2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« メッツマッハー ワルキューレ(第1幕)/ツァラトストラかく語りき 新日本フィル トリフォニー定期(第2夜) 9/7 | トップページ | メッツマッハー チャイコフスキー 交響曲第5番 新日本フィル 多摩定期(特別演奏会) 9/15  »

2013年9月22日 (日)

カンブルラン ストラヴィンスキー 春の祭典 ほか 読響 芸劇マチネー 9/8

【晩夏に演奏される春のプログラム】

読売日本交響楽団は、ゲルト・アルブレヒトが常任指揮者を務めた時代から、飛躍的に能力を高めた。その功績はしばしば、アルブレヒト、スクロヴァチェフスキ、さらに、当代のカンブルランや、長く正指揮者として楽団と紐帯した下野竜也といった首脳陣、さらには、ロジェストヴェンスキー、テミルカーノフ、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスなど、独特のビルディング能力を備えた客演指揮者陣によるものと解説されるが、これだけ長きにわたり、意義ぶかい上昇気流を捉まえるに当たっては楽団員個々の高い意識というものが前提されるのは当然のことであろう。

この間、読響は菅原淳、生沼晴嗣、星秀樹などというスター級の楽員を定年によって手放しており、それにもかかわらず、目立った穴を開けることなく、カンブルラン体制も3期目を迎える今年は、再びアルブレヒト時代に誇ったアンサンブルの凝縮が進んでいる印象を抱く。

真夏をすこし過ぎた時季ではあるが、「春」をテーマに括られたコンサートは、まったく異なる3つの響きとシステムによって語られねばならない。ドビュッシー、シューマン、ストラヴィンスキー。ドビュッシーとストラヴィンスキーについては、既にヘンスラーから録音をリリースしており、シューマンの交響曲については録音がないが、その代わり、グロール・クラシックスというレーベルからオラトリオ『楽園とペリ』がリリースされている。この作品はピリオド派が特に重視する演目のひとつで、出身地から当然、期待されるフランスもの。長らくドイツのオーケストラや劇場で活躍し、ピリオド派としての声望も誇ること。さらに、近現代音楽の新しい思潮にも広く通じたカンブルランの能力と経験を確かめるようなプログラムになっていた。また、ドビュッシーの「春のロンド」(管弦楽のための映像)、シューマンの交響曲第1番「春」、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』はいずれも、舞踊と関係ぶかい作品である。縦横の軸が細かく張り巡らされた、知的にも奥行き深いコンサートが幕を開けた。

【演奏会の隠れテーマはいのち】

まず、最初のドビュッシーで印象的なのは、やはり音色であったと思う。響きがこんもりと浮かび上がり、ふっくらした響きで豊富に奏でられる音楽は、過去の読響では、そうそう耳にしたことがないものであり、冒頭から驚かされた。最初に言ってしまうと、この演奏会の隠れたテーマは「いのち」である。その意味合いは作品によって異なるが、この「春のロンド」では、舞踊的な味わいがつよく、祝祭的であるところにいのちの輝きがある。最後にバレエ作品がプログラミングされているが、プロヴァンス太鼓が効果的に用いられるなど、リズム動機が活き活きと生かされて、舞踊的な味わいは意外にもっとも濃厚に印象づけられた印象だ。打楽器のほか、管楽器の押し引きが絶妙に決まり、「ロンド」の形式的な単純さを感じさせずに、ゆったりと雰囲気をつくっていく演奏が秀逸であった。

【シューマンの古典派的教養】

シューマンの交響曲第1番は、鍵盤的な細かいリズムが生かされ、抜群に歯切れのよい演奏になっている。このことを実現するためには、異なる楽器、音域でありながら、ピアノの鍵盤を叩くように、ある程度、響きが均一でなくてはならない。各モティーフが齟齬なく、ゆたかな響きで生かしきられて、丹念で芸の細かいハイドン的演奏から、終楽章の最後で、ついにシューマンらしいものが完全に胚胎する瞬間まで、この作曲家の「成長」物語を楽しんで拝聴した。

いま書いたように、序盤はまるで、ハイドンのように聴こえた。小気味よい舞踏的な旋律と、それを度々裏切っていく手の込んだ音楽のアイロニー。そして、それらを構成する手もとのゆたかな動きは、「ゲスト・コンサートマスター」として出演のデヴィッド・ノーランの手技からハッキリと確認できた。ロンドン・フィルでテンシュテットを支えたことで有名なノーランだが、そのテンシュテットはハイドンも得意としていたのである。無論、カンブルランのハイドンは、テンシュテットと比べれば、はるかにコンパクトで機敏なものだが、ココはシューマンのはなしである。序盤のシューマンは明らかに、ハイドン、もしくは、より古いバロックの影響を濃厚に残している。ベートーベンの影もみえるだろう。とかく、シューマンはこの時代で、驚異的な音楽的インテリジェンスを誇っていた。ただし、ハイドン的な手の込んだ構造にもかかわらず、クライネス・コンツェルトハウスの演奏会に触れて述べたように、バスの動きはきわめて単純である。この二重性が、きわめて面白い効果を生む。それはベートーベン的な力強い構造の動きを導くとともに、旋律の舞踊的な特徴からは、ドヴォルザークのような単純極まりない歌謡的特徴も顕著となるのだ。ここから、録音によっては直ちにシューベルトの交響曲なども連想できるが、カンブルランにおいては、不思議とそれがなかったのはどうしてだろうか。

ドヴォルザークはきっと、シューマンをふかく研究し、まるで父親のように慕ったのではなかろうか。それなら、ブラームスが親しみを感じたのも、自然に理解できる。彼は明らかに、ドイツ古典派~ロマン派音楽のあまりにも素直な継承者であった。

シューマンの作品が古典派的である証拠には、対位法的な構造の多様がある。カンブルランのイメージするシューマンの対位法には、さらに特徴があり、それは既述のように、目立って鍵盤的な響きであった。膝の上でピアノを弾くような動作をして響きを追っていくと、この交響曲の大部分は上手に当て嵌まるのである。「いのち」ということでいえば、これこそが、シューマンの交響曲第1番における「いのち」である。つまり、対位法的部分の鍵盤的な処理である。しかし、旋律線は非常にシンプルに生かし、単純さと複雑さを隣り合わせに置くようにする。このスリリングな展開に、私は文字どおり夢中になった!

緩徐楽章は、よりバロック的である。ベートーベン的に誇張される演奏もあるが、カンブルランと読響の演奏から紡がれるイメージは、より根源的に古いものである。管楽器が前面に出るようにバランスされ、そのことが古典的要素を強めている。第1楽章との関係から、第3楽章が活き活きしたものになるであろうことは想像に難くなかったし、実際、そのようになった。このスケルッツォは歴代の名指揮者たちによっては、様々な工夫がみられるが、カンブルランの演奏はライヴならではのゆたかな響きを前提としたもので、フォルムについては、それほど目立った工夫に満ちているわけではない。

終楽章では、彼の同時代のヒーローで、友人のひとりでもあったメンデルスゾーンへの挑戦心が窺われる。そして、最後にアルペン・ホルンが鳴ってからが、いよいよシューマンの本領発揮である。彼はそれまでに登場させてきた音楽と自分が、どれほど親密な関係にあり、そこで自分がどのような地位を占めたいのかということを端的に示しているようだ。切れ味鋭い上昇音型にみられるような造形の美学と、舞踊的な推進力を生む弛まぬエネルギーの発散による組み合わせが将来、彼の個性を際立てるはずであった。

【超越的エゴの対決と愛】

ここから隔てること70年あまりの間に、ストラヴィンスキーの『春の祭典』が出来上がるのである。これは非常に驚異的な出来事であったろうが、そのことは響きのうえでも、もちろん、ハッキリと確認できるはずだ。だが、カンブルランが表現したかったのは、そのような直接的な驚異を現代に蘇らせてみるということではなく、より内面的な問題・・・つまりは、作品をどのように受け止めるべきかということであった。ところも同じこの芸劇で、3月に私はサロネン&フィルハーモニア管の演奏を聴いて、この作品の見方についての決定的な印象を得た。それは、目の前で起こる野蛮な出来事が実に、私たち自身(観客自身)を鏡に映したようなものであり、時代に対する深い風刺になっているというものだ。しかし、カンブランはその時代的解釈を、より私たちの奥深い部分でもういちど問いかけたかったのだ。

彼の演奏によれば、第1部と第2部は勿論、密接に関連づけられているが、同時に、そのように2つのパートがわかれていることにも多大な意味があるようだ。第1部では、マスに焦点が当てられている。あらゆる人物レヴェルの問題を越えた集団の論理があり、民族が描かれ、人間の関係が彫り込まれてもいき、そのなかでイニシエーションが進んでいくというわけだ。第2部になって、ようやく集団のなかに個人が胚胎してくる。その個人は「生贄」と呼ばれるため、当たり前のように激しい動きのなかに呑み込まれてしまうが、カンブルランは、そのいのちを丁寧に追いつづけることで、作品をまったく別のイメージにしたと言えそうである。

彼らが描き出すのは、強さや集団的な緊張のなかに生きる弱々しく、小さな力だ。その象徴である第2部の序奏は艶めかしくなく、可憐な印象であり、それを周りの女たちが同情的に眺めている。そこに生じる感情的な絆を引き裂くように、また集団の論理が乱入してくる。精確なリズムを追い、適切な流れとバランスで響きが整理されると、そこには確かに生贄がどういう行動をとるにせよ、浮かび上がるちっぽけな存在があり、彼女は明らかに苦しんでいるようだ。やがて、響きは美しくなり、日常化されていく。それは前半、シューマン、あるいはドビュッシーのところで巧妙に印象づけておいたものだ。この作品では、「祖先の召喚」、そして、「祖先の儀式」と呼ばれている。私たちがこのような悲劇を本質的に愛していることがわかったあとに聴く、「生贄の踊り」は居た堪れない。ここでストラヴィンスキーは繰り返しをはじめとして、聴き手が好きな要素をたくさん入れている。クライマックスはもう、絶望的な戦場の風景であると同時に、世界中に散らばった「我々」それぞれが抱く欲望の生々しい集積であり、それゆえに美しくもあった。

戦争とは、美しく魅力的なエゴのぶつかり合いというわけであろうか。まず、個人やその結びつきである絆が集団の論理で荒々しく切り裂かれ、そこに、もう一層、強烈で本質的なエゴ(超越的エゴ)が突き刺さってくるのだ。人々は自分たちの大事なものを賭けて、それぞれのめざす生贄を追いまくっている。ある者にとって、それはエチオピアやアドリア海の権益であり、別の者にとってはポーランドやチェコを皮切りにした欧州全域の支配権であり、極東のある者にとっては、中国や蒙古の支配による植民地経営の安定、南洋での資源獲得であった。だが、この風景はいま、形を変えて、私たちの目の前にも広がっている。例えば、シリアやエジプトの問題として。あるいは、グローバリズム、ブラック企業による労働問題として。私たちは多かれ少なかれ、それに参加しているのである。最後、可憐な生贄の少女が流した涙・・・それはいのちの証・・・さえ、容赦なく断ち斬ってしまうような、そんな容赦ないフィナーレに、私は思わずこみ上げるものがあった。

だが、その瞬間、私は知った。カンブルランが描いているのは、究極的な愛情であることを。私は彼の過去の行動について、思い出してみる。例えば、アイスランドで火山が噴火した際には、多くの便が欠航となるなか、スペインから中東・香港経由で大迂回をして日本入りした。震災後も、特に原発問題で日本を避ける同僚たちを批判し、逸早く日本に駆けつけて模範を示した。多分、そこには深い信仰に根差したものもある。だが、それ以上に、彼を衝き動かすものが愛なのだ。それを知った瞬間に、全部がつながった気がした。

【まとめ】

内面的なところを中心に書いたために、技術的な素晴らしさについては多くを語るわけにいかない。しかし、この日の読響は弦の縦線の美しさが際立っており、しかし、それは時折、あまりに揃いすぎていて、つまらない印象を与えるほどだった。私の愚見では、比較的、古い時代の作曲家で、演奏が困難なほどに難しいスコアを書いた人物は、それが整然と演奏されることを期待しないで書いたはずだと思う。技術的なベースの上がった今日、それを驚くべき精度で実現してみても、表現としては稚拙に聴こえることが多いものだ。カンブルランも、そのことを承知でやっているように思えてならない。響きにも、緩急があるのだ。コンサートマスターは、楽団を勇退したばかりのノーラン。独特の優雅なフォームから、普通では考えつかないような機能的で、軌跡の美しいボウイングは前半を華やかに彩り、後半は端整なソロで聴かせた。値千金の貴重な人材が、退任後もこうして楽団の活動に関わってくれるのは嬉しいことである。

カンブルランの指揮ぶりは、それは素晴らしいのであろう。だが、私がこのコンサートでなによりも深く感じたのは、読響メンバーの高く、常に緊張した意志と、それを実現する技術力の凄まじさであった。いまの日本に、ココを越えるようなオーケストラは存在しない。

【プログラム】 2013年9月8日

1、ドビュッシー 春のロンド~管弦楽のための「映像」
2、シューマン 交響曲第1番「ライン」
3、ストラヴィンスキー バレエ音楽『春の祭典』

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場

« メッツマッハー ワルキューレ(第1幕)/ツァラトストラかく語りき 新日本フィル トリフォニー定期(第2夜) 9/7 | トップページ | メッツマッハー チャイコフスキー 交響曲第5番 新日本フィル 多摩定期(特別演奏会) 9/15  »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/58181591

この記事へのトラックバック一覧です: カンブルラン ストラヴィンスキー 春の祭典 ほか 読響 芸劇マチネー 9/8:

« メッツマッハー ワルキューレ(第1幕)/ツァラトストラかく語りき 新日本フィル トリフォニー定期(第2夜) 9/7 | トップページ | メッツマッハー チャイコフスキー 交響曲第5番 新日本フィル 多摩定期(特別演奏会) 9/15  »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント