという人情ばなし以外に、黄門様がどたばたコメディを演じたりするエピソードもあるのだが、これはもっと本質的にアイロニカルな笑いを追究した舞台だ。

【エルヴィラの二重性】

その姿勢をもっともよく象徴しているのが、ドンナ・エルヴィラの扱いだろう。普通、エルヴィラは張りのつよい声をもつソプラノが体当たりで演じ、ドン・ジョヴァンニを始終、激しく突き上げて、彼よりも、もちろん、ドンナ・アンナやツェルリーナといった他のヒロインたちよりも、最終的に人気を占めることが多い役柄だ。そこに焦点を与えるのは、ある意味、もっとも通俗的な解釈とみられる。演出の太田麻衣子女史はこの役柄を、女装した「美男」が演じるエルヴィラと、その歌の部分を助ける女声歌手+助演の役割をもった侍女とに分け、複雑怪奇なキャラクターをコンパクトに強調するスマートな知恵をみせた。

女装のエルヴィラは前半、声を潰しているような演技をして(これは彼女が来る日も来る日も、人知れず去ってしまったジョヴァンニのことを思って泣いていたことを想像させる)、時々、コメディに参加する以外は、あまり声を出さないことで、侍女前に出すことを徹底していた。そして、後半には周知のように、ジョヴァンニがエルヴィラの侍女に手を出すために策を弄する場面があって(本来は話だけで、侍女の姿は舞台上に現れない)、このために、侍女は本体から引き離され、本格的に黒田も歌い、話しはじめるという仕掛けになっていたのである。レチタティーボはともかくとしても、オクターヴ下げて歌う部分もあったし、また、歌の一部分を大隅が裏から歌って、エルヴィラどうしで二重唱になる工夫もみられた(裏から歌うアイディアはとても難しそうだった)。それらの知恵は音楽スタッフ(指揮)の須藤桂司のアドヴァイスが、実を結んだものと思われる。

【不思議な舞台】

しかし、不思議な舞台だ。演出家はいつ、どうやって、この舞台を構想したのであろうか。エルヴィラを2人に分けるのは、まあ、驚きではあるが、あってもよさそうな知恵だろう。フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』にも、アルトで指定される魔女役を男声歌手が女装で歌うこともあり、カストラートやカウンター・テノールの存在を持ち出すまでもなく、それほど突飛なアイディアとはいえない。だが、禿頭の醜男(失礼!)を主役にもってきて、主人公の性格にふかい奥行きをもたらしてみたり、彼よりもかなりサイズ(身長)が大きく、声も強い歌手を選んで狂言まわしのレポレッロ役に独特の個性を与えるなどしたことは、舞台的柔軟性とはいっても、あまりにも奔放なアイディアの為せる業だといえる。

劇作家で小説家の本谷有希子はあるラジオ番組のインタヴューにおいて、キャスティングから顔合わせまでおわったあとで、戯曲作品を書きはじめると言っていたが、それと同じような手法なのであろうか。ただし、演出の太田に与えられた自由は本谷より限定的で、なぜなら、彼女のうえには既に数百年の上演を経て、洗練されてきた作品があり、モーツァルトの音楽や、ダ・ポンテの台本は歴史的なものでもあるし、それ自体、根本的にいじくることは赦されないという事情があるからだ。多くのオペラ演出家と同じように、彼女もその点で多大な制約を受けたはずであるが、太田はそれを見事に、プラスの方向に衝き合せることに成功したといえる。つまり、演劇の良さであるフレキシビリティや演技の一回性を、音楽の良さである直感的表現や、コトバでは言い表せない様々な事柄の象徴とを、天才的にぶつけあわせることができていて、これが作品の持ち味である視点の多様性を見事に抉りだしたのだ。

【作品と言葉】

ジョヴァンニやエルヴィラが多様な見方をされるという以外に、言葉の多様性ということも表現の重要な要素となっている。イタリア語には、宗教的な言葉が世間で使われる言葉として転用されていることが多い。その代表は pace という言葉であり、これはそもそも、神の平和を示すラテン語 pacem から来ていると思われるが、そのまま、平和や平穏という意味の言葉になっている。また、pieta(aにアクセント)は我が子、キリストの死を嘆く聖母の悲しみと慈愛から、同情や共感を意味するような言葉として話されるようになった。私はイタリア語にふかく通じているわけではないので、いま書いた2つのことは辞書を睨みながら直感的に考え出したことで、実はさしたる根拠に基づいているわけではないが、当たらずとも遠からずというところであろう。エルヴィラは着物を入れ替えたレポレッロが、ジョヴァンニとして処断されそうになる場面で、この pieta を訴えて、感動的な、あるいは、見方によっては滑稽な悲憤を歌っている。

実は、この言葉の問題で、いちばん重要なのは、ドンナ・アンナ父子なのである。アンナは許婚のドン・オッターヴィオが嘆くように、彼よりも父親につよい執着があり、今日では「ファーザー・コンプレックス」という便利な言葉で呼ばれ、説明されることもある。しかし、誰でも容易に気づくことができるように、この「父親」という言葉はすぐさま、神さまと相通ずるということが重要なのだ。彼女の血縁的な父親、騎士長が最初の場面でジョヴァンニに刺し殺されたあと、アンナの歌で死に様が描写されるが、その様子は厭でも、ゴルゴダにおけるイエス磔刑の姿を髣髴とさせるのである。今回の上演はオケがつかず、鍵盤による伴奏をつけているが、オーケストラの代わりであるピアノのほか、コンティヌオのチェンバロ、さらに、ポジティヴ・オルガンの響きが用意され、いま申し述べたような印象を明確にするためか、聖なる言葉の響きには、頻りにオルガンの響きが挿入されていたのである。

つまり、アンナは血縁的父親コンプレックスであると同時に、あまりにも信仰的信念のつよい女=狂信女として見られることも忘れてはならない。オッターヴィオは表面的に、しかし、相当に激しくアンナを愛しているけれども、こうした狂気じみた部分については、正直、受け止めきれないでいるというような描き方だ。そのような姿が騎士長の死をめぐる最初の場面で、コミカルに演じられていたのである。声はある程度、あわせているものの、血をみるような部分にはきわめて消極的な演技がつけられた。同役の布施雅也の演技はすこし硬く、相手役の川越塔子の熱演に見合わないが、演出家の意図は明確だ。ただし、闖入者がジョヴァンニであることを悟った場面以降、アンナのこうした面をいかに生かすかということについては、十分な掘り下げがなかったように思われるのは残念だ。

太田の演出は、言葉の部分には正直、十分なウェイトが置かれていない。例えば、第1幕第5場、エルヴィラ登場のシーンでは、同じ作曲家の有名なモテット『エクスルターテ・ユビラーテ』(KV165)で「アレルヤ!」という神聖そのものの言葉が当てられているのとまったく同じフレーズで、とんでもない言葉が歌われている。これ自体が、モーツァルトにとっては、本当に馬鹿げたアイロニーなのだ。モーツァルトはこの時代、既に一部の音楽マニアの貴族やブルジョアジー、あるいは、心ある教養ゆたかな音楽家にしか意識されていなかった音楽修辞学に基づいた音楽を、父親のレオポルトからみっちり仕込まれて、それがわかる聴き手にしかわからない表現を満載して作品を書いていた。エルヴィラの所業はそうしたものを無視して、意味もわからず、的外れな音楽で、的外れな言葉を歌う乱れた世界の象徴なのである。

これに代表されるように、モーツァルトの描くキャラクターたちには、どこか、必ず可笑しな欠点がある。ジョヴァンニは常軌を逸した性欲の虜で、それほど豊富とはいえない権力と武力を振りかざして神をも畏れない(ローマ教皇と対立しながら、各都市が自由気ままにふるまうイタリアの象徴だ)。アンナは性欲が強いわりに、父親を崇拝し、熱心な信仰者のようなツラをしている(イタリアで信仰の守護者といったら、古くはフランスのことを指した)。エルヴィラは教養のないスペイン女で、過去の性的関係に固執して、しつこく執念ぶかい(イタリアは昔から、スペインにあの手この手で正当性を主張され、所領を掠め取られた)。レポレッロは実力がないくせに、拝金主義で権力に寄生する(ジェノヴァやヴェネツィアといった町人都市国家の代表)。ツェルリーナは美人で罪がなく、教養のわりにユーモアもあるが、世間知らずで欲深い田舎娘。マゼットも同様だが、意外に乱暴なところもあり、そのくせ、本質的には意気地もなければ知恵もないお坊っちゃんと来ている(この二者はドイツ・ハプスブルク帝国、もしくは東方スラヴ系民族の象徴で、今回の上演では字幕で、『ヅェルリーナ』とドイツ読みしている)。

それなのに、人々はこれらの誰かに必ずといってよいほど、ふかい共感を抱いて劇を観おわるものだ。

人々の長所も欠点も、すべて言葉のうえで周到に描き分けられていることが、すこしは注意ぶかい聴き手なら、誰にでもわかるようになっているはずだ。この点についての、ふかい洞察は今回の上演では感じられないのだから、これ以上のふかい切り込みは避けるべきだろうか。言葉という点に関して、いますこし本質的なアンガージュマンがかけられたはずだが、演出において、すべてを並立的に生かすことは、上演の焦点をぼかすことにつながる。

【終幕の演出について】

演出の太田麻衣子の解釈は、実に通俗的だ。レチタティーボを活き活きと、表現性を高めて歌うのは最近の流行としても、笑いの要素を増やし、エルヴィラという目立ちやすいキャラクターに焦点を合わせて、コンパクトな表現を試みた。それだからこそ、その節々に繊細な、微に入り細を穿つような表現をコツコツと挟み込んで、時間を忘れさせることができた。

特に見事なのは、終幕だ。まず、ジョヴァンニは晩餐に夢中になっている。贅を尽くした料理を用意し、最高の酒を口にして悦に入っている。我々からみて、「最後の晩餐」にほかならない風景(しかし、それがイエスと使徒たちのときとはちがって、贅を尽くしたものであることでアイロニーが生じる)が、銅像の来訪など、夢にも予想していない風だ。舞台下手の卓で幸福の絶頂にある彼は、しかし、あまり笑顔ではないようにみえる。「秀吉」のイメージが、再びつよく私を捉える。または、先日のテレビ・ドキュメンタリーで、「リッチスタン」と呼ばれる成功した経営者が、思いどおりに事が運んでも、全然、楽しそうでないようにみえたのと同じような感覚だ。そして、銅像が思いがけない来訪をすると、ようやく、彼は人間性を取り戻す!

騎士長は最初の場面で、強烈な違和感を誘ったネグリジェとナイトキャップの姿でそのまま登場。呆気にとられた。ドア代わりの雛壇が一枚、ジョヴァンニの手で「バタン!」と倒されて出現する。私は笑いを禁じ得ず、それで触発されたように周りの人もすこし笑い始めた。ただ、誰もが、この場面でジョヴァンニが「地獄落ち」すると知っているので、可笑しみを感じるのがよいことなのかどうか、つかみかねている風だ。銅像の迫力満点の語りで笑いは遠ざかるが、可笑しさはなお周縁を漂っていた。騎士長の幽霊、それも銅像が動くなんて、当時の世界でもやはり滑稽千万だったはずだ。モーツァルトは真面目に、ふざけた音楽を書いている。私は、それを確信した。

幕切れ。ジョヴァンニは、なんと舞台から客席側に飛び降りる。それを追って、エルヴィラも飛び込んだ。エルヴィラのヅラは外れ、2人の男が客席の最前に立ち上がった。これにあわせて、舞台上では冒頭の楽屋の場面に戻り、キャストが衣裳を返しながら最後の歌をうたっている。やっぱりだ!そういうことなんだ!ジョヴァンニとエルヴィラの役者が冗談を言いながらあがってきた。音楽のおわりにかけて、キャストは皆、退散する。最後、自分の衣服をとりにきたウスノロのジョヴァンニ役がそれを抱きしめたところで幕(暗転)となった。つまり、これはどういうことを示すかといえば、役者がいかに舞台を愛しているかということの表現なのである。あまりにも、感動的ではなかろうか!

【見かけや設定からはなれて】

見かけではないのだ。

否、確かに、見かけは大事なのである。今回の上演は最初に衣裳が出てきて、それを着た姿で真ん中の劇中劇があり、最後に、再び衣裳を返しておわる。醜男で、背の低い小太りの男がジョヴァンニで、長身で図太い声の狂言まわしを歌うレポレッロ、そして、女装の男声が美女に化けて歌うエルヴィラでは、数百年を生きた音楽もまったく別ものに生まれ変わる。だが、本質的なところでは、見かけは急にどうでもよくなってしまうものだ。秀吉風のジョヴァンニは、痩身で切れ長の役者と同じくらい、あるいは、それ以上の味わいで作品を生き抜くことができる。たとえ間違いだらけの配役でも、舞台を生きる役者たちの工夫によっては、作品が言わんとするメッセージが不思議と、しっかり伝わるものなのだ。

逆にいえば、見かけや設定といったものに、あまりにも囚われすぎているのが、いまのオペラの表現なのであろう。なるほど、読み替え演出とやらの功績で、オペラ作品は博物館から飛び出して、新たに現代を生き始めたのだとジャーナリストたちは主張する。しかし、そうしたものでさえ、この日のような自由さとはかけ離れている。もちろん、このような表現はモーツァルトだからできるのであって、ヴェルディやワーグナーの作品で、そのまま適用するのは難しいだろう。ヤナーチェクなら、OKかもしれない。いずれにしても、太田の演出はキャラクターに与えられたイメージやファンクションといったものを、徹底的にイチからつくりなおす。そのときに、当然、歌役者の個性や身体的特徴も考慮に入れていくという独特な手法であって、それを数百年の上演史と衝き合せて、バランスの良いものに仕上げなくてはならないのだから、これは大変である。

しかし、すべての場面が大体、隙なく見事につくられていた。しかも、装置などは、ほとんど使っていない。ジョヴァンニ邸宴会での華やいだ雰囲気さえ、音楽だけで十分描ききれるという発想である。そして、それは正しい認識であろう。

【猫足のバスタブ】

もともとは田舎夫婦の象徴物であった猫足のバスタブも、縦横無尽に活躍した。このバスタブであるが、欧米人にとっては憧れの対象であるものが、風呂文化の隆盛な我々からみると、ひどく安っぽいものにみえるものであり、太田も、その点を効果的に生かしている。例えば、NHKで放送されていた探偵推理コメディ『名探偵モンク』の主人公も、このバスタブにご執心のようだが、そのようなこだわりはこれに縛られて動けなくなる当該回のプロットや、アイロニカルで無駄の多い主人公の性格とあわせて、私たちには二重三重に滑稽に思えるものだ。この上演ではバスタブはツェルリーナとマゼットの子どもじみた結婚の幸福を象徴し、それが様々に変奏されて使われることで、より深い意味をもってくることになる。そして、これは洋の東西をよくみた、視点の交歓として効果的に機能することになるのだ。

【エルヴィラの表現について】

歌手たちは人によって技量に凸凹がないわけではないが、要所にスペシャリストを入れて、狙いを見事に的中したのは立派である。ジョヴァンニ、レポレッロ、エルヴィラ、アンナの四役が素晴らしいので、それ以外の部分にすこしへこみがあっても、それほど気にならない。これら歌役者の個性が徹底的に生かされることで、作品そのものが立体性を増すことを証明した上演である。そうした点で、既成の演出家で日本に大きな影響を与えたのは、二期会で『ティート帝の慈悲』『エフゲーニ・オネーギン』『サロメ』『マクベス』の四作を指揮したペーター・コンヴィチュニイであろう。太田もそのアシスタントを務めた実績があり、黒田や大隅は、その舞台に立ったこともある。だが、その長所は生かしながらも、今回の舞台はより客席にちかいところから発想されている点で、特徴を指摘できる。

エルヴィラを女装した男性にするのが優れた発想なのか、俄かには判断がつかなかった。私は基本的に、このブログで客席で感じたことだけを反芻して書いている。あまりにも美しい黒田の姿、そして、少ない台詞や歌に全部を傾ける表現には圧倒されたが、いま、原則に反して考えを進めると、この発想は作品全体を覆うテーマのごく一部をデフォルメしたものにすぎない。だから、私は違和感を抱かなかったのだ。

この作品では、階層や身分秩序、金持ちと貧乏、都市と田舎に対立がない。その点で、やがて来る共和社会の息吹きを、モーツァルトが十分に感じていたことは事実だ。ジョヴァンニでさえ、自由よ万歳と叫ぶ。だが、権力者がこれを叫ぶのは問題だろう。彼に悪意はない。レポレッロは従者であり、しばしば強引に命令されるが、一方で、ジョヴァンニの親友のようでもあり、ときには交換可能な存在でもある。ジョヴァンニは身分や身上を問わず、ときには容姿すら無視して女とつきあうほどの度量があった。だが、こうした共和主義者は、ドストエフスキー『罪と罰』に出てくる進歩主義者の若者、レベジャートニコフのチンケな考え方に似ている。ただ、いつも悪意がないというだけのことだ。アイロニカルなほど、愛情にこだわりがなく、その点で共和主義者のこころをもっている。

こうした点からみれば、エルヴィラが煩いわりに、なかなか本音を喋らないのに代わって、侍女が身分を越えて、彼女たちの支配者であるジョヴァンニに文句をまくし立てるのも面白いというものだ。演出家は明らかにエルヴィラに共感がつよく、そのことはプログラムに書いてあるけれど、それを読むまでもないほど、想いは明確に伝わってきた。ただ、侍女をメッセンジャーに立てることで、前半の彼女には、あまり満足していないことも表現しているのではなかろうか。そして、不自由であっても、自ら語りうたう後半の彼女に、より深い共感を得てもらいたいと思っているのは間違いない。たとえ、オクターヴを下げても、また、一部、女声の助けを借りるにしても、「彼女」自身が歌うことが決定的に作品を面白くするのだ。

このようなアイディアは誰もが真似できるものではないが、いま、書いたように、多大な効果を生じ、この舞台ならではのものを生み出すうえで、なくてはならない工夫であったと見做すこともできる。

もうひとつ面白いのは、この二重化によって、我々がひとえに寂しく、重苦しい役とみていたエルヴィラの存在が、一瞬にして軽いスーブレットの役柄にかわってしまうことだ。大隅の演技だと、オランピアのような機械人形の雰囲気も併せ持っているし、あるいは、ずっと若い少女(バルバリーナのような)のようでもある。こうして、エルヴィラがあらゆる女性のイメージを一身に内包していることがわかると、作品をみる奥行きも深さを増す。終盤、黒田がスープレットの代弁者から自立することで、エルヴィラはさらに強い個性をもった女性となり、「交換」のところで深く傷つけられることによっては、より神秘的な特徴をも獲得する。

この上演でエルヴィラに女装した男性を起用することで、演出チームと役者たちは数々の笑いを手にしてきた。だが、同時にこの工夫によって、エルヴィラの変容は手に取るようにわかる。一見、作品表現とはまったく無縁の工夫が、作品のなかで特に大事なメッセージのひとつを語っていることに気づくだろうか。

【イェズス会士のようなエルヴィラ】

エルヴィラの歌には、様々な真実が隠れている。しかし、それを言うなら、すべてのキャラクターがその人間以上のものを背負って、舞台に立っているのだ。そして、それらのファンクションは時折、上手に交換され、うまく円環を成すような構造が見て取れる。例えば、先刻、私はアンナが狂信者のようだと書いたが、ある部分では、エルヴィラがこの役割を受け継いでいるところもあった。エルヴィラはブルゴスから来たスペイン人だが、どういうことか、イタリアでジョヴァンニと出会う。台詞からして、ジョヴァンニを追っかけていたわけではなく、なにかの偶然だろう。その謎解きをしてみれば・・・。

モーツァルトの父、レオポルトはイェズス会の教育を受けたことがある。ところが、この時代、イェズス会が各地で排斥され、クレメンスXⅣにより解散を命じられる事態にまで至って、それはレオポルトの手紙にも嘆きを伴って書かれているそうだ。これはイェズス会が現地の文化や風習に合わせた布教を世界中でおこなっていたことが信仰を歪めるものと批判されたのに加え、彼らがいわば「国境なき宗教集団」であったこととも関係があり、彼らの行動は「境」をアイデンティティとする各地の封建領主たちにとって、きわめて目障りな存在として映っていたことが大きい。さて。女だてらに旅をするコスモポリタンなエルヴィラは、純真で、布教のために世界を旅してまわるイェズス会士のこころをもっている。憐れで罪深いジョヴァンニ(実は衣裳をかえたレポレッロ)が危地に陥っても、エルヴィラだけが彼のことを救済しようとするのはそんな事情だ。

フランス的なアンナは信仰者という顔をして、相手が本当に困ったときには何もしてくれないばかりか、むしろ、それを叩くほうについてしまう。マキャベリはそんな歴史に学んで、我らがフィレンツェを守るためには、傭兵や外国軍に代わる自前の市民軍が必要だと解いたのである。アンナが頼りにならないとなれば、エルヴィラだけが、真にジョヴァンニの味方となる。だが、無論のこと、私はここでエルヴィラを神聖化してみようとするわけではない。劇中におけるエルヴィラの「成長」は、かえって、観客の可笑しみを増すためのものだろうし、悪魔的な要素もある。地獄落ちの直前、エルヴィラはジョヴァンニに対して最後の救済を試みるが、彼はこれを嘲笑する。さらに、銅像が同じような要求でジョヴァンニを責め、彼はこれもはねつける。所詮、これらの慈悲は見せかけのものだとジョヴァンニはみているのであろうか!それは正しい!

【甦るジョヴァンニの愛】

この瞬間、我々は急速にドン・ジョヴァンニへの信頼を回復する。不思議なことだが、あれほど憎たらしかった色男の存在が、この地獄落ちによって、俄然、輝いてくるのである。それは多分、すべてが否定されたからだ。そのとき、ジョヴァンニの「愛」だけが残った。それ以外は、すべて否定されたのだ。あらゆる美徳。主義や主張。知性や信仰について。家柄や身分、プライド。富や権力。政治。そして、言葉さえも。みせかけのディオニュソス主義も、崩壊した。あれほど忌むべきものだった愛の真価が、こうしたときほど、痛切に輝くときはない!

今回の上演は、その愛が最終的に、舞台そのものに向けられるということが出色のアイディアである。これは歌役者たちにとって、掛け替えのない感情であり、実感だ。確かに、太田麻衣子の演出は自ら大上段に立って、天の声のありがたきを以て、役者たちをああせよ、こうせよと動かそうとするものではなかった。そうではなく、歌役者たちがたとえ、自分の役柄がどんなものであろうと、まず、それに愛情を感じるということを前提に、そこから生じる全人格を生かしきるということを徹底した舞台だ。ゆえに、彼女は、もとはといえば、歌役者たちのなかにあり、彼らが自らの手で呼び覚ましたものしか信用せず、舞台上にあげようとはしないのだ。それ以外のすべてのものは嘘であり、虚栄であり、真実でないものとされた。

そして、こうした真実は、モーツァルトの時代と私たちの時代の間で、寸分、変わるものではなく、普遍的である。私たちが笑うとき、モーツァルトの時代の観客も同じように笑ったであろうことを、随所に感じたものだ。無論、時代は変わり、価値観も移り変わり、国もちがえば、喋る言葉も、食べるものも、みな異なってはいるだろう。役者だって、ちがっている。だが、私たちは決められた音楽と、それが規定する時間やリズム、テンポを共有している。また、モーツァルトの音楽は言葉と密接に結びつき、その時代、そこにあった空気やその振動さえ、甦らせてくれるのだ。これが単なるコトバと所作の芸術である「演劇」の舞台とは、異なるところであろう。音楽は、正に時代を表す言語として生きつづける。やがて、その機能は少しずつ・・・アーノンクールによれば、革命を境にして急速に、世界から失われていくが、まだ、モーツァルトの時代にはギリギリの、最後の火花が散っていた。

歌劇『ドン・ジョヴァンニ』とは、そんな意味での傑作であった。既に触れたと思うが、最後に志村が衣裳を握りしめて無上の笑顔を見せるのが、舞台への限りない讃美になっている。この上演を、歌役者たちは本当に楽しんだであろう。彼らの提案は、ほとんどすべてが演出家によって認められ、ときには、その提案がちょっとしたアドヴァイスで飛躍的に高められて、舞台を面白くしたはずだ。確かに、役者によっては、そのレヴェルが高い人、低い人はいただろうし、こういう舞台では、その巧拙はいよいよ明らかになってしまうのも皮肉である。だが、そのことをいちいち書き立てて批判するのは本意でない。どうでもいいことだ!

最後に、このように書いておわりにしたいのである。本当に、面白かった。会場と舞台の上に、距離がなかった。

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