2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ② 10/12 | トップページ | 沼尻竜典 ウェーバー 魔弾の射手(台詞なし) トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ(TMPオペラ・プロジェクト第5弾) 65th定期演奏会 10/6 »

2013年10月21日 (月)

尾高忠明&東京フィル ベルシャザールの饗宴(ウォルトン)/海の絵(エルガー) 文化庁芸術祭オープニング公演 10/1

【芸術家=尾高忠明】

尾高忠明はついに、新国立劇場での任期中にオペラ公演の指揮を振ることはなかった。肩の故障があり、舞台上演に不可欠な高い打点を保っての指揮ができないことが理由であろう。尾高は上背もないし、ピットの下から、低い打点で全体のアンサンブルを捉まえることは難しいはずだ。普通に、リハーサルどおり進んでいる場合はよいのかもしれないが、それならそもそも、指揮者が必要なく、舞台で想定されるあらゆるアクシデントに対応したり、舞台ならではのドキドキする大胆な音楽の運びをつくるためには、腕が自由に上がらないようでは話にならないだろう。指揮者でありながら、本業がビジネスマンであるT.ノヴォラツスキー元監督のように、ひとつも公演を振れなかったのは不本意なことだろう。例えば、昨季の『ピーター・グライムズ』などは自分でやりたかったはずだ!

飯守泰次郎氏が来年の9月から、つまり、来季から正式にディレクターに就任するという最後の時期に、この特別公演を組んだのは、尾高の音楽家としてのプライドを示すものだ。事実上、劇場管の主役を担い、個人的な関係も濃厚な東京フィルを舞台上にあげ、オペラ部門で最高のリソースである新国立劇場合唱団(高いクオリティを買われ、各楽団の公演にも出演するようになったことは劇場の経営的にも重要だろう)をフィーチャーする形で、ウォルトンのオラトリオ『ベルシャザールの饗宴』を演奏した。また、前半のエルガー『海の絵』では、東京フィルの『グレの歌』で傑出したパフォーマンスを見せた加納悦子をソリストに選んでいる。

文化庁芸術祭のオープニング公演に選定され、珍しい雅子妃殿下を伴う東宮も臨席のなか、舞台は整った。

【作品について】

しかし、このウォルトンの作品は不思議な味わいをもっている。作品は旧約で最大の英雄であるエリヤの予言に始まり、バビロン捕囚の憂き目のなかで、屈辱を受け、怒るユダヤ人たちの表現から、ベルシャザール王の神秘的な死、そして、王国崩壊を嘆く民衆の嘆きと、解放に感謝するハレルヤ・コーラスのセットまでを描いている。しかし、ユダヤ人の極限状況に対する表現はごく大雑把で、奇跡の表現も大味なら、最後のハレルヤ・コーラスも十分な神威には満ちていない。バリトン独唱があるが、バッハ『マタイ受難曲』に指定されたエヴァンゲリストのような役割で、出番はさほど多くなく、アカペラを含む合唱が主役になっている。2群の別働ウィンド・オーケストラを含む巨大編成によるスペクタルなサウンド、思いきって単純化したような表現の特質、宗教に題材をとり、それを派手に飾りつけるセンスなどをみると、A.ロイド・ウェバーが音楽を担当したミュージカル”Jesus Crist Superstar”を思わせるのだ。

1902年生まれのウィリアム・ウォルトンについて、私は十分に知っているわけでなく、ヴィオラ協奏曲や、壮麗ないくつかの序曲や映画音楽について知るだけで、彼が何のために作品を書き、どのようにして、爵位まで受けたのかという事実について、十分語ることはできない。しかし、彼の作品は傑出した機動性を誇るため、しばしば戦闘機を描いたりしているのも個性に合っている。彼はシステムの新しさには一切興味を示さず、したがって、藤倉大などからみれば、英国近代には数多い無価値な作曲家のひとりだろう。だが、実際には、この作曲家は自らの生きた時代を活き活きと体現している。大英帝国の栄光は去ろうとしているが、その黄昏のなかに、きっと何かがあると信じつづけた作曲家でもあろうか。

『ベルシャザールの饗宴』でも、最後、作品に奥行きをもたらすバビロン民衆の嘆きについて描いている部分が非常に魅力的で、ところが、これをぶった切って、ウォルトンはハレルヤ・コーラスをねじ込んでしまう。バビロン民衆の嘆きは、実は英国民の嘆きと重なっているだろうが、彼はより大きな喜びが、イギリスに待っていることを予言したかった。あるいは、有名な『メサイア』を生み出したヘンデルへのオマージュでもあろうか。

歴史を紐解けば、この作品はウォルトンがまだ若いころ、1931年に初演されたものである。当時の英国に、かつての栄光はもうなかった。ロイド・ジョージ首相はWWⅠのあとのパリ講和会議で、公約の賠償金をとれずに失脚したが、その後、政治勢力が分散して拮抗し、不安定な政治状況がつづいた。ナチスの伸張が目立ちはじめるなか、労働党で初めての首相となったマクドナルド(第2次)がようやく、挙国一致内閣を組み上げたのが1931年のこと。バビロン民衆とユダヤ人の捕囚者では、どちらも魅力的とはいえない音楽で書かれているが、これは明らかに、英国の同時代を皮肉ったものであったろう。労働党、保守党、自由党のどれにも、肩入れする根拠はなかった。そして、世界の危機的な状況にもかかわらず、愚直なドンチャン騒ぎが繰り広げられていたのである。こう考えると、作品はグッと現代的な様相を帯びることになる。

【信仰がもたらす響きの秩序】

こんな状況のどこに、光がみえるのであろうか。それはやはり、信仰の為せる業というしかないだろう。作品でたったひとつ、重要なモティーフは、前半で演奏されるベルシャザール王の側のドンチャン騒ぎと、彼が斃れたあとの、ユダヤ人によるドンチャン騒ぎのちがいのなかに隠されている。いずれもド派手で、力づよく輝かしい音楽で書かれているが、ひとつだけ重大なちがいがある。それはすなわち、ユダヤ人の側には秩序があるということだ。ベルシャザール王の側の騒ぎには、正しく無秩序な野蛮さしか見当たらない。音楽は活き活きして、それはそれで聴きごたえがあるが、これがあとで、何らかの方法で覆されるのは目にみえていた。それは予想どおり、作品の終盤で、再び2群のウィンド・オーケストラが登場するあたりで種明かしされる。同じような素材、リズム、響きがあっても、それが適切な場所、適切なタイミングで鳴らなければ、有効なメッセージとならないことを、その響きがハッキリと伝えるのだ。

この瞬間だけを、尾高は辛抱づよく待っていた。それ以外の部分は、どうなってもよかった。合唱を含め、ルーズな部分が多いとしても、なんら問題はなかった。あの部分で、適切な場所、適切なタイミング、完全に秩序だった響きが流れれば、それでよかったのだ。鳥肌が立った。もしも神威のようなものがあるとすれば、唯一、この部分だけであろう。基本的には、娯楽的な作品だ。しかし、それを何も知らずに眺めるなら、白痴のようなものである。ウォルトンはひとつの秩序を愛し、この時代に相応しいものと考えたし、それをまた、この時代に相応しい手法で世に問うていく必要があった。実際、この作品は当たり、ウォルトンは創作上の一定の自由を勝ち得たといえるが、それは多分、英国民がその真意に十分、気づいていたせいだろう。

賞賛すべきは、やはり、合唱団である。特に序盤、目立ちやすいミスが多かったこともあり、批判的な意見もあるが、あの声の密度はやはり、ほかの声楽アンサンブルではあり得ないものだし、世界的にみても高水準であることは変わらない。このコーラスの特徴のひとつは、楽器と同じように扱えるということである。尾高はこの作品を各楽団で頻繁に取り上げていて、得意中の得意としているが、今回は、この合唱団の機動性を遺憾なく生かしきってのパフォーマンスである。そして、この作品では、求められる合唱のキャラクターが一様ではないので、その歌いわけも慎重になされなくてはならない。この点でも、新国の合唱団にはアドヴァンテージがあった。

【プログラミングの意図】

この演奏会でもっともこころに染みたのは、実は前半のエルガーである。加納悦子がアルトの演目に挑戦し、『海の絵』を歌った。一部、あまりにも低い音域があり、また、英語よりはドイツ語を得意とする歌手ではあろうが、最近の加納なら、どんな逆風だって乗り越えられそうな気がするし、実際、そうだった。新国の設備を生かし、字幕を流しながらの歌唱だが、どうも、この作品の演奏には震災の爪痕が反映している感じがする。第1曲の子守唄の歌詞が、どうしても、僕にはあそこで亡くなった人たちのためのもののように聴こえてしまうのだ。第5曲でも、荒れ果てた海岸の描写が、ぴったりだ。しかし、最終的には、終曲’The Swimmer’は前向きな歌詞でおわる。

妙な重ねあわせを止めれば、作品はもっと柔和で、ロマンティックな表情も示す。第2曲にはアリス夫人の詩が使われ、全体を通して、いささかエロティックな想像も可能な歌である。作品には深い奥行きがあり、海に育まれる美しい陸という讃美的なイメージは、この島国を愛し、同時に、海に出て稼いできた英国の栄光をも象徴しているようだ。一方、このような感覚からは「羊水のなかの幼児」なども思い起こされ、こうしたイメージはしばしば、母を通じてエロティックなイメージに転化した例が多い。例えば、谷崎潤一郎だ。しかし、そんな欲望は微塵も感じさせず、作品は一見、上品に輝かしく表現されている。加納も言葉を一生懸命に歌い、品のよい表現に終始しているが、それだからこそ、こうした複層的なイメージが浮かび上がってくるのである。

尾高がこのプログラムを取り上げた真意について、誰も知り得ることはないだろうし、本人が語りもしないであろう。だが、彼は震災直後の5月、東京ハルサイの舞台でマーラーの交響曲第5番を指揮するに当たり、いつまでも、追悼一辺倒では駄目になってしまう。誰かが、こころを持ち上げる働きをしなければならないという主旨のことを語った。その考えに、このプログラムは明らかに相応しい。エルガーは我々と同じく島国に住み、親近感のある作曲家だ。実際、日本でも、「エニグマ」変奏曲『威風堂々』第1番が有名である。その海がいまは、日本にとって悲劇的な意味を内包しているというだけのことだ。作品はあくまで力づよく、野心的なスイマーの歌でおわる。加納もここに焦点を合わせ、一際、つよい表現を試みた。

だから、後半で、派手なウォルトンが取り上げられるのは、意味のあることなのである。重々しいことを乗り越えて、芸術でこそ、気を吐こうという尾高らしいプログラムだ。

【自らを捨てた芸術家の勢い】

それにしても、加納悦子の歌唱のどこが、あれほどに聴き手の胸を捉えるのだろうか。その秘密について、的確にいうことは難しいだろうが、ひとつには、彼女にはもう、何もとる意思がないということが重要なのではなかろうか。つまり、なにか名声を得たいとか、上手に歌いたいというものよりも、ちっぽけな自分が、その海のなかでどう浮かぶか(あるいは、もがくか)ということにしか興味がないのである。以前から、そういう傾向はあったようにも思うが、最近の彼女は特にそうだ。そして、芸術家にとっては、この境地に至り得たときがすなわち、最高の跳躍台に立ったときと重なっていることが多い。芸術家は、自らの無力を知る。そのことをまず認識し、笑い飛ばしたり、より深く掘り下げていくところにしか、新しい表現は生まれてこないものだ。

ノーノの作品に、こんなものがある。進むべき道はない、だが、進まねばならない。

尾高は敢えて、独唱に配慮したバランスなど用意せず、加納もまた、そうあるべきだと感じて歌っている。録音のようなバランスには、当然、なるはずがない。以前の加納なら、こうした鬱蒼とした現実を乗り越えることは難しかったろう。例えば、第4曲などは、もう聴こえなくても構わないぐらいの表現で徹している。だが、終曲をそのように歌うわけにはいかないだろう。こうした明白なメリハリが、彼女の表現を自然とつくっていくというわけだ。後半のコーラスの表現とは、まるで正反対だろう。だが、どこまでも高貴である。いま、このようなエレガンスを自然と放つような歌い手は少ない。ヴィジュアルではなく、歌の気品によって。無論、加納のドレスだって、この日のものは十分に贅を尽くしたものではあったろうが!

『グレの歌』の山鳩、『ホフマン物語』のニクラウス、そして、この『海の絵』と聴いてきたが、加納はいつも、自分以外のなにかを浮き立たせようと表現をつくってきた。今回こそは彼女が主役だが、歌い手自身は、そうでもないと感じていたのだろうか。実際、加納がなにより大事に生かそうとしたものは、言葉の響きであった。単に英語らしい表現とか、ネイティヴらしい発音とか、そういうことではなく、楽曲のなかで、その言葉に求められる響きである。それがよかったからといって、一体、誰が褒めてくれるだろうか。多くの人がそれに気づかないなら、私がそれを指摘することには、多少の意味があるかもしれない。断じていうが、こうした表現には気づくべきだし、少なくとも、気づこうとすべきだ。その姿勢がないなら、音楽に価値はない。

しかし、彼女はもう、そんなことにさえ、悩みはしないのである!

【プログラム】 2013年10月1日

1、ディーリアス 楽園への道~歌劇『村のロミオとジュリエット』
2、エルガー 海の絵
 (Ms:加納 悦子)
3、ウォルトン オラトリオ『ベルシャザールの饗宴』
 (Br:萩原 潤)

 コンサートマスター:三浦 章広

« エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ② 10/12 | トップページ | 沼尻竜典 ウェーバー 魔弾の射手(台詞なし) トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ(TMPオペラ・プロジェクト第5弾) 65th定期演奏会 10/6 »

声楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/58353887

この記事へのトラックバック一覧です: 尾高忠明&東京フィル ベルシャザールの饗宴(ウォルトン)/海の絵(エルガー) 文化庁芸術祭オープニング公演 10/1:

« エリシュカ ドヴォルザーク チェロ協奏曲/ブラームス 交響曲第3番 札響 定期演奏会 ② 10/12 | トップページ | 沼尻竜典 ウェーバー 魔弾の射手(台詞なし) トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ(TMPオペラ・プロジェクト第5弾) 65th定期演奏会 10/6 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント