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2013年12月20日 (金)

ウルバンスキ ブラームス 交響曲第2番 ほか 東京交響楽団 東京オペラシティ定期 11/30

【”期待はずれ”のウルバンスキ】

演奏家にもそれがあるように、音楽愛好家にも、その人にとって特別な演目や、思い入れのある作曲家というのはあるものだろう。いくつかを選ぶのは難しいけれど、僕の場合は筆頭に来るのはブラームスで間違いない。ある演奏家がここで外すと、少なくとも私の関心は得られないし、反対なら、誰がなんと言おうが、応援しつづけるだろう。私は自分が優れた聴き手だと思ういかなる根拠もなく、無論、優れているとも思わないが、ブラームスを聴けば、その人がどれだけ誠実な人かがわかるつもりではいる。私でなくとも、それはわかるはずだ。人々が名前や評判、見かけを当てにせず、音楽そのものに対して、誠実に耳を傾けるなら。僕にはそれが満足にはできないが、そうしようという良心だけはもっている。

クシシュトフ・ウルバンスキの音楽は・・・彼の演奏するブラームスは、そうした良心に応えてくれた。彼の演奏を生で聴くのは、たったの2度目でしかない。前回はドヴォルザークという、これまた僕にとっては格別の素材であり、その印象は決して満足なものではなかった。その日、楽団は公演前の最終リハーサルを公開していたが、そこまでは素晴らしかった。高い舞台をひとっ跳びにして、会場側からも音を聴きながら、全体のフォルムを磨き上げた若き俊才の手腕はみるからに素晴らしかったが、そんなとき、本番ではヘタるということがよくあるものらしい(以前、誰かプロのオーケストラ奏者がツイートしていたが、さもありなむ)。私は本番よりも、そのリハーサルの内容を信用して、ウルバンスキへの評価を落とさなかった。実際、彼の演奏を投稿動画でみても、格別な才能を示しているのは確かだろう。多分、そのオーケストラは日本のアンサンブルよりも、お世辞にも格上とは言えない存在だろうから、尚更のことだ。

ウルバンスキの音楽づくりを知るには、私たちには手ごろな比較対象がいる。下野竜也である。2人とも、クラシックの演奏伝統や、周りの人たちの表現に深い感心を示しながらも、自分がやるときには、そうしたイメージをまっさらにしてかかるという不器用な癖があるのだ。彼らは楽譜を読み込み、イチからテンポやアーティキュレーション、バランスなどを決めていく。ウルバンスキの場合、そのスコアを記憶する能力が傑出していて、暗譜でリハーサルから本番まで通すというオマケがついている。そのような能力の高さにもかかわらず、ウルバンスキは簡単に新しいレパートリーを追わず、自分が高いレヴェルで作品を扱えると確信するまでは指揮しないという昔気質も備えているのだ。

この点、若干、下野は現実的である。彼はまだ跳べない高さをめざしてバーを落としても、諦めない、ハイ・ジャンパーのこころをもっているからだ。それでも、彼が評価されるのは、「この人、そのうち跳べるんだろうな」という根拠まではきっちり示すことができるからだろう。その間の努力が、半端ではないのだ。多くの人たちはそうした計算も努力なく、大人たちの思惑に呑み込まれていくもので、例えば、13歳でプロになるピアニストなんて、そういうものではないかと思う。いまや、そういう人が大成する確率はきわめて小さいにちがいない。キーシンが、一流になれる時代は終わった。最早、時代はそうした素材を上手に育て上げるだけの余裕をもたないのだから。

前置きが長くなったが、ウルバンスキのブラームスについては「期待はずれ」の感がつよい。無論、ここで括弧がついたのは、良い傾向ということになる。同じようなことは、エリシュカの演奏を聴くときに、よく感じるのだ。僕の「期待」など、所詮、低いレヴェルのものでしかない。私にとって、ブラームスで尊敬に値すると思われる巨匠は、いくらでもいる。フルトヴェングラーワルターマズアサヴァリッシュカラヤンテンシュテット・・・。こうした多様性のなかから、私が自然と選んでいるスタイルが「期待」につながっているわけだ。そのとおりに来た場合のエクスタシーも十分に大きいだろうが、むしろ、私にとって「期待」を裏切る演奏のなかで、意外な共感を得た場合のほうが、その楽曲に対するイメージを深めるためには役に立つものはずである。

例えば、この演奏会に先駆けて、アマチュアではあるがよく訓練された新交響楽団を指揮した山下一史氏は、実に見事なやり方で、師匠であるカラヤンの音楽(ブラームスの交響曲第3番)を再現したといえるだろう。しかし、それを私はどう表現してよいかわからなかったのに対して、9月に札幌でエリシュカの演奏を聴いたときには、何の迷いもなく、レヴューを書き始めることができた。ウルバンスキの場合も、私がこう来るであろうというポイントは大体、外される場合が多い。例えば、このように神聖な雰囲気が高まった場面では、バロック的なトランペットの響きが高らかに鳴らされて、周囲から浮き上がってくるはずだという期待は、大抵、裏切られる。考えてもみれば、そうした過ちはショパンのピアノ協奏曲をオーケストレイションした先生たちの不遜となんら変わらないもののように思われる。結論を急ぎすぎれば、碌なことにはならないのだ。

【ダイナミズムに頼らずに】

ウルバンスキは、そうした小手先の「正しい」表現が、すこしもブラームスらしいものではないと言っているようである。最後の楽章の有名な金管のコラールだって、同じような扱いになっていた。ウルバンスキはトロンボーンやチューバの奏者たちに向かって、親指と人差し指をいっぱいに広げて、「これだけでいいんだ!」とやるのである。この僅かな距離にこそブラームスの音楽の本質があるように、私には思えた。私の知る巨匠たちのなかに、そんな表現を選んだ人はひとりもなかったであろう。ブラームスの交響曲第2番にとっては、心臓の鼓動といえるような響きなのだ。それを、あの大きさに限定するなど!

こうした姿勢とも関係するが、この曲に限らず、ウルバンスキはダイナミズムに頼らない音楽の変化を多様に試みていた。mp~mf ぐらいの強さで、テンポもそれほど激しくは変動せず、そのなかで、純粋な響きの調整、つまりは、バランスやアーティキュレーションのちょっとした工夫で、一体、どこまでできるのか。結論からいえば、この交響曲第2番についていえば、ほとんど過不足なく、ブラームスの思い描いたメッセージを表現することができたのだ。もっと正確にいえば、このアプローチのほうがブラームスの原イメージにちかいものが表現しやすいのではなかろうか。

冒頭、低音弦とホルンとの明確な対比から音楽が始まり、序奏的に単刀直入な主題の提示、管楽器がまとまって吹く深いブレス、遠くに聴こえる雷鳴のようなティンパニまで、奏者のデリケートな表現を慎重に引き出すべく、音楽の運びは繊細の上にも繊細である。音響と視覚的なイメージが一致して静かに、しかしながら、明瞭に浮かび上がる深いブレス、そして、それと鋭く対立しながらも、思いきった弱音を選ぶティンパニの響きが、象徴的なものになっている。情景描写よりは、響きの味わいを逆らわず、活き活きと引き出すことに重点を置いて、その内面的な美しさが自然と視覚的な表情をも呼び起こす演奏になっている。提示部の繰り返しがあり、これがまた味わい深く、独特の表情をより深く印象づけるためには打ってつけの仕組みだろう。

なにかとってつけたような工夫はひとつもなく、素材のひとつひとつをみれば、なにも際立って個性的なものではない。しかし、そうしたものの連鎖や、全体の関連性がきわめて柔らかく、美しく、活気のある選択によって繋がれているのであった。

【巨大な室内楽】

テンポはややゆったりしたものであろうが、室内楽的なコミュニケーションが深いせいか、私としては、十分にキビキビとした印象を受ける。この日の演奏の特徴として、オーケストラの側の積極的な動きの素晴らしさということについては、是非とも一言しておく必要があるだろう。巨匠的な悠然とした表情や、特別な重みがあるわけではないものの、聴き手を包み込むような、適度な速さそのものは素材を噛みしめるには好ましいものだ。展開部の弛緩を上手に扱いながら、終盤の緊張感に向かっていくのが実はポイントのひとつで、序盤に予告された展開がつながって、予想どおりの素材が現れてくるときの新鮮さに至っては、目を瞠るほどである。特に、コーダの快活な表情には思わず笑みがこぼれた。

第2楽章も構造の強調的な切り替えをおこなわないなかで、ゆったりした音楽の推移をみせるのが特徴的である。木管の味わいを大事にし、素材のうまみを確実に引き出す手腕は、むしろ手堅い。緩徐楽章もそうだが、楽曲は全体的に、巨大な室内楽としての味わいがつよい。それならば、ダイナミズムが全体的に控えめなのも理解ができるだろう。

この傾向は終楽章に入っていよいよ顕著であり、もしも、ほとんどオーケストラにしか興味を示さないような聴き手がいるとしたら、彼の演奏姿勢は十分に呑み込めないはずである。我々が通常、必要と思っているような厚みはなかなか出現せず、金管の派手な強調も、叩きつけるようなアクセントの迫力も、何もないのである。そうでありながら、音楽が放つエネルギー感は十分に手ごたえがあり、聴き手は高い緊張を保って音楽を聴かねばならない。この楽章においては、主題と主題をつなぐ細いラインを構成する木管の響きなどが印象的に整理される一方、厚みのある響きは一層、きっちりと彫琢し、全体を壮大な一枚の画面として、徐々に作り上げていくような手法になっている。

コーダでは型通りの造形美だけではなく、デモーニッシュな構造の揺らしまでもが期待されるが、ウルバンスキの場合は、こうした対立が根本的に存在しない。最後まで悠然とした響きのバランスが維持され、コケオドシのダイナミズムは放擲されて、ゆたかな響きの緊張感がそれに取って代わるのだ。譬えれば、F1黄金期のアラン・プロストのドライビングである。彼は非常に美しい、素直なラインを採るとみえながらも、その実質は、誰にも真似のできない厳しいドライビングをしていたことが後年、他のドライバーなどによって語られている。ただ、プロストはそのイメージとは異なり、知的に洗練されたドライバーではなく、自分が積み上げてきた経験をなによりも重視した職人的なドライバーだったようである。ウルバンスキもあるいは、同じようなものかもしれない。つまり、今後の経験が彼のゆたかな才能をずっしりと固めてくれるであろうことは、非常によく見通せる。いまは、その経験をできるだけ誠実に、ひとつひとつ積み上げていく段階にある。

【共通点】

さて、そうした未来が明るく示されたのが、中プロの協奏曲であった。フセイン・セルメットを迎えて、モーツァルトのピアノ協奏曲第18番。ゼルメットはトルコの高名なピアニストで、東響へも出演を重ねているが、私としてはこれが初めてだ。

これに先立ち、ペンデレツキの作品が演奏されたが、その演奏がまだ手探りなものであったのに対して、モーツァルトでは、東響のメンバーも自信に満ち溢れている。これといって、際立った工夫を施さずとも、自然に美しく太めの線が浮かび上がり、独特のゆたかさで振る舞うのである。これと比べると、セルメットのピアノは繊細そのものであった。当時の楽器をイメージしたものか、フォルテピアノのような音色で、狭いレンジをキビキビと使う。これらの響きはオーケストラ側がよりゴージャスな趣を発する分、序盤、微妙なニュアンスのちがいを生じさせた。

しかし、前回のオペラシティで弾いた白建宇のときもそうであったが、東響はこうした場合のアジャストには優れているし、両者は基本的に同じ方向をむいていたのも間違いない。互いに差を縮めるのは、白のときよりはずっと易しかったであろう。また、この作品はマリア・テレジア・フォン・パラディースという歴史的な女性ピアニストのために書かれたもので、協奏的関係はさほど重要ではなく、独奏部分の重要度が高くなっている。だから、オーケストラとしては基本的に、ソリストの持ち味を聴きながら、そのイメージを華やかに彩るような形で対応していけばよいのであって、東響のようなオーケストラにとっては演奏がしやすいはずである。

そこへもってきて、ウルバンスキの指揮する東響とセルメットの間では、再び、「ダイナミズムに頼らない」演奏ということで共通点があった。今回の演奏会を評するのは、私のような書き手にとって簡単ではないが、それは要するに、非常に目立ちにくい要素が淡々と積み重ねられ、その結果として、圧倒的な結果が生じてくる神秘を書き表さねばならないからにほかならないのだ。本来なら、スコアを広げ、そのアーティキュレーションの特長を詳細に論じていくのが好ましい。しかしながら、その点について、私の知見は十分とはいえないので、このように、言い訳じみたことを書くしかないわけだ。

【パラディースから広がってみえる歴史の裂け目】

ウルバンスキも、セルメットも、結局、音量や迫力というものの変化によらず、それぞれの受け持つ響きの美しさをどのように高め、強調するかということを第一に考えている音楽家だ。セルメットの演奏を聴けば、パラディースという奏者が、どれほど優美で、ゆたかなニュアンスに満ち、その上、相手の言うことを聞いてくれる音楽家だったかということが、手に取るようにわかるだろう。そして、多分、彼らが表現したかった一番のポイントが、そこなのである。確かに、パラディースの生き方、音楽家としての在り方には、今日の音楽家が倣うべき、何らかの秘密が隠されている。しかも、彼女は幼年期に視力を失っており、重いハンデを背負っていたことも加味されるだろう。

モーツァルトがピアノ協奏曲第18番を書いたのは1784年。コンスタンツェと結婚し(1782年)、数年を過ごし、その間には私的には子どもを儲けて、一児は惜しくも喪い、一方、仕事の面では高名なハ短調のミサ曲を書いている。さらに、1785年の『フィガロ』創作にまで至るような、脂の乗りきった最充実期に当たっているのである。協奏曲はこの時代のモーツァルトのアイディアがくっきりと浮かび上がるような作品であり、それが、パラディースのような優れた弾き手に捧げられているのも象徴的である。

ここで、パラディースを起点に、歴史的な背景が美しく口を割っているのは興味ぶかい。例えば、パラディースの父親は、宮廷顧問官としてマリア・テレジアに仕えていた。愛嬢に対して、顧問官殿は敬愛する主人の名前を頂いたらしい。その上、幼年期に視力を失ったパラディースのことを治療したのは、F.A.メスメルという人で、催眠療法の生みの親とされている。彼は当時、公的に使用が禁止されていたグラス・ハーモニカを用いてパラディースを治療し、うまくいかなかったこともあって、王室によってウィーンを追放されたということだ。

メスメルは初期のモーツァルトの庇護者のひとりとしても知られ、晩年のオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』のなかにも、その精神療法について言及がある。彼が治療に有効と考えていたグラス・ハーモニカをつくったのはアメリカ合州国「建国の父」としても知られるベンジャミン・フランクリンで、この楽器は一時期、幅広い音楽家からの支持を得ていたという。モーツァルトにもこれを使った作品があり、日本では近年、彼をテーマにした「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」(LFJ)公演で目玉のひとつとなり、注目された。

このように、ピアノ協奏曲第18番は一般的な知名度とは反対に、作品にまつわる様々なイメージを掘り起こす貴重な素材としても扱えるのである。

【8分26秒の意味】

その事情は、最初のペンデレツキ『広島の犠牲者のための哀歌』ではなおさら、沈痛である。よっぽど、この作品は最初から、このように題されて作曲されたわけではなく、ペンデレツキが日本でこの曲を初演した際、作曲家の松下功一氏らの助言を容れて、広島と明確に関連づけられることになったという。その功罪はどうしても拭いがたいものであって、多くの場合、この作品を演奏するに当たっては原爆の威力を誇張するようなダイナミズムの強烈さが印象づけられることになった。ウルバンスキは敢えて、事の起こりにつながる日本で、固定化されたイメージを改めて洗い流そうと試みたのである。彼は原爆のイメージに直接的には言及することなく、つまり、それをじかに連想させるダイナミズムの働きを借りないで、ペンデレツキの原イメージに回帰しようとした。スコアには、そのようなコトとしか書いていないと・・・。

代わって、ウルバンスキが示したのは、作品がもつ奇妙な運動性と、その神秘的な限界についてである。10本の指を巧みに使い、操り人形でも扱うかのように指揮をした彼のアクションは、不思議と、そうした音楽の特徴を物語っているようだ。プログラムには黄木某という先生の誠実な解説がみられるが、ウルバンスキの演奏を聴いたあとでは、腑に落ちない。先生の論文とは反対に、指揮者は原爆のイメージを直接的な威力で示すのではなく、それをむしろ、醒めかえった目でみることを強いているように思えるのだ。作品はもともと、『8分26秒』と題されていたという。実際に、このタイムで演奏されたのかどうかは確認していないが、それは明らかに意味ぶかい数字である。

ウルバンスキは手を変え、品を変え、この8分26秒を聴き手に強いるわけだ。我々もしばらくは、いろんなイメージに捉われながら、作品の成り行きを見守ってはいる。たとえ抑制された表現としても、作品が何らかの悲劇性と結びついているのは明らかだ。ペンデレツキは恐らく、原爆だけではなく、あらゆる悲劇の「結果」に目を向けさせようとしているように思える。ウルバンスキはここで、原爆だけに可能性を限定することに反対したのにすぎない。だが、その感慨もやがて薄れ、このスタイルのなかで許された可能性がほぼすべて、使い果たされたとき、我々は徐々に冷静になってくる。そして、「8分26秒」がもっとも客観的で、冷静なときである。これ以上の時間を使えば、私たちは倦怠に入るだろうし、それよりも短ければ、なんとなく物足りない。ペンデレツキはそうして、まず、冷徹な目で悲劇を見つめよと言っているのである。

【東響の変化】

この手の作品は伝統的に、東響にとっては得手なものだったように思える。ヘンツェやヤナーチェク、ラッヘンマンというものを、積極的に取り上げてきた実績があるからだ。だが、いまは、すこしオーケストラが変わった。セルメットが東響と録音を残しているのは、バルトークの作品においてである。それがいまや、モーツァルトで五分以上の取り組みができるようにさえなったのだ。ユベール・スダーン政権10年の影響は、かくも見事に表れたのである。私はこのオーケストラが「東京モーツァルト=ハイドン・オーケストラ」として売り出しても納得なほど、きれいに仕上がったと思う。このベースをもとに、ノット=ウルバンスキを中心とした体制に変わるのは、より強大な演目での並外れた成功を狙うからにほかならない。そのことに対してはファンとして多少、複雑な想いはある。

それにしても、見事なのはクシシュトフ・ウルバンスキという指揮者であろう。この凄さで、まだ30代前半。この世代では、明らかに傑出した才能である。インキネン、ドゥダメル、フルーシャなどがいる世代だが、彼らにあのようなブラームスがつくれるだろうか。私は断じて、ウルバンスキに賭ける!

なお、前日のミューザ川崎での「名曲全集」と連日の演奏会になったが、30日のコンサートのレヴューを見ると、オケ側への批判が多く、私たちのみた演奏会とは、あたかも無関係のように感じられるほどだ。彼らの言葉を信じるならば、2日目の演奏がきわめて好調だったことが窺えるのである。

【プログラム】 2013年12月1日

1、ペンデレツキ 広島の犠牲者のための哀歌
2、モーツァルト ピアノ協奏曲第18番
 (pf:フセイン・セルメット)
3、ブラームス 交響曲第2番

 コンサートマスター:大谷 康子

 於:東京オペラシティ

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コメント

ツイッターのフォロワーです。
コメントいつも参考にさせていただいております。
自分が感じて言葉にできないことを言ってくださり、ありがとうございます。

楽器は多少経験があり、クラシックとの距離はその時のほかの関心事に応じて近くなったり遠くなったりしてきましたが、残りの人生はコンサート通いをしようかというくらいウルバンスキの指揮には引き込まれました(つまり今回からのにわかです)。

春の祭典も本当にすごかったのですが、ブラームスも不評らしい30日ミューザにおいても、私が彼の音楽に漠然と期待していた何か以上のものが十分返ってきたと思います。私のブラームス歴が室内楽からスタートしたからというのもあるかもしれませんが、意外性については楽しんでました。


ということで、彼に関しては一般的に受けるショスタコーヴィッチなどよりもブラームスあたりへの取り組み方のほうが長い目でみるとむしろ関心があります。

内容に言及できないレベルなのでこんな感想しか言えませんが。
他の人のもいろいろ聞いて勉強します。

またレビュー楽しみにしています。

同じくツイッターフォロワーです。この演奏会には行ってないのですが、久々こちらのブログを拝見致しました。私が拝見した中で一番共感するものが多かったです。ブラームスとウルバンスキ、東響に対する気持ち、大変伝わってきました。東響の体制の変化については同様に感じてますが、あのオケなら良い方に傾いていくのではないかと期待もしています。

めぐぽんさん、ありがとございます。短いですが、示唆的な言葉を頂きました。今後とも、よろしく、お願いいたします。

名無しの方もありがとうございます。東響は若い団員も増え、吸収力が高いオーケストラと思います。ノットさんのもとでも、これまでの経験を忘れず、楽団としての個性を高めていってくれることを祈ってます。

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