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2013年9月 1日 (日)

小森輝彦&服部容子 デュオ・リサイタル vol.9 ブラームス 4つの厳粛な歌 ほか 8/25

【4つの厳粛な歌】

ブラームスの『4つの厳粛な歌』(歌詞作品)がメインと聴いて、多くの聴衆は多分、それほど心ときめく感じはしない。20分にも満たない作品で、メインというのはやや軽い印象がするからだ。しかし、バリトン歌手にとって、この4つのリーダーを歌いきることは、多大なエネルギーを要することなのであろう。この日の歌手、小森輝彦の態度からもそれとわかる。プログラミングをみても、この歌を含むオール・ブラームス(リストはピアノ独奏)の前半から対照的に、後半はリヒャルト・シュトラウスの管弦楽伴奏つきの歌曲(この日はピアノが代替)もあるが、モーツァルトのブッファ系のもので肩の凝らない作品を並べて、コントラストをつけている。それは多分、前半でああした内容を歌ったあとでは、そういうことぐらいしかできないということなのだろうと思う。

ブラームスの『4つの厳粛な歌』は1896年に書かれ、作品番号は121。オルガンのための『11のコラール前奏曲』とともに、死を意識したブラームスが最晩年を彩った宗教的な作品であり、歌詞は新約聖書のなかから採られている。ただ、それまでの彼と同じように、宗教表現に対する独特なセンスはこの期に及んでも変わらなかった。小森輝彦と服部容子のデュオ・リサイタルでは、字幕を表示しながら演奏するが、その歌詞を眺めて音楽を聴いていると、これが本当に聖書のなかの言葉なのかと訝しむほどなのだ。聖書とは、人間のこころのすべてを見通して、そこから人間との対話を導き出すための全人格的な書物なのだとわかる。

最終曲のクライマックスで、永遠につづくものとして信仰と希望と愛をあげ、そのなかで、愛こそがもっとも尊きものだとするのが、ブラームスの全生涯を締め括るには相応しい言葉だ。愛に生き、恋に生きたのである。ロマン派のおわりに、もっとも熱い炎に包まれ、しかも、身近に憧れの女性を置きながら、カトリックの神父のように、その女性に直接、手を触れることはなく、彼女の死とともに、図太い魂を急速に萎ませていった男であった。

【とっておきの1曲から始まる展開】

小森は、このリサイタルの1曲目で、そんなブラームスの生涯を印象づけるとっておきの1曲を披露した。ヘルティの詩に基づく歌曲『5月の夜』 op.43-2 である。今年は二期会で、マクベス、『ホフマン物語』の悪役四役、そして、リア王とタフな大役がつづくなかで、このリサイタルはすこし「軽い内容」とみていた自分は、その最初の数音を聴くだけで、自らの浅はかな判断に気がついた。空に浮かぶ銀いろの月。手の届かないものの象徴から、言葉のインスピレイションを頼りに劇的に広がっていく世界。そのなかに生きる、孤独な詩人の姿・・・。

「いつになったら、おお微笑む姿よ、/朝焼けのように/私の魂に輝きわたる姿よ、/この世であなたを見出せるのだろうか」。このような歌詞から、あまりにも気高いために、何も得られない究極のロマンティストのイメージが湧き上がってくる。なによりも、その音楽があまりにも気高い。言葉には甘みもあるが、それをぐっと抑えていうと、反対に厳しさが滲み出る。そのように歌う小森の強さと、時々みせる、絶妙な優しさのバランスに私はみるみる惹かれていった。ただ1曲、これを聴くためだけにこの場所に座ったような気さえした。この1曲には、ブラームスのあらゆる象徴が隠れている。

それを効果的に引き出すのが、第2曲の『私の愛は緑』 op.63-5 だ。この作品はブラームスが密かにこころを寄せたクララ・シューマンの末子、フェリックスの歌詞に付曲されている。内容自体は若い青年の詩だけに率直で、深みはないが、第1曲に秘められた仄暗いエネルギーがどこにつながっているかを示唆し、しかも、それがあまりにも健康的に、巨匠のなかに流れているのを感じることができる点では十分に意義ぶかい。そして、これを受けるのは、第3曲の『永遠の愛について』 op.43-1 だ。鋼鉄と比較して、愛こそは変わらないと歌う率直で、ロマンティックな歌曲だが、この順番で歌われることで、作品の重みは正に鋼鉄のそれを加えることになっただろう。1曲目は重いが、音は静かで、哲学的で知的な味わい。2曲目は軽く、率直に。3曲目は、パワフルで情感的という組み合わせも、絶妙だ。

ブラームスの『4つの歌曲』 op.43 は、4曲構成で、最初の1番でいきなり答えを出してから、それを横軸に広げて深めていくという形になっている。小森はそれを反対にし、いかにもブラームスらしい理知と、それを突き破っていくときのエネルギーを見事に表現している。3曲目はフィッシャー・ディースカウの歌だと伴奏も派手で、ジェットコースター的な展開だが、小森はもうすこし歌詞の硬軟を生かし、言葉のもつバネの伸び縮みを利用して、じっくりと歌い込むという感じを徹底した。鋼鉄の出てくる部分から、根拠に基づいた力づよい盛り上げが聴かれ、3曲を1曲として構成したような展開の締め括りとしても相応しかった。

【服部とのパートナシップ】

こうした見事な土台をつくったうえでの、『4つの厳粛な歌』だったのである。彼は「20年前」といったろうか、この曲を歌ったのが小森輝彦のプロ歌手としてのキャリアの初めであったらしい。それはこのリサイタルが、どんな多忙のなかでさえ、相変わらず、彼にとって特別な機会であることを意味していただろう。

このリサイタルが特別であることの、重大な意味のひとつは、ピアノ伴奏に服部容子を得ていることに尽きるのではなかろうか。この強力な伴奏者の継続的なサポートを受けられる歌手は、それほど多いわけではない。私の知る限りで、たった1回だけの顔合わせだけにおわらず、彼女と継続的なパートナーシップをつづけているのは、小森のほかでは、津山恵というソプラノだけだ。大抵の歌手にとって、服部をバックに歌うことはあまりにも重すぎるのだろう。大胆不敵で、揺らがぬ表現性をもつ歌手だけが、そのサポートで、ふつうなら、簡単には得がたい自由を得たと感じることができるはずだ。

『4つの厳粛な歌』では、そのサポートが強力に機能した。この作品では、ときに言葉と音楽がちがうメッセージを語ることがあるからだろう。服部のピアノは、常に信仰の真実と寄り添っている。小森がどれだけ思いきった旅に出ようとも、彼女はそこを動かない。ある意味、残酷なまでの第1曲の対位法的構造を、この歌手とピニストは頑迷にも生かしきったと言えるのではなかろうか。獣と人を比較して、死は等し並みに訪れると歌われる。しかし、言外にブラームスは歌っている、(獣とはちがい)人は、死を認識する。いま、そのなかに彼はあるのだ。

安寧な第2曲であるが、いま歌われたような情感が、そのままピアノに乗り移って次の歌がうたわれるのかもしれない。歌手を丁寧にサポートするように見えながら、優れた演奏ほど、なにか抽象的な彫刻が音になったように響いてくる。服部のこの日の演奏が、正にそうだ。あまり親切につけすぎると、イタリア歌曲のようになってしまうだろう。抽象彫刻はやがて、宗教的な古い響きと通じていることがみえてくるはずだ。第3曲の表現も秀逸である。受難曲のアリアのような深い情感が込められ、ひとつひとつ呪文のように、言葉を唱える小森の表現はやや誇張的に思えるが、この歌い方が全体のなかでは、すこぶる思慮深いものに感じられる。

これがあってこその、最終曲の逆転劇なのである。

【エピローグ】

小森の7曲のパフォーマンスに、私はぐうの音も出ないほどの感動を味わった。ところが、そのエピローグのように弾かれた服部の演奏が、この感動を完成したといっても過言ではない。リストの『巡礼の年第3年』より「エステ荘の噴水」である。イタリアはフェッラーラのエステ家にある噴水を描いた叙景的、印象派風作品ともとれるが、服部の解釈は明らかにそうではない。それをやれば、この音楽はいつでも、ドビュッシーの音楽に早変わりできるだろう。服部が見つめたのは、この作品のなかで執拗に・・・あまりにも執拗に描かれる打鍵の神秘性にまつわる、ある内面性であったのだ。

ゆったりと、余裕のあるふかい打鍵で響きをつなぐ彼女の表現は、ふてぶてしいまでに重い輝きに満ちている。低音と高音の交代的なトレモロが頻りに現れるが、彼女はそうした響きをどれも均質に弾く。普通に弾けば、高音は軽く可愛らしく、低音は重く内省的に、中音域はふくよかに甘ったるく響くのが当たり前だが、作品終盤で高音の軽みが意図的に求められるまでは、彼女はきれいに均質な音を描きつづけるのである。これは、かのシフラの表現手段にちかい。しかし、様々なピアニストの演奏を聴くと、単純に印象派の前触れ的な表現を是とするものから、高さによる軽重に合わせてテンポやアーティキュレーションを含むフォルムを緻密に構成し、ときにルバートまではさんで見せるようなオシャレな表現もある。

これらのなかで服部やシフラのような表現が正統的とみられるのは、やはり、この時期のリストの表現姿勢と関わりがある。最晩年の「ローマ時代」を生きていたリストは、つい最近まで続けていた派手な人生から急速に離脱し、家庭的な幸福に包まれながらも、宗教にまつわる内省的作品を中心に書くようになった。服部やシフラにみられる以外の演奏姿勢は多かれ少なかれ、リストの描いた噴水の風景を花火のような派手なイニシエーションとして捉えることにつながり、修道士のような恰好をして歩いたという老巨匠の雰囲気には見合わない。ただただ均質に、流れ出る水の深さを静かに描きすことが、彼の真意であったはずだ。服部は、それを体現してみせた。跳躍があっても、頑固なまでに均質な音なのである。実際、この響きを長く作りつづけ、維持することは大変な集中力を要することであろう。しかも、それは単純に、職人的に均質なのではなく、不思議と、そこに載っていく感情があるのが面白いわけである。

「本編」で小森が歌った姿勢と、ここにおける服部のパフォーマンスには、確かに相通ずるものがあった。彼らは正に、これらの曲目で、すべてを出しきったといっても過言ではない。だから、私は演奏会の後半について、すこしも語らなくてもよいとさえ思っているほどだ。私はこのリストの清らかで、純真なパフォーマンスには涙がこぼれたし、その状態で、幕間に駅弁をつかってみせるのもバカバカしいと思えたが、人間、どうしても腹は減るものだ。私はだいぶん寝すぎてしまい、それまで一食も摂っていなかったわけで・・・。

【後半のパフォーマンスについて】

後半は、リヒャルト・シュトラウスの『4つの歌曲』 op.33 から2曲を歌った。これらの作品は本来、管弦楽伴奏を伴う豪華なものであるが、録音も豊富とはいえず、実演では耳にしたことがない(大阪響は昨年、小森の独唱でこれをプログラムした)。後半の2曲を歌ったが、op.33-3がなんといっても、いまの小森にはあっているらしい。ブラームスとはまたちがい、人の声の甘さを解放することにかけては、ドイツでもっとも優れた手腕を示した巨匠であることがわかるし、それを用いた、歯も浮くような女性への見事な献身を歌った歌曲である。

ピアノ独奏によるラヴェルの『ラ・ヴァルス』は、イン・テンポで派手な装飾を排し、作品内奥に隠れたエネルギーに直接、アクセスしようとするもので、これも過去のパフォーマンスからみて十分に、服部らしい演奏ではあったが、前半のリストほど素晴らしい印象は残さなかった。

モーツァルトは『魔笛』のパパゲーノを2曲、そして、『コジ・ファン・トゥッテ』のグリエルモを歌ったが、これは小森の素直な気持ちを歌ったものだろうと思う。つまり、バリトンというと不敵で、マッシヴで、しばしば悪知恵を働かせる役割が多いけれども、本来の小森はあけひろげで思いやりがあり、なにより明るいオトコなのであろう。小森はパパゲーノを歌うバリトンと、歌わないバリトンがやっぱりいて、自分は舞台でパパゲーノを演じたことがないというが、本当なら、パパゲーノを思いきりうたってみたいし、そうした役柄のほうが、自分にはあっているという想いで、こういうプログラミングをしたのだろうか。自分は、パパゲーノを歌うバリトンだと。

終演後の告知コーナーの最後に、服部は自分がピアノを弾き、小森がモノ・ドラマを演じる形で、オペラを書きたいということを公表した。そして、そのための題材を探しているということだった。これは額面どおり受け取ることはできず、大体、やりたい素材も決まっていて、公衆の前で宣言するともう、やらざるを得ないという状況をつくったのだと解釈している。暗くなく、明るい素材で、と言ったのがヒントである。にもかかわらず、私がいちばんに思いついたのは、『罪と罰』のスヴィドリガイロフだった。台本には工夫が必要だし、アイロニカルではあれ、明るくもない。最後は、拳銃自殺する。ラスコーリニコフの分身という考え方もあるが、私には、そうは思えない。ひとりで演じられる人格があると、証明したいのだ。単純に、僕がつくってみたいのはそれだし、小森が演じるにも相応しいように思えた。彼は屈折しているが、愛に生きる。それが潰えたときに、彼が求めたのは「究極の自由」であった。最後に狂人の扱いに迷惑そうな警備係のアキレスに向かって、このように言う。「彼はアメリカへ行くといっていた、そのように伝えなさい」。つまり、自由の国に。それが死のことを指しているのだ!

閑話休題。確かに、小森の歌うパパゲーノは、面白くもなんともなかった。だが、もしも、ここに一人の美女が絡めばどうであろうか。彼を起用することは、演出プラン全体の練りなおしを要することになるようだ。しかし、最近、そんな舞台を観た気がする。そう、絨毯座の実験公演である。あれは、見事だった。小森にパパゲーノを歌わせることも不可能ではなく、それが『魔笛』の新しいイメージをつくることになるのかもしれない。

モーツァルトのあとは、ほとんど間をおかず、アンコール・ステージに入った。再びマッシヴなバリトンに戻り、ふてぶてぶてしい『アンドレア・シェニエ』(ジェラール)のアリアで、リサイタルは締め括られた。この曲は過去のデュオ・リサイタルでも歌われたはずで、小森得意の役柄ということになるのであろう。

【告知】

先の告知について言えば、実は3本立てであった。まず、次回のデュオ・リサイタルは来年12月に予定され、内容が待望の『冬の旅』(シューベルト)であること。夏ごろには浜離宮朝日ホールにて、小森に対する宮廷歌手称号の授与を祝うための演奏会が開かれること。この意義は、日本の歌手のレヴェルも上がっており、たまたま自分が第一号となったが、やがて、次々に称号を受ける者が現れるだろう(自註:例えば、中村恵理は有力な候補だ)。まだ、その権威は日本で十分に知られておらず、第一号として責任を果たすためにも、しっかりした機会をつくっておきたいということだった。そして、服部のオペラ制作宣言が出て、最後に震災復興支援ソング『花は咲く』(詞:岩井俊一/曲:菅野よう子)を歌っておわった。

【矜持と生活、そして愛】

おわってみれば、2時間に近づくコンサートで、すこしも軽くはなかっただろう。思えば、聖書には及ばぬとしても、全人格的な表現を試みたリサイタルではあったと思う。オペラを聴くとき、私たちは多かれ少なかれ、貴族のはなしに首を突っ込むことになる。なぜ、我々はそうした世界に関心をもつことができるのだろうか。それはいわば、矜持のようなものである。一方、庶民の世界が歌われることで、私たちは舞台の世界に自分を重ねることができるようになる。矜持というよりは、生活がそこにはあるのだ。矜持と生活。これらは切り離されて考えることができず、生活だけがあれば必要最小限だというわけではない。高い矜持を保ちながらも、パパゲーノ的な明るく、思いやりのある生活を、小森は生きたいと言っているかのようだ。そして、矜持のなかで、いちばん大事なものは愛ということをブラームスは歌い、また、同時に、パパゲーノも同じことを言っている。生活のうえでも、矜持のうえでも、これに勝る大事なものはないということが歌われているわけだ。

だが、そこには、ひとつの風刺がある。ブラームスの愛はきわめてプラトニックなものだった。日本の文学で、その問題に真正面からぶつかったのは北村透谷だが、彼は、その真実を知らなかったのだ。プラトニック・ラヴなどというものは存在しないと、ブラームスはわかっている。彼はあらゆる方法で、クララの肉体をも貪リ食っていたからだ。最近、鑑賞したエルマンノ・オルミ監督の映画『楽園からの旅人』では、若いころ、神父としてある恋に身を焼き、一応の掟は守りつつも、その欲望に精神的には常に敗北しつづけた老牧師の姿が描かれている。こうしたところは異邦人の透谷よりも、オルミのほうがよくわかっているわけだ。西洋人の性欲は我々からみて物凄いが、ブラームスとて例外ではない。ただ、彼は目の前にいるクララというよりは、別のものが欲しかっただけだ。

それは実のところ、宗教についても同じことである。ブラームスは自分の前にあるキリスト教とは別の、もっと清らかで高潔な、そして、人間の生き方に対して誠実で、自然である理想のカタチを追い求めていた。

最近、私はそういうものの見方について、興味をもっている。しかし、それについて、これ以上語ってみても、小森らの表現とは少しも関係がないものになってしまうだろう。また今回も、彼らには驚かされた。そのことだけを書いて、駄文を締めたいと思う。

【プログラム】 2013年8月25日

1、ブラームス 5月の夜 op.43-2
2、ブラームス 私の愛は緑 op.63-5
3、ブラームス 永遠の愛について op.43-1
4、ブラームス 4つの厳粛な歌
5、リスト エステ荘の噴水~『巡礼の年第3年』
6、R.シュトラウス 讃歌、巡礼の朝の歌~『4つの歌曲』 op.33
7、ラヴェル ラ・ヴァルス
8、モーツァルト 俺は鳥刺し、恋人か女房か~歌劇『魔笛』
9、モーツァルト 彼に眼差しを向けてください~歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』

 於:東京文化会館(小ホール)

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