2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2013 コンサート・ベスト10! 【セレクション】 | トップページ | マヨラ・カナームス東京 第1回公演 ヘンデル オラトリオ『メサイア』 ダブリン初演版(1742) 1/12 »

2014年1月10日 (金)

クァルテット・エクセルシオ ほか ベートーベン 弦楽四重奏曲「9」曲演奏会 2013 @東京文化会館(小ホール) 12/31

【ベートーベンの弦楽四重奏曲】

大晦日、上野の東京文化会館でおこなわれる2つのイベントは毎年恒例の趣となり、大ホールではベートーベンの交響曲全曲が1日で演奏され、一方、小ホールでは同じ作曲家による弦楽四重奏曲のうち、後期の6曲(いわゆる『大フーガ』も1曲と数えた場合)と中期の傑作、ラズモフスキー・セット3曲が演奏される大規模なイベントが並立でおこなわれている(主催は前者が三枝成彰氏のメイ・コーポレーション、後者はミリオン・コンサート協会)。私は最初、大ホールに通い詰めていたが、指揮を務めていた岩城宏之氏が亡くなり、小林研一郎氏が担当するようになって、1年で宗旨替えし、いよいよ関心の高まっていた弦楽四重奏曲のほうに乗り換えた。現在、弦楽四重奏曲9曲(無論、『究極』と掛けられている)演奏会はベテランの古典四重奏団(クラシコ)、中堅のクァルテット・エクセルシオ(エク)、そして、オーケストラのトップ奏者を経験した精鋭によるルートヴィヒ四重奏団(ルートヴィヒ)によって分担されている。

私は2008年末から、2013年末まで6季連続で聴いてきたが、その間に、不十分だったベートーベンの弦楽四重奏曲に対する知識は徐々に積み上げられ、そもそも室内楽の味わいについて理解が深まったこともあって、最初のころよりも、大分、積極的に楽しめるようになってきた。いまの私は演奏会に足を運ぶ回数からいえば、決して多い比率ではないけれど、実のところ、室内楽がいちばんのお気に入りであって、より大きな編成の曲を聴く場合でも、あるいは、オペラを聴く場合でさえ、室内楽的なところのまったくない演奏には共感を得ないようになっているほどだ。

さて、ベートーベンの弦楽四重奏曲は、彼の書いたあらゆるジャンルの音楽のなかで、もっとも崇高で、新しく、温かい内面性をもつ。ベートーベンが音楽家として生きた、ほぼすべての時期に作品があり、いちばん最後の作品も弦楽四重奏曲第16番、および、当時は不評だったという『大フーガ』の差し替えのために書いた、同第13番の最終楽章である。ベートーベンの最後の時期は、腸カタルに罹患して死の危機を迎えるなどして、決して平穏なものではなかったし、生涯独身の彼にとっては、弱みを抱えた彼を見守る家庭の温かさもなかった。だが、その病気さえ、弦楽四重奏曲第15番の重要なモティーフになっている。「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と題される第3楽章は異様に長く、ズスケQでは17分、ゲヴァントハウスQやQヴェーグで16分、ブッシュQで19分などとなっていて、その他の楽章と比べても突出しているが、それに先立って九死に一生を得ていることを考えあわせれば、その想いも強ち理解できないものではない。

【分担】

さて、今年の演奏会はクラシコがトップで、ラズモフスキー・セットの3曲。つづいて、ルートヴィヒが10、11番を飛ばして、12ー13番と、大フーガ。最後にエクが14-16番を演奏するという分担になっている。このうち、正直にいえば、私が素直に認めているアンサンブルはエクだけである。ルートヴィヒは専門の団体ではない年末限定臨時編成のクァルテットなので、個々の腕はさすがで、響きも肉厚だが、室内楽独特の面白みには相当欠けている。クラシコは本邦では老舗の域に入り、結成から30年以上を経ていて一定の人気も獲得しているが、私からみると、いささか保守的に過ぎ、一発はあるし、尊重しなければならないアイディアもあるにはあるが、こころから共感できるアンサンブルとないえない。

いまのところ、エクだけが、私にとって納得のいくアンサンブルで、6年前からすると、成長も著しい団体だ。来季、20周年を迎えるアンサンブルは、クラシコよりも10年ほど若いのだが、サントリーホールの講座でコーチング・ファカルティを任されるなど、押しも押されもせぬ本邦のトップ団体に昇りつめていく途中にある。

【ルートヴィヒの演奏は論外】

上のような理由から、ルートヴィヒの演奏についてはあまり言及の余地はないが、2013年末のコンサートでは、ようやく彼らのアタマも切り替わってきたことが窺えた。オーケストラ的なフォルテやソット・ヴォーチェが必ずしも、弦楽四重奏曲で有効にならないことには気づき始めてきたからだ。それに気づいたのなら、次は響きの受け渡しや各パートの役割について、もっと深い考察が及ばなければならないだろう。室内楽では、オーケストラ以上に1音1音の意味が厳しく問われるし、それを引き出すために、血の滲むような訓練と試みが必要なのである。アーティキュレーションはもっと緻密に突き詰められ、響きそのものは、生きもののように収縮することを知らなければならない。フォルテやピアノは、もっと細々と瞬間ごとに膨らんだり、縮んだりしてつくられる。

これを実現するためには、オケのように、2、3日のリハーサルでそれなりに形にするような姿勢は通じないだろう。一応、それなりの演奏にはなっていたとしても、フニャフニャでおはなしにならない。唯一の例外として思いつくのはモルゴーアQだが、彼らは臨時的なアンサンブルではあっても、メンバー交代を経ながら、20年以上の長きにわたって室内楽をライフワークに置いてきたアドヴァンテージがある。

その点で、ルートヴィヒによる第12番の演奏は眠気を誘うものでしかなかった。もともと、この時期の作品は穏やかな美しさを湛えるものが多いわけだが、そうであったとしても、彼らの演奏はベートーベン的なイメージからは遠い。もっと後世に生まれた、甘ったるい音楽を思わせる。怪我の功名として、その甘ったるい音楽の原点がベートーベンに在ることを知ることができたのは収穫だったとしても。

一方、第13番のようにパーツが細分化された作品ならば、その弊も少ないだろう。ルートヴィヒの演奏としては、この第13番のパフォーマンスはこれまでのなかで、いちばん味わいぶかいものになったのかもしれない。この作品ではヴァイオリンのファーストとセカンドが交代し、小森谷巧がファーストになったのも良い材料だった。彼がコンサートマスターとして所属する読響というバックを思わせるように、アンサンブルにキビキビして、鋭いフォルムをもたらすことができたからである。

最後の『大フーガ』は部分的なものを除き、ほとんどまともに練習していないのは明らかであり、特に言及は避けたい。

【クラシコの不本意なパフォーマンス】

クラシコについては、決して好きな団体ではないものの、その演奏姿勢には一定の尊重をしなければならないと思って聴いている。それに、彼らには凄い一発があるのだ。一昨年だったか、第6楽章に大フーガまでつなげた第13番を弾いたときの感動は、いまでも如実に残っている。だが、2013年末の演奏は、クラシコらしくないものであった。暖房が効きすぎているなど、環境的な問題もあったろうが、調弦に苦労する様子が窺われ、特にファーストの川原千真の音程、特にフォルテが安定しなかったのだ。今回の演奏はガット弦ではないと思われるが、彼らの奏法は基本的にストライク・ゾーンの狭い奏法に基づいており、他のアンサンブルと比べ、音の外しなどのリスクは高いと思われるものの、普段なら、これほど目立つことはないのである。

楽章ごとにチューニングが入り、見るからに調弦に苦労していたが、第7番の後半2楽章はアタッカで続くので、フラット気味になって挽回しきれなかったのがケチのつき始めであり、その後、不安定さは目にあまって、第8番では西野カナの歌唱のようになってしまった。第9番は幾分、持ち直したが、最後まで万全の調子とはいかなかったようである。正直、私も音程の聴き分けに自信があるほうではなく、デリケートなほうでもないが、その私にして看過できないレヴェルなのであるから、推して知るべしであろう。

第7番の最初のほうでは、ルートヴィヒとは異なる専門の室内楽アンサンブルとして、一定の価値を示す場面も見受けられた。「ラズモフスキー第1番」はメロディの宝庫であり、通俗的な響きを勢いよく弾いてしまう傾向もあるが、クラシコのアプローチは独特だ。より古い時代への目配せを怠らず、ゆったりした演奏スタイルと、敬虔で純真な響きを押し出して、ベートーベンを古典音楽のなかに堂々と位置づけたからである。「歌う」というよりは、詩を読んで聞かせるようなチェロの冒頭主題に始まって、1つ1つの音には意味があり、どうしてこの高さで頂点を打つのか、その読み方やトーンにまで、しっかりした答えがあった。いつかエクもやったように、第3楽章では既に、「第2番」で強調されるロシア主題が浮かぶ。

「第1番」「第2番」と比べ、「第3番」はパッと大輪の花が咲いたような演奏で、序破急のような印象でパフォーマンス全体の構想が見通せたのも面白いところだった。第1ヴァイオリンを他の3つの楽器と引き離し、明確なリーダーシップを抉った点もポイントになっているが、その第1ヴァイオリンのコントロールが構想どおりに運ばなかったのは残念である。

【エクの第14番】

エクは、最初の14番に賭けていたようなところがあるのではなかろうか。旧年中は映画”A Late Quartet”(25年目の弦楽四重奏)でモティーフとして使われ、話題にもなったが、エクの演奏にも何らかのドラマが隠れているように思えてならない。第2楽章→第3楽章、第5楽章→第6楽章の境で奏でられる、2音、もしくは3音による歯切れのよい響きが、効果的に場面転換の役割を果たし、第6楽章→第7楽章では、それがたった1音に凝縮する。しばしばヴィオラが印象的に歌い出しを担当して、作品の特徴を端的に物語っているが、その味わいはむしろ、これを拾う3つの楽器の動きによって揺るぎないものとなっている。

内面的モティーフが丁寧に描き出されるのは、作品の中心部を成す第4楽章であるが、その華やかさは特に、西野の弾くヴァイオリンの音色に象徴的である。だが、それはつづくスケルッツォでもなくなったりはしない。プレストの速さにかこつけて、しばしば技能の見せびらかしどころのように扱われる楽章も、エクの演奏では、よりドラマティックな印象を与えるのである。とはいっても、その「ドラマ」は静かな対話のなかから生じるものであり、プレストは単純に速さの指示ではなく、なにか特殊な古典的意味で捉えられているようだ。この楽章を象徴する第1ヴァイオリンから、チェロに至る模倣の連鎖は4つの楽器の性格が趣ぶかく描かれるだけではなく、その対話の面白さが見事に構築されていて見事だ。

クラシコのときにも感じられた1音1音の重みは、なお一層、ゆたかに意味づけられ、4つの楽器で共有されている。だが、エクはそれに加えて、それらの関係に注目しているようだ。

もし、この演奏に瑕疵があるとすれば、終楽章の最後にその問題点をみることができる。ダイナミズム的には強いコントラストを避け、構造の味わいを巧みに印象づけてきたエクだが、最後、チェロの大友はテンションをあげ、ダイナミズムの点でも作品を堂々と締め括ることを選ぼうとしたのに、第1ヴァイオリンの西野はもうすこし清らかな流れで、悠々と・・あるいは、オシャレに終わろうとしていた。その齟齬は、最後にリズムの共鳴と音程に軋みを生ぜしめ、折角の味わいぶかい演奏に僅かなディス・コミュニケーションを生じさせてしまうことになった。この点は実に惜しいが、それだけで、作品全体にわたった堂々たる「支配」を揺るがすわけではない。

【第15番と第16番】

第15番は、作品の大半を占める第3楽章に、ほとんどの集中を傾けた演奏になった。折しも、フランスのグルノーブルでは、雪山スキーでの事故により重篤となった元F1レーサー、ミハエル・シューマッハの事情が伝えられており、病を克服した老ベートーベンの響きに託した想いが、当地へ届けばよいと思って聴いていた。エクは内心、老境で病と闘い、打ち勝つ男のドラマには、まだ、当然ながら、十分な共感を感じられないでいるものと思う。だが、現時点で、彼らが人生のなかで大事にしているものを思い描き、爽やかな演奏を展開した第3楽章の演奏にはこころがこもっていた。シューマッハではないにしろ、彼らはなにか自分にとって掛け替えのないものをイメージして弾いてくれたにちがいない。

そこから3つの楽章は、もう、胸のつかえがとれたように鮮やかな演奏だった。あの第3楽章のあとで、さらに肉厚な終楽章を含む2つの楽章がある冗長な作品だが、彼らの演奏では、長大な第3楽章のエコーとしてのリズミカルな第4楽章と、神への感謝を繰り返し表するかのような終楽章が、実に適当な長さで示されたという感じがする。

第16番は「シンプル」という言葉に逃げないで、まっすぐ正面からぶつかるような演奏が、余計にアイロニカルに響くのが不思議であった。前の第15番とは対照的に、このナンバーはエクにとってお気に入りのもののひとつではなかろうか。目立った聴かせどころを設定するのではなく、響きと響き、楽器と楽器のコミュニケーションを丁寧にみせていく手法は、ベートーベン晩年の3曲を通じてキーとなるものだが、この作品では終楽章の「かくあらねばならぬか?」「かくあるべし!」の対話をはじめとして、その要素が根本的なモティーフのなかに溶け込んでいるからである。

2つのモティーフが最初は調和的でも、いずれ、激しくぶつかり合っていく要素を捉えては、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の最後の場面みたいに弾くグループもあるのだが、エクの演奏では、もうすこし開放的なアイロニーが感じられる。深刻な響きも、いつも光に照らされているのだ。人間の悩み事など、なんとつまらぬものであろうかという心理的な超越が感じられる。死も苦悩も、そのときのベートーベンには、何もなかったのだ。彼は第15番で表現されたような奇跡のあとに、いわば、神さまに与えられたエキストラ・ラウンドを生きているにすぎないのだから。ある意味で、世間的なステロータイプからはもっとも遠いベートーベンが、そこにはいるようだ。「やっとついた決心」とは彼の人生のなかで、最後に書かれたといっても過言ではない、「これしかない」というような、シンプルな解決を意味している。ピッチカートから、ほんの数十秒であっという間に難問は解かれてしまうのだ。

エクはこの日、第14番の最後での逡巡が嘘のように、この解決は見事に決めている。演奏のなかで、静かに突き詰めてきた室内楽的な対話の頂点に、この解決は置かれていた。昔の名アンサンブルの演奏と聴き比べみてても、なに遜色ないレヴェルだ。4本の楽器が高いレヴェルで、深い親和を得たときにしか、このような成功を掴むことはできないであろう。この演奏を聴いて、エクはもう、完全にクラシコを凌いだと思った。この日は向こうの不調も手伝って、その印象はますます強くなるのだが、この際、他との比較はどうでもよいことであろう。そこには明らかに、エクらしいものがあった。温かさ、優しさ、柔らかさ、静かな情熱、ほんのりと効いた知性の輝き、突き詰めた対話力。無論、この16番ではまだ、耕すことができるフィールドを残しているのも事実であろう。第14番ほど、決定的な成功ではない。だが、同時に私の好きなエクの姿が象徴的に表れている。

【まとめ】

こうして、私の年末聴き納めもおわった。久しぶりに体調よく臨めた大晦日は、最後に楽しみが控えていることもあって、大らかなこころで臨めたし、体力的にもきつくはなかった。その上にきたエクの演奏だから、僕が音楽について、もっと、たくさんの秘密に触れたいと考え出すのも当然の結末だったろう。実際、ベートーベンの音楽にはまだ、私の気づかない秘密がたくさんあるはずだ。エクの演奏がいくら良いと言っても、彼らが現段階で、そのすべてを征服したわけでもないだろう。すべてはまだ、遠くにあるのだ。我々の旅は、まだまだつづく。先刻、なに遜色ないとは言ったが、それは彼らが古今東西の名立たるグループに追いついた、というのとは別の意味である。

多くのクァルテットは、そのような旅に、彼らの音楽家としての全生涯を賭けるものだ。クァルテット・エクセルシオもそのような決意の下に、活動をつづけている稀有なアンサンブルなのである。

« 2013 コンサート・ベスト10! 【セレクション】 | トップページ | マヨラ・カナームス東京 第1回公演 ヘンデル オラトリオ『メサイア』 ダブリン初演版(1742) 1/12 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/58892513

この記事へのトラックバック一覧です: クァルテット・エクセルシオ ほか ベートーベン 弦楽四重奏曲「9」曲演奏会 2013 @東京文化会館(小ホール) 12/31:

« 2013 コンサート・ベスト10! 【セレクション】 | トップページ | マヨラ・カナームス東京 第1回公演 ヘンデル オラトリオ『メサイア』 ダブリン初演版(1742) 1/12 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント