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2014年1月15日 (水)

マヨラ・カナームス東京 第1回公演 ヘンデル オラトリオ『メサイア』 ダブリン初演版(1742) 1/12

【新しいメサイア】

マヨラ・カナームス東京(以下、MCT)という、個性的なアンサンブルがまた東京に生まれた。この都市では、バッハ・コレジウム・ジャパン(BCJ)を頂点に、古典派以前のレパートリーを得意とするいくつかの団体が思い思いの活動を展開しているが、MCTもそんなストリームのひとつといって間違いではない。音楽監督に指名された渡辺祐介氏はBCJなどで活躍した声楽家であるが、領域を絞って、さらに掘り下げるアンサンブルをいくつか立ち上げ、指導している音楽家でもあるようだ。MCTは年間3回を予定するコンサートのうち、必ず1回は『メサイア』を演奏し、ヘンデルの遺した様々な版を演奏していくという独特なコンセプトに基づいて結成された。記念する第1回は、その原点となった1742年のダブリン初演版の演奏である。

新しい団体の第1回コンサートの興味は、まず、アンサンブルが継続的に聴くに値する団体であるのかどうか、という点に尽きるであろう。その点について、頼りなくも私は、太鼓判を押したいと思う。アンサンブルの特徴のひとつは、歌い手もオーケストラも、若い人だけで構成されているということだ。鈴木雅明、鈴木秀美、三宮正満、有田正広、前田りり子、若松夏美、青木洋也・・・などというメンバーのなかに入ると、後進の諸君はなかなかモノも言えないだろうが、そうした古楽界のメイン・プレーヤーたちへの敬意は保ちながらも、敢えて少し距離を置ける環境で、自分たちの腕とアタマで新しい音楽をしてみたいというのが正直なところではなかろうか。

さて、ルッター派プロテスタントのJ.S.バッハとは異なり、ヘンデルはもとルッター派の家系であったのが、ハレの大学に入り、カテドラルでオルガニストになった際、カルヴァン派に転じた。本当のところ、ヘンデルがどの宗派に与しているのかということは簡単にいえないように思うが、例えば、『メサイア』第Ⅰ部の最後で、働く人たちを労わる教えが置かれているのは、労働を重視するカルヴァン派らしいところだということもできそうだ。

だが、ここで解説の三ヶ尻正氏は、『メサイア』の仕掛け人で、台本作家であるチャールズ・ジェネンズの思惑を重ね合わせることを忘れない。ジェネンズはカトリックを奉ずるジャコバイト運動を支持しており、彼自身は英国国教会への信仰心もあったというが、『メサイア』を通じてジャコバイト的な批判精神も裏に隠されていると主張するのである。なるほど、第Ⅱ部でイエスのことを批判する人たちを英国「現代」における政権側(ハノーファー朝)の人たちと解釈すれば、彼らに追い出されたステュアート朝の人たちが聖なる存在に擬せられることとなろう。この視点を憶えておくと、確かに、『メサイア』にも政治的な深みを読み込むための余地が生まれるはずであった。

このようなことを、おもむろに長々と展開したのは、MCTの演奏が、こうした歴史的、宗教的背景と無関係にはあり得ないと感じたからである。彼らの演奏は、まず活き活きとしている。「宗教曲」という感じではなく、オペラの延長線で、さらに高貴なものという味わいがあった。これはヘンデルがある時期まではオペラを中心に書き、最後のオペラが書かれた1941年以降は、オラトリオにシフトしているのと対応している。演奏姿勢自体は、若いから、そのようになるという要素もあるが、無論、それだけではないはずだ。演奏よりも、彼らが第一に考えたのは、こころをあわせるということだったにちがいないのである。

【渡邉智美に象徴されるもの】

彼ら全体の表現姿勢は、4人の独唱者のうちでは、アルトを歌った渡邉智美によって象徴されている。彼女は声量や技巧的なものでは、若干、弱いソリストである。私は前から3列目であったが、2階席までハッキリ届く声であったかどうかさえ疑わしい。だが、歌いだしに先んじて、まず基礎となる表情をつくるとき、彼女が何を言いたいかは即座にわかるのだ。場面にあわせ、その表情は笑顔であることもあれば、反対に、沈んだ表情であることもあった。渡邉はフィギュアスケートの選手が演技をはじめる前に、ザクッととトウを突き刺して位置を決め、最初の演技に向けてフォルムをつくるときのように、まず、丹念に表情を固める。そして、その表情から逆算されたように、歌の表現を組み立てるような風にしていた。

例えば、第19曲のレチタティーボは、そのように始まったのである。既に第8-9曲で示されていた貴種の深い低声は、慈しみの爽やかな笑みとともにあった。「そのとき、見えない人の目は開かれ・・・」とキリストの秘蹟を語るとき、私は泣くともなく涙することになった。この涙は多分、彼女の笑みによって導かれたものである。伏線として、第12曲の合唱の印象が色濃く印象に残っていた。嬰児誕生を歌う、その合唱は’peace’という言葉でおわるのだ。このナンバーは第Ⅰ部で構造的な節目のひとつになっており、このあと、pifa(田園曲)を経て、ソプラノ独唱、アルト独唱を経て、嬰児誕生を言祝ぐシーケンスが置かれている。さて、「ピース」という歌詞を歌うときは、写真を撮るときに「チーズ!」とやるときと同じ口の形になる。つまり、その口もとには笑みが浮かぶのだ。

ときに、’Majora canamus’のバス口上につづいて演奏されたシンフォニアを思い出してみよう。それは重厚で、神秘的な哀惜の響きであった。これはMCTの演奏が、決して若さに任せた勢いだけに終始するのではなく、より深い振り幅と向き合うものであることを教えている。メサイア=イエス・クリストの悲しくも感動的な人生を象徴するシンフォニアであるが、この作品の初演が病人や囚人の慰問を目的とする慈善演奏会であったこととも無関係ではなさそうだ。第Ⅰ部はいわば、愛のメッセージに溢れているが、ダブリン初演版で、その印象がいよいよ顕著なのは、のちの版と比べて編成が小さい分、言葉と響きの表現力が殊更、親密に伝わるせいだろうと思う。第Ⅰ部の音楽的な頂点において、聴き手は「ピース」の笑みに包まれることになり、この効果は思いも掛けないほどのものだった。

第Ⅱ部では、これとは対照的なことが起こる。第23曲で、’He was despised...’と歌うとき、渡邉は深刻に、憐れむような表情をつくり、もはや、あの優しい笑顔に包まれてはいなかった。音楽が鳴り、歌い出すと、発声そのものが一段ふかいのに驚かされた。構成的には、三部構成になっている。’rejected’の言葉が象徴的になる主部と、激しい管弦楽の情動が盛り上げる中間部である。この中間部でも、トーンの変化があった。これはむしろ、歌というよりは、彼女の得意なレチタティーボにちかいせいだろう。彼女の場合、むしろ、シンプルなレチタティーボにおいて、表現がいっそう多彩なのである。驚きの歌い手だった。一際、清爽に主部に戻るときの歌唱の気高さも記憶に残っている。

こうした印象は、単に渡邉智美という人の歌唱が素晴らしいからというのもあるが、なにより、ヘンデルがアルトを重んじて書いたことの証拠である。アルト独唱の初出(第8-9曲)では、嬰児誕生の喜びを真っ先に歌い、合唱がこれに加勢する。第Ⅱ部では直前の合唱、「主が命じられると、福音を伝える者は大きな群れになった」を引き継いで、アルト独唱はデュオに拡大されるほか、第Ⅲ部でも中心的に活躍し、テノールとのデュオを歌い、第52曲で最後の独唱を歌って合唱に引き渡す役割を果たす。

4人の歌手のなかでは、先日の北とぴあ国際音楽祭の『フィガロの結婚』でバルバリーナ役を歌った澤江衣里がシニア・アーティスト的な位置づけ、つづいて、著名な世界的なコンペティションでも活躍したバスの加耒徹がよく知られ、無論、こうしたパートに盤石が置かれていることは重要であるが、この独唱部を歌うのは多分、初めてであろうと思われる渡邉をアルトに起用したことは、MCTの活動全体にとって示唆的な選択だったというべきである。例えば、バッハの『マタイ受難曲』で、エヴァンゲリストに畑儀文を置いておけば、それでまずハズレはないというような表現姿勢ではなく、たとえ力不足でも、なにか新しい着手をこころみたいという意図が鮮明なのであった。

【音響的構造】

オーケストラに注目すると、非常にコンパクトな編成である。下手側は弦楽器中心の配置であり、第1、第2ヴァイオリンはそれぞれ3本ずつ。加えて、ヴィオラ2本である。これに、場面によってはトランペット(2)、ティンパニ(1)が加わる。楽器は古楽器やガット弦を用いたものではなく、トランペットもバルブ付きで、その点では古楽仕様にこだわったものではない。ヘンデルの書いたものに近づくためのアプローチとして、オーセンティックな要素よりは、身近で平易なアプローチを採っていることが窺われる。特定の楽器でしかできない表現ではなく、より汎用的な表現手法を探ることで、MCTを起点に、年末ともなれば「第九」と並ぶ恒例的演奏が溢れる『メサイア』の表現を、広く世に問おうという意思の表れであろうか?

上手にはオーボエ2本と、コンティヌオ群が配置された。コンティヌオは鍵盤がチェンバロとオルガンのミックス、低音弦は若手の名手、山澤慧の弾くチェロと、コントラバスが各1という編成である。単に上手/下手というよりは、両端で2群のオーケストラを構成するような演奏スタイルは、しばしば、効果的な印象を残した。単に対位法的な動きを明瞭に指し示すだけではなく、音響と旋律の核となる弦楽器群に対して、オーボエやコンティヌオの働きがわかりやすいのである。オルガンや、オーボエ(音色の繊細なトランペット的役割をも果たす)は、聖なることや存在を語るのにいつも効果的であり、チェロは主旋律を支えたり、それから一歩はなれて、新しい構造を紡ぎあげるなど、多彩な役割を果たしている。これらがユニゾンになるときは、もちろん、象徴的な意味があり、トランペット、ティンパニが加わるときは、有名な「ハレルヤ」など、決定的に霊的な意味をつシーンに限られている。

トランペットの音量的バランスは、前から3列目で聴くかぎりでは若干、注文をつけたいところだ。第Ⅰ部のバンダで、2階バルコニーから吹いたときもそうだし、後半、表で吹いたときも同じだったが、作品表現にとって適切なインパクトではなかった。ソロを担当した狩野藍美が出すことのできる、高貴で厚みある響きを遺憾なく発揮した演奏は、その音量が周囲のアンサンブルや、声楽の響きにピッタリ見合ったものであるならば、文句なく素晴らしいものと評価できた。実際には下手後方に剥き出しで配置されたトランペットの圧力は、必要以上に全体を圧迫しすぎている。彼女のもつ演奏家としてのデリカシーが十分でないのではなく、指揮者が意図的に、ハッキリと吹かせているのは明白で、また、のびのびと平易な表現で徹すというのは、全体を貫くコンセプトでもあった。それにしても、声楽陣や他の楽器とのバランスをみると、もうすこし抑えた響きが望ましいのは言うまでもなく、そのほうが、トランペットの特殊な役割を効果的に表現できたはずである。

音響的構造をつぶさに観察していると、単に、上記のような役割が言葉に合わせて的確に重ねあわされるだけではなく、初めから、ヘンデルが2群のオーケストラをぶつけ合わせるような構想をもっていたのではないかと思われるフシがある。今回の演奏を聴くかぎり、特に印象的なのはコンティヌオ群が下支えや象徴の意味を越えて、より独立した表現主体として動いていることである。このなかで、特にチェロが気勢を上げているのは偶然でなく、やがては、この楽器がコンティヌオから抜けて、さらに重い役割を演じるようになるのは周知のとおりだ。だが、この時点では、そのグループの先鋒にはオーボエが立っている。ホルン等と同じく、管楽器でもっとも古い歴史をもつ楽器は、それだけに、多彩で幅広い意味づけをおこなう役割が発展していた。ヘンデルは、それを素直に尊重しているのであろう。

【声部の意味と自由さについて】

どちらかというと、低音を重んじるヘンデルであるが、ソプラノ独唱には、また独特の表現が与えられている。今回は澤江が歌い、このグループのなかではシニア・アーティストのようだと、先程、書いたとおりである。オペラでは表現がまだ幼い印象を残した彼女だが、むしろ、宗教曲で多彩な表現性をもっているのは不思議なものである。ところで、メサイアにおけるソプラノ独唱は、決して、出番が多いわけではない。第Ⅰ部では pifa のあとに初めて出るまで登場せず、第Ⅱ部では中盤に一連の出番があるのみで、第Ⅲ部では最初の歌唱だけがおわると、あとはもう歌わない。ただし、今回の演奏では、ソリストも多くの場合はコーラスに参加したので、澤江が独唱の部分以外で、まったく歌わなかったわけではないが。

出番の回数に比して、ソプラノ独唱の役割は重いものになっている。第Ⅰ部では、pifa の直後に歌いだし、まったく別の場面を導いており、第Ⅱ部でも全体のメッセージのコアとなるような部分を歌い、第Ⅲ部では再生の秘蹟を歌って、全体に拡大する言祝ぎの先陣を務めるのである。

具体論は割愛するが、実は男声のソリストにも独特の役割が与えられており、4人の独唱者はきわめて的確に、それを果たしたとみてよさそうである。『メサイア』では、バッハの『マタイ受難曲』のように、エヴァンゲリスト、イエス、ピラト、ペトロ、ユダ・・・などの役名が与えられる代わりに、そこで歌われる歌詞や雰囲気に相応しい声部が巧みに選択され、それらをつなげてみると、なにかひとつの人格のようにみえてくる不思議な符合によって、全体が支えられている。そのイメージは固定的なものというよりは、歌い手の個性やセンスによって、意外にも大きな幅が出てくるように思うのだ。

そして、より正確にいえば、それは『メサイア』全体の特徴でもあり、マヨラ・カナームス東京は、この「自由」に自分たちの能力と想いを賭けてみたいと思ったのはなかろうか。彼らはこうした曲の表現において、既に一定の成熟を歩んできたようにみえ、BCJだけではないにしろ、それに類する高度な演奏(歌唱)経験を積んで誠実に道を進んできた者たちであることは疑いもない。だが、彼らはそうした経験値をお高く止まって見せびらかすのではなく、誰でもが受け取れる利益として、親密に提示したかったのである。彼らの表現は易しく、滋味に満ち、そして、こころ優しいものだ。すべての者に、開かれている。そういう意味では、いままで、あまり存在しなかったグループであろう。

【まとめ】

ダブリン初演版を最初にやるということは、年代順にいって当たり前のことではあるが、周到な配慮である。普通なら、もっともよく知られた版で始めて、徐々にマニアックな版を掘り下げていくものだ。だが、ダブリン初演版はまず、編成が小さく、新しい団体の旗上げにはちょうど良い事情もあろう。掲げた旗をみてもらった上で、仲間を増やしていけばよいのだから。これから新しい人も加わり、なかには抜けていく人もあるだろうが、今回の演奏会が誰にとっても、「あのときはこうだった」と振り返ることのできる良い公演だったことは、彼らにとって貴重な財産である。実際、ヘンデルも、ここから始めたのであり、彼が年齢と経験を重ね、ジャコバイトが決定的に敗れるなどした歴史的情勢の変化も相俟って、音楽は新しい形に姿を変えていくのだ。

より奔放な自由が突き詰められていくのか、あるいは、凝縮が進むのか、まだ誰にも予想はつかない。次回はヘンデルも学んだイタリアに回帰して、ヴィヴァルディを演奏し、徐々に歴史的な立体性を増していく計画である。度々、言っているように、私は最初から天才的に上手なことができる人より、少しずつ自由を広げて、成長していく音楽家が好きだ。マヨラ・カナームス東京のアーティストたちは、きっと、そうした素直な成長力をもった者たちである。

僕は多分、これから演奏していく版のなかで、このダブリン初演版がいちばん気に入るだろう。そして、今回の演奏会の印象では、その第Ⅰ部に、すべてのエッセンスが詰まっているように思えてならない。なにより、第Ⅰ部がいちばん深く、こころに響いてくるのだ。もっともカルヴァン派的な要素が顕著とみたフィナーレは、今日の我々にとってみても、もっとも沈鬱に考えさせられるメッセージを含んでいる。つまり、現代社会では、実際には反対のことが起こっている。負い難く、いっそう重い荷が働く人たちを苦しめているのだから。無論、このようなことは起こってはならないのである。

【プログラム】 2014年1月12日

1、ヘンデル オラトリオ『メサイア』(ダブリン初演版、1742年)

 管弦楽/合唱:マヨラ・カナームス東京 (cond:渡辺 祐介)

 於:渋谷区文化総合センター大和田(さくらホール)

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