2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 寺神戸亮&レ・ボレアード モーツァルト フィガロの結婚 北とぴあ国際音楽祭(千穐楽) 11/24 | トップページ | ウルバンスキ ブラームス 交響曲第2番 ほか 東京交響楽団 東京オペラシティ定期 11/30 »

2013年12月 9日 (月)

パーヴォ・ヤルヴィ ベートーベン 歌劇『フィデリオ』(演奏会形式) 横浜音祭り2013 クロージング 11/28 (初日)

【ホンネトとタテマエ】

ベートーベンの『フィデリオ』は、モーツァルトの作品と同じような時代背景のなかで書かれているが、当然、ベートーベンの頃になると、時代が進んでいる。『フィデリオ』に出てくるレオノーレやフロレスタンは架空の人物だろうと思われるし、舞台は16世紀、スペインのセヴィリヤ郊外の監獄ということになっているが、どことなく、フランス革命後の欧州の混乱期が描かれているようにもみえた。設定は設定として、本当の意味で、どの時代を描いているのかは定かでない。価値観が一定せず、立場によっては見え方が多彩に変わるということでいうと、先日みた『フィガロの結婚』と対比的にみることは興味ぶかいだろう。

そこで、まず、2つの作品の共通点をいえば、決定的な「善」がどこにも存在しないということがある。勇女レオノーレにしたところで、監獄に入り込むための方便とはいえ、マルツェリーネやロッコを結果的には騙すことになり、ヤッキーノを追い払ってまでした結婚の約束(追い払ったのはマルツェリーネだが)を反故にしているから、今回の舞台で「4年後のロッコ」が言ったように、完全なるシロではない。唯一、フロレスタンだけは、なにも後ろめたいところがない存在だ。私はこのキャラクターが、イエス=クリストに擬せられているのであろうと思う。レオノーレは、マグダラのマリア。罪を背負って生きる。この関係は、特に罪のない伯爵やケルビーノに対して、その他のキャラクターを対置させた「レ・ボレアード」公演のレヴューと対比的にみることができる。

今回、パーヴォ・ヤルヴィの監修の下、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(DKB)がおこなった公演では、すべての台詞をカットする一方、「4年後のロッコ」を演じる俳優が登場し、過去の自分たちを批判的に語るコンセプトが独特だ。この工夫によって、出番が多いわりに、フィデリオが監獄に入り込む口実になる以外では、作品のなかで十分に必要性が感じられないロッコ一族(ヤッキーノも含めて)のことが人間的にクローズ・アップされたのは大事なことであろうか。

だが、そのテキストを書いたドイツの文学者、故ヴァルター・イェンス氏の発想は、やや辻褄あわせに躍起になっている印象を受ける。ベートーベンの書いたアイロニーは実のところ、もっと深い。例えば、マルツェリーネ&ヤッキーノのいうイタリア風のキャラクター名からわかるように、ベートーベンはまず、イタリア・オペラの伝統との対峙を迫られた。これはベートーベン前後の時代において、(イタリアからみて)外国のオペラ作曲家、特に独墺系の作曲家がいつもドツボに嵌まる問題である。ベートーベンは最初にこの2人を登場させ、実にイタリア的なラヴ・ゲームを先行させて描いていく。ところが、やがて、フィデリオの正体は明らかになり、社会的なものとの関係が掘り下げられていくと、およそイタリア的ではないレオノーレ&フロレスタンの純真な愛情関係が取って代わるのである。

それでは、一時的にもレオノーレ(フィデリオ)の父親となり、例のイタリア的恋人たちの庇護者であるロッコというキャラクターは、どういう人物として位置づけられるのであろうか。一般的には、ピツァロにこころならずも従っているが、温情もある年寄りの看守長といったところでイメージされている。今回はそれが、もっと功利的なイメージに抉られ、ブルジョア的な観点をつよくしているのが特徴的だろう。ロッコの歌や台詞の一部をまともに受け取ったのか、イェンス氏は、フィデリオの才覚を利用して、看守長としての役得をベースに積みながら、最終的には商家として成功することを願っている者として、老人を新しいイメージで描こうとしている。

私には、これが非常に致命的な問題のように思われるのだ。確かに、ロッコのなかには、拝金主義的な言動もみられるが、それがそのまま、彼の人格を形作るものとは思われない。そうではなく、彼は庶民の果たされない夢、もしくは欲望として、そのようなことを語っているにすぎないのではないか。例えば、『魔笛』のパパゲーノが「可愛い恋人か女房が」と歌うとき、彼は具体的にそうした女性のイメージを思い描いているわけではない(直後に理想どおりのパパゲーナが現れるとしても)。万一、そうしたものが手に入るとわかっているなら、また別な風に歌うだろう。私からみて、ロッコとはあまりにも平凡すぎる庶民であり、それゆえに、欲はない。これは私の個人的な見方にすぎないけれども、少なくとも彼の書いたものよりは真実に近いと思わざるを得ないのだ。

ドイツでは、このような見方が好まれるのであろうか。確かに、イェンス氏のテキストは面白いように、歌の歌詞や台詞の意味に嵌っている。ジャーナリスティックで、筋が通っているし、ここから、現実的な方向に物語をいじっていく方法も多彩だろう。ただ、私の考えでは、ベートーベンはそれほど理路整然とした音楽家ではなかった。彼はそうした常識的な筋書きに嵌ることなく、いつもロック・ミュジシャンのように新しい筋道を探そうとする。オペラだけは、その例外であるとは考えにくい。ベートーベンの音楽は、一本の木のなかから見事な仏像が、初めからそこにあったように彫り出されてくる慶派の仕事に似ている。彼はなにか神秘的な力に導かれて、音符という鑿を振るうのであって、科学法則のような理論をこねくりまわすわけではないのだ。その点では、モーツァルトが天才的な才能を振るった。彼は科学法則を神のように操った、ニュートンと双子のようである。

【ベートーベン的な自由】

しかし、だからといって、私はこのテキストをつけたことが、公演の味わいを薄めてしまったとは思わない。ときに、ベートーベンが書いたのは、正確にはオペラではなく、ジングシュピールである。近年、そうした作品の音楽的なゆたかさをよりコンパクトに生かすため、作品に付けられた演劇的台詞のすべて、もしくは、大部分をカットして演奏する試みは多くなっているそうだ。最近、私もこの公演に先駆けて、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズの『魔弾の射手』で、そのような形式に触れたばかりだが。ドイツではこうした台詞部分が観客の気を惹かず、さらに内幕話としては、ドイツの劇場で歌う外国人の率が増えて、マトモにドイツ語を表現できないという事情があることは、プレトークで、指揮者の沼尻竜典氏が語っていたことである。

現実的な事情はともかく、ベートーベンの音楽は本当は「柔らかい」ものなのである。ジングシュピールというのは、上演の自由が効く形式である。それゆえに、ベートーベンはこの作品のために、4つもの序曲を書いてもいる。彼にとっては、上演に合わせて細かい変更を加えるよりは、まっさらなところから書きなおすほうが簡単だったということだ。折角、書いた楽曲といっても、それらがどのように使われるかは分かったものではなかった。今回、パーヴォ・ヤルヴィ&DKBから学んだことのうち、最大の成果は、ベートーベンがどう使われても生きる音楽を書いたということであり、そのための「柔らかさ」をもっているということ。ゴムまりのような弾力性があり、なおかつ、その芯は野球の硬式球のように硬いということ。この2つの矛盾した要素を実現するために、彼らは9つの交響曲を演奏してきたといっても過言ではない。その深い自由の音楽を示すことができたところに、この公演の素晴らしさはあった。

公演の成功は、もう初めの序曲から、その最初の音から私を打ちのめすほどだった。キビキビとした響きの敏捷性と、音色の深さは、誰にでも真似のできるようなものではなく、それを熟成するための、多大な背景が最初から感じられたものだ。だが、それを決定的にしたのは、この序曲の終盤でパーヴォが腕をひときわ高く上げて、構造的な突起を出現させたときである。この引っ掛かりが、観客の大部分の興奮を呼ぶことを知りながら、彼らは一方で、その前後からキャストを舞台へ登場させ、恐らく、これに対する観客の自然な反応、つまり、序曲のあとの拍手を歓迎していない姿勢を示すことも忘れない。それでも起こった盛大な拍手は、観客の側のせめてもの抵抗であったが、パーヴォは妥協せず、「4年後のロッコ」ヴォルフ・カーラーの演技を止めることはなかった。ギョッとした客席は、大半が自らの拍手を短く止めたのは立派なことだろう。

こうした対話が、歌手たちが登場してからも、ずっと続くことを私は期待したものである。実際には、その距離は徐々に広がっていかざるを得なかった。その問題はテキストにもあるし、歌手にも責任があるはずだろう。私はこの前の週末に、対照的な公演を目にしていた。『フィガロの結婚』のときとちがい、この日の歌手たちに欠けていたのは歌い手個々のコミュニケーション能力の深さと、アンサンブルの緊密性ということになる。歌も、表情のゆたかさも、能面のような人ばかりがそこにいた。ゴルダ・シュルツ(マルツェリーネ)、エミリー・マギー(レオノーレ)と、それなりに歌えている人はいて、歌唱的水準は一応、低くはないレヴェルにある。だが、最後の大団円で、真の笑顔を示していたのは誰だったろうか。それは実に、フロレスタン役のブルックハルト・フリッツだけだった!

彼だけが救出の喜びに浸って、自分から嘘をついていないせいで、ああした屈託のない笑みが浮かぶのであろうか。そういう解釈もあり得るが、実際、そうだったわけではあるまい。このフリッツは既にバイロイト歌手としてもデヴューを飾り、今公演でも第2幕冒頭、ほぼアカペラで歌う登場シーンの衝撃的な美しさ、そして、声の温かみは客席の注意を完全に引きつけた。私は一瞬、昔、オペラ界を席捲したというヘルデンテノールの味わいが、ここで、ようやく味わえるのかと期待したほどである。『パルジファル』向きの未成熟で、母性愛を誘うような歌声は、そうした声質の入口に立つときに必要なスキルを彼が有していると示しているようだ。

ただ、、フリッツのもつ味わいは、DKBがつくるような速く、鋭い表現のなかでは十分に輝かなかった。この点は、パーヴォにも責任がある。歌劇における大指揮者は、声を生かすために必要で、なおかつ、作品の味わいを損なわない緊張感に満ちた妥協法を知っている。パーヴォにもそのような能力が皆無ではないが、少なくとも歌劇場的なものではなく、室内楽的な感覚で固められている。とにかく彼は、この感覚ですべてをつくっていく指揮者のように思えるのだ。

【ネタの新鮮さにこだわった上演】

DKBは古楽的なスタイルを追求したアンサンブルのひとつであるが、「レ・ボレアード」と比べれば、相当に折衷的である。カジモト(パリ管を招聘/会場にも社長がいた)のあるページを今、読んでみると、この感覚は’HIP’という言葉で語られているが、彼の音楽は基本的に、歴史よりは、表現に縛られるものだと思う。彼らの上演は、ベートーベンが思い描いた神のメッセージを明らかにするものではなく、素性のわからないオペラの時代背景のなかで、確実に今日まで生き残っている表現の輝かしさを、新しいテキストに滲み出る感覚をベースとして、響きのうえでも新鮮に表出することである。簡単にいえば、響きの新鮮さこそがすべてという表現なのだ。それこそがベートーベンを象徴するものであり、その作品の徹底的な新しさを示すカギであるという確信的な事実。それを守るためなら、彼らはどんな醜い表現も厭わないだろう。

例えば、ピツァロが不敵なマーチを伴って出現するとき、私はベートーベンのなかに、はるか遠くから訪ねてきたラモーの響きを聴いた。一般にはベートーベンと比べて、典雅なイメージになるラモーの音楽が、武骨なベートーベンよりも乱暴に聴こえてくるのだ。これは’HIP’の最たる例だと思われる。多分、作者にとって、これは意識的なもので、当時、ベートーベンが尊敬したであろうラモーの音楽が、いかに乱雑に扱われていたかというアイロニーをも感じさせるものだ。しかし、パーヴォの重視するのは、そうした歴史性ではない。いかにもピツァロが、瀟洒な悪人であるかを示すような、音楽の新鮮さを示すことこそが大事なのである。ピツァロはいまや、フロレスタンが告発するような保身的な殺人者ではなく、ラモーの音楽を伴う奇怪な化け物とはなったのだ!

この造形と比べて、トム・フォックスの演唱が十分だったとは思えない。当初の予定どおりに、シュトルクマンが来ても、危うかっただろう。それほど、表現が難しい解釈だといえるのだ。これに限らず、明らかに、非常に高いレヴェルをめざした公演ではあるが、その志に見合うリソースは集めきれなかったというのが現実である。この上演の生煮えな雰囲気をつくっているのは、そのような「不足」であろうか。あるいは、「要求」にもっとも繊細に応えたのは、2つの部分で大活躍する合唱の存在だったかもしれない。次いで、フリッツのもつ高いポテンシャル、あるいは、整然として、美しいディクション。そして、マギーの経験が上演を盛り上げた。また、ゴルダ・シュルツのフレッシュな歌唱は、不十分であるにもせよ、上演のチャレンジングな精神にはピッタリだったかもしれない。

【再びタテマエとホンネ】

だが、山は高かった。『フィデリオ』や『荘厳ミサ曲』を立派に仕上げるためには、交響曲9つ分の徹底したトレーニングによって得た自由を以てしても十分ではない。例えば、北とぴあの『フィガロ』公演にとって、最後の重要なピースとなったのは、歌や音楽だけではなく、それを演じることそのものをピリオド的に洗い清めたことであった。今回の上演に足りなかったのは、正にそのような部分だと思われる。彼らは誤っているのだ。古い水を捨て、新しい水を取り入れることのみが作品を新しくすることではない。実際、彼らはそういうアンサンブルだったはずだ。古い水は新しい水によって、浄化される。「4年後のロッコ」にその機能はない。

しかし、この上演に対するレヴューを否定の言葉でおわらせるには忍びないとも思う。それでも、彼らは一定の勝利を掴んだのだ。彼らが聴かせるベートーベンらしい温かく、強固な音色。マッシヴながらも、柔らかいアーティキュレーション、徹底的に鍛え上げられた機動力の凄まじさ・・・。多分、ホルンが何度も目立つ吹き損いをしていたように、オーケストラの基礎的な能力だけなら、我々が日々、耳にしているものとさほど大きくは変わらないはずだ。正しい指導者を得れば、日本のオーケストラもベートーベンにおいて、それだけの演奏をできるようにはなっている。だが、それにもかかわらず、パーヴォ・ヤルヴィの率いるオーケストラにはちがいがあった。明確なちがいがあったのだ。

事前の動画で確認していたように、ボウをほとんどフルで使うようなワイドな動きは、序曲をはじめ、すこし自由の効く部分では、もれなく確認できた。これをやっているのは多分、世界的にみても、彼らが唯一の存在だ。ただし、ヴェルナー・ヒンクがやっていたように、歌手との対話の部分では常に余力を残し、表現スペースを埋めきらないようにして、有効な表現スペースが生まれるとパッと切り替える。誰にも指示されずに。そのような俊敏な動きを歌劇のなかで、声の動きに合わせてやる技術は、やはり、場数の多いドイツにはかなわないのだ。あれを拝めただけでも、私のこころは満足感でいっぱいだった。実のところ、これが私の本音。ベートーベン演奏において、彼らが世界じゅうでも、冠絶したフロンティアを走っていることは疑いようがないのである。

« 寺神戸亮&レ・ボレアード モーツァルト フィガロの結婚 北とぴあ国際音楽祭(千穐楽) 11/24 | トップページ | ウルバンスキ ブラームス 交響曲第2番 ほか 東京交響楽団 東京オペラシティ定期 11/30 »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/58681271

この記事へのトラックバック一覧です: パーヴォ・ヤルヴィ ベートーベン 歌劇『フィデリオ』(演奏会形式) 横浜音祭り2013 クロージング 11/28 (初日):

« 寺神戸亮&レ・ボレアード モーツァルト フィガロの結婚 北とぴあ国際音楽祭(千穐楽) 11/24 | トップページ | ウルバンスキ ブラームス 交響曲第2番 ほか 東京交響楽団 東京オペラシティ定期 11/30 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント