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2013年11月 3日 (日)

ラザレフ マーラー 交響曲第9番 ほか 日本フィル サンデーコンサート(207回) 10/27

【独特のアプローチ】

マーラーの伝記など読んだことがないが、彼はきっと優しい人だった。とても優しい人だった。純粋すぎるほど純粋で、その点で気難しい面もあったろうが、指揮者として際立った成功をしているように、決して人格破綻者ではなかったであろう。マーラーはアルマ・シントラーと結ばれる際、ツェムリンスキーの弟子だった妻に作曲を禁止して、「私の作品をあなたの作品と思ってくださいませんか」と言ったそうだが、普段、冷酷で、ある種の女性蔑視のように思えるこの言葉が、ラザレフ&日フィルの音楽にのって思い出されると、それさえもが、とても優しい言葉のように思えてくるのは不思議なことだ。つまり、そうして2人で作品を織り上げていくなんて、なんて素敵なことだろうかと。

私はマーラーの音楽に敬意を示しているが、好きか嫌いかといわれれば、嫌いなほうに入るだろう。少なくとも、誇張的なマーラーの演奏には、私は常に批判的になる。マーラー演奏にもいろいろなタイプがあり、私は基本的には豊富な情報量と、メッセージの鋭さに注目して演奏を判断する。マーラー演奏における私のスターは、直弟子のブルーノ・ワルターであり、作品からもっとも個性的で、活き活きした表情を紡ぎだしたミトロプーロス、そして、実演に接したところでは、ガリー・ベルティーニといったところである。

これらに対して、日フィルにも縁が深い小林研一郎やインバルはまた別のタイプだ。彼らは響きの立体性を重視し、メッセージというよりは、サウンドの強烈さで人々を驚かせようとする。ただし、小林はスコアを単純化し、表現を整理して平易に聴かせることをめざすのに対して、インバルはより全体的な響きの立体化に挑戦している。いずれにしても、これらの音楽のイメージの頂点に、バーンスタインのイメージがあるのは自明である。彼らの発想からすれば、マーラーは得体のしれない悪魔のような存在だ。サウンドが、そのような特徴を示しているからである。だが、ラザレフの音楽を聴けば、そうした表現が20世紀的に歪んでいると気づくことも容易いだろう。

冒頭の3つのクラスタは、互いに異なる響き、強さ、長さで構成され、決まりきった船上のイメージはなかなか浮かび上がらなかった。最初の「ボーッ」はほとんど聴こえず、短い響きでつくられ、遠くから聴こえてくるように。ハープはしっかりと、しかし、柔らかに、適度な響きを保って。それにつづく金管の響きはちかく、粗雑なほどに朴訥な響きで長くとられた。ゆったりした波(私にはそう感じられた)がすこしの誇張も許さず、やがて、自然に海のイメージが生まれ、それでも、まだモゴモゴとして口ごもり、つよいモティーフを打つ前には、必ず弱いステップを入れて、ロジカルに、しかし、雰囲気いっぱいに序盤の流れが構成された。弱拍から、突然、飛躍的に鳴り響く汽笛のインパクトは物凄い。

具体性と抽象性が、良い具合にブレンドされた味わい深いサウンド、そして、構造のとり方だ。

いま、申し述べたような造形法が徹底的に踏襲されて、最後までいくのである。ラザレフは、なんといっても、弱拍の使い方が巧みであった。なにか高揚するフレーズがあれば、必ず、それを導き出す弱い部分をつくる。徹底している。その結果として、すこぶる論理的に生まれる山谷の美しさこそが、マーラーの思い描いたメッセージを形づくっていくのだ。私のイメージするものと比べて、彼らの音楽は少しずつズレて聴こえてきた。けれども、心ある人は、その真実を見抜くのに苦労はしない。やがて、最初の喧騒が収まって、ハープの低音ベースが効いた異様な光景が聴き手に印象づけられ、そこから、第1主題が幻影のように浮かび上がってくる。このような場面も、ラザレフは非常に丁寧なつくりをしている。

我々があまり意味をなさないブリッジのようにしか見做さないこのような場面に、むしろ、ラザレフは多大な真実を示唆したのである。

この楽曲の第1楽章は、いわばスクラップ・アンド・ビルドで構成されている。交響曲の形式をもじりながら、マーラーは自らの歩んだ踏んだり蹴ったりの人生をアイロニカルに描いている。ところが、ラザレフの表現では、全体的に前向きな印象をもたらし、形式的にも当たり前の構造が自然に当て嵌められているように聴こえるのだ。今回の演奏を通してみれば、この第1楽章は、マーラーの実際の人生模様によりちかい印象を抱かせる。否定されても、否定されても、粘りづよく自己表現を押し通した男の姿が描かれているようにみえるのだ。最初から最後まで、急に思いついたような表現はひとつもない。構造は丁寧に生かされ、ある音符が生きるために、どのようなアーティキュレーションをとり、山谷を経ねばならないかが緻密に計算されている。そうでありながら、表現はいつも室内楽的な一回性に満ちみちていた。使われるヴィブラートの質さえ、場面ごとに異なっているように聴こえるほどである。

この作品の第1楽章は比較的、気に入っているが、それでも長すぎてしつこい印象が拭いがたく、マーラーの鼻持ちならない誇大主義を象徴するものでもあった。ところが、ラザレフのつくるゆたかな表情は、そのような批判的言辞を引っ込ませるに十分だ。私は目の前で起こる波乱万丈な出来事に、何度も涙せねばならなかった。マーラーは、あの手この手で、不当な低評価、もしくは、無関心と闘わねばならなかった。特殊なグリッサンドや豊富なヴィブラート、コンマスのソロを中心に広がる室内楽の導入。現代音楽にも広く通じているラザレフならではの、風変わりなロングトーンも耳を惹いた。このロングトーンは終盤の要所で、最後の力強い高揚を導く役割を果たしており、その分、印象があとに残る。

後世からみれば、こうしたマーラーのアクションのなかに、後世の前衛的音楽との驚くべき符合を見つけることができる。

ただ、そのような風景ばかりがすべてではなく、音楽は明らかにひとつのドラマを語っている。マーラーは第1楽章で、ある人間の掛け替えのない一生にフォーカスをあわせた。そのためには、20分以上を擁する第1楽章でさえ、十分ではない。だから、彼は人生のすべてを描くのではなく、その人生のなかで、もっとも劇的で、緊張感に満ち、苦渋の決断に彩られた、そのときだけを選んだといえそうである。ラザレフの指揮は、絶対に、その点を外さない。彼はあくまでも、人間に焦点を合わせているが、その背景に、これまでみたこともないような響きのデザインを読み取っているにすぎない。

【埋葬】

この第1楽章と比べれば、中間2楽章の連続スケルッツォの演奏には疑問符をつける人がいるかもしれないが、私からみれば、この2つの楽章も十分に味わいぶかいメッセージに満ちていた。これに先立って、ラザレフは第1楽章の最後で、有名な’ewig’の旋律をかなりハッキリと吹かせて、フルートとオーボエ、そして、ヴァイオリンの対話を朴訥な感じで響かせている。このテーマは第1楽章で随所に配置されているが、私の注意力が低かったせいであろうか。面白いことに、ラザレフはその最後だけに深い意味をもたせ、強調したように感じられた。さて、マーラーの病状は交響曲第9番の時点で、際立ってふかいものではなく、とりたてて死を意識するほどのものではなかったというが、彼はいつも、「そのとき」を待ち侘びていたような印象もあろう。最後の’ewig’で、明らかにこの世への別れを告げたマーラーは、次に自らの作品の埋葬をしていくことになる。

そのことに気づいたのは、交響曲第1番の第3楽章に出てくる民謡のモティーフが、僅かに流れたときのことだ。そこで、私はハッとした。彼が何をしようとしているか、気づいたからである。このモティーフは交響曲第1番の緩徐楽章で、葬送音楽の旋律として用いられている。その影には、親友のハンス・ロットへの想いがあった。それがいま、さりげなく閃いたのだ。この楽章はスケルッツォで響きも朗々としているが、ボヘミアの伝統的な葬礼の場面では、ポルカなど、一見、その場に相応しからぬ陽気な踊りや明るい音楽によって死者を悼む習慣があったということである。

私よりもマーラーに詳しい人なら、もっと明確に、マーラーの埋葬意図を確認できたであろう。わかりやすいところでは、交響曲第4番や、スケルッツォ楽章などでよく響く電話や呼び鈴のベルの響き、木管楽器のベル・アップなどが、次々にこの楽章の音楽の自然な流れのなかで用いられながら、埋葬されていく。具体的なものばかりでなく、より雄渾な響き、例えば、交響曲第6番の毒々しいオーガナイゼーションや、第5番の機動的な動きをイメージさせるシーンもある。

埋葬は、それだけにおわらない。第3楽章では前楽章のつづきをやりながらも、同時に、クラシック音楽のレーゾンデートルを構成してきた対位法的伝統音楽の埋葬までもがおこなわれる。第2楽章のイメージを踏襲しながら、表向きは煌びやかな機動的旋律に、ラザレフは注意ぶかくバロックの響きを混ぜて、作曲者の意図をいっそう明確にしたのが見事である。だが、この表現は日フィルのメンバーが十分、意図的に自分たちの動きをコントロールし、自分たちから動くことなしにはつくれない音楽だ。局地的に編成が小さくなったときにだけ、「室内楽」が浮かび上がるのでは不十分である。このようなポリフォニックな展開が分厚く響きだしたときにこそ、そのキーワードが輝かなければならない。このような筋肉質で、つまりはバロック的な肉体的表現は直弟子のブルーノ・ワルター以降、ほとんど世界に広まらなかったスタイルである。ラザレフだけが、その神秘に迫ったといっても過言ではない。

【天国の響き】

こうして、もはや、何もなくなったところに響かせることができるのは、天国の響きしかなかろう。最後、ラザレフが流したのは、明らかに「無私」の音楽だった。私はそこからいかなる深淵な意味付けも、死への感覚も、なにも感じなかった。あるのは、ここで自分が守っている響き、それを最高の形で貫徹したいという各プレイヤーの想いだけで、これまで流れてきた音楽の幻影(例えば、室内楽的なアクションの連動など)を踏襲しながらも、あまりにも純粋な響きの美しさでしかない。弦の響きは薄く、この点はあるいは、オーケストラのもつ能力の限界点を示すのかもしれないが、そんな要素さえ、なにか特別な意図に基づくのではないかと思わせるような演奏であった。実際、あまり響きを分厚く絞り出さず、最初から最後まで、静かな雰囲気を貫き通すという演奏コンセプトは明らかに感じられた。あらゆる誇張を排して、生身の人間として生きるという意志が、そこには秘められているのではなかろうか。これまで表情ゆたかに、活き活きとした音楽をつくってきた彼らが、ここでは聴き手に「堪えよ」と命じている。

ここに至るまでに、既に、我々はマーラーの生き方から多くのエネルギーをもらってきた。それは個人の生き方がままならない現代社会において、より切実になっているメッセージである。人々は真面目に、思いやりぶかく生きるだけでは足りず、多くの人たちが虐げられながら、生きねばならない社会になってしまった。マーラー自身は英雄的な指揮者であり、アルマのような優れた細君をものにしたが、それは、マーラーの真に求めるものとはちがっていたのだろう。表面的な栄達や、経済的な充足だけが人を幸福にするのではない。彼は常に余所ものであり、自らの正しいと信じるものを否定されて生きてきた。この作品は極限まで努力しながらも、虐げられ、不当に貶められ、苦しむたちへの大いなる讃歌である。どれだけ苦しめられようと、我々は生きねばならない。

ラザレフの永遠につづくようなフェルマータは、そのような意味をもっている。マーラーは「死に絶えるように」と書いたそうだが、ラザレフはそこにフェルマータを付すことで、「いかに生きるべきか」というメッセージができることを見つけたのだ。1分から2分ぐらいもつづいたろうか、どうしても堪えきれない咳き込みは別として、深い沈黙が長くつづいたのは幸福なことであろう。その間、ラザレフも振りつづけたし、弦楽器の奏者は必死に弦を揺すりつづけていた。時折、響きの振動が3Fまでも微かに伝わってきたように思う。しかし、その動きが止まっても、まだ沈黙はつづいた。忘れられない沈黙であり、それは聴き手の側の、全面的な降伏(幸福)を意味していた。

【演奏の自由】

ああやって、ラザレフは沈黙さえもコントロールしていたのであろうか。無論、そうではない。むしろ、これにより、ラザレフは聴き手がどのように音楽を受け取ってもよいと主張しているに等しいのである。音楽は、いずれおわらなければならない。でも、それをいつ、終わらせるかは聴き手が決めてよいというのだ。実際、そのようになった。もう、これ以上は不自然だというところで、拍手なり歓声が始まった。そして、これは彼の演奏姿勢にも、ハッキリと表れている。このパフォーマンスに重大な基礎を与えたのは、もちろん、ラザレフだ。しかし、それ以上に、日フィルのメンバーが工夫した音楽が、あちこちに流れたのも事実なのである。意外な響きの組み合わせ、あるいは、重なりに、私たちは何度も驚いたが、そのほとんどは団員どうしの深いコミュニケーションから生まれたものにほかならない。

ラザレフがすべてを管理して、音楽を締めつけたと考えるなら、それは偏見だ。彼がロシアの巨匠たちのスタイルに倣い、好き放題に音楽を解釈して盛大に鳴り響かせたと思うなら、それも偏見だ。ラザレフは反対に、相当に大きな自由を楽団に与えたと思うし、それらが無秩序なものにならないよう、必要なルールを教えただけなのである。日フィルのメンバーが、そうした自由を使いこなしているのは驚くべきことだし、これまで、コバケンやその他の指揮者たちからの指示待ちを常とした楽団・・・その従順さゆえに、ときに傑出した高機能を示した過去の楽団の姿からは想像もつかないほど、メッセージがゆたかになっている。確かに、ラザレフの思い描くルールは独特なものにはちがいないが、それらのいちいちに、至極もっともな根拠が感じられるのも事実だろう。いま、そのルールを、楽団が想いのままに使いこなしているのに感動させられる。

結局、このような形でしか、「名演」は生まれない。どれほどカリスマ的な指揮者も、従うことしか知らない手兵では何もすることができないのだ。最近みた映画『ハンナ・アーレント』からの応用ではないが、なにも考えなくなったら、どれほど優れた組織をつくっても、成功はあり得ないのである。組織はしばしば、人々を縛りつけて均一化し、それによって集団が自由を得るのではなく、むしろ、組織の安定した実りに充足するあまり、組織の防衛が自己目的化してしまうという矛盾を孕んでいる。前向きな音楽表現を目的とするオーケストラでさえ、その弊から免れることはできないものだ。最近、日本のオーケストラを中心に演奏会をまわってきたが、エリシュカ&札響、カンブルラン&読響、それに、今回のラザレフ&日フィルは、こうした内向きの核力を打ち破ろうとする成長力が著しく高く、それだけに力づよい成功を印象づけることができるのである。

確かに、マーラーの9番は、それほど前向きなメッセージをもっていない。ひとつ前の『大地の歌』の表現を裏打ちしている中国的な史観が顕著に示すように、そこには東洋的な諦念も染みついているようだ。しかし、マーラーが隠者のような性格であるかといえば、それもまた疑わしい。ラザレフがほんの一工夫で発見したように、その音楽は一皮むけば、まったく別のメッセージ、つまり、生と結びついているのにちがいない。先述のように、冒頭の3つの異なった素材の扱いから、ラザレフはこの音楽のなかに、無数の要素と、無数の組み合わせが存在し、それらを我々が適切に選んでいくことで、音楽がまるで別物に変化するということを如実に示した。ラザレフの場合、そこから浮かび上がるメッセージは、マーラーの優しさである。

私が聴いたなかでは、マーラーの9番について、これ以上の素晴らしい演奏はない。都響とベルティーニのコンビでさえ、9番は難しかった。これは10年に1回、もしくは、それ以上の稀にみる名演にちがいない。脱帽したまえ!

【プログラム】 2013年10月27日

1、チャイコフスキー ロココの主題による変奏曲
 (vc:横坂 源)
2、マーラー 交響曲第9番

 コンサートマスター:木野 雅之

 於:東京芸術劇場

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