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2013年9月24日 (火)

メッツマッハー チャイコフスキー 交響曲第5番 新日本フィル 多摩定期(特別演奏会) 9/15 

【NJPの課題】

前週の読響の演奏を耳にしてしまうと、新日本フィル(NJP)の課題は多いように思われる。だが、このメッツマッハ―の胸に身を託して、努力を重ねていくならば、その差も徐々に埋まっていく可能性はありそうだ。ポテンシャルとしては、NJPは非常に豊富なリソースをもっており、それは国内の各楽団のなかでも相変わらず、トップ・クラスにある。しかし、この楽団のキャラクターにも関わることだが、個のノビノビした表現を尊重するあまり、アンサンブルとしての凝縮がなかなか進まないというところで水を開けられてしまうのだ。結果として、個のノビノビした印象も、思ったより聴き手に深いインパクトを与えないことがある。

【1羽目のフェアリー】

さて、今回の演奏会は、やや手の込んだものである。一応、「ロシア・プログラム」という括りで固められてはいるが、プログラムされた3曲はいずれも、この地域で(つまりは世界的にも)傑出した個性を放った作曲家の傑作が集められた形だ。そして、前半に演奏されたムソルグスキーの歌劇の前奏曲と、スクリャービンの交響曲第4番「法悦の詩」はまったく別の曲にもかかわらず、つづけて演奏され、後半に演奏されたチャイコフスキーの交響曲でも、すべての楽章がアタッカ気味につづけられた。

特に、前半のプログラムは珍しいものだろう。ムソルグスキーの歌劇『ホヴァーンシチナ』の前奏曲、通称「モスクワ川の夜明け」と、スクリャービンの交響曲には表向き、深いつながりは感じられない。しかも、2人は、個性派ぞろいのロシア音楽のなかでも、選りすぐりの異端者である。酔いどれながら、近代ロシア史の要所をグサリと突き刺した天才作曲家と、神秘主義に傾倒し、超越的なものに限りない現実をみたピアノと管弦楽の大家。しかし、メッツマッハーは、これらの音楽を象徴する夜明け(日の出)によって、まったく異なる巨匠たちを関係させてみようと思いついたのであり、そのアイディアは出色であった。

まず1羽目のフェアリーが曙光に満たされる朝の輝きのなかで、最初の5分を自由に羽ばたきまわる。あまりに奔放で、これから始まる血なまぐさい悲劇を語り出すには、とても頼りないほどの小さな1羽の天使だが、草原や森を健気に羽ばたきまわるのだ。よっぽど、ムソルグスキーの音楽とは大抵、そんな風にいびつな構造をしているものである。例えば、有名な組曲『展覧会の絵』にしても、鼻歌のような「プロムナード」のごく単純な旋律線から、壮麗な「キエフの大門」のサウンドに発展していくことを思い出してほしい。さて、モスクワ川の天使を描く中心となるのは、木管の中心的なトライアングル、クラリネット、フルート、オーボエであり、特にクラリネットの鈴木良昭(楽友)とフルートの白尾彰が繊細な響きを大事に吹き上げて、ベテランの味を遺憾なくみせた。予想どおり、頼りない未熟な天使は、ポトリとモスクワ川に落っこちて、それを受けるようにして、次の天使が現れた。

【2羽目のフェアリー】

2羽目のフェアリーはやや明け透けな印象で、木管系から金管系にかわるのが特徴だが、こちらも非常に精細な演奏である。ムソルグスキーにおいては、いわばユトリロ的で、まだ具体性が支配していたが、スクリャービンでは一挙に抽象画の雰囲気となる。いま、調べてみると、大正時代の画家、神原泰が、実際に、この作品を抽象画で表現しているが、その絵は正に、スクリャービンの音楽に忠実なものである。黒い雲のような部分。茶色で描かれた丸っこい大地(道)。グロテスクなまでに深い紅で描かれた陽光の部分は、それを切り裂くように雷か蛇を思わせるギザギザの線が中央に走っている。これは、女性の唇のようにも見えなくはない。中央には人間の笑顔のような表情が見え、だとすれば、平安美人の表情を描くが如くである。その右目(向かって左側)の部分はツイスト状の層としても描かれており、見ようによっては女の乳房とみえなくもないものだ。全体の雰囲気はミステリアスで、明け透けではない程度にエロティックな印象も、醸し出している。

確かに、この作品(法悦の詩)には性的な裏の意図があるが、それもフェアリーの目を通したものである。性的描写は無論、マルキド・サドなどの例を出すまでもなく、芸術的表現たり得るものだ。しかし、スクリャービンの場合はある種の偶然か、もしくは、多少の意図的なすり合わせを含みながらも、より純真なもので、それよりは奥のほうに本当のメッセージが隠れている。メッツマッハーの挑戦はスヴェトラーノフが録音で残したような、あからさまな権威主義的演奏に没頭するソヴィエト・ロシア的な伝統スタイルを排し、作品本来の清らかさ、ピュアな詩情に焦点を戻そうとするものである。そのために、1羽目の天使が必要だったと言えなくもないだろう。バレエ音楽のような動きも導入され、引いては押し寄せ、また寄せては返していく波のイメージのなかで、メッツマッハーは豊富なアクションでオーケストラを活き活きと導くことに成功した。

そして、むしろ1羽の天使の神秘的な体験として、作品を描いていること。これも重要なことだ。12時を打つ鐘の音とともに、天使は封印されていた響きを解放していく。ここが、クライマックスになっている。つまり、最後のところは、期待に反して、もう山を下り始めているのがわかるほどに、張り詰めたなかにも抜き気味なところがよくみえるのだ。このフィナーレには正直、悶々としたが、いまになってみれば、なるほど思慮ぶかい判断に基づいたものであったように思う。

【リストラクチャーされたチャイコフスキーの交響曲第5番】

ところで、舞踊音楽が根底にあることでは、チャイコフスキーの交響曲第5番も変わらない。既述のように、この作品でもメッツマッハーは全4楽章をアタッカ気味につづけたが、そのことはさほど強調的に言うべきでもないような気がする。そんなことより、メッツマッハーが狙ったのは、バレエの舞台のひとつひとつの場面でもみせるように、こころを込めて、活き活きと素材を描ききるということであった。

テンポ設定、アーティキュレーション、明るく浮揚的にとられた音色などをみると、全体を通して、「戦争交響曲」としてのおどろおどろしさや、その結果から来るもの寂しさは極限まで取り除かれている。私はチャイコフスキーの交響曲は、1番から3番までがすこぶる文学的で、ロマン派的な味わいをもっているのに対して、4番以降は戦争の影響を顕著に受け、軍楽マーチが正負の意味でふんだんに使われ、それを通して、内面的な深みに影がついて深まっていくという印象をもっていた。今回、メッツマッハーの演奏では、チャイコフスキーはこの5番にあっても、最初の3つの交響曲とは基本的に、同じようなスタンスをとっていることになり、私の抱くイメージとは大きく異なっている。そのせいもあって、率直にいって、このチャイコフスキーの演奏は私のなかに十分響くことはなかった。

この演奏姿勢は非常に困難なもので、チャイコフスキーの音がもつ特徴を2、3は、完璧に書き換える必要がありそうだ。露土戦争(前線への慰問)などの歴史的経験を通じて、チャイコフスキーが取り込んだ戦争の重みと真正面から取り組む場合よりも、バランスがとりにくいのは明らかであろう。そして、このリストラクチャーを実現するためには、3連続公演の2日目の演奏となる多摩定期でも、まだ不十分な要素が多かった。

【第4楽章の成功・・・しかし】

だが、第4楽章に来て、メッツマッハーは上に書いたような表現意図を、ほぼ完全に爆発させることを得た。普通なら、戦争の恐ろしさが回想されるような部分で、彼らは接吻の雨を降らしたのだ。すべての素材、リズム、その組み合わせ、アーティキュレーションが、愛の表現と密接に結びついていることは、確かに、彼の「言う」とおりである。しかし、そのメッセージのあとも、一貫してイン・テンポでいく姿勢は、あまりにも手際が良すぎるような印象も拭えなかった。これでは、大事なメッセージが思うように膨らんでいかないのだ。結局、このように手の込んだ演奏をしても、例えば、キタエンコが東響のメンバーとともに、端整、かつ、力づよく響きを燃焼させ、作曲家の内面に大きな傷を与えたような出来事とも向き合いながら、最終的に、オケからすべてを搾り取って誠実に得た勝利と比べて、何程のものも得ていないのではないか?

ただ、繰り返し言っておきたいのは、この日、起きたことが彼らの究極的な目標ではなかったはずだということなのだ。多分、折からの台風接近を受けて、急遽、前日入りに切り替えたという、外せない三重公演で聴くことができたなら、もうすこし力強く成長した音楽を聴くこともできただろう。

ワーグナーと比べれば、チャイコフスキーは簡単だと思う人も少なくないだろうし、実際、そういう面も多いのであろうが、今回の2プログラムに対するアプローチについてのみを比べるならば、チャイコフスキーのほうがより難しく、根本的な発想の転換を必要としたように思われる。それと比べれば、ワーグナーのほうは、オーケストラが予め、大体、こうであろうと予想しているものに対して、まったく思いも寄らないようなアプローチが来ることはあまりなかったであろう。その求めるレヴェルがひときわ高いのを除いて、また、バランスに対する目を瞠る驚きがあったとしても、彼の音楽づくりは地に足がついていた。メッツマッハーが実に独創的なアプローチをとるという印象は、この日の演奏を通じて、より顕著であったといえるのだ。

今回の2プログラムも入魂の、アイディア満載で、実に鋭い知的刺激に満ちていた。しかし、9月の期初を務めたあと、次回のメッツマッハーの来日は期末の2014年7月となっており、首を長くして待たねばならない。それまで、多彩な客演指揮者を相手に、弛まぬ山登りの歩みをつづけてほしい。先日の読響の演奏会を聴いて、感じたのだ。最後はやっぱり、個人が自分に満足せず、どこまで高めていけるかで勝負は決まってくるのだ!

【プログラム】 2013年9月15日

1、ムソルグスキー 前奏曲「モスクワ川の夜明け」~歌劇『ホヴァーンシチナ』
2、スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」
3、チャイコフスキー 交響曲第5番

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:パルテノン多摩

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