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2013年9月 9日 (月)

メッツマッハー ワルキューレ(第1幕)/ツァラトストラかく語りき 新日本フィル トリフォニー定期(第2夜) 9/7

【神秘体験】

インゴ・メッツマッハーは、グレート・コミュニケーターだ。「音楽とはコミュニケーションである」というのは、私の持論であり、メッツマッハーなどはその持論を体現する象徴的な存在であろうかと思う。私は音楽を通じて、それを書いた作曲者や、演奏する音楽家のこころと通じあいたいと願うのであって、その志ある音楽家のみを尊敬する。ところで、この日、すみだトリフォニーホールの15列7番に陣取って、私は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラかく語りき』を聴いていた。低音の雰囲気が十分に充満するまでなら、どれだけ引き延ばしても構わないというような序盤の「フェルマータ」から、一転して高い機動性と輝きに満ちたファンファーレとその背後のアンサンブルが展開。人間的で、かつ、それを超越する神秘性に満ちた弦楽器トップ奏者による「室内楽」で幕を開け、朝と夜が交錯するアンサンブル劇の幕が切って落とされた。

その後のある瞬間、私は切実な錯視に曝されたのを記憶している。私の席からみて、無論、舞台は少し高い位置にあるわけだが、座席も15列目まで下がると、それほど見上げないで演奏を眺めることができるほどのレヴェルになっている。当然だが、それより前の客席は、私のいるところよりも低い位置にあるはずだ。ところが、この瞬間、私は航空機に乗って空に舞い上がっていくときのような感覚に襲われ、14列、13列、12列・・・と次第に見上げるような位置に来たように錯覚し、当然、舞台はかなり高い位置に感じられたのである。そして、そのはるか上にあるオルガン席は、正に、ツァラのいる高い山のように思われたのだ。不思議な体験!

この神秘体験以降、私は完全にメッツマッハーのメッセージをつかみとることができたように思うが、それは傲慢な言い方だろうか。

【夜と朝の交代】

高さを知るためには、自らの低さを悟ることが重要である。冒頭部分に象徴されるように、メッツマッハーは徹底的に、低い音を攻略しようとした。それは正に、日本のアンサンブルがそれと気づきながら、怠ってきた課題であるのかもしれない。実際、良いバス奏者がいないわけではなく、それを生かそうとする全体の意思が弱かったとするしかない。冒頭部分以上に象徴的な場面がある。「学問について」のパートでコントラバス・パートがディヴィジになり、徐々に数を増やしていく部分である。ここでメッツマッハーは後ろのプルトから順に響きを近づけるようにして、最後にフロントが加わるようにもっていった。この工夫はきわめて高踏的な知的配慮に基づいており、トップが加わって音楽的充実が完全に熟しきったときに、そこから文化がパッと花開いていくような力づよいイメージをつくることに成功している。

このパートはあとに出てくる舞踏曲を最後に予告し、いちど静まってから再度、高揚して対立を深めたあと、総休止を挟んで、交響曲の再現部のようになる構造をしており、先のコントラバスの低音が効果的なターニング・ポイントになっていた。総休止の前後では、音楽はまるでちがう。人が夢から覚めたように、穏やかな夜がそこにある。「どうしたんだ、俺にはなにも起こらなかったのか」。夢と現実は交錯しながら、最後まで、それぞれの領域を守りつづける。「夜のさすらい人の歌」のなかで、それらは密やかに混ぜ合わされるだけだ。

低音に象徴される夜の音楽と、導入部の有名な「自然の動機」による朝(日の出)の音楽が交代的に現れ、結局のところ、「舞踏の歌」で人間的に解体されてしまうのが、この音楽の本質だ。崔コンマスのソロは肉厚さには欠けるが、ふかいルバートを刻み、それには簡単に追随してこないアンサンブルを適切なポジションで引っ張っている。アンサンブルはウィンナー・ワルツのリズムを誇張的に強調しつつ、ルバートには参加せず、イン・テンポであるところに皮肉が生じるようだ。一時、独奏につよい賛意を示して響きが輝く部分もあるが、完全な一致はみないでつづく。こうした分離的な試みが放棄されたあと、音楽は圧倒的に強みを増すものの、そのなかに、チョロチョロと独奏の影がみえるところなどが面白いのだ。

あとの『ワルキューレ』でもそうだったが、メッツマッハーは時間の流れを描くのがうまかった。どこで見つけてきたのか、魅力的な音色のする鐘を象徴にうまく使ったりして、ココは朝、あるいは、夜。夢のなかの朝。夢とともにある夜・・・と明確に描き分けるのである。ソプラノ歌手の宮部小牧のリサイタルで、この歌は何時、また別の歌は何時と、歌からイメージする刻限を明確に明示して1日を表現した演奏会があったが、メッツマッハーはそれと同じような発想をもっている。だが、朝と夜に絞り込むことで、コントラストを明確にし、それらの深みを容易く抉れるようにしたのである。

【官能性】

楽曲の最後では、トリスタン和音に似たようなものが現れ、眠りのなかに終結する。この眠りのモティーフのようなものは、例の総休止のあとに印象的に出現しているほか、随所に味わいぶかく演奏されているが、これは現代音楽で、人がいびきをかくような音がよく描写されることを思い出させて面白かった。ある意味、人間が眠っているときほど、人間らしいときもないであろう。このような響きが、ツァラのような哲学的作品を私たちの身近なところに連れてきてくれるのだ。夜、眠り、人間性・・・こうしたキーワードから、ときにはベッド・インのことを想像する人たちも存在するだろうが、そのような人たちはきわめて健全というべきだ。メッツマッハーも結局は、こうした作品の官能性を力づよく表現したのである。だからこその、トリスタン和音なのであろう!

ワーグナーでも、リヒャルト・シュトラウスでも、メッツマッハーは「官能」を艶々しく描いた。それは実のところ、このような文章では表現しにくい、響きの質から感じ取るほかないメッセージだ。例えば、「舞踏の歌」の冒頭で、導入部の主要主題が断片的に登場するトコロについて見よう。リンクのケンペの録音を聴くと、きわめて健康的で、ある意味、田舎くさい。一方、別のリンクでマッケラスの録音を聴いてもらうと、いっそう堂々として高貴な味わいがある。しかし、シュトラウスによる自作自演盤を聴くと、もっと謎めいてダラダラと甘ったるい感じがするのに気づくのではなかろうか。メッツマッハーの演奏は、これにいちばん近かった。

リヒャルト・シュトラウスはともかくとして、ワーグナーを官能で描くのは、あまり好まない聴き手もあるかもしれない。彼らにとって、この作曲家は男根的な象徴であらねばならず、軟弱な貴族的官能とは無縁であるように思われるからだ。彼らは一生、ワーグナーを正しく理解することはない。バイロイトに通い、通を知るワグネリアンと自称しても、その本質を理解しないなら、何の意味もないのだ。ティーレマンでも聴いて、無益な自慰行為に耽っておればよかろう。ワーグナーから官能を抜いたら、一体、なにが残るのか?

【対話型】

この日の演奏について率直にいえば、前奏のところでは、ややガッカリした面もなくはなかった。この前、キリシマ祝祭管が表現したように、響きのフォルムを明確に抉り、豊富なイメージをあとに残すということでいえば、新日本フィルの演奏はいささか退屈なようにも思えたろう。少なくとも、私が理想とするような、すべての音に意味があり、生きているというような世界には程遠かった。響きがあるときは直線的に不気味なラインを描き、それが面や立体に拡大して、叩きつけられたり、鋭く振動することで得られるような、あらゆる劇的なイメージは彼らの演奏で生じることはなかったかもしれない。しかし、弦によるメロディが動き出し、いよいよ劇が始動してからは、急速に期待が膨らんでいくのを感じた。

この第1幕では、管弦楽はプレリュードと、残り10分くらいの印象だけが記憶に残りやすい。中盤は歌手に任され、その周りで管弦楽は歌手を守り立てる役割に徹し、時折、鋭く情景描写で印象を強めれば、それでよいようにも思われる。結局のところ、ココだけを演奏するなら、歌手の力がモノを言ってくるだろう。ところが、メッツマッハーとしては、いよいよ、響きが静まってからあとの部分こそが、腕の見せ所と感じられるのである。4人目のキャラクターとして、管弦楽が背景に身を潜める。

ここで、歌手について述べよう。

ジークムントのヴィル・ハルトマンについて言えば、十分に満足ではない。現在の楽壇において、その劇場の評価を賭けた重要な公演にもかかわらず、この程度のヘルデン(?)しか起用できない現実があるのは嘆くべきことだと思う。しかし、少なくとも、彼は音響のなかで身を失うことはなく、最後の台詞の鋭さは印象に残ったし、剣を名づける場面でも、その名前自体ではなく、「鞘から抜けて来るがよい」と呼びかける部分に力を込めるなど、アッと思わせる知的な表現があって、大体において退屈でも、メッツマッハーが気に入って使っているだけの価値はあると思われた。これに対し、ほかの歌手、つまり、世の中にいる名声の高い歌手たちと比べても、明らかにものがちがうのはジークリンデ役のミヒャエラ・カウネだ。何十年にいちどしか現れない優れた歌手であると同時に、天性の女優でもある。いっぺんでファンになった。

彼女は新国の舞台にも出演したことがあるし、これまで、実際に耳にしたことがある人も少なくないはずだが、彼らの口から出てくる言葉は到底、受け容れることができない。僕は自分の聴力に自信があるほうではないが、この問題に関しては、すこしも譲る気持ちがないのだ。彼女の歌が理解できないなら、何のためにオペラを聴くのだろうか。

最初の場面、来訪者に気づいて、細めた声でひとりごちる言葉だけで、その表現力の高さは明らかであった。声はひそめても、彼女は聴き手に対して、大事なところを「ピン」とわからせる力がある。冒頭の台詞は、よくよく見れば、それ自体、作品を象徴するキーワードになっている。「知らない人だわ、尋ねてみなければ」。この姿勢が、後々まで大事というわけだ。声音を変えながらも、歌の軸は常に定まって動かず、小さく呼びかけるときも、情熱的に迫るときも、その軸がぶれない。女優としては肩にかける青いショールを巧みに使い、フンディンクが帰ってくるときはガウンのように深く身体を覆い、貞操を装い(つまりは、既に誘惑されている)、ジークムントと兄妹の名乗りを上げるときは、もう椅子の上に捨てて肌を露わにする。ジークムントの恐ろしい告白を聴いたときは、そのショールが情感に合わせてずり下がるという感じである。

これらの歌手たちと、いわば対話型でオーケストラの存在感が示されていた。メッツマッハーはフォルムをガッチリ守るというよりは、歌手たちの声やそのスタイル、あるいは、それらの関係や組み合わせにより、フレキシブルに動かせる範囲を広くとっている。このような場合に重要となるのは、一体、どこまでが許せて、どういうところは譲れないのかという基準を明確にしておくことだ。その点でも、官能性というキーワードはきわめて重要だろう。

いちばん印象に残るのは、フンディンクが去ってからの場面だ。彼を象徴する金管の断片的な響きが、ジークムントが完全アウェイにあることを告げ、生き別れた父の言葉にみえない希望をうたう場面だ。嵐のあとの雨だれのように、しとしとつづく響きは、いつまでも鳴り響くように聴こえた。ジークムントの不安。しかし、ジークリンデが味方につくことでハッキリと転換し、フンディンク家はたちまち、兄妹にとって愛の園と変わるのが響きのうえで、よくわかる。この日と同じキャストを使い、欧州で上演される『ワルキューレ』は、このようなメッツマッハーの音楽的姿勢をみる限り、ジークムント、ヴォータン、フンディンクという英雄たちよりは、それを支える女たちの支持を得た者こそが勝つというコンセプトになりそうで、なかでも、前半はジークリンデ、後半はブリュンヒルデに焦点が合わされるのであろう。抜群の歌手、カウネがジークリンデに当てられているのは偶然とは思えない。

【粘りづよい表現力】

メッツマッハーのもうひとつの特徴は、粘りづよい表現力ということになる。特にドイツ・オペラにおいて、このことは非常に重要な要素と思われるが、ひとつひとつの素材が場面ごとに打ち捨てられずに、どんどん溜まっていくような感覚だ。ワーグナーにおいては、これがライトモティーフの集積という形で全体を構成することになる。イタリア・オペラのように、その場限りの素材しか生かせないような指揮者だったら、こうした骨組みを十分には生かせない。この能力は具体的に述べることが難しいが、メッツマッハーは明らかに、この面で特別な才能をもっている。一例をいえば、先にも述べたように、「時間(の流れ)を感じる」ということがある。これはリヒャルト・シュトラウスの作品でも、共通の課題だが、メッツマッハーの音楽づくりでは明確な一貫性が指摘できる。

『ワルキューレ』においては、真夜中の嵐の風景に始まり、サワサワと吹く風が不気味にうごめく序盤戦。やがて、徐々に雨が上がると、夜はさらに更けていき、完全に雨の雰囲気がなくなると同時に、兄妹の距離はl急速に縮まっていく。最後の剣のモティーフで朝日が燦然と輝き、圧倒的な高揚を迎える。人間の情感の流れと時間、そして、天候や自然現象が密接に関連し、緻密に舞台が構成されていくのだ。そのなかに、重要なモティーフが散らされ、印象づけられていく。ほかのどんな要素が良くても、こうしたものをしっかりと出せる指揮者はそう多くない。

【まとめ】

どれだけ素晴らしい公演だったといっても、この演奏会は、まだ「就任披露」の段階でしかないのである。数年後が、本当の見ごろであるが、既に、この前の来日時のアルペンよりも、大分、意義ぶかい前進はみられた。前任者のアルミンクも舞台作品では非常に印象ぶかい評価を受けてきたが、今度の人は格がちがうのではないか。私は数年後、NJPのメンバーが今とは比較にならないほど、高い山を登っている風景が想像できるのだ。そして、前回のシリーズでも同じようなメッセージを感じたが、メッツマッハーは是非とも、この山登りに我々の後押しを必要としているようである。彼にとってのオーディエンスは、ジークリンデであり、ブリュンヒルデのような存在なのだ。英雄は、それは努力する。だが、それを受け容れ、助ける人のこころを掴んでこそ、はじめて英雄たり得るのではないか。

音楽的なメッセージを伝えるだけではなく、メッツマッハーはいくつかの異なる面で、私たちに語りかける能力とアイディアに満ちているのだ。欧米では、いまや、そうした努力はオペラの演出に頼りきっている。確かに、メッツマッハーもコンヴィチュニイ演出とともに、ハンブルクでの評価を高めたようにみえるが、彼の場合はそれだけではなかった。彼自身が、コンヴィチュニイ的な対話力に優れていたのであり、それが後任のシモーネ・ヤングとは決定的に異なっているのである。このようなボスを迎えた新日本フィルが、どこまで高い山を征服することができるのか、期待は高まるばかりであるが、その鍵を握るのは実に、我々のほうであるのかもしれない!

【プログラム】 2013年9月7日

1、R.シュトラウス ツァラトゥストラかく語りき
2、ワーグナー 歌劇『ワルキューレ』第1幕(演奏会形式)

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:すみだトリフォニーホール

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