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2014年1月24日 (金)

カンブルラン ベルリオーズ イタリアのハロルド ほか 読響 サントリー定期 1/14

【遮られる音響】

ルチアーノ・ベリオの作品『フォルマツィオーニ』が中間に入ったことで、やや辛口の演奏会になった。イタリア語の’formazioni’は英語でいうと’formation’であり、構成、構造、それに、和製英語化した「フォーメーション」でイメージされるような隊列の意味もある。まず、一見して楽器の配置の異様さに驚かされるが、この作品が優れたものであるか否かは、この配置がどれぐらい意味あるものとして聴き手に伝わるかという、その1点にかかっているといっても過言ではあるまい。結論を先に言えば、上々の結果であった。リッカルド・シャイー時代のアムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管による1987年の初演としては、時代的に目立って先駆的とはいえないまでも、結構な前線には位置しているし、作品がもつ意味合いは深く、複数の結論を構成するだろう。

今回のベリオの作品について、1度聴いただけで分析的なことを述べるのは、私には相当に困難だ。だから、いくつかの印象を合成して語るよりほかないと思う。私が感じたことのひとつは、ベリオのつくる響きがより若い世代の、テクニカルな作曲家連中と比べても遜色ないほどに美しく、高貴な輝きに満ちて、楽器のもつ響きの味わいに逆らわない魅力があるということだった。そのような響きはいわば、何も書いていない紙(タブラ・ラサ)としての役割を果たすものだ。

ファースト・インプレッションに慣れてくると、伸縮するベリオの音響に対して、私はここのところ、折に触れて調べたりしているせいか、ネイティヴ・アメリカンズ、俗に「インディアン」と呼ばれる人たちのイメージが浮かび上がってくるのを感じた。楽器群の配置により、それらは分断されて遠くで構成され、徐々に近づいてくるように聴こえ、私は様々なインディアン部族が思い思いのダンスを舞ったりしながら、彼らの歌をうたい集ってくるような場面を想像した。曲が進むにつれて具体的なイメージは少しずつ剥がれていったが、インディアンではないにせよ、ベリオがなにか自然的で、飾りのないいくつかのワイルドなイメージを提示して、それらを交錯させながら、作品を構成しているのは明らかに思われた。

このイメージが形成されていくなかで、音がストレートに響いてこない印象は既に得ており、それは、インディアンの例に基づけば、北米大陸の大地についている山谷をイメージさせるのである。ある場所で響きをつくっても、向こうまでスムーズに響かないことが、あらゆる意味で示唆的なのだ。それはいま言ったように、山谷のイメージで捉えられることもあるし、より現代的に、デジタル信号が何らかの理由によって遮られる、そういうイメージとも結びついていく。

【入力と歪んだ伝達、そして、崩壊】

やがて、私は通常、コンマスが座るような場所にいるフルート(倉田首席ともう1人)に注目しだした。あるシーケンスでは、明らかに、このフルートが「入力」の役割を果たしており、それが遠くに配置された同種(もしくは同一)の楽器と、タイム・ラグを経ながら呼応したり、あるいは、すこしだけ回線がずれて、別の楽器の響きに影響を与えるということがつづいた。特に、別の楽器が呼応した場合、相手に伝わった信号は短くなったり、高さや長さに揺らぎが出ており、完全に同一ではないのが面白いところだ。これらは単に、室内楽的な呼応、つまり、アンサンブル的呼応の結果ともみることができるが、これは一種の皮肉につながっている。

推し量るに、この音楽は人々がどこで聴き、何に注目するかによって、そこから受ける印象が大きく変わってくるような作品であろう。また、空間を共有せず、録音媒体に入ってしまった場合には、当然、まったく別の印象を惹起する。参考までにいえば、私は前から3列目の右側のほうの席におり、目の前には、ホルンの松崎首席をはじめ、トロンボーン、チューバなどの楽器があり、その前方にはチェロ群が陣していた。例えば、ホルンは普通に構えると、当然ながら、口が客席と反対側(オルガン席側)を向くことになり、楽器の構造からみて合理的でないために、それ自体がアイロニカルにみえるのである。一方、そのために、この位置で聴いても、突出した響きの圧力によってアンサンブル全体の見通しが悪くなることはなく、また、ホルン奏者はさらに、一方の手を口に突っ込むことで、より抑制された響きで我慢をする格好になっている。

終盤のシーケンスでは、ハープが弦をバチンと鳴らしたり、響きが途中で折れるというようなパフォーマンスが多かった。これは世紀末的な様相を呈し、「現代」における音楽表現の挫折を象徴するものであろう。だが、それがつづくうちに、私は少しずつ、おかしな感覚に襲われるようになった。変だと思う自分の感覚が薄れてきて、こうした響きがさして特別なものではないと感じだしたのである。実際、そのシーケンスのなかには、わかりやすい雑音ではないものもあったが、最後にひときわ強烈な衝撃音が鳴り、そこから引きずるような雑音(ティンパニ上のコインでつくられたようだ)が生じて音楽がおわると、それまで微妙であったアイロニーは爆発する。

俯瞰してみると、この作品にはまず、音響的構造のスムーズさがない。だが、それにはかえって示唆的な面があり、このような形ではない、通常、よく演奏されるような曲目で弦と管の位置をひっくり返して演奏した場合にも、一体、どうなるのだろうかという興味を抱かせる。このように、音楽は配置ひとつでまったく新しいイメージを与えることができるのだ。一昔前には、第1/第2ヴァイオリンを向い合せて配置する(対向配置)だけで話題になることもあったが、ベリオの作品は、より根本的な発想の転換を呼びかけている。スムーズでない分、聴き手はその関係について、より深く考えるようにもなるかもしれない。例えば、いま目の前で鳴った響きと、やや遅れて向こうで聴こえた似たような響きに、本当に関係性があるのかどうか。次に、別の楽器に伝わって戻ってきたかのように聴こえる響きが、実際、先程の響きと有意な関係にあるのかどうか。あるいは、まったく別のストリームから生まれてきた「他人の空似」にすぎないのか。

普通なら、こんなことは考えもしないだろう。

【ベリオ作品と時代】

『フォルマッツィオーニ』を聴いて、私はもうひとつ大事な印象を得た。それは、やはり時代を映したような、音楽の厳しさである。ベリオの政治的信条については、まったく何も知らないが、同業者のルイジ・ノーノや、映画監督のジュゼッペ・トルナトーレと同じような・・・というと、彼らがともに左翼的であることから語弊があるが、イデオロギーはともかく、彼らの生きた時代があまりにも暗く、障害の多いものだったということが重要になってきそうだ。ベリオのつくる美しい響きのなかにも、否応なく生じてくる音楽の厳しさは、近年の作曲家のものからは基本的に感じられないものである。この作品はなにも、政治的な意図をもって書かれたものではないだろうし、かえって、それとはまったく対極的なところから生まれたものである可能性がつよいが、そうであっても、ベリオの作品には彼の生きたイタリア、あるいは、ヨーロッパ、世界と無関係ではあり得ないのである。

山谷を越えてくる「インディアン」のイメージは、やがて、世界の表現へとつながってくる。アルプス山脈やロッキー山脈、ヒマラヤ山脈、ウラル山脈などが、楽器群によって示されており、それらを飛び越える人々の流れはやがて、アナログなものから、デジタル的に変わっていくようにも感じた。それと同時に、世界をつないでいた響きが断然していくのは皮肉なものである。変わり目が見え始めたころに、作品は強い衝撃音とともにおわっていく。最後、彗星の尾っぽのように残る響きはコイン2枚を、太鼓のうえに転がしてつくるそうである。これもまた、皮肉なイメージを生じさせる。

【単純な作品のなかにある複雑さ】

この作品と比べれば、ほかの作品はまだしも単純な構造によってつくられている。16世紀と19世紀の音楽では構造上、圧倒的なちがいはみられない。よっぽど、16世紀の作品は、現代的な視点から再創造されたものである。ジョヴァンニ・ガブリエリは16世紀のイタリアで影響力の大きかった人物であり、この時期の巨人と目されるモンテヴェルディよりも一世代ほど先行する作曲家となっている。『シンフォニア・サクラ』は多声のポリフォニックな合唱作品であり、そのなかから、この日の指揮者であるカンブルラン自身が作品を選んで、3群のオーケストラが声部を分担する管弦楽版に編曲した。こうして聴くと、その構造的な複雑さ・・・というより、自由さはベリオと遜色ないほど大きく、古い時代の音楽ほど単純だというイメージは全くの誤解だということがわかるだろう。

私の感覚では、単旋律の斉唱で歌われ、全音階のみしかないグレゴリオ聖歌でさえ、例えば、教会堂内の音響で響くときには、ある種の複雑さをもっているように思うのだ。人間が声を揃えるときの僅かな揺らぎや声質のちがい、堂内のゆたかな反響による響きの交叉や遅れなどが、やがて、声部の分裂や、その関係を示す和声、対位法などに発展していったのではなかろうか。

ガブリエリの音楽はそういった意味では、既に相当の進化を経たあとの音楽である。元来、その旋律には神聖な意味があったと思われるが、カンブルランは敢えて、言葉の具体性を外して、響きや構造の面白さに聴き手の関心を惹きつけようとした。また、ガブリエリがオルガニストとしても鳴らした事実を踏まえて、2本のオーボエを上手に使って、オルガンの高音らしきものを演出したり、アーティキュレーションをきっちり区切って、オルガンの鍵盤の動きと対応させるような部分があった。言葉と旋律や音型の対応を知り、メッセージとして音楽を聴くことも重要だが、カンブルランは音楽の多様な楽しみのなかでこそ、そのような教養が真に意味あるものとして輝くという考えのようだ。

【独特な信仰】

3曲のなかでは、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』がもっともシンプルな作品にみえる。これまで述べてきたような意味で複雑な序奏が明けて、ヴィオラの単純で温かい旋律が入る最初のシーケンスを思い出してみよう。この流れは、正にこれから音楽の世界に起こることを象徴しているのではなかろうか。あらゆる複雑さはいったん簡素化された上で、わかりやすく人間的になり、徐々に肥大化し、その反動からいずれ省略の美へと向かう。ロマン派から後期ロマン派、ウェーベルンに至る音楽史のひとつの起点に、ベルリオーズが立っているとすれば、どうだろう。『幻想交響曲』と比べれば、『ハロルド』はそうした起点として、より堅固であり、素朴である点が評価される。

個人的に、この作品を前に聴いたのは2010年5月、東響でユベール・スダーンが取り上げたときである。同じように楽団の首席奏者である青木篤子が、ヴィオラ独奏を務めて著しい成功を収めた。スダーンは作品の室内楽的な性質を徹底的に煮詰めて、その内面的な特徴を如実に示したが、カンブルランのアプローチはまた独特である。スダーンと比べれば、より大きく、凝縮した成功であった。ある意味ではドライだが、グループとしてはるかに力づよく、響きの効果が並外れているのは特筆に値する。響きの圧力、音色の分厚さなどは、海外の著名なオーケストラと比較しても遜色ないほどに際立っていた。かつての青木の独奏も良かったが、当団ソロ・ヴィオラ奏者の鈴木康浩の表現には、よりふくよかな余裕があり、彼を英雄とすべく、一体感を増したアンサンブルの輝きも一方のものではなかった。

ところで、ベルリオーズが不信心で、ときには悪魔の助けも借りる大胆すぎる作曲家であったのか、それでも、敬虔なキリスト教徒であったのかは議論が分かれるところだが、少なくともカンブルランは、ベルリオーズはベルリオーズなりに、自らの宗教に対して謙虚なこころをもっていたことを窺わせる演奏をおこなった。ドヴォルザークがブラームスの不信心に驚きを示したように、ベルリオーズの場合は、メンデルスゾーンが彼の不信心について証言する役割を果たしている。ドヴォルザークも、メンデルスゾーンも、その信仰は素朴で真面目なものであり、ブラームスやベルリオーズとは根本的に性格が異なっていた。後者の信仰は決して、聖職者たちの期待したものではなかったろうが、ベルリオーズがこの時代における管弦楽法の大家であったなら、その裏に秘められた神秘的な意味を厭というほど心得ていたのは想像に難くないし、実際、それを利用した表現を採っていることも多い。ブラームスとはまた別の意味で、独特な信仰を得た人物であったのだ。

この作品では、第4楽章の初めのほうで独奏ヴィオラの出番がほとんど完全になくなって、ハロルドの死が示唆されているが、作品のおわりに僅かながら、独奏部の「復活」があり、これが宗教的に特別な意味をもっているのは明らかであろう。独奏の鈴木は一旦、舞台上から退場し、最後、すこし小高いオルガン席に再登場して、視覚的にも、この印象を強めた。カンブルランはさらに数人のバンダを一緒に出現させ、三位一体のモティーフを示してさえいる。これを受けた舞台上の響きは、もはや、山賊の宴のイメージを脱して神秘的な喜悦を表現しているだろう。だが、カンブルランはここでも内面的モティーフにこだわりすぎず、きっちりと響きを引き締めることを忘れない。そうして屈託のない響きであればこそ、その裏に隠された深い意味が輝くのである。

なにも最後の楽章になって、急にこうした発想を思いついたわけではない。最初の楽章から宗教的なイメージは静かに、少しずつ積み上げられていき、最終楽章で露骨に、そのシンボルを表すのであった。

【まとめ】

イタリアは音楽の都であると同時に、宗教の都でもありつづけた。しばしば、イタリアの政治をも左右したローマ・カトリックの歴史は、常に音楽の発展と絡み合っていたであろう。今回の3曲も、そうしたものと無関係ではあり得ない。音楽家というよりは、司祭としてのカンブルランはガブリエリの作品を3群に分けて、言葉とポリフォニーの構造に覆い隠される三位一体の秘蹟を明らかにした。では、ベリオとは何だったのか。私には、そのことを論じるための十分な音楽的、もしくは宗教的知見がないのが残念だ。だが、この曲に託してカンブルランが発したメッセージのなかで、最高のものは、音楽を聴き、解釈することの多様性であろう。ベリオにも宗教的な作品はあり、それは西洋音楽においては must な要素だろう。しかし、彼のもつ信仰観は当然ながら、16世紀のものと同一ではない。ベリオの信仰には、アニミズム的なものが復活しているようにもみえる。少なくとも集中よりは、拡散が印象的なのだ。こうしたものを排除するのが、かつては、一神教としてのキリスト教の役割だったのであろうが、いまは、もう、そうした寛容性にこそ、宗教そのものが救われる時代になったということであろう。

カンブルランは自分の宗教だけに、正当性があるとは決して言わない。それなら、わざわざ日本人の国に来て、これほど一生懸命に活動したりはしないものだ。彼はいつも、この異質な日本に対して、不思議な敬愛を示してくれており、我が国にとってもっとも賢明で、誠実な友人のひとりである。異質さを経験し、理解し、それと対等につきあうことが、司祭としての彼と、音楽家としての彼が共有する使命なのだ。そうして生まれた友情だけが、それぞれの宗教に正当性を与えるのである。否定しあい、殺しあうのが宗教という時代はおわった。現実には、そうした古い思想がいよいよ壮んになっているとしても、それはむしろ、経済の問題である。つまり、そうした古い思想のほうが暮らしやすいという人が、意図的に状況をつくっているにすぎない。彼らはある者はテロリストといわれるし、また別の者は首尾よく為政者となっている。名前はちがっても、同じ事情を共有していることでは変わらないのだ。

最後はやや筆が逸れた感もあるが、表面的な音楽的内容以上に、様々な思案を与えてくれる公演であったことは事実だ。そして、音楽的にも、この日の成功は著しく素晴らしいものであったことは疑いもない。新年早々、このような演奏に出会えたことは喜びであった。私自身としてはもっと、音楽を自由に受け取る訓練をしなければならないと思った。

【プログラム】 2014年1月14日

1、G.ガブリエリ/カンブルラン シンフォニア・サクラ集より
2、ベリオ フォルマツィオーニ
3、ベルリオーズ イタリアのハロルド
 (va:鈴木 康浩)

 コンサートマスター:小森谷 巧

 於:サントリーホール

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