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2013年10月 9日 (水)

タカーチQ バルトーク 弦楽四重奏曲第4番/ブラームス 弦楽四重奏曲第2番 ほか @紀尾井ホール 9/26

【アンサンブルの特徴】

ハンガリーのアンサンブル、タカーチ・クァルテット(タカーチQ)は個性的な団体だ。彼らが大事にしているのは、技術的な研磨というよりは、自分たちがなにを、どのように弾けば、「らしく」あり得るのかという点であり、それがつまり、表現というものなのだという強い信念の下に演奏がつづけられている。創設時からは、ヴィオラのほか、第1ヴァイオリン奏者でアンサンブル名の冠を飾る、ガボール・タカーチ・ナジーが離脱したが、現在のメンバーがオリジナル・メンバーと比べて劣っているという人はなく、近年、タカーチQの活動はますます高く評されている。その理由は、世界でも稀にみるほど、強烈な個性を示すアンサンブルだからにほかならない。

その個性について、これから、今回のツアーの紀尾井ホール公演を下敷きに考えていこう。

今回のプログラムはバルトークの4番とブラームスの2番をダブル・メインとし、これら2人の作曲家がつよくリスペクトしたベートーベンの作品、弦楽四重奏曲第4番を最初に置いたものである。ベートーベンは人気のある中・後期のものではなく、比較的、知名度があるとはいえ、初期の4番を選んでいる点が興味ぶかい。4番は op.18 に含まれる6曲のなかでは、もっとも最後に書かれ、スケルッツォとメヌエットの2つの舞踊楽章が挟まるなど、独特の形式をめざしたものであること、さらに、しばしば名品が残る「ベートーベンのハ短調」というところからも注目される。

ただし、この4番の演奏から、タカーチQについて何かを語ることは、私には難しい。期待外れではなかったが、終始、一貫してこころに残るほどのものではない。しかし、最初の弾き出しから感じられる、高貴な音色には胸に突き刺さるものがある。どの曲でも、この「ふりだし」のインパクトについては深い注意を払っているようで、当然、繰り返しで戻ってきたときにも、より深い印象を与えられることから、最初を決めることはクァルテットにとって重要なことであるのは間違いない。さて、最初に構造が押し詰まり、全体のアンサンブルを第1ヴァイオリンが鋭く受ける部分は、マイルドに流れに乗って演奏され、さほど強調的ではない。むしろ、そこで流れが切れるのは御免だという風情である。以後、アンサンブルは次第に柔らかく、穏やかなものとして提示される。タカーチQの特徴のひとつは、こうした穏やかな起伏、構造のつかみ方である。最近のアンサンブルは技術的には巧いが、どの団体も総じて、造型が鋭すぎるのが難点になっている。その点、タカーチQは伝統的な響きの柔らかさを頑固に保っていて、ジョセフ・リンを迎えて攻勢に出たジュリアードSQのような尖鋭化がみられない。

【ドゥシンベルの沈黙】

いまの話しから少しだけ窺われるが、2代目・・・といっても、1993年以来、第1ヴァイオリンを務めるエドワード・ドゥシンベルは、ハンガリー人でもなく、ガッツリ目立つ典型的なファースト・ヴァイオリンのタイプでもないが、タカーチQにとっては紛れもなく得がたい人材であったと言える。彼のもつ響きは船首像のように象徴的でありながら、静かに海を見つめ、ほかの3人の波をよく受け止める素質に長けている。先日のギゼラ・マシャエキ・ベアを中心とするアンサンブルでは「模倣」がキーワードとなったが、ドゥシンベルは良くも悪くも、混ざりきらないことでアンサンブルを客観的に導いていく資格を得ている。無論、それは他のメンバーとのディス・コミュニケーションによる結果ではなく、より高い次元の沈黙というべきだ。

この沈黙が、アンサンブルの響きをより知的な次元に引き上げているのは言うまでもない。そして、彼が多分、このハンガリー人主体のアンサンブルについて、もっとも気に入っているのは、響きの明るさを生かすという点についての得がたい特質だ。それは、このベートーベンの「ハ短調」でも例外ではない。演奏によっては、意味深長な深い緊張を生み出すこともできる作品だが、タカーチQは、ベートーベンがまだ辛うじて保っていた若々しさを最大限に生かしきるように努力したというべきだ。

【源流を求めて】

この時期のベートーベンはどんな風だったかというと、まず、op.18 の作品集は1800年ごろに書かれたと言われている。初期から中期に移る境目だが、肉体的には、1798年から聴覚障害の兆候が表れ始めて、1802年には有名な遺書が書かれているという難しい時期でもある。今回、タカーチQは別プログラムで、スメタナの「わが生涯より」を取り上げていて、いずれも、作曲家が聴覚を失うという「生存」の危機と向き合う内容を含んでいるのは偶然ではなさそうだ。この演奏会でも、アンコールで舞踊楽章が演奏されたが、それを聴いても、たとえ耳が聴こえなくなっても、優れた作曲家が自らの傑出した才能や、それまでの濃厚な経験によって、自らの運命に敢然と立ち向かっていく精神の力づよさ、あるいは、より単純な音楽の悦びや楽しさへの意志が前面に出ており、アンサンブルの主張は明らかである。

あらゆる極限状況においても、まだ、作品を書くという行為のなかに生きているエネルギーの源を求めて、タカーチQのメンバーは表面上、空間のなかに生じる響きから遡行していく。そして、必ずといってよいほど、なにか明るい光にぶつかって、嬉しそうに戻ってくるのだ。彼らはいつも、そういう体験をするために演奏し、また、その感動を客席に伝えることが、音楽家としての義務だと思っているにちがいない。その人と話していると、自分が常々、コンプレックスを抱いていた部分は忘れてしまい、蔭に隠れていた良いところかドンドン引き出されてくるというような、聞き上手の、褒め上手を思わせる。彼らは決して、心理カウンセラーの真似事はしない。ただ、笑って聞いてくれて、自分も素直に人生を楽しんでいるという、それだけのことだ。

【バルトークの奇術の正体】

このような傾向が、演奏会全体から感じ取れるアンサンブル最大の特徴だろう。それは前半のメインに据えられたバルトークの弦楽四重奏曲第4番から、もっとも顕著に感じられた。かつて、バルトークQのフェアウェル演奏会を聴いて以来、生では聴く機会がなかった曲だが、タカーチQの演奏には悦びしかない。メンバー交代以前の録音と比べても、響きはさらに自由で、ゆたかで芳醇なものとなり、バルトークの前衛的な位置づけをすこしも感じさせないのだ。それは多分、私が主にリズムに注目して聴いており、響きそのものにウェイトを賭けないバランスで聴いていたせいもあるだろう。そのせいか、私には、ココにあるはずの音が聴こえなかったり、現に響きがあるところでなにも聴こえないという錯綜した経験が襲いかかってきたものだ。

この作品は神秘的でありながら、かつ、田舎の踊りを思わせる単純さがいつも抜けきらない。ある意味、全体的には誰もが見慣れている単純な器にすぎないもののなかで、バルトークはいくつかの奇術を使ってみせるのである。例えば、リズム上、そこになければならない響きを消失させ、思いがけない飛躍を体験させたり、あるいは、ある音を中心に炎が燃え広がっていくようにして小節線を突破し、普通なら、そこに置けるはずのない響きの影を拝ませたりするのである。

なぜ、そのようなことをしているのか。その謎を解くためには、この作品の第3楽章をみるべきだと思う。現在のタカーチQの演奏を聴くかぎり、中間の3楽章はどれも静かにとられている。なかでも、第3楽章はチェロを中心に、艶めかしくも神秘的な味わいが奥深い。非常に野卑なイメージで捉えながらも、弾きおわりでは、聴き手の注意は厭でも上向きに払われることになり、そこでは自然、天国を仰ぎ見ることになろう。このコントラストが、あり得ないほどに凄い。第2楽章と第4楽章は、こうした天と地上を結ぶプロムナードの役割を果たしている。第2楽章におけるミュートの使用と、第4楽章のピッチカートが対比的になっているが、後半はスケルッツォの印象を深め、思わず笑みを誘うようなアイロニカルな響きが出て、これは旧いメンバーから受け継がれたもののようだ。

【タネも仕掛けもなく】

これがあればこそ、終楽章の楽天的な解釈も許されるのである。以前の録音では、彼らはこうした部分により謎めいたものを多くすることが、作品の価値を高めると信じていたはずだ。だが、いまでは、2人のメンバーがそのまま残っているとはいえ、むしろ、謎めいたものなど何もないように、透明な箱のなかでタネも仕掛けもないという状態こそが、バルトークらしい表現なのだという対照的な解釈に成熟しているのである。それゆえに、この楽章には、いままで、この作品で体験してきたすべてのものが見えることだろう。

そして、同じような解釈が、ブラームスにも適用できることを、彼らは鋭く見抜いていた。

ブラームスというと、どうしても渋くて、重いイメージがある。よっぽど、このフォームの作品は比較的、早い時期に3曲すべてが書かれており、64年を生きたブラームスが40歳で書いた作品であるから、壮年期のエネルギッシュな感性が横溢していることも確かだ。タカーチQが表現したかったのは、そうしたエネルギーとアイディアに満ち溢れた、いちばん良い時期のブラームスのイメージなのである。だからといって、なんでも明るく、オペラのスーブレットみたいに振る舞っているわけではない。例えば、特にこの作品で目立ったチェロの響きについて、思い出してみよう。ゴツゴツした瘤のような響きが創設メンバー、アンドラーシュ・フェイェールの楽器からは鳴り、これが独特の渋みを醸し出している。その苦味を経由して出てくるような、明るい響きだからこそ、価値があるのかもしれない。

【調性のマジック】

冒頭でハ短調の作品が取り上げられたが、この作品もイ短調だ。あまり得意でないものの、楽典の基礎について考えてみれば、イ短調の平行調は単純で安定のハ長調になっている。これで、謎解きができるだろう。ハ短調の平行調は変ホ長調で、フラット3つで「三位一体」を表す。これは、ベートーベンを演奏するには、きわめて重要なキーワードだ。しかし、バルトークの弦楽四重奏曲第4番からは、調が判別できない。無調である。確かにそうなのだが、だからといって、バルトークが前衛的な形式の破壊者だという見解にはなっていないようだ。タカーチQはそういう音楽でありながら、バルトークのこころのなかには、ベートーベンとソックリ同じものがあることを主張したいようなのである。

彼らは、短調を長調にスライドして語ってくれた。正直、この理屈はいま考えたものかもしれない。でも、私はずっと、思っていたのだ。一体、何があるんだろうか。どうして、彼らの音楽が、これほど神秘的に聴こえてくるのかと考えつづけていた。どうして、聴こえないところに響きを感じるのか。また、いま聴こえている響きが、どうして、直ちに虚だとハッキリ決めつけられるほど、明確に影の存在なのか。その答えが、いま、わかったような気がするのだ。といって、彼らにはやっぱり、タネも仕掛けもない。ただ、ほんのすこし、手袋の指をひっくり返してみただけのことなのだ。そこには誰にでも魅力的な、考えさせる、神秘的で、手ごろなメッセージがあった。

こうした演奏を、紀尾井ホールのような場所で体験できたことは、一生の宝になる。私は1Fバルコニーの前のほう、つまりは、舞台と同レヴェルでちかい席を選んだけれど、これは非常に幸運なことだった。ひとつには、あの極上の響きを、私の部屋で聴かせてもらうような体験ができたから。もうひとつ、4人のコミュニケーションが手に取るようにわかる位置だったから。私もここ何年か、優秀なアンサンブルをいくつか聴いてきたが、このアンサンブルほど、室内楽の面白さを体現しているグループもなかった。彼らはみるからに良い関係をつくっており、お互いの特徴を生かしながらも、アンサンブルとして高度な結びつきを確立している。融合して1つのメッセージを伝えるのではなく、4つのメッセージがあたかも和音のように響いてくるのであった。

【プログラム】 2013年9月26日

1、ベートーベン 弦楽四重奏曲第4番
2、バルトーク 弦楽四重奏曲第4番
3、ブラームス 弦楽四重奏曲第2番

 於:紀尾井ホール

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