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2013年10月 4日 (金)

ヴィート・クレメンテ指揮 ヴェルディ 歌劇『マクベス』 須藤慎吾/小林厚子/田代誠 オペラ彩 (初日) 9/22

【意味深長な結末をどうみるか/みせるか】

現在、オペラ演出は演劇や映画のスペシャリストにとって、実りの多い草刈り場となっている。シリアスな演劇人にとって、シェイクスピアは最低限、知っていなければならない世界であろうが、ヴェルディの歌劇『マクベス』をみると、彼らはきっと、『マクベス』とはこんな作品だったのかと目を見開かれる想いをするはずだ。自分たちは、なんとチマチマした事柄に目を奪われていたのであろうか! 彼らが演出をする場合、しかし、その気づきを素直に反映する気にはなれないものである。その点、新国立劇場の野田秀樹氏によるプロダクションは殺伐としているが、作品のもつのっぴきならない事情を鮮やかに反映して面白かった。

転じて、今回の「オペラ彩」公演で演出を担当した直井研二がどの程度、この作品にふかい思慮を示したかは心許ない。彼はオカルト的な部分を強調し、そこに滲み出ているマクベス夫妻の罪の意識に焦点を当てた。その点では、鮮やかな成功をあげた部分もある。雑多な寄せ集めであるコーラス隊に、月並みではあるが、効果的な魔女の動きを見事に振り付け、大釜の場では、どこからともなく亡霊が出現して、客席をぎょっとさせた。そのマクベスが第2の予言を聞く場面で、バンクォーの子孫が王となるのを示唆する場面では、舞台奥に同じ衣装を身につけた人たちを次々に歩かせ(寝衣風だが、もしくはイスラム風の風俗にもみえなくもない)、死んだバンクォー役をも登場させて、客席最前列を歩かせてみるなど工夫を重ねた。

だが、肝心のフィナーレはどうだろうか。噂によれば、二期会の公演を演出したペーター・コンヴィチュニイ氏は、最後、ヴィトーリアに酔う人たちの歌を徐々にラジオから聴こえてくるように加工していき、それを部屋で聴いていた無関心な魔女たちが、結果的に自分たちが起こしたことにもかかわらず、それに飽きてしまうと、非情にもラジオを切ってしまうというような毒でもって締めたということだ。実際の舞台を観ずにいうのも乱暴だが、そのアイディアに私は感心しない。ただ、直井の演出よりは、ずっと本質的なものを掴んでいそうだ。

和田代表も言っていたように、シェイクスピアはその雇い主であった英国スチュアート朝のジェイムズⅠのために、戯曲『マクベス』を書いたとされている。マクベス王は大昔のスコットランドの王様であり、外征好きのダンカン王を殺害し、人臣に平和をもたらしたが、簒奪者であるため、王権の安定にはマキャベリズム的な徹底した粛清が必要であったという。その犠牲者のひとりでバンクォーの遺児、フリーアンスの子とされるウォルター・フィッツジェラルドがスチュアート朝を起こす家系の始祖であると言われ、つまりは、シェイクスピアのパトロンであるジェイムズからみて、遠い父祖に当たるわけだ。バンクォーが殺される物語は王にとって、必ずしも快い筋書きではないはずだが、家康が三方ヶ原敗戦時の恥ずかしい肖像を敢えて描かせたように、それを教訓に、自分こそは仁君たらんとしたものかもしれない。

これに、ヴェルディ自身の思惑が絡むと、事はさらに複雑になる。ジェイムズⅠにとって、父祖の殺害という辛い事実が描かれてはいるものの、マクダフとマルカムがイングランド兵を擁し、暴君を倒してスコットランドを救うという筋書きは、スコットランドに加えて、イングランドとアイルランドの王冠を加え、両者の一体化を望んだ王の意に沿うところもあった。しかし、これをイタリアの状況と重ね合わせてみると、とんでもないことになる。英国ではたまたまうまくいったかもしれないが、外国軍を引き入れて紛争を解決したことで、イタリアはいつも何かを失っていたからだ。

音楽をみると、トランペット・マーチが格好よく響き、マクベスがついに討ち取られると、いったん、音楽は最高潮に達する。その後、「ヴィトーリア!」と歌い始める勝利の歌が響き、単純で明るい高揚が徐々に盛り上がるのだ。そのまま音楽は右肩上がりに膨らんでいくが、短調と長調は入り交じり、だんだんとバランスが崩れてくる。そして、最後は大団円となるように聴こえないこともないが、実際には、敵味方が入り乱れて再び戦乱に入ってしまうようなクラウドな響きが聴こえ、そこから、強引に響きが束ねられていくのがわかるだろう。プロットからみても、この時点で、まだ「バンクォーの子孫が王となる」という予言は成就していない。マルカムはダンカン王の息子であり、一時は親殺しも疑われたという人物だ。まだまだ戦乱はつづくであろう。ヴェルディは、そう思わせたいのだ。外国軍によって、絶対にイタリアに勝利は来ないと示すために!

コンヴィチュニイの手法は、確かにこのようなヴェルディの皮肉を端的に捉えたものだが、率直にいえば、皆さんのレヴューに書いてあるような工夫なら、しないほうがよかった。なぜなら、そのことは、仔細に聴いてみれば、音楽面で十分に示されていることであるし、その音楽面を蔑ろにして、いちいち説明的に視覚化してみせるのは本末転倒だからである。だが、少なくとも、このことに対して無関心な直井演出と比べれば、はるかに本質を突いているのは言うまでもない。この公演で、直井演出が総じて効果的なものであったことは否定しない。装置にかける資金がないなかで、玉座に木の幹のようなものを絡みつかせ、この象徴物を使った数々のグロテスクな印象づけは作品の味わいをコンパクトに語っているだろう。これを直径数十メートルのリングが囲み、このリングにも木の幹が巻きついており、ときに吊り上げたり、下ろすことで、各場面の雰囲気を端的に象徴する仕掛けもいいのだが、同じようなものをどこかでみたことがある。あるいは、過去の直井の演出かもしれない。

そのなかで、不満となったのは、いま申し述べた幕切れの演出と、加えていうなら、個性に乏しい魔女たちの演出だろう。あれだけのものを振り付けた努力には感心するが、その効果はきわめて月並みなものにすぎなかった。

【音楽面の成果】

歌手たちに目を移せば、突出して素晴らしいキャストはおらず、特に、重唱が少ない作品ということもあって、キャストどうしの関係に「かけ算」の効果が生じなかった点で不満が大きい。しかしながら、主要役の力量は安定していた。なかで、特に目立つのはマクベス夫人の小林厚子だろう。かつては藤原で一線級を張ったソプラノだということだが、私の知るかぎり、最近の公演では出演が限られているように思われる。しかし、逞しく伸びる歌声と、演技の巧さで観客を魅了するにはまだまだ豊富な力があった。登場シーン、夫からの手紙を読み上げる台詞まわしの声のつよい緊張感、その後の歌の分厚い迫力で、まず、客席のこころを鷲掴みにしたが、その後も期待が萎えてしまうようなシーンはなかったであろう。ただし、アジリタが効かないのは欠点だ。声を転がす技術が高ければ、いくつかの場面で、より核心的な味わいを残すことができたはずである。

期待はマクベス役の須藤慎吾に集まっていたが、十分、期待どおりの仕事ぶりではない。終幕のアリアは1日限りの公演ですこし硬くなっていたのも事実だろうが、ココが見せ場と力むことなく、声を張り上げずに、淡々と歌うところには感銘を受けた。このスタイルで歌い込んでいけば、マクベス題名役の終幕で、いままでとはまったく異なったイメージをつくりだすことができるだろうに。アリア以外の部分での演技的要素は、申し分なく素晴らしく、声にも厚みがある。

個性的なのは、マクダフの田代誠だろう。この公演ではもう、ほぼ全快となっており、昔の彼のことは知らないが、コンディションは本人の思い描く理想にちかくなってきたようにみえる。いちど聴いたら忘れない独特の歌いまわし、音域に関係なく余裕の感じられる発声、そして、若干、悪声といえる声の質の味わいも含めて、僕にとっては魅力的な歌い手だ。

これらをまとめ上げるのは、ヴィート・クレメンテであったが、彼の指揮はきわめて個性的なものである。新国立劇場の『マクベス』では、プレミエがミゲル・ゴメス・マルティネスで振るわず、仄暗い野田演出の美しさだけが際立ち、再演がリッカルド・フリッツァ(肩の怪我による尾高忠明の代役で、当時、初登場)の指揮で大成功となった。フリッツァはあくまで正統派の音楽を分厚く鍛えることのできる才人だが、クレメンテの指揮はドラマから起こして、スコアを新しく読み込んでいくスタンスであり、大体、こうであろうと予想されたことに反するイメージが提示されることも多い。その点で、彼の指揮を好まない人も中にはいるだろうが、誰にでもできるような仕事ではなく、明らかに傑出した才能を示している。

多分、初来日となる2007年の東京室内歌劇場の公演、パイジェッロの歌劇『水車小屋の娘』のときに耳にして、そこで素晴らしい印象を得たクレメンテがその後、各団体で順当に成果を上げていくのをみて喜んでいたが、私としては6年ぶりにその音楽に接し、よりハッキリと個性を打ち出すようになっていたのには、二度驚かされた。その時点でも、作品の味わいを活き活きと豪快に引き出して、イタリア特有の楽天的な表情を出すのには長けていたが、これほど作品と深く結びついた思慮までは感じさせることがなかったものだ。

例えば、序幕で魔女たちの予言を受け、実際にダンカンを殺害し、同僚のバンクォーまで殺害し、宴席で幻影をみるところまでは、かなりのハイ・テンポで進んだ。前奏曲から第1幕、第2幕まで、ずっと休憩なしである。特に、第1幕はテンポが速い。凶行が判明し、人々が嘆き苦しむ第1幕の最終場でも、クレメンテは手綱を緩めないで、あっという間に終わってしまうのだ。私はこのような音楽づくりに、はじめは動揺した。しかし、これは自分でも何が何だかわからないうちに、魔女に唆され、夫人に背中を押され、そして、見えない欲望に導かれて凶行を犯してしまうマクベスの心情にぴったり来るものかもしれない。速いテンポであっても、構造は見事に凝縮し、よく準備されたイメージであることは理解できた。

また、そのなかでも、宴席の場だけは、たっぷりとられているのも、同じ理由で納得がいくだろう。バンクォーの亡霊に悩まされるこの場面は、マクベスにとって、気が遠くなるほどに長い時間である。須藤の演技力が光るのも、このような長い時間が前提にあるせいだ。通常、印象に残るレイディ・マクベスによる乾杯の歌よりも、この場合、我々の胸により深く刻まれるのはマクベスの独白のほうになる。音楽的には、確かに夫人のほうに焦点を当てたほうが無難であるが、クレメンテはそうしない。そして、バンクォー「登場」のときに鳴る仰々しい和音をマックスで強調し、この点が、オカルト的特徴を際立たせる一因にもなっていた。直井の演出は、こうした音楽面の特徴と鋭く対応している点で面白い。

クレメンテの音楽づくりは、例えば、EMIの録音でリッカルド・ムーティが示しているような規範からみると、かなり強烈な逸脱を多く含んでいる。だが、そのアクションをつぶさに検討していけば、ドラマと連動しない恣意的なものなど、1つとてないことがわかるはずだ。クレメンテはマクベスや夫人の心理、もしくは、それに強烈な影響を与える魔女たちの予言の場面に深くこだわっている。バレエ音楽も、単なる当時のグランド・オペラのお約束ものとして捉えるのではなく、ドラマの表現と密接に関連したものとして認め、これを生かしきった点では、指揮者と直井の共犯的なファイン・プレーも指摘できるだろう。

なお、オーケストラはコンマスに元東京フィルの平澤仁が置かれ、バラバラの寄せ集めなのに、かなり凝縮したアンサンブルだったのには驚いた。特にフルートにはソリストの竹山愛がいて、しばしば重要な役割を果たすこの楽器が、強烈なアクセントになっていたのである。

【まとめ】

指揮を中心に、音楽面の成果がかなりのものだったにもかかわらず、どうしてだろうか。全体の興趣がきっちりつながっていないように思われる点で、私は静かな不満を抱いていた。それは最終的には、私がクレメンテの織り上げた個性的なドラマの展開に、十分、対応しきれていなかった証拠だと思うし、もうひとつは、直井氏の演出にも、指揮者と真正面からぶつかりあうような強い意志がなかったせいではなかろうか。日本の演出家は、作曲家が思い描いた強烈な皮肉を十分に受け止めるには、あまりにも品がよすぎる人ばかりに思える。

しかし、それにしても、限られた予算と人材的リソースで、このレヴェルまで到達できれば賞賛すべきだろう。また、オペラ彩は埼玉県南部(東京都練馬区と境を接する)の和光市を拠点に、そうしたレヴェルの公演をずっと維持しつづけている点が特筆される。今回は、前回公演のドニゼッティ『マリア・ストゥアルダ』との関係を踏まえながら、顕彰を受けた舞台をさらに発展的に継承していこうとする意志が感じられる公演であった。よく喋るマダム・ワダのプロデュース力には、ほとほと感じ入るところがある。彼女と私には多少、共通点があって、それは知名度に関係なく、舞台で結果を出した人を素直に評価できるということだ(僕のほうについている目は節穴だとしても)。

彼女の指揮者選びや、キャスティングには納得感がつよい。例えば、私がこのオペラ彩の公演をはじめて見たのは、当時、声楽ファンの間で話題になっていた岩井理花がミミを演じた『ボエーム』のときだ。岩井の歌唱は評判通りに素晴らしかったが、指揮の平井秀明が同時に素晴らしく、彼はやがて新国立劇場に『フィガロの結婚』で初登場を果たす(メジャー路線では知名度の壁を突破できなかった)。その後、神田慶一が指揮を執ることになって、『トゥーランドット』を観にいった。題名役が並河寿美であったことも含めれば、和田代表が青いサカナ団の公演に感銘を受けたことは明らかだ。指揮者だけをみても、佐藤正浩、ヴィート・クレメンテと、よく目を凝らせば、しっかりと実績を上げている人物が的確に選ばれている。今回の題名役、須藤慎吾のセレクトも魅力的だった。こうした適切な評価が下せるのも、彼女がたくさんの舞台を見て、それをこころから楽しんでいる証拠である(もちろん、私など到底、及びもつかないほどだろう)。実は、そうした主催者があまり多くないのが現状だと思う。

そうはいっても、あと一歩足りなかったのは事実であろう。足りなかったのは「私好みの展開や演出意図」ではなく、誰にでも訪れる新鮮な驚きであり、それをもたらす強靭な意志の力だった。観客や、ともに舞台をつくる音楽たちのひとつ先を読み、攻撃的に発想を配置していく手法は、例えば、信長を見習えばよいのである。彼は常に休むことなく、征服が進めば拠点を移して絶好の位置に立ち、主立った家臣を最前線に置いて、必要ならば、彼らの国替えも辞さなかった。光秀は、そのような家臣の扱い方に不安を覚え、家臣団を代表するつもりで信長を誅殺したと思われるが、いったん主君を討つや手を止めて、周囲の懐柔に精一杯に励んでいるところ、すかさず大返しした秀吉に討たれたのだ。直井の演出はちょうど、この光秀の停滞を思わせる。

思えば、光秀とマクベスの行動は似ている。彼らは主君の行動に不安を感じ、機を逃さずに行動した。だが、あるところから先、彼らはみえざる手に動かされていたようにもみえる。しかし、私の好きな場面のひとつに、マクダフに追い詰められたマクベスが、ついにマクダフ出生の秘密(女の腹からは生まれない=帝王切開)を知り、もう、どうでもよくなって、’Cielo!’と叫んで奮戦するところだ。ここにだけ、マクベスは一瞬の意志を垣間見せるのであって、以後の僅かな時間、彼は光秀のように空っぽではなくなる。彼の夢遊病のような行動が、あっという間に意志に切り替わるのである。彼はもはや、魔女たちに騙されてもいなければ、あまりに勇猛すぎて、陰険とさえ言えるほどの奥方に唆されてもいないのだ。この部分を逃して、作品を演出することは愚の骨頂というほかない。

最近、見つけた真実は、ヴェルディのいう運命とは、人間の意志だということである。それまで、マクベスの行動には確固たる意志を欠いているのだが、最後になって辛うじて、彼はそれを掴むことができ、結果として、自らの虚栄心や野心による殺人が問われてくることになる。否、本当にそうだろうか。これはあまりにも、私個人の考え方に基づいていないであろうか。そんなことはない、断じて、そうではないのだ。ヴェルディの音楽が、正にそのように語っており、私は一介の翻訳者にすぎないつもりである。実際、クレメンテのつくる音楽は、常に先の先を見越して演奏されていたようだ。ほんの一瞬を逃してはならない。どの作品でもそうだろうが、『マクベス』という作品では、その重要性が極端な形で表れる。これを上手に拾うためには、かなり攻撃的な姿勢が必要なのではなかろうか。

公演に関する私の不満のタネは演出家、もしくは歌手が、「一瞬」への飽くなき注意力を欠いた結果としてみられるのである。

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