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2013年12月 1日 (日)

寺神戸亮&レ・ボレアード モーツァルト フィガロの結婚 北とぴあ国際音楽祭(千穐楽) 11/24

【演出におけるピリオド・アプローチ】

ここ数十年の歴史で、オーケストラや器楽演奏におけるピリオド演奏の重要性が再認識され、バロック以前、古典派の作品を演奏するときのテンポ、アーティキュレーション、音色などに多大な変動が生じたが、オペラ演出におけるピリオド・スタイルの追求ということは話題にならなかった。この方面では、演劇や映画の業界から人材が入り、オペラのもつ劇的な特徴をより新鮮な印象に塗り替えたり、ジャーナリストが好むような現実的な比喩を取り入れたりしたほか、映画に匹敵するスペクタルな効果を生むような装置、衣装、照明などの活用を図るといった方向で、演出を「新しく」することに関心が集まってきた。今回、北とぴあ国際音楽祭が上演した『フィガロの結婚』はそれらとは対照的に、作品を原点に戻す試みであるようにみえた。

ト書きに基づいた丁寧な解釈をおこない、過剰演出を排して、歌役者どうしの音楽だけではなく、演技によるアンサンブルを引き出そうとしたのだ。私は見逃しているものの、これに先立ち、一昨年には『コジ・ファン・トゥッテ』を演奏会形式の上演にして、一定の手ごたえを得ていたのであろうが、今回は「セミ・ステージ形式」として、シンプルなモーツァルト上演の新しさをよりラディカルに探ろうとしたのであろう。プログラムに掲載の「指揮ノート」において、指揮を担当し、上演ベースを組み上げた寺神戸亮氏は、モーツァルトが生きていたころの上演形式について触れ、オペラには一定の決まりごとがあって、そこでとられる所作には決まった意味合いがあり、しばしば専門の歌役者がいて、それを繰り返し担っていたなどというような事情を説明している。ここで寺神戸は、能や歌舞伎を思い浮かべるように提起しているが、今回の上演はより歌舞伎的な舞台だったといえそうだ。

つまり、歌舞伎は娯楽性が高く、表現が平易で、役者どうしの関係で作品の見え方が大きく異なってくる余地も大きい(アドリブの余地がある)。この日の舞台も、基本的には大げさでわかりやすい表現をとり、顔の表情もゆたかに変化し、役者どうしが自分のアタマで考えてつくった動きというのが散見された。歌役者たちが演出家の指示をあおがずに、寺神戸の示す基本的な要素だけに従いながら、それ以外は、自分たちで楽しんでつくった舞台といえる。それゆえに、替えは効かない。すべての場面で、とるべき動き、顔の表情、そして、そこで起こる音楽的要素は連動していて、それを生み出したキャスト自身と離れがたく結びついている。

【致命的アクシデントのはずが・・・】

その点で重大なアクシデントが、この日、起こったのは残念なことである。ケルビーノ役の波多野睦美がこの時期だから、風邪をこじらせてしまったのか、わからないけれど、何らかの理由で声が出なくなってしまったのだ。代役は、先に書いたような理由であり得ない。波多野はレチタティーボさえ歌うことができない状態だったが、舞台に立ち、声以外の要素はすべて、自分たちがつくった通りにした。大半のレチタティーボと有名なアリアは、マルチェッリーナ役と兼任して、穴澤ゆう子が舞台奥、オーケストラの後ろ側から歌うことになった。さらに、彼女が控えに回らなければならない部分では、レチタティーボの一部をコンティヌオのチェンバロが「歌う」場面があった。そして、それらの両方が使えない場合は、波多野のパントマイムと字幕で補うよりなかった。

この重大な欠落にもかかわらず、上演はかえって面白くなった。もちろん、私は、波多野の歌が好きだし、それが最後のピースに嵌れば、もっと堂々たる成果を謳うことができたかもしれない。その点で上演の損失は小さくないが、しかし、歌と切り離して、波多野の演技をまじまじとみるにつけ、その深い意味合いにより直截なインスピレイションを感じたのも事実なのである。実際の音がなくとも、私はそこにハッキリとケルビーノの声を聴いていた。耳から聴こえてくるのは、なるほど、穴澤の声だ。しかし、それだけではない何かが、私の内側から響いていたのである。この感覚は終盤にいけばいくほど強く、特に、最後の大コンチェルタートにおいては、ますます分厚い響きとなって、私を捉えた。

最後、全キャストは身体をあわせて、舞台中央前面に集まる。最近では、複雑な暗みを帯びたエンディングが多いモーツァルトのオペラだが、この日の上演では、そこにモーツァルトがつけた猛烈な音楽とともに、作品は明らかに神への捧げものとしての、凝縮した幸を得たのである。全面的な光に満ちていた。ケルビーノは伯爵に飛びつき、肩車されて手を広げていた。その演技に、私は思わずぐっと来る。そこにいたのは、声の出ない歌手などではない。ほかならぬケルビーノその人だったのである。このようなことを感じられるのは、このチームが波多野に訪れたアクシデントをほぼ完全に克服したことを意味していたであろう。

【傷ついていく正直者】

『フィガロの結婚』において、ケルビーノは鍵となるキャラクターだ。原作の三部作では、フィガロの前編が例のロッシーニで有名な若いころのアルマヴィーヴァ&ロジーナの恋愛が成就するドタバタ劇であるが、フィガロの続編ではついに、伯爵夫人とケルビーノが完全に間違いを犯したあとの物語になる。ケルビーノは夫人に不義の子を産ませてしまい、そのプレッシャーから自ら死を選んだ。不幸な伯爵夫妻を脅かす危機を、フィガロの機知が再び救うのである。その間に、フィガロが位置している。『フィガロの結婚』はある意味で、アリア「恋とはどんなものだろう?」に象徴されるような少年の純粋な感性に、人間として致命的な毒が吹き込まれていく過程だとみてもよい。

伝統的に、この作品は伯爵に象徴される貴族社会の矛盾を風刺する意味で書かれたと思われている。フィガロやスザンナを伯爵と対置させる勧善懲悪的な見方だが、よくみると、彼らの態度はとても素直とは言い難いものがある。伯爵はわがままなだけで、これといって嘘をつかないが、その配偶者や配下の人たち、マルチェッリーナ=バルトロ=バジーリオの1組と、フィガロ=スザンナ=伯爵夫人の1組は互いに嘘をつきあっており、そのうちに、敵も味方もわからなくなってしまう仕掛けだ。モーツァルトは貴族社会を風刺するとともに、それと対置される市民の立場にも大きな矛盾が孕んでいることを知っていた。現代では、これら二重の闇が、クラウドな結末を生み出す根拠になっていることが多い。

さて、伯爵もケルビーノも、ある意味では純粋な人にすぎない。自分の想いに正直で、それゆえに、失敗が多いのである。伯爵は権力者だから、その純粋さによって周囲に多大な迷惑がかかるし、ケルビーノはあまりにも見境がないために、やはり傍迷惑なのだ。伯爵の純粋さはこの物語のなかで傷つけられ、第3幕冒頭での独白のように、むしろ気の毒な印象を与える。一方、ケルビーノの純粋さは、伯爵夫人という正当な行き場が閉ざされているために、スザンナやバルバリーナへと向かって筋違いな道を歩ませ、終幕ではスザンナと伯爵夫人の計画を危機に落としてしまう。ここで、ケルビーノがスザンナ、実は伯爵夫人に対して口にする毒は、きわめて辛辣で、そこに伯爵がやってきたら・・・という不安よりも、はるかに重大なことにも思えないだろうか。

結局のところ、物語のなかで、通常なら、「加害者」と見做される伯爵やケルビーノこそが、真の被害者なのである。伯爵には為政者としての責任があるものの、それとは直接、関係ないところで多大な精神的被害を蒙り、また、ケルビーノはただ無邪気な愛情を追い求めていただけだったのが、周囲との関係により、それとはまったく異質の性的興奮のなかに身を置くという結末を迎える。やがて、彼がそれによって、いのちを失うというのは納得がいくことだ。ケルビーノも、伯爵も、自由の名の下に傷ついていく。

【神の平和】

さて、こうした事情はのちに起こるフランス革命の事情を、見事に予言しているのではなかろうか。革命の精神自体は今日につづくものも多いのだが、歴史の実際をみると、革命から恐怖政治、アンシャン・レジューム、王政復古、そして、ナポレオン戦争・・・とつづく動乱のなかで、多くの人たちが不当にいのちを失い、こころを傷つけられた。モーツァルトの考えでは、神の下にある平和のみが、こうした混乱を防ぐ鍵だったのである。これは音楽的メッセージを読み解くことで、明らかになるだろう。古楽アンサンブル「レ・ボレアード」が舞台上に出て演奏することで、その趣はいっそう明白である。

『フィガロの結婚』は常に、神聖な音楽と向き合ってつくられている。ところが、そこにしばしば、目も当てられないような言葉が当てられているのだ。こうしたことは、同時代の周囲の作曲家は当たり前にやっていたことで、モーツァルトはそれにつよく反発していた。モーツァルトはすべてを見抜いた上で、同じようにしている。これは、時代に対するプロテストであり、皮肉なのである。

だが、最終的に、モーツァルトは神の平和を実現した。主要キャストが揃っての、幕切れの大コンチェルタートだ。この歌のなかで、これまでアイロニーに使われていた霧がすべて晴らされ、我々が神さまの見下ろすなかで、いかに愚かな争いのなかにあったかが示される。伯爵の謝罪。そして、夫人の赦し。聖歌のような音楽から、歓喜の壮烈な響きが流れるなかでのフィナーレ。これによって、すべてが丸く収まるという筋書きは、現代のジャーナリスティックな解釈には見合わないが、モーツァルトはこうした奇跡を信じる・・・というよりは、そうあるべきと強く主張したのである。実際には、こうした叫びはウィーンでは受け容れられず、プラハで爆発的な支持を得た。以後、プラハではより強烈なアイロニーを含む『ドン・ジョヴァンニ』が制作され、題名役の修羅場に先立って前作のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」が挿入されている。ウィーンに戻っては、当地により相応しい趣の『コジ・ファン・トゥッテ』が生まれ、ほかに、また個性のちがう2つの傑作を残したあと、モーツァルトは鬼籍に入った。

月並みな意見だが、これら晩年の傑作群のなかでも、『フィガロ』は燦然と輝いている。だが、その真の奥行きを知るのは簡単ではない。あまりにも魅力的な音楽が、作品のもつ強烈なメッセージを覆い隠してしまうことがあるからだ。

【バジーリオのアリア】

今回、通常の上演ではカットされてしまうことも多い2つのアリアが演奏された。それらはいずれも最後の場で出るもので、バルバリーナのカヴァティーナのあと、フィガロが彼女から巧みに秘密を聞き出したあと、自分は女の側の味方になると決意して歌うアリア。そのあと、バルトロとバジーリオの絡みのなかで、後者が自分はどうして、こんなバカな行動をとっているかを歌うアリアである。これらのアリアは脇役の造形に重要なだけではなく、モーツァルトの人生論、創作論としても意味をもつもので、特にバジーリオのそれは、モーツァルトの内面的告白がそのまま出ているといっても過言ではないほどだ。

近年では彼の手紙の研究から、品性のない子ども地味た性格が忖度されることも多いが、もしも、彼がバジーリオのようにしていたとしたら、手紙はなにも真実を語っていないことになるだろう。この『フィガロ』にしても、そのあとの2作にしても、話自体は非常に滑稽だ。しかし、この滑稽ばなしのなかに、どれだけ我々を考えさせ、落ち込ませ、あるいは、元気づけるような真実が隠れていることであろうか。このようなアイロニーの在り方は、ベートーベンによって激しく受け継がれたほか、ロッシーニを起点として、ヴェルディ、プッチーニなどのイタリア・オペラの本流へとつづき、さらに、ロシア・オペラやフランスのオッフェンバック、ウィンナー・オペレッタの世界などに直結していった。これと対置されるのはワーグナーを中心とするドイツ・オペラの系譜、そして、その傍流であるヤナーチェクなどの作品であるが、私からみて、これらの相克には本質的な開きはない。

しかし、敢えてこの作品に限定してみた場合、バジーリオのメッセージは、この作品をもうすこし深く読み解くための鍵でもある。彼は昔、ある冷酷な女性に恋をして、騙されて惨めな想いをし、それがために陰湿で、強い者に媚びへつらうような性格になってしまったという。人と人との関係が、結局、人間の生き方を決めてしまうというのは、この作品を通じたメッセージのなかで、もっとも大事なものに属している。

【キャラクターの造形】

さて、今回の上演に即して、それらの人物を顧みてみよう。まず、階層的に、3つにわけて描かれている。それは伯爵と夫人のいる領主層、フィガロとスザンナを中心とする家臣・従者の層。さらに、それ以下に属する庭師、アントニオの属するような庶民の層である。このなかでも、もっとも贅を尽くした服装にみえるのは、クララ・エクの演じる伯爵夫人だ。気品のある紫とシルバーを基調とした衣裳を、エクが柔らかく着こなしている。フルヴィオ・ベッティーニの演じる伯爵は、ブラウン系の落ち着いた部屋着風の衣裳である。クララもフルヴィオも若いので、この領主夫妻はまだ多彩な感情に彩られていて、互いに枯れてはいない。

萩原淳のフィガロの服装にそれほど特徴はなく、きっちり決めているが、ロベルタ・マメリ演じるスザンナは初めからメイド服での登場。丈が膝ぐらいまでしかなく、白い前掛けは腰まわりだけ。ベージュのロング・ソックスが妙に徒っぽく見える。スザンナがお屋敷で、大いに「色」を売りにしているのは明らかである。フィガロは序盤から、自らの才覚を相当にアテにしており、尊大な性格が台本上も描かれている。スザンナも同じように、波乱を楽しむようなところがある。

フィガロやスザンナに煽動され、一部は、より高貴な権力者にすり寄る下層民はデフォルメが激しく、庭師のアントニオは設定上、スザンナとは叔父と姪の関係に当たるが、今回は完全なるガテン系のイメージで描き、歌役者の小笠原美敬は口まわりを黒々と塗って、ザ・ドリフターズのコントに出てきそうなキャラクターに扮装。大げさな動きで、品性の下劣さを露骨にアピール。バルバリーナは素朴な衣装で、ぶりっ子な演技も、イマイチ間が抜けている。演じる澤江衣里は周囲と比べ、演技面で経験不足だが、場数を踏んでいくと良い歌手になりそうだ。ケルビーノも本来は、この層に属するのだろうが、素朴なフランス人形のような格好でも、着崩しがひどく、髪もばさばさで、いわゆる「腐女子」風、もしくは「のだめ」風に見えた。

マルチェッリーナは貴婦人風の格好だが、敢えて不細工なメイクで、成金風。穴澤ゆう子は損な役まわりを嫌がらず、しっかりと演じている。バルトロは表向き、紳士風の風体だが、左に杖を突き、乱暴に扱うことで、性格の歪みが身体状況によって示されている(やや差別的表現にみえる)。演じる若林勉の真面目さが、かえって、良い味わいにつながっている。バジーリオはいわゆる「ギョーカイ人」風の格好だが、寝ぐせで髪がピンと立ち、締まらない印象になっていた。櫻田亮はしかし、この役柄の設定では本領発揮とはいかないように思えた。

以上のキャラクターのなかで、上演を決定的な成功に導いたのは、フルヴィオ・ベッティーニの伯爵である。彼は歌も基本がしっかりして、ブレないが、なんといっても表情の多彩さが比類ない。舞台上はもとより、客席ともコミュニケートできるし、面白い歌役者だ。第3幕冒頭で独白をするように、彼はもう、ほとんどのことを的確に把握しているのだが、その優しさゆえに、思いきった処断を下すことはできない。彼のこの甘さこそが、すべてを引き起こしているといっても過言ではないだろう。演出的には、婚礼の前にスザンナが彼を誘いにくる場面で、彼女がとりに来たという夫人の付け薬を、さっとキャビネットから取り出す場面があった。これで、彼が夫人のことを、どれだけよく気にしているかがわかる。そのときの表情の、なんとなくオドオドした風も良い。そのあと、スザンナが意図的に気を許す場面で大喜びするのは矛盾に満ちているが、オトコとはみな、こうしたもの。この表情もまた、素晴らしい。

だが、言っておくが、こうした表現は常に声と結びついていなくてはならない。フルヴィオができているのは、そこだ。常に、自分が発する声と、表情や演技のバランスが美しいのである。そして、最初のほうに言ったように、この上演は、そこを突き詰めた舞台でもあった。

【エクとマメリ】

現在、この方向では、欧州の歌役者は非常に高いレヴェルで鍛えられている。フルヴィオと同じように、クララもロベルタも素晴らしい。クララ・エクは表情の切り替えが非常にチャーミングで、ケルビーノを可愛がって、スザンナの身体越しに悪戯っぽく微笑みあうような場面は最高だった。一方、ロベルタの凄さはこれまでにも再三、報告を上げてきたつもりだが、舞台でこれほど輝く女優とは思いもしなかったのである。小気味よく、敏捷な動き。ゆたかで、変化に満ちた表情。声の素晴らしさは言うまでもないが、それをさらに柔らかく生かす表現力の多彩さには誰もが魅了されたにちがいない。「フィガロの結婚」ならぬ、「スザンナの結婚」と思ったであろう。私の知る限り、「とうとう、そのときが来た~恋人よ、早くここへ」が、これほど気品あふれるフォルムで歌われたことはない。

この2人の起用が決定的に輝いたのは、いわゆる「手紙の二重唱」だろう。この場面を「重要なところ」と押し出しすぎることなく、さりげなく決めているのが逆に印象的になった。エクとマメリが機転の利いた室内楽で、正に、そよ風が流れるが如き、たおやかさで聴かせたのである。それぞれ、声や歌いまわしに特徴がある歌手で、いまどきな感じではない。そういう意味でいえば、波多野睦美も同じなので、これら全員が絡む場面を是非みてみたかったというのは正直なところだ。

【革命と信仰】

ところで、二重唱のあと、夫人は前の場面で、あれほど頼りにしていたスザンナに力添えを頼まなければならない自分の惨めさを嘆いている。この場面は、観る者に複雑な印象を与えるだろう。なぜなら、それまでは2人の女性は常に協力関係にあって、互いを尊敬しあっているように見えたからだ。実際には、このような主従の均衡関係は危うい。ときに、モーツァルトは一体、自分の生きる貴族社会に対して、どのような意見をもっていたのであろうか。伯爵夫人とスザンナが懇意になることは、階級の消滅ということに関していえば、つまり、革命的な精神からみれば、喜ばしいことだ。だが、モーツァルトはそうした癒着に、肯定的な評価ばかりを与えているわけではない。その一部が、この伯爵夫人の独白に表れている。多分、モーツァルトは市民階級の完全な目覚めには期待できず、生半可な和解がかえって決定的な決裂を招くことを知っていた。

この作品にもマルチェッリーナの言葉として登場する台詞 ’cosi fan tutte’ が、モーツァルトの最後のオペラ作品の題名ともなるが、これは、「女はみな、そういうもの」だからつきあうなという警句なのではなく、むしろ、そうした性質をハッキリと理解したうえで、互いにつきあうことができることを、神の恩寵と思って感謝しろと言いたいのである。モーツァルトは貴族社会のおわりを願ってはいるが、そこに生じる致命的な軋轢の深さを的確に感じている。それを乗り越えるには信仰を通した相互理解を通じて、両者がその距離を縮めていくよりないのだと、彼は固く信じているようだ。無論、私はそのような信仰的な真実について、これっぽっちも知るものではないが、モーツァルトの作品をみていると、自然、そう感じざるを得ない。楽器法の観点からみても、モーツァルトはそうした要素を常に大事にして作曲しているのは明らかではなかろうか。

例えば、この日は舞台下手に配置されたナチュラル・トランペットの役割は、きわめて限定的でわかりやすい。2本用意されたトランペットは常に、天からの恩寵を示す文句や出来事の象徴として用いられているからだ。それは軍楽マーチのなかで使われるときにも、基本的には変わらない。なぜなら、天の恵みなくして、戦に勝つことは不可能だからである。ただし、この方面の勇ましさが求められる演奏に関しては、日本の古楽アンサンブルはやや、西欧のそれに比べて遅れをとっている。それは有名な「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のアリアでよく表れており、テンポを落とし、悠然と軍隊の威容を描いて、作品に奥行きをもたらしたザルツブルク音楽祭のアーノンクール(2006年)とは異なり、レ・ボレアードの演奏では、ほとんどダイナミズムの動きは感じられず、軍靴の響きは遠くにあった。

よっぽど、セヴィリャに出征のはずのケルビーノは、伯爵夫人の部屋から辛くも逃亡の後も、まだバルバリーナの部屋でモタモタしており、その表現にも一分の真実があったのは言うまでもないが。いずれにしても、すべての事象は、お天道さまにはお見通しなのである。革命精神は、いつも信仰によって見つめられており、その道を妨げる幾多の困難を真正面から見据えてかからねばならぬ。そうでなければ、大らかな貴族的寛容のほうがはるかに住みやすいと、モーツァルトは主張しているようである。

アクシデントは残念だったが、公演はブラヴィッシモな出来である。来季は、このページでも紹介した巷のバレエ団が本邦初演をとったラモーの傑作『プラテー』が予告されている。その公演をみた限り、非常に特殊な声質が求められていただけに、キャスティング能力に定評ある音楽祭が、どのような選択をしてくるのかは楽しみだ。ここまで2年に1回、コジ、フィガロと来ているので、そのあとは『ドン・ジョヴァンニ』の可能性が高そうであり、そうなるなら、期待したい。この公演に関しては、ひとまず、新鮮な驚きを残しておわったと評価したい。なお、今年はところも同じ、この北とぴあ(ホールはちがうが)で、2つの優れたモーツァルト上演に接したことを書き添えておく。これらの経験は、私にとってきわめて有益な財産となった。

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