2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ① 10/12 | トップページ | 尾高忠明&東京フィル ベルシャザールの饗宴(ウォルトン)/海の絵(エルガー) 文化庁芸術祭オープニング公演 10/1 »

2013年10月19日 (土)

エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ② 10/12

【音楽と成長】

さて、前の記事では、ドヴォルザークの協奏曲の演奏について詳細を論じた。それはある意味、これまでの積み重ねのなかで、必然的に生まれてきたパフォーマンスであり、エリシュカとその孫たちが、チェコ音楽のなかで、いかなる対話を積み重ねてきたのかという、いわば『論語』的なパフォーマンスであったといえる。だが、この孫たちは孔子の弟子たちより立派であり、隙さえあれば、この師をいかにして乗り越えるかということを考えていた。大胆不敵ともいえようが!

後半のブラームスでも、この『論語』をやってきた経験は十分に役立った。しかし、また新たな世界が、そこには開けてもいたようだ。今回のブラームスの交響曲第3番の演奏はよりワイドに、、ユニヴァーサルに通用する成功だ。私はこの作品におけるエリシュカの成功を信じてはいたが、同時に、まさか、これほどのもになるとは思いも寄らなかった。

まず、この作品は難しく、全楽章でバランスをとるのが難しい点では、ベートーベンの交響曲第4番と双璧である。実演はもとより、録音でもなかなか成功例は少ない。その苦労にもかかわらず、あまり人気がなく、フロアからの称賛も十分には得にくいことから、演奏会で取り上げられる回数も限定的だ(しかし、近年の東京の演奏会では必ずしも珍しくはない)。私はこの作品がブラームスのなかでも特に好きなものだから、何度も耳にした機会はある。だが、その度ごとに、失望が積み重ねられるだけだった。最近では、山下一史&新交響楽団がこれに挑み、カラヤン譲りの高貴な響きと、驚くべきコンパクトさでまとめて、実演では比較的、成功した演奏例となった。彼らはこれを前半で演奏したが、それに相応しいハイドン的な軽さが特徴的になっている。

無論、エリシュカの演奏はまったくちがう。序盤は、ダニエル・ハーディングがまだ素晴らしかった30代のころ、マーラー室内管と録音したものにちかいフレッシュな響きをさせていた。ヴィブラートは抑えられ、快調なテンポで、小気味よい響きが整然と流れていくのだ。これが、意外に長くつづいたので、私は仰天した。もしも、そのまま音楽がおわったら、それはそれで嫌いではなかったけれど、微妙な感想になったであろう。ただ、そのなかでも印象的なのは、階段状のパッセージで、それを構成する響きが見るからにパッケージされて響き、セルとして扱われていることだった。これがあとで、ガツンと効いてくることになる。

ひと通り、すべての素材がコンパクトに提示されたあと、第1楽章の中程から、音楽は明らかに変化を始めた。それはいかにも即興的な感じを与え、完全にプログラムされたものとは見えないし、あるいは、練習のときとはすこしちがったかもしれない。だが、音楽は直向きに前進し、重みを増して、見るからに大胆になっていった。この傾向はフィナーレに向けて、決して失われることなく、むしろ、その加速度を増していく。音楽を受け止めるには、ときに強烈なルバートが必要であった。エリシュカはそれを必死にまとめながら、撤退しようとする敗軍を押さえつけて、もういちど敵に向かわせようとするように、厳しい態度をとった。それが、音楽に直接、表れているのである。前半のドヴォルザークでは、次々にイメージどおりの表現が来て、「練習のときは済まんな!いい響きだ!」とやっていたのが、このブラームスでは、そうもいかないようであった。後半、構造が押し詰まる部分ではギリギリで支え、その結果となる深いルバートはウィーン音楽の神髄を語っていた。クレメンス・クラウスが弾く音楽のようだ。

【根源的なこと】

エリシュカの演奏するブラームスについて、一口には言えない。前半のドヴォルザークの巌山から切り出した頑丈な素材が出たかと思えば、前週の「田園」交響曲もかくやという長閑なイメージが浮かび上がる。楽曲全体を常に天国の方向へ押し上げる宗教的な響き。それはドヴォルザークでは、病に斃れたご婦人のために向けられたが、ブラームスではより根源的な表現の意志として示されている。エリシュカの演奏は、正に、この根源的な要素との対比で、すべての発想がまとめられているといっても過言ではあるまい。だが、ブラームスは司祭的な作曲家ではなく、より自由で独特な信仰を志した人物だ。その根太さが、各楽章のおわりに響く木管のロングトーンに表れているように思う。

「田園」的な第2楽章につづき、緩徐楽章の気品の高さも一方ではない。主部では様々な楽器が同じ旋律をうたうが、やはり、ホルンがうたうところが、そのなかでも印象的である。エリシュカはこの旋律に、様々なお供をつけることで、旋律のもつゆたかさを逆に印象づけたが、特に、フレーズのおわりで、木管が意外な厚みを出して喰いついてくるところなどは、かえって旋律の味わいを損ないかねないほどになっていた。そうまでして、エリシュカが大事にしたのは、各楽器が奏でる旋律の均衡なのである。そうでありながら、この楽章のおわった直後、彼が投げキッスを送ったのはホルンの奏者であったのだから、この爺にもわからないところがある(私の知る限り、エリシュカの表現にいちばんちかいのは、リンクのオットー・クレンペラーの演奏である)。エリシュカの表現は、限りない均衡のなかで、生きつづける旋律の永遠の美を思わせる。

終楽章は、短調を主調としながらも、常にどこか明るさへ通じる道が思い描けるような演奏になっているのが特徴となろう。そして、それこそが、ブラームスの本質である。自分のもっているポジティヴな特徴を、彼はいつまでも隠しておく。ポーカーでもしているように。誰もが、彼の本当の表情を読み取るには苦労しただろう。シューマン夫妻やヨアヒム、ジムロック、ドヴォルザークといった、ごく身近な友人たちさえも。実際には、彼はいつだって、人々を受け止めようとしていた。顔は俯いても、いつも両手を広げていたいと願っていた。エリシュカは、それに気づいている。彼は、すべてを受け止める音楽家だ。ココにいう「彼」とは、ブラームスのことであっても構わないし、エリシュカのことと解釈しても構わない。演奏は奥深く、どこまでも聴き手を吸い込んでいく。そうして抱きしめられてしまったら、もはや、どうすることもできないだろう!

そうしているうちに、楽曲は冒頭の第1楽章第1主題に回帰する。そして、彼らがあのとき、大事にパッケージしていた響きが、ここで一気に解放されるのだ。その瞬間、私はあんぐりと口を開くしかなかった。ダ・カーポ、あるいは、テンポ・プリモ(もしくは、ア・テンポ)は、エリシュカの得意技である。しかし、その効果を最大限に発揮するためには、自分たちがそこに戻っていくときに、意味のある印象がなくてはならない。この場合、几帳面に、階段状の響きを束ねていたあの行為なのである。交響曲の形式として当たり前の、こうした準備がいかに効果的なことなのか、改めて思い知らされた。ブラームスの交響曲第3番では、この回帰は決定的に重要である。

この回帰はいわば、数字を数えるのにはゼロが必要というような、そういう根源的なことなのだ。私は、こういう響きを通じて、はじめて、ブラームスの交響曲の偉大さを知る。テレビにはクロが大事というように、また、絵画にはカンバスの白さが貴重なように、このような素材の美しさこそが、交響曲の美点を象徴するのである。

【まとめ】

今回の演奏について驚くべきことは、以下の点に集約される。

①札響で、これまで聴いたことがないほど堅固で、ずっしりした響きが聴かれ、それが楽曲の要所で効果的に用いられた。②木管アンサンブルの凝縮もこれまでになく進んでおり、特に第2楽章や第4楽章で効果的に作用した。また、弱奏部では弱いながらも、根太い響きが効果的に決まり、ブラームスの信仰の秘密の一端を語った。③第1楽章では、2-30代の若い音楽から、経験豊富な老爺でしか受け止めきれないつよい音楽へと飛躍した。札響メンバーは、こんな思いきった表現も辞さないほどの関係を、エリシュカとの間に築き、同時に、楽員どうしのコミュニケーションはいよいよ緊密になっている。つまり、彼らは本当の家族となったのだ。

ブラームスにおいても、前半のドヴォルザークと同様の室内楽的な面白さはあったが、ブラームスでの取り組みは、より大きな飛翔力に恵まれ、その成功は札幌はもとより、日本を飛び出して、世界的にみても稀な成功を示していた。僕は時代と国境を乗り越えて、例えば1950年代の後半、東ドイツでしか聴けなかった響きを耳にしているのも同じことだ。大枚5万JPYをはたいてベルリン・フィルを聴こうが、幻のルツェルン祝祭管を想像しようが、このような響きを耳にすることは、まずできないはずだ。エリシュカだけが素晴らしいのではなく、札響の奏者たちの飛躍的な成長も見逃せない。日本のオケはここ数十年にわたり、国全体の政治・経済の退潮傾向に反して、非常に効果的な成長を遂げてきたが、札響はそのなかでもトップ・クラスの伸びをみせた。だが、それを決定的にしたのは、エリシュカの登場であろう。

このブラームスでの成功は、明らかに、エリシュカと札響が次のステージに挑戦する資格があることを物語っている。いま、彼らはドヴォルザークの後期交響曲(5-9番)をコンプリートし、その交響詩や、ヤナーチェクの歌劇からの組曲版で、その独特の音色や自然なリズム感などに高い評価を得てきた。また、定期では取り上げていないが、スメタナの『わが祖国』は個人経営のパスティエル・レーベルを通じて録音としてリリースされ、エリシュカのパフォーマンス自体も日本各地に輸出されている(N響、九響、大フィル)。首席客演指揮者のポストにつながったロシアもののごく一部、そして、ハイドンやモーツァルトなどの古典派の曲目も手堅い評価を得ている。エリシュカの可能性は、いまもって豊富に残されているわけである。

最後に、私の遊びごとに、読者諸氏を巻き込んで、この愉快なレヴューも終わりにしたいと思う。ありがとう、サッポロ!ジェクイ・ヴァーム、エリシュカ!

【アリスがつくるエリシュカに期待するプログラムⅠ】

1、ベートーベン 序曲『レオノーレ』第3番
2、ハイドン 交響曲第45番「告別」
3、ベルリオーズ イタリアのハロルド

解説:
このプログラムは、なにかが欠けてしまうときのもの悲しさから切り返される、精神の強さをうたったプログラムであり、ドヴォルザークのチェロ協奏曲の演奏にインスパイアされたものだ。エリシュカにとって、ベルリオーズは日本で初出となるが、このような作品では問題がないどころか、高い適性を示すことだろう。ハイドンの「告別」はアイロニカルな作品であり、2曲のつよい個性をもつ作品を上手につなぎ止めてくれる。なお、札響にはチェロ以外に、ヴィオラにも名手、廣狩亮氏がいる。

【アリスがつくるエリシュカに期待するプログラムⅡ】

1、マルティヌー リディツェへの追悼
2、リムスキー・コルサコフ 歌劇『見えざる街キーテジとフェヴロニャの物語』組曲
3、ベートーベン 交響曲第3番「英雄」

解説:
リムスキー・コルサコフはエリシュカが札響への初登場で、メインに据えた思い出の作曲家だ(私は聴いていないが)。キーテジの物語は、エリシュカにとって、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、スメタナらへの思い入れには及ばず、日本でまだ披露の機会がないマルティヌーのプログラム『リディツェへの追悼』と対応させてみると、街そのものが消滅してしまうという共通点をもっている。その奇跡を演じる聖女の役割が、ベートーベンの「英雄」のなかにも見出せる。エリシュカにとっては、これが3つ目のベートーベンになる。

【アリスがつくるエリシュカに期待するプログラムⅢ】

1、モーツァルト 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
2、チャイコフスキー 幻想序曲『ロメオとジュリエット』
3、ブラームス 交響曲第2番

解説:
チャイコフスキーはエリシュカにとって思い入れのある作曲家のようだが、これまで2回しか披露されておらず、その機会もエリシュカが魂を入れるには相応しいものではなかった。このプログラムでは、渦巻くよう作品を集めてみた。過去のプログラムをみると、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』序曲はN響の演奏会で披露されているが、それを聴けたのはJAFの会員だけのようであり、再演の機会が望まれている。そして、ブラームスで渦巻くといえば、2番を置いてほかにない。ブラームスは今後、札響でツィクルス化される可能性がある。

« エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ① 10/12 | トップページ | 尾高忠明&東京フィル ベルシャザールの饗宴(ウォルトン)/海の絵(エルガー) 文化庁芸術祭オープニング公演 10/1 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/58401610

この記事へのトラックバック一覧です: エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ② 10/12 :

« エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ① 10/12 | トップページ | 尾高忠明&東京フィル ベルシャザールの饗宴(ウォルトン)/海の絵(エルガー) 文化庁芸術祭オープニング公演 10/1 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント