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2013年11月19日 (火)

アリベルト・ライマン 歌劇『リア』 日生劇場 開場50周年記念公演 11/10

【真実の言葉】

アリベルト・ライマンが初めての本格的なオペラ『リア』を初演したのが、1978年のことだ。当時、超一流のアンサンブル・ピアニストとして知られたライマンは、元来、ボリス・ブラッハーの弟子として作曲を学んでおり、それまでにも劇伴の音楽をいくつか提供した経験はあったようだが、ながくパートナーを組んだ巨匠、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウの提案と助言に基づいて創作を進め、この理想的な初演者とともに、新たなキャリアを踏み出したのである。その後、現在に至るまで、ライマンの作曲家としての成功は揺るぎないものとして評価されてきている。その第一歩が、『リア』で踏み出されたのである。

しかし、フィッシャー・ディースカウからの誘いがあったとはいえ、ライマンはなぜ、このような険しい道に分け入るようなことをしでかしたのであろうか。時代はもう、クラシック音楽の創作に向いているとは思えないし、彼ほど揺るぎない名声のある人ならば、敢えて不明瞭な道筋の上でリスクを犯す必要もないはずだ。

これを考えるとき、対照的に思い出されるのは、いまでは売れっ子のひとりである細川俊夫氏の言葉である。ラ・フォル・ジュルネで委嘱を受け、欧州と日本で作品が初演された細川氏に質問する機会があった。私は当時、このイベントに非常につよい愛着を感じており、従来型の音楽祭とは異なる特殊なエネルギーがあることに感銘を受けて、オーディエンスとして初年度から連続で参加していた。私はてっきり、彼にも同様の想いがあり、委嘱に応じたものと思い込んでいたので、作品が音楽祭とどのように関係するかを問い質したのである。ところが、彼の答えは意外なものであった。作曲家にとって、作品を書ける機会というのはどこにでもあるものではなく、幸い、音楽祭から依頼があったから書いたのみであって、それとイベントとの関係を云々するような要素はない、というのである。

これを聞いて、非常に落胆したのは言うまでもない。細川氏は「フォル・ジュルネ」というイベントには、特に際立った感情(興味)をなにもっていなかったのである。質問の前の講話のなかで、彼は得意げに、自分の愛聴盤である尺八の音を聴かせ、これが私の音楽の原風景だと言い放ったのも疑問であった。なるほど、その響きは魂に響くものではあったが、かといって、彼の言葉には最初から引っ掛かるものがあったのである。なにか芝居じみたものを感じた。そして、私はそれが、氏の真実の言葉であるようには、到底、思えなかったのだ。考えてもみれば、細川氏の年齢で、尺八の音が原風景に染み付くような文化的背景はどこにもなかったはずだろう。私の記憶には、仮面を被った彼の言葉や表情しか残っていない。

細川氏が欧州で壮んに売れるのは結構なことだが、それはどうも、日本的伝統の安売りの上に成り立っているように思えてならず、確かに、あれほど組織立った響きを清らかに書く人も珍しいが、それを意味あるものとするために必要な、あらゆるメッセージが彼の作品には感じられないのが問題である。世界的にどれだけ評価されようと、二枚舌で、売れたくてしようがないのがミエミエの、こうした人物の作品に私が敬意を抱くことはないであろう。腕があるのなら、なおさらのことだ。

ライマンの作品には、反対に、真実の言葉しか出てこない。昨年、同じ日生劇場で上演の『メデア』と比べれば、『リア』は剥き出しの、あまりにも剥き出しの作品である。作品のなかで、時々、ライマンは当時としても、現代としても、野暮としか思えないような表現を使って、直截なメッセージを示している。例えば、幕切れのシーンで、リアはコーディリアの屍を引きずりながら、これをしっかりと見ろといって、舞台上の人々だけではなく、客席に露骨なアピールをかけるのである。私は本来、このような表現が好きではなく、ほかの作品で似たような演出があったとき、あんな暴力的な表現しかできないのかといって、嘆いたことさえあるぐらいなのだ。しかし、この作品について、同様の見方をする他者のことが、今回、私は絶対に許せないと思うのは矛盾というほかない。なぜ、ライマンの作品では、こうした表現に一縷の正統性が感じられるのであろうか。あるいは、そこに確固とした理由などなく、当の私こそが二枚舌なのであろうか。

そのことを考えるカギは、実に、私たちが握っているといっても過言ではない。

【時代背景】

作品が初演されたのは、前述のように1978年のことだ。60年代のような差し迫った危機はなく、ミサイルも頻繁に飛び交うような状態ではなかったはずだが、まだ冷戦はつづいていた。このとき、米国ではカーター、ソ連ではブレジネフが指導者であった。このとき、私はマイナス1歳であり、まだ母親のお腹に入ったか入らぬかというときであるから、年表を調べてみるしかないが、この時期、目立つのはハイジャックを中心とするテロ事件が多いことだ。大国間に表立った衝突を招くような厳しい緊張が走るのが緩和されていく一方で、その矛盾はじわじわと世界中の周縁地域に広がっていったというべきだろうか。『リア』が書かれたのは、そのような時代のことであり、矛盾はやがて、中央・西アジアを舞台に尖鋭化し、翌1979年にはソ連によるアフガン侵攻や、イランの米国大使館で起こった人質事件などとして覆い隠せない傷跡を残すのである。

こうした時代背景をアタマに入れなければ、ライマンが、シェイクスピアの戯曲『リア王』を素材にして、一体、どういうメッセージを伝えたかったのか、見逃すことになってしまうだろう。

【リアは必ずしも狂人ではない】

原作の『リア王』から「王」が外れて、『リア』という作品が日生劇場で上演されると知って、リアという「狂人」が現代の知見を踏まえて、内側から心理的に描かれるものと想像し、正直、こころが重かった。ところが、始まってみると、リアは全然、狂人らしくないのである。確かに、リアやエドガーをはじめ、見様によっては、ゴネリルとリーガンの姉妹も、グロスター伯も、エドマンドもみな、狂人としての性質をもっている。だが、仔細に台詞や行動を追っていくと、誰がどこで狂っていて、また、どこで醒めているのかはよくわからない。例えば、目を潰されたグロスター伯と、満身創痍のリアが再会する場面では、リアはグロスター伯のことをハッキリと認識しているが、その点で醒めてはいても、発される言葉の節々には狂気も感じられる。狂気の言葉と、真実の言葉はいつも、隣りあわせで使われている。ライマンのなかでは、線引きはそれなりに定まっているであろうが、敢えて、そのラインは透明にし、多分、それを演じる歌役者たちの感性によって、勝手(リアルタイム)に線引きが決められることを期待しているのであろう。

この日の題名役=小森輝彦の場合、リアは非常に傲慢で、感情的、直感的な判断をするが、我々が戯曲を読んだり、大体、台本どおりの舞台を観たときと比べれば、醒めている場面も相当に多いという印象を得た。最初のたわけ(田分け)のシーンでは、ほとんど真実の言葉はない。父親の所業に対するゴネリルやリーガンの最初のほうの言い分も、多分、それなりに正しいものではあろう。リアは多くの欺瞞を抱えて、生きていた。だが、狂人となってからの彼には、ほとんど真実の言葉しかないのだ。たとえ、言いまわしが道化のようであっても、貧しい者ほど豊かであるという、その手の豊かさが十分に感じられ、リアがなぜ、あのような暴君でありながら、「民たちから慕われている」のかがよくわかるのである。民は愚かだから、王の本質が見抜けずに騙されているのではない。彼らのほうが、支配者やその一族よりも、ずっと正しい判断を下しているのである。

作品では、2つの世界が巧みに描かれている。それは物語の大プロットを構成するリア王家=英国全土の相続問題と、その支配下にあって小プロットを構成する、グロスター伯家の相続問題である。姦計によってグロスター伯家を握った私生児、エドマンドがゴネリルやリーガンと関係し、コーディリア擁するフランス軍(外敵)を討伐する役割を担うことで、これら両家の問題が1つにリンクしてくる筋書きだが、シェイクスピアの戯曲ではあくまで、リア王の放浪や心理状態が重く描かれているため、オペラほど、両家の関係は決定的に重なっては来ないのだ。しかし、オペラではどうしても省略が必要で、しかも、両方を描かなければ話の筋が通らないために、リア側とグロスター側の関係はほぼ等しい「ページ数」で描かれ、キャラクターの重みは音楽的関係によって公平に規定される。

しかも、この作品では国王一家よりも、むしろ、グロスター伯一家のほうに魅力的な素材が多く揃っている。例えば、声質だけをみても、当主の伯爵にはリアより低いバスが指定され、良くも悪くも、この家の主宰となるエドマンドは、オペラという芸術にとって象徴的なスピント系のテノール。その兄で、エドガーは唯一のカウンター・テノールときて、すこぶる多彩である。王家のほうは、ゴネリルとリーガンの姉妹がいずれもキンキン高音を発するソプラノで、ややレッジェーロになるが、コーディリアもソプラノというのとは対照的だ。私生児としてのコンプレックスを語り、「自然」をめぐる独白をおこなうエドマンドの第1部の見せ場はひときわ印象的であるし、第2部の最初にもってこられたグロスター伯の目玉がくり抜かれる場面、そして、阿呆のトムに扮したエドガーが盲目のグロスター伯に「奇跡」を授ける場面など、リア王の側よりも、むしろ劇的に濃厚な要素はこの一家のほうに寄せられていて、音楽的にも、ドラマとしても、彼らの存在をライマンは原作以上に重くみているのは明らかである。

確かに、エドマンドはワーグナーの『リング』におけるハーゲンの役割を果たすのであり、彼がすべてをぶっ壊すことによって、シェイクスピアの悲劇は完成する。その重要性はもとから言うまでもないことだが、オペラでは、その役割がいっそう明け透けにみえる。

作品はあらゆる意味で、2つに切り割かれている。リア・コーディリアとゴネリル・リーガン。ゴネリルとリーガン。エドマンドとエドガー。リア王一族とグロスター伯一族。英国軍とフランス軍。持てる者と貧しき者。醒めた人と阿呆。年寄りと若者。もとを糾せば、ひとりの男の誤った判断が、こうして2つずつ分岐しながら、それぞれに引き裂かれて、多くの者共が苦しみを味わうようになる。最終的にもっとも割を食うのは、罪なきコーディリアのような存在だ。ライマンの生きていた時代というのは、正にそういう時代だったのであろう。表立った「戦争」がないときも、罪なき屍体が堆く積み上げられるのは同じことだった。既にアンサンブル・ピアニストとして特別な地位にあった彼だが、現在、70代に入ってリアの世代に属しているのとはちがい、当時はまだ40代で、十分に若かった。それだけに、告発は苛烈なものだ。だが、彼はリアとグロスター伯、2人の父親にも光を当てている。

歴史的な作品をみれば、父親の活躍するオペラは、大抵、素晴らしい出来になっているものだ。ワーグナーの『ワルキューレ』をはじめ、ヴェルディ『トラヴィアータ』や『シモン・ボッカネグラ』『リゴレット』、ドリーヴの名品『ラクメ』、プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』、モーツァルト『魔笛』など。この『リア』でも、結局は父親の存在が大きい。この点でも、グロスター伯家のほうがよくできていて、悪役のエドマンドも、悪を打ち払う優しさをもつエドガーも、ともに父親を乗り越えるというドラマがある。だが、一方は死につながり、もう一方も、さして幸福な結末とは言い難い。一方、リアのほうに起きる悲劇とはよく言われるように、彼が虚栄心がつよくて愚かだから生じるものではなくて、彼が誰にも越えられないような強い個性をもつゆえに見舞われるものなのである。

第1部は、その強烈なリアという人間が「王」と呼ばれる社会的権力を捨てて、真の「リア」になるまでの誕生の物語といえるのではなかろうか。ここにおいて、リアは2つの死を体験する。ひとつめは王=権力者としての死を意味する領地の分配。もうひとつは、彼が身を託そうとした2人の娘からの否定による、精神的な死である。音楽は序盤、コーディリアの’Nicht!’からずっと、怒り狂ったようなテンションが維持され、第1の死が矛盾に満ちたものであることを象徴している。このテンションは王の偉大さゆえに、あらゆる人々に乗り移って、作品全体を動かす力になっているようだ。この息苦しさはもちろん、僕には体験の出来ないものだが、女性が子どもを産むときの苦しさにも似ているように思った。

もしもリアがもっと無能で、とるところのない人物であったとしたら、娘たちは彼をもっとやんわりと手なずけることもできたであろう。ところで、最後のほうで、登場人物の多くは死体になってしまうが、そのなかで、リアのほかでは、決闘によってエドマンドを討ったエドガーと、さっさと覚悟を決めて自決する妻、ゴネリルに取り残されたオールバニ公だけが生き残る。このなかで、オールバニ公が生き残ることについて、ある人は、彼だけがゴネリルの悪辣さを見抜く冷徹な目をもっているために、この悲劇の目撃者となる資格があり、そのために生き残るのだという主張をしていて、面白いと思った。無論、そんな訳はないだろう。オールバニ公が生き残ったのは、とるに足らない人物だからだ。ここには、3人の男が残る。傑出した知性と品格をもつ天才であるリアと、正統な権利を自ら切り開いたエドガー、そして、とるに足らない無害な人物であるオールバニ公だ。

リアはWWⅡを引き起こしたドイツ、エドガーが米国、オールバニ公は英国と置き換えれば、話はわかりやすかろう。ドイツの娘たちはソ連であり、もうひとりはフランス(ヴィシー政権はナチス・ドイツの熱心な協力者だ)になった。この時点でソ連の崩壊はまだ起こっていないが、ライマンは事の本質を鋭く見抜いていたのだ。

【舞台から語りかける人たち】

しかし、ライマンはノーノに象徴されるような、露骨な政治的メッセージを音楽にすることまでを望んでいたわけではない。その主張は明け透けで、方法も甚だ野蛮であるところがあったにしても、彼はそのことを重々、理解している。それでいて、序盤から、彼は舞台上から私たちに、直接、語りかけることも辞さなかった。幕切れの場面以外に、グロスター伯の言葉だったろうか、「お前たちを見ていられない」と訴える場面や、もっと序盤のシーンで、はっきりとは憶えていないが、ライマンが仕方なく、この作品を書き、客席に何らかの問題を意識させようとしているのだとわかる台詞はいくつもあった。だが、それらのメッセージを、人々が私と同じように受け取るかどうかはわからない。

最後の場面にしても、小森があれほど迫真の演技で以て、客席を見据えることができなかったら、もっと別の表現にみえたのかもしれない。私は常々、この歌手の素晴らしさについて言い触らしてきたものだが、今回の舞台は、それとはまたちがう、彼の特別な才能を物語るには十分だったのではなかろうか。彼は演出家の指示どおりに、用意周到にコーディリアの屍体をいろいろにみせる。その意図はイチイチよくわかるものだが、かといって、その動きにすこしでも説明がましいものがあったら、それこそ興醒めだろう。しかし、彼は正に、用意された演技としてではなく、素の人間=リアとして、このミッションを精確におこなうことができた。’コーディリア!’という嘆き。客席への呼びかけまで、すべてが自然だった。声だけではなく、こもるべきところに力がこもり、身体全体がリアのこころと相通じていたのである。私の趣味の中には入っていないが、もしも歌舞伎をみたら、こういう役者のことを随所に発見できるのかもしれないと思った。

これと同じようにできていたのが、グロスター伯を演じた峰だった。まず、声とディクションの面において、峰がこの役にどれほど深く賭けていたかは想像に難くないものがある。久しぶりの大役といってよく、それは題名役と並ぶほどの重要性をもっている。単にバスらしい図太さで歌えていたことに止まらず、ライマンが書いた独特のディクラーメーションにもっとも嵌まった演唱をみせたのが彼である。この点で対照的に、実力と比べて、本来の声の魅力を損なっていたのが小山由美(ゴネリル役)である。このような腹黒い女を演じさせたら右に出る者のない巧者のはずだが、それもライマンの書いた音楽の特徴を正しく掴んでこそのことだ。作曲家をパートナーにもち、現代音楽にも強いはずの小山ならば、もっと活き活きとしたゴネリルを演じられたはずだが、多分、この役はあまりにも技巧的で、独特なのだ。

【見えざるものと見えるもの】

ところで、リアとは異なり、グロスター伯は常に知性の人である。ただし、我が子のことに関しては、正しい判断ができなかった。彼はなぜ、信用できないはずのエドマンドをかくも容易く信用し、実子のエドガーに疑いを向けたのだろうか。その後の行動をみれば、伯爵は新しい主君筋のゴネリル・リーガン姉妹に簡単には従わず、リアを保護してドーヴァーに逃がしたり、フランスのコーディリアに通報したりしている。目を潰されたあとは絶望して、やや錯乱したものの、完全に理性を失うことはなく、盲目のため、トム=エドガーに騙されて偽りの「奇跡」を味わうことになるとはいえ、最終的には、過ちを犯しながらも罪のない老人として受け止められる。その彼が、どうして私生児に眩惑されてしまうのか、これはもう、なにか見えざる力の作用というほかはない。

確かに、見えざる力というのは、この作品で多大な役割を演じている。演出上では、舞台中央にまわり舞台をつくり、その緩やかな動きに乗るなかで、キャストが少しずつ動きながら歌い喋るような場面があり、この力のシンプルな可視化に成功している。

理性や知性、感情だけではなく、第3、第4の見えざる力が、すべてを動かしているように見える。それはヴェルディ的な運命というようなものではなくて、より人間に密着したエネルギーであろう。一言でいえば、「関係」ということになる。作曲当時の冷戦構造をイメージさせる2つに引き裂かれた世界の引力を中心に、人々が関係しあうなかで、室内楽的な、思いも掛けない動きが生まれてくるのだ。既に述べたように、この作品ではいつ、誰が狂っていて、反対に、どこで、誰が醒めているかは、容易にわからないように工夫されている。だから、いつ、誰がどの人物と出会うかということは、いっそう重要になってくるわけだ。長い絶望的な間奏のあとに、リアが出会うのはエドガーだった。先導役の道化がエドガーをしもたやのなかで発見し、「お化けだ!」といって飛び出してくる。身をやつしたエドガー=トムは浮浪者というよりは、餓鬼のような姿になっており、多分、意識的に背骨が曲がって、姿勢の悪い状態で現れる。

シェイクスピアの台本では、エドガーは錯乱を装いながらも、リアや父親のグロスター伯を助けて、策士のエドマンドを討つ役割を果たしている。古資料に記されたレイア王伝説では、王がフランスから帰還した娘と一緒に、悪い娘2人とその一族を退治して、老翁が数年、王座に復帰したあと、コーデリアが王位を受け継ぐことになっているそうだ。シェイクスピアの台本では、多分、エドガーがオールバニ公の支援を受けて、支配者の立場に立つことが示唆されておわる。だが、この作品では、もう誰も新しい支配者は存在しない。その容貌からいっても、エドガーはゲリラ、もしくは、テロリストとして、独裁者を討ったような雰囲気に止まっている。新しい王者の風格はない。ライマンは、エドガーによる「正義の鉄槌」自体には、この世を救う何ものをも見出していないというほかないであろう。

さて、エドガーがグロスターから逃亡したあとの絶望的な状態から、すこし醒めた状態に戻るのは、リアとの出会いが原因である。彼は多分、リアの様相から父親の過ちについて、悟ったのにちがいない。グロスター伯が後を追ってきて、リアは手厚く保護されるが、父親としてのグロスター伯は「トム」の正体に気づかなかった。いつまでもつづくと思われた第1部は、この物寂しい覚醒のなかでおわる。最後の台詞らしい台詞(かなり古そうな旋律に基づいたコーラスは除く)は、このパートの性質に相応しくリアが発するのだが、一方でエドガーが取り残されている。そして、同じように、取り残された道化はこの場面を最後に登場がなくなるという仕掛けつきだ。

第1部がずっと息苦しい「リア」誕生の物語であるに対して、第2部はやや足早に筋書きが展開し、感情が動き始める。典型的なのは、ドーヴァーに上陸したコーディリアが、疲れて、死んだように眠る父親と再会する天幕の場面から、間髪を入れずにエドマンドが踏み込んでくる場面だろう。こうした鮮烈な手法は、どろどろと流れる血をイメージした赤のゾーンでエドマンドとゴネリルの情事が描かれながら、同時に、純白の絨毯の上では、ブリテン島に戻ったコーディリアが武装して、ジャンヌ・ダルクのような姿になるのが描かれる部分にも共通している。

しかし、このような手際の良さは、あまりにも早送りな感じがして、本来、作品のもつ重さを損なっている部分があるようにも思われる。父親が罪もない娘の屍を引きずり回し、客席に見せつけるというような表現は、第2部の情感的なクライマックスを鮮やかに染め上げる。これに対して、もうひとつのクライマックスであるエドマンドの最期、そして、ゴネリルの最期は、それと比べると大きく見劣りがする。一方、このパートの最初に描かれ、象徴的になっているのはグロスター伯が目をくり抜かれるシーンであった。この表現は、最後のリアの行動と鋭く対応しており、アイロニーを広げている。なぜなら、グロスター伯の目では、この作品の結末をみることができないからである。

グロスター伯はオールバニ公と同じく、ある程度、理性を保って行動する普通の老人である。そして、『リア』の闇は暗く、深刻だ。このような闇の本質は、当たり前の理性によっては見えないことがあるもので、のみならず、見えてしまうからこその罪というのも生まれている。例えば、グロスター伯はみえないエドガーとの信頼を、目にみえる偽造の手紙によって破壊してしまった。再び彼がそれを信じることができたのは、エドガーの姿をもう二度と見ることはできない、という悲しい事情によっている。だが、人々は彼のことを、参考にすることができるであろう。物事の本質は、見えないところに隠れているということは揺るぎない真実だ。だが、その固い原則を破っても、ライマンは、これを見えるようにしようと決意した。たとえ、それがいかに野暮なこととわかってはいてもだ!

だから、私はこの作品がもう、あらゆる利害や打算を越えたこころの叫び、真実しかない物語として評価できると考えた。

【はじめに言葉があった】

アリベルト・ライマンの歌劇『リア』は、シェイクスピアの戯曲、有名な「四大悲劇」のひとつ『リア王』から翻案され、有名な台詞もそのまま挿入されている。「もはや弓弦は弾き絞られている、矢面に立つな」。このような言葉は、実は作者自身が自分に呼びかけた言葉でもあったろう。すべての言葉は、既にシェイクスピアの放った生の言葉とは異なり、もういちど、新たに吟味しなおされて、この作品に新しいいのちを伴って戻されている。戯曲は言葉ではなく、こころだと訴えているが、オペラでは、再び言葉の重みに戻っているのだ。聖書(創世記)の冒頭句「はじめに言葉があった」をゲーテはファウスト博士による思索を通じた推敲の末に、「行為があった」と書きなおしているが、ライマンはこれを再び、もとの形にすることが大事だと思ったのだろう。

実際、すべては言葉から起こっている。コーディリアは、’Nicht’といった。それだけで、普段、自分がとっている態度から、父親はすべてを悟ると考えていたのであろう。だが、言葉はやはり、重要であった。例えば、オペラよりも先に起こることだが、ドイツのベルリンの壁崩壊は、ある言い落としを契機に起こった。キューバ危機も、互いが何を言うかで結末が変わったであろう。ブレジネフは米国の指定した期限を守るため、ラジオ中継で言葉を放って、緊張緩和が決定的となった。この劇のなかでは、’nicht’だけではなく、不器用な言辞を連ねたがために、コーディリアは激しい勘気を受けたのである。これは、リアの愚かさであろうか。そう言ってしまえば、つまらない。言葉の重みは、さらにつづけて描かれる。彼は怒り狂ったとしても、まだコーディリアに想いを残していたし、甘えもあった。しかし、彼の発する言葉は、この娘をフランスへ無一物で放り出す結果となり、姉たちの驕慢な特質を際立てることにもなってしまう。

やがて、言葉がクラウドに交錯し、十重二十重にかさなり合うなかでは、ドイツ人であっても、それらを聴きとることはできない状態になった。非常に象徴的なことである。今回の上演では、むしろ、字幕だから、何を言っているかがわかった。こうなれば、言葉は完全に崩壊しているというべきだ。言葉の崩壊は、コミュニケーション(関係)の崩壊をも意味している。行き着くところは、戦争だろう。この時代(1970年代後半)において、戦争となれば、すなわち、人類の滅亡を意味する。

キューバ危機の事例が示すとおりであろう。カナダと米国局の共同制作によるTVドラマ『ケネディ家の人々』のなかで、次のような場面がある。キューバ危機後に会見する大統領の映像をみて、幼い娘が遊びながら、「パパ、なにをやっているの?」と聞くのに対して、母親であり、妻であるジャクリーンがこう答える。「お父さまは、人類を救われたのよ」。ライマンが人類を救いたいと思ったかどうかは定かでないが、それぐらい、つよい想いで作品を書いたことは明らかだ。そうであるならば、それをみた我々も相応の反応を示さなくてはならない。

だが、その前に、歌役者たち、そして、オーケストラと指揮者が、最初に、このメッセージに魅了されたようである。確かに、多少の凸凹はあるにしても、歌役者たちは基本的に、限界ギリギリのよいパフォーマンスをした。特に男声役の健闘が光っており、小森と峰のほかでは、小原啓楼と藤木大地によるエドマンドとエドガーの兄弟が出色の出来だったほか、ケント伯の大間知覚も普段、聴くことができないような分厚い表現で魅せた。若干、凹んだ部分はゴネリルとリーガン、その夫たちである。そうはいっても、口をきわめて批判するようなことではない。ただ、この作品で求められるスタイルからみて、若干、素直すぎたり、これまで歌ってきたオペラの常識から離れられなかっただけのことだ。

下野竜也指揮の読売日本交響楽団は、昨年の『メデア』と同じだが、当時、総じて高評を得たものの、私としては不満の残る内容だった。特に、作品の本質を成す流動的な特徴について、下野が現場主義的な工夫で、その可能性を狭めてしまったことを批判している。それと比べると、今年のパフォーマンスは相当に広い自由を得た。

ライマンの作曲技法という点でいえば、なにか特別に進化した要素とか、そういうものは認められない。つまり、ライマンは天才的な作曲家であり、この最初のオペラ作品で既に、自分のもてるすべての可能性を出しきったといえる。確かに、オーケストラにはひどい無理を強いるような場面があり、その点の反省点は生かされているかもしれない。だが、それを除いても、作品の完成度は高かった。用意周到で意味のある音楽、打楽器を多用しながら、それらが野蛮な音響にならないための様々な工夫。むしろ、そうした打楽器の響きは、舞台の周りで起こっている社会背景の部分を、巧みに象徴しているようにも思われた。

そのような部分について、序盤、ほんの僅かな逸脱や、奏者どうしのバランスが定まらなかった部分があるのは止むを得ない。3日目とはいえ、昔から、こういう作品は1年でも2年でも、必要なだけ、準備期間がとられたものだが、いまや、数週間が限度で、あとは個々の準備に委ねられている。完璧になるはずはない。だが、でき得る範囲で、高い満足に至るような公演には仕上げることができた。フィッシャー・ディースカウによる初演は知らないが、NMLで聴けるフランクフルト歌劇場の録音となら、なに遜色ない演奏といえるだろう。昨年につづき、オケが剥き出しとなり、その一部が中央舞台の脇に設えられたひな壇で、コロスのような配置で吹くというアイディアは踏襲された。ただし、今回は舞台が真ん中で巌山のような形で屹立したため、両サイドのオーケストラ奏者は視覚的にはあまり目立たないようになっている。

演出は、昨年の飯塚励生から栗山民也に変わったが、普段の栗山と同一人物は思えない尖鋭な演出に驚いた。序盤、若干、言葉を追いかけるようになってしまった演出が野暮だったのはご愛嬌として、話が進み、徐々に登場人物の抽象性が高まっていく(つまり、理性が不安定になっていく)ごとに、イメージがぐっと凝縮していくのがわかる。演出チームに話を広げれば、衣裳や照明の具合も印象的だ。また、日本のオペラ上演では従来、ドラマトゥルクの重要性が欧州(特にドイツ)ほどは重視されない傾向があったが、今回は東大(大学院)教授の音楽学者で、近・現代音楽を専門とする長木誠司氏が入り、強力にサポートしたのも成功の原因のひとつにはなっているだろう。

【メデアとのちがい】

最後の、『メデア』との比較について述べれば、もっとも大きなちがいは次のような点に求められる。昨年の上演について、私は「彼はなによりも、メデアそのものをみよと言っているのではないか。メデアから類推される様々な問題は、その影にすぎない」と述べている。ところが、『リア』ではこの関係が逆様になっている。つまり、この作品ではリアそのものをみよというよりは、リアを中心とする人々の関係から、社会に目が行くようにできているのだ。この点が唯一にして、最大のちがいであるといえる。1978年時点でのライマンは、非常にジャーナリスティックなものの見方をしていて、その知見をマスに拡大していくことが重要と考えていた。

貿易のTPP交渉に反対して、その秘密交渉のおかしさを語るなかで、「正体を明かせば、TPPは崩壊する」という巧い文句を言う人があったが、このとき、ライマンも同じような発想をしていたように思われる。だが、数十年を経て、彼はそうしたものへの信頼を徐々に失っていったと思われるのだ。彼はもはや、メデアの抱えるような矛盾が現代の問題として広まるように、客席へ向かって露骨に訴えかけるということは止めた。そして、メデアそのものへの、もっと深い共感や一体感が生まれなければ、何も生まれないと悟ったのだ。私がこのことを主張すると、何人かの人たちは非常に露骨な反発を示したが、この『リア』をみて、なおさら感じるのである。メデアから、いきなり次の問題を考え始めた人は明らかに過ちを犯していた!

アリベルト・ライマンの2作品が、このように高いレヴェルで上演されたことは我が国にとって貴重な体験だ。願わくは、この公演にも助言を与えたアクセル・パウニ氏が、森川栄子とともにおこなったリサイタル(いずれも、ライマンの直弟子)のように、歌曲などの紹介もより頻繁に行われるべきであろう。しかし、私は思うのだ。ライマンの作品は確かに、素晴らしいものだった。しかし、この作品はそれまでの時代の総決算的な味わいをもつゆえに、一方で求められるような未来をもたない。私たちは、もっと新しい時代を切り開くようなものを待っているはずだ。その上で、バロック音楽におけるバッハのように、ここにライマンの作品がマイル・ストーンのように打ち立てられたのは重要なことであろう。だが、より先につづくものを、私たちは探さなければならないのである。

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