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2013年11月11日 (月)

堤剛&ルドルフ・ブッフビンダー ベートーベン チェロ・ソナ第1番/第4番/第3番 ほか Music Weeks in TOKYO 2013 プラチナ・シリーズ 11/7

【新しさを求める巨匠どうしの競演】

ウィーン・フィルとのベートーベン協奏曲、全曲弾き振りツィクルスを控えるルドルフ・ブッフビンダー。完璧主義ながらも精力的な氏にとって、その手の公演は欧州では特に珍しくもないが、今回のアジア・ツアーでは、全曲演奏は東京だけだ。その重要な公演に先駆けて、東京文化会館の小ホールで、チェリストの堤剛と顔を合わせた。ベートーベンのチェロ・ソナタを題材とした2回シリーズの全曲ツィクルス演奏会は、来年3月に予定されているイスタンブールでのベートーベン、ピアノ・ソナタ・サイクルと並び、彼にとってエキサイティングな企画にひとつなのではなかろうか。そうした企画が僅か649席しかない空間でおこなわれるというのも、本当に贅沢なこと。そして、この公演は「東京文化発信プロジェクト」に参加し、東京都からの助成が入るためか、すこぶる廉価な価格設定もなされているというおまけつきだ。

堤とブッフビンダーの顔合わせは、多分、両者の長いキャリアのなかでも、これが初めてと思われる。堤がサントリーホールの館長という縁から、通常よりはコンタクトの機会にも恵まれているかもしれないが、ビッグ・プロジェクトを後ろに控えて、2人の音楽家に与えられた時間は必ずしも多くなかったはずだ。しかし、そのなかで、どうして、こんなに凄い音楽ができるのだろうか。何十年も一緒にやってきたパートナーのように、2人は響きを重ね合わせ、絶妙のタイミングで響きをぶつけあい、そして、分かれていくのである。2人とも、この作品をよく知っているのは当然として、それだけでは満足せずに、長いキャリアのなかで、いろいろなやり方をひとつひとつ確かめてもきたのだろう。堤は2009年の東京国際ヴィオラコンクールでジュリーを務めたときに、既に60代後半の年齢であったが、次のようにコメントしている。音楽家は、変わりつづけねばならないと。私たちが聴くのは1回のコンサートにすぎないが、彼らの演奏には、各々が変わりつづけた何十年かの月日が詰まっていることになる。

誰もが、そのような月日の重みを、聴き手に実感させられるわけではない!

ブッフビンダーは演奏だけではなく、研究、教育、出版等において、広く尊敬されるウィーン音楽の権威だ。そのような人物からみても、堤との出会いは嬉しい驚きだったにちがいない。いま、欧州には特に若手から中堅で、技術の高いチェリストがたくさん輩出されているが、堤のようにスケールの大きいチェリストといったら、思い当たる人は意外に少ないのが現状だろう。彼らの音楽は確かに美しく、音程も精確だが、それ以上の深い感動は残さないことも少なくない。その点、堤は20世紀前半から中盤にかけて活躍した音楽家のもっていた味わいを、ほぼそのまま受け継いでいる数少ない音楽家のひとりである。彼の師であるヤーノシュ・シュタルケルをはじめ、パブロ・カザルスガスパール・カサド、そして、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。彼らの偉業を受け継ぐアラン・ムニエアルト・ノラスルイス・クラレットらの名手たちのなかに、堤の名前は同等以上の大きさで書き込むことができる。

その実力をもちながら、非常に謙虚な音楽性をもつ堤は、ブッフビンダーの音楽に深い敬意を表することを忘れない。アルペンのような壮大なスケール感はそのままに、ウィーン音楽の伝統を自然に取り込んだ堤の演奏は、今回、きわめて上品に響いた。氏の演奏がもつ東洋の「もののふ」的な美学が、ブッフビンダーが体得しているウィーンの華やかさ、「貴族」的な美学と見事に噛み合っているのである。一体、2人の間になにが起こったのであろうか。そのことを丹念に探っていくならば、結局、ベートーベンの作品に対する敬意というところに行き着くほかないであろう。彼らはきっと、それぞれの音楽人生のなかで、この作品を何度となく眺め、検討し、実際に演奏してきたはずだ。そして、あるところで、勝手な結論を出さず、いまもって、その試みをつづけている。そのような2人だからこそ、それぞれがもっている新しいノウハウや演奏伝統に、瞬時に順応し、その素晴らしさを尊敬しあうこともできるのだ。

ハリウッドのロン・ハワード監督のヒット映画『アポロ13』のなかで、危機に陥った飛行士が読みきれないマニュアルの大部分を引き裂いて、必要な部分だけを残す部分があったと思うが、彼らはちょうど、それと同じようなステップの省略を可能にしているわけだろう。プロの最前線に立つ音楽家たちによる室内楽は、いつも、そうして大事な部分から入り、少ない時間で音楽を高いレヴェルで煮詰めていくことになる。だが、この2人は、そのレヴェルが途方もなく高いところ始まったというべきかもしれない。

【アジャスト】

ブッフビンダーはまず、慎重なアンサンブル・ピアニストである。さすがに初めのうちは、彼も堤の演奏を見極めるという段階が必要だった。無論、それさえも至芸である。いわばチューニングのような作業を、演奏するベートーベンの音楽を損わないように、音楽にノリながらやっているのだ。序盤、2人のアイ・コンタクトは非常につよい緊張を帯びていた。漫画ならば、露骨に火花が散る様子が描かれるであろうほどに。

ベートーベンのチェロ・ソナタ第1番は、ピアノとチェロのユニゾンで始まり、そこから声部が分かれていくようにできている。この段階で、私は既に演奏の凄まじさを予感した。分かれたあと、ブッフビンダーは一音一音を丁寧に保持し、正に楽譜どおりに響きを据えていく。チェロも響きを絞って、自らの声部を大切に守る。例えば、ピアニストのジョン・リルの演奏会で感じたのと同じような、重々しい音楽の運びにまず圧倒された。だが、2人の演奏は、そこだけには止まらなかった。

最初の重要な結び目は当然、チェロとピアノの立場が入れ替わる序奏のアダージョ・ソステヌートと、主部のアレグロとの転換点である。立場を入れ替えるときの慎重な受け渡しは、世界陸上やオリンピックのような舞台でおこなわれる、リレー競技で一瞬を争いながらも、絶対に失敗が許されないバトン受け渡しのときの緊張感に似ていた。世界的なアスリートたちは、あまりにも速いスピードのなかでギリギリのタイミングを狙うため、バトンの受け渡しにかけられる時間はほんの一瞬で、しくじれば失格してしまう。さて、最初を慎重に運ぶ分、そのあとの風景はパッと一挙に開けた。これだけでも、独特な表現である。このあと、当時はもっと軽いクラヴィアで弾かれていたであろう旋律を、ブッフビンダーが軽快に奏でていき、堤は後ろにまわる。ただし、18世紀には旋律楽器+鍵盤楽器の合奏では、鍵盤が主役となっていたという解説も書かれていたものの、ブッフビンダーの解釈はそう単純でない感じもした。なぜなら、より古い時代のクラヴィア演奏で親しまれたであろうトレモロやトリル、細かい飾りのついた響きは、ベートーベンの作品においては、「主役」として相応しい重みをもたないからだ。

ブッフビンダーは鍵盤が主役となる時間でも、常にチェロの動きと連動しながら、この横滑りする細かいパッセージをアイロニカルに俯瞰しつつ、まったく別のダイナミズムを追求しているように思われる。つまり、ピアノは常にチェロのポジションを軸に据えながら、その周囲を力づよく回って、表現の厚みを無限に拡大していくのであった。この構想を実現するのに是非とも必要なのは、ピアノとチェロが質的に同じ表現言語をもち、いわば、声をあわせることで、多彩な表現を可能にしていくことである。これは正に、メナヘム・プレスラーが言っていたような、鍵盤が弦の響きを真似る奥義と通じているであろう。そのためのアジャストは、意外に早く済んだ!

【遊び】

ブッフビンダーが心配しているような箇所で、堤は、ほとんど相手の考えているのと同じような常識で響きや間を刻むことができた。ウィーン独特の、癖のある間なども十分に掴んでいたようにみえる。だから、ブッフビンダーは相手が非常に気を遣うパッセージ、例えば、極端なハイ・ポジションを出すような部分で、十分な厚みを出すために必要なわずかな待ちに配慮するぐらいで、十分に彼らしい音楽を刻むことができたのだ。彼が堤のことを信頼できるパートナーとして認め、彼が追求してきたベートーベンの神髄をともに表現する相手として認めるのに、それほど時間はかからなかった。

古典派音楽における、堤の表現で特徴的なのは、繰り返しをすこぶる大事に弾く点が挙げられる。この作品でも繰り返しは重要な要素になっているが、多くの奏者は、そうしたものをむしろ、どう簡略化して弾くかということにアイディアを競うのであって、堤のように、朴訥にしっかりと演奏しようとする人は少数派だ。簡略化ではなく、堤は繰り返しでは必ず表現を入れ替え、新しい要素を付け足そうと努力する。この作品の場合、繰り返しはより繊細に、古い時代の音楽を追うような表現になっていた。ブッフビンダーはその点、比較的、淡白にやっているものの、堤の持ち味には十分な敬意を払っているようだ。彼の示すような個性は今日、ともすれば、軽視されているもののように思われる。大真面目なようでも、堤のような表現は、非常に高等な遊びにもなっている。音楽のみならず、現代では、この遊びが切り詰められる傾向にあるのはご覧のとおりであろう。

【かくあるべきか?...かくあるべし!】

ベートーベンのソナタ第1番と、第4番は、異色の構造をもった作品である。第1番はその楽章だけで終わってもよさそうな立派な序奏付きのソナタ楽章のあと、再び華麗なロンド楽章が始まり、前楽章から途中の十何ページかを破り捨てて、最終楽章のコーダから、突然、音楽が始まるというような可笑しな形式をしている。この形式は op.5 の2曲で共通しているが、ロンド主題に工夫を凝らした第2番と比べると、第1番のほうがよりワイルドで、尖鋭である。しかし、さらに意味深長な独創的な形式を示すのは、第4番だ。2楽章形式であるが、2つの楽章を隔てるのは僅かにフェルマータ付きの1小節だけで、解説の寺西基之氏も「単一楽章」の作品としており、プログラムの楽章の表記もそれに従った(ただし、演奏者は明確に2楽章に分けて演奏している)。

このような作品では、形式的な自由さがかえって、間延びしたフォルムに聴こえないための工夫が必要だが、その点、このデュオには何の問題点もなかった。第1番を通じたアジャストを完全に終えて、この第4番の演奏こそは、この日の白眉であったといっても過言ではない。だが、なにも特別なことをやったとは思わないのだ。ひとつひとつの部分を丁寧に仕上げ、フォルムをしっかりとつくるというそれだけのことにすぎない。だが、それでいて、チェリスト=堤剛の押し引きの巧さと豪胆さが味わいぶかく響き、ピアノも負けず劣らずゆたかな響きを残して、堂々とフォルムを織り上げたのを忘れられないのである。堤はときどき、楽器を身体ごと大きく傾げたりしながら、気持ちよく歌い、歌曲のような表現で、この作品の特殊性を上手に印象づけた。しかし、全体的にはバロック調の表現を丁寧に押し出す演奏でもあり、依然、古典派的な特徴を示してもいる。

フランス・ブリュッヘンがベートーベンの9つの交響曲の発展について、「アップ」(奇数番)と「ダウン」(偶数番)という言葉を使って巧みに表現したことがあったがこの作品は明らかに「ダウン」の特徴を示しているだろう。新日本フィルとのプロジェクトのなかで発言された、この言葉については、やや誤解されている面もあると思われるが、ブリュッヘンにとって「ダウン」は必ずしもマイナスなのではなく、むしろ、彼自身がその「ダウン」の代表的な住人だったことを踏まえて、解釈する必要があることを頭に入れておかなくてはならない。堤&ブッフビンダーの演奏においても、この「ダウン」の要素は予想以上に鮮烈に響いた。特に第2楽章で、2人が奏でる対位法の旋律は、ベートーベンを聴くことの悦びを改めて印象づけるものだったであろう。

チェロがロング・トーンを出し、「かくあるべきか」と問い、自ら「かくあるべし!」と自答するのを、慌ててピアノが追いかける場面などはどうだろうか。この部分のアイロニーは、この2人の演奏ではそこはかとなく楽しい。いやに深遠に聴こえることなく、あとにつづくフーガの導入に手ごろな役割を果たしている。そして、なんど同じことをやったことがあるにしても、いつも一回性があるように弾いているのである。このやりとりは1度目は静かに、慎重であるのに対して、2回目はより堂々としていた。いま、私は、読者諸兄には明白なように、弦楽四重奏曲第16番の自筆譜に書き込まれたという指示をもじって書いたのであるが、私は実際、2人の演奏を聴いている傍から、この譬えを思いついていた。そして、2度目が巡ってきて、形式に見合った堂々たる諧謔を伴いつつ、オシャレにおわったとき、強烈にこの言葉を意識したのだ。

かくあるべし!客席からの称賛にも、もはや迷いはなかった。

【さりげない神業】

前半の2曲と比べれば、第3番は本格的な形式で書かれている。一体に、「遺書」を挟んだ10-15年間の時期は皮肉にも、ベートーベンの創作の最盛期に当たっており、その時代、ベートーベンは比較的、正攻法を用いて厚みのある作品を多数、書き残している。チェロ・ソナタ第3番の書かれた1808年前後をみると、交響曲は第4番から第6番、ピアノ協奏曲なら第4番と第5番、弦楽四重奏曲は「セリオーソ」や「ハープ」、ピアノ・ソナタも「テレーゼ」「かっこう」「告別」などが書かれ、充実期のひとつであったことは紛れもない。技術的にも高度なものを要求され、このような作品があることが、チェリストの挑戦心を掻き立てるのは言うまでもないことだ。

さて、この作品の第1楽章は、今月末から第3回が始まる八王子のガスパール・カサド国際チェロ・コンクールで課題曲となっており、その予選を観覧した私はいやというほど聴いたので、作品には馴染みも深い。だが、若い人たちがどれほどフレッシュな目を光らせても、このようなベートーベンの真実は見えてこないものなのであろうか。第1楽章冒頭にみられるチェロのロング・トーンからして、もう桁外れに表現の奥行きが感じられる。どの素材も、徹底的に吟味され、下準備が整った状態で奏でられているのがハッキリとわかるのだ。そうでもしないと、ベートーベンの響きというのは真の輝きを放つことはないのである。

正に、このような響きに圧倒されたというほかない。私はもう、うっとりと聴き入るほかなかった。

第2楽章、ABABAの単調な世界が、これほどゆたかに響くのはなぜだろうか。第1番と比べれば、それほど目立った変化はつけられていない。ごく僅かだ。むしろ、この部分で、あまりに動きすぎるのを禁じるような厳しさが感じられる。スケルッツォではあるが、より神秘的な味わいを感じさせるあたりは、ベートーベンの作品のなかでも異色である。そのなかで(私のような)素人では、ほとんど聴き分けられないような力のかけ具合のちょっとした変化、ほんのすこしのタイミングの変化だけで、あれだけの多彩な表現性を引き出しているのである。これは、さりげない神業であった。

冒頭のピアノの音型には、注目すべき特徴がある。アンコール・ステージではココがリピートされ、堤からは、ブッフビンダーの弾く4と2の指の弾き方に注目してほしいというコメントがあった。私は既に、その点に面白みを感じていたが、言われたとおりに注意を向けて聴くと、なおさら、その面白さは鮮烈だったものである。この神秘的な長さ、強弱、アーティキュレーションに細心の注意をして弾いているのは、いま、NMLの膨大なリストを調べてみても、さすがにベートーベンのピアニズムを直系で受け継いでいたルドルフ・ゼルキンのようなピアニストだけである。これに次いで、ややテンポが速すぎる難点があるものの、ホルショフスキシュールホフによる録音も面白い(偶然なのか、これらのチェリストはすべてカザルス)。この独特な4と2の指の動きだけで、チェロはそれまで思いも寄らないような動きを引き出される。

あらゆる前提を何十ページも飛ばして、ほぼ通じあっていた2人のうち、堤がビックリ仰天した唯一の箇所であったかもしれない。リハーサルで試演したとき、堤が驚いて、「なに、それ!?」と問い質し、ブッフビンダーが斯く斯くしかじかと秘密を教えている風景が想像できた。ただし、既に書いたように、このスタイルを得意としたのがカザルスであったことを考えると、カザルス→堤→ブッフビンダーの逆ルートで独特のスタイルが伝えられた可能性も否定はできない。

【まとめ】

第3楽章は優しく、威厳に満ちた・・・2つの相反する要素が序奏をきわどく構成し、主部に入ると、ピアノとチェロは図太い対応関係をみせて、対位法の関係はより親密さを増す。しかし、その分だけ、2人の関係は新たなステージに導かれるのであった。例えば、チェロのハイ・ポジションでもピアノの待ちは短縮し、徐々に余白が狭くなっていくのを感じただろう。そして、終盤になると、2つの楽器がまったく交じり合わないようになった。これは無論、演奏に齟齬を来したのではなくて、十分に意図的なものである。多分、対位法的旋律のダイナミックなずらしであり、ベートーベン独特の手法に基づく、当時におけるロック・ミュージックというべきものであろう。ただ、これは第1番でブッフビンダーが主従を決めず、チェロの響く位置や役割から逆算して自らのポジションを定めていたのと対応してもいる。

ついに、第3番において、ベートーベンは旋律楽器と鍵盤楽器のアヴァンギャルドな関係を確立し、しかも、それは伝統的な対位法のちょっとした応用に始まっていたのである。

ほかにも、いろいろと書いておきたいことはあるが、このあたりで十分だろう。これは実際、奇跡的な公演だったと思うが、それは2人の奏者が選り抜きの名人のみが住めるような領域で語りあった結果である。このデュオが欧米で公演をおこなったとしたら、力づよいセンセーションを起こすことができるだろう。そして、彼らは自分たちの知るブッフビンダーはともかくとして、日本に、堤剛という20世紀の遺産のようなピアニストが厳然として存在し、いま、なお現役を張っていることに驚きを感じて、喜ぶにちがいない。

サントリーの鳥居一家と縁戚となり、サントリー音楽財団の理事長、サントリーホール館長を務めるほか、霧島国際音楽祭のディレクターの任にあり、アカデミーでは、米国のインディアナポリス大教授と桐朋学園大学の学長をそれぞれ務め上げた。2009年には紫綬褒章を授かり、天皇・皇后両陛下の御前演奏を務めたほか、本年は文化功労者にも選ばれている。そういう社会的ステイタス以上に、その音楽性の凄さに、最近は圧倒されている。彼の演奏を初めて聴いたのも、実はLFJでのことであった。共演した欧州の名匠たちと比べて、堤の演奏は何の遜色もなかったのである。サントリホールのフェスティヴァル・ソロイスツで聴いたときも素敵だったが、後輩に花をもたせる演奏をしていた。その後、ヴィオラ・スペースで『アルペッジョーネ・ソナタ』を弾いたときも、その迫力に圧倒されはしたが、あまりにも豪放磊落な感じに見えるときもあった。

そして、いまこそ、彼の音楽の神髄に触れたような気がする!

私はここで、ブッフビンダーの凄さについて語るはずだったのだが、堤剛こそが、この演奏会の主役になっていたのは間違いない。我々はこのような奏者の演奏を、身近に聴けることを喜ぶべきだろう。ブッフビンダーも終始、にこやかな表情で楽しそうだった。堤は日本語でいったのだが、ブッフビンダーが4と2の指のことを理解して、瞬時に動かしてみせたのも、いま考えてみれば、不思議なことだったかもしれない。言葉や文化を越えた友情が、ここ東京で生まれたのなら喜ばしいことである。なにか別の曲目で、デュオの再会に期待したいものだ。

【プログラム】 2013年11月7日

1、ベートーベン チェロ・ソナタ第1番
2、ベートーベン チェロ・ソナタ第4番
3、ベートーベン モーツァルトの歌劇『魔笛』のアリア
            「恋人か女房か」の主題による12の変奏曲
4、ベートーベン チェロ・ソナタ第3番

 於:東京文化会館(小ホール)

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