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2014年1月 3日 (金)

インバル バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 ほか 都響 定期Aシリーズ (初日) 12/19

【インバルのオペラ指揮】

海外で評価されている指揮者はほぼ例外なく、コンサートだけではなく、オペラ公演をも高いレヴェルで指揮できる人である。そのイメージがなくとも、地元の公演やフェスティヴァルなどでは、ちゃんとオペラの実績を積んでいる場合がほとんどだ。ジョナサン・ノットなども、日本ではマーラーや現代音楽の大家というイメージが先行していたが、東響のトップ・ポストに就くことになって、その方面の実績が視野に入れられるようになった。エリアフ・インバルも日本でのイメージとは異なり、例えば、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場においては重鎮として扱われている。こうしたクラスの指揮者を本邦で、少なくとも数週間の準備期間を要するオペラのピットに入れることは簡単でなく、彼の場合は、都響でその僅かな精華を披露するのが関の山であった。

この演奏会も通常の定期演奏会の枠内にはすぎないのだが、50分強の短い作品なら、準備にも無理はなく、一方、作品的な価値はその演奏時間に比して、著しく大きい。これはインバルの、これまで日本であまり知られていない半面を知るには幸甚な公演であった。

結論をいえば、その手腕は確かに非凡であるものの、劇場的なカタルシスを求めるには彼の演奏はいかにもドライな印象を残すものだった。インバルの場合、基本的に劇的な感動はオーケストラをよく鳴らす彼の得意技によって、呼び起こされるようになっている。一作品だけを観ただけで断定的には言えないが、そのオペラのもつ独特な味わいを何らかの手段で呼び覚ますというよりは、交響曲的な山谷がここでも知的に強調されているといったほうがよかろう。彼はどんなジャンルでも、同じように音楽を読んでいる。そして、逆らわずに、スコアに示された音響効果を最大限に引き出すのであった。

近年、日本でも『青ひげ公の城』の上演には少なくない機会があった。2008年にはモルティエ時代の精華のひとつとして、パリのオペラ座がヤナーチェク『消えた男の日記』とダブル・ビルで上演。2011年には、サイトウ・キネン・フェスティバルでも上演され、2013年、東京芸術劇場の自主公演(オーケストラは東京フィル)でも舞台にかけられている。同公演を指揮した井上道義氏は、大阪フィルでも同様に取り上げた。そのなかで、私が偶然、聴くことができたのは2009年、東京シティフィルの公演で、飯守泰次郎が指揮を執ったものであった。飯守もバイロイト仕込みの優れたオペラ指揮者であり、新国立劇場オペラ部門の芸術監督に選抜されたのも当然な人材である。だが、飯守とインバルでは、歌劇に対するアプローチがまったく異なっている。

端的にいえば、飯守は彼の崇敬するワーグナーのような素材でさえも、そこから、表現者と受け手の深いコミュニケーションを構築しようとする指揮者であるのに対して、インバルは多分、イタリア・オペラのようなものにおいてさえ、スコアに書かれた以上のコミュニケーションは余分なものとして、削ぎ落とす性質があるからである。だからといって、インバルが歌劇を無味乾燥なものにするプロフェッサーだと言っているのではなく、彼はいちばん後ろから、尻を押す人だということである。もう何十年も前から、彼はそのような音楽をつくってきた。だから、インバル氏にはオペラ指揮者がもつ独特の雰囲気がない。

【メルヒェンティックな解釈について】

飯守氏の公演に際して、私は作品がもつな内面的なモティーフに対して、数々のアンガージュマンを試みた。その内容は過去記事で楽しんで頂くとして、インバルの公演に同じような読み込みは通用しないように思う。彼の演奏にはより直截な響きの魅力があり、内面性も決して深くを抉るものではなかった。この作品では、青ひげとユーディトとの官能的な関係のみに焦点が絞られている。青ひげやユーディトがどういう背景をもつ人なのかは、基本的に問わないことにしている。音で描かれたことが、すべてなのだから。インバルの描く『青ひげ』で最大のポイントは、第7の扉が開き、交響曲的な構造の円環が美しく見通せたときである。同じ作曲家の弦楽四重奏曲で、象徴的なアーチ構造が目に浮かぶようなハッキリした輪郭で示されたときのように。私たちは、ここで「あっ」と言わせられる。もはや、ユーディトが何を言うかは問題ではない。青ひげが、何を語るかも。実際、最後の場での2人の会話は、透明である。このあと、ユーディトと青ひげの関係がどうなったのかもよくわからない。

ただ閉じ込められてしまっただけなのか。青ひげが去り、4人の妻が新しい国の歴史を紡いでいくのか。唯一、わかるのは2人の別れだ。そして、恐らく、青ひげが永遠に消えてしまうこと。飯守の公演では妻たちの美しさに感動があり、「浄化」が感じられたが、インバルの演奏では、そこがきわめて冷淡にできている。青ひげが消え、妻たちがただ閉じ込められたままなら、これはもう、逼塞した究極の悲劇になってしまう。あるいは、メルヒェンティックといってもよい。メルヒェンの教訓的効果は、救いがないほど効果的である。

いまの言葉が若干、皮肉になっているかもしれない。インバルの演奏がもたらす最終的な印象は、教訓的なものだからである。ユーディトのような血統の良い令嬢が、こんな男に興味をもってはいけない。だが、女のほうはどうなのだろうか。ただの被害者なのか? 飯守の演奏では、そうではなかった、インバルのような解釈では、一貫してユーディトへのアイロニーは甘くなりがちである。イルディコ・コムローシが母国の作品に愛情をこめて、たっぷりと歌っているだけに、その点の欠落が余計に惜しまれるのである。

【オーケストラについて】

オーケストラのコンディションはインバルが指揮台に上がる場合、ほぼ間違いなく好調となるが、しかし、今回、ホルンには若干、目立つ瑕があった。弦は日本のオーケストラでも、最近はそれぞれに個性が出てきて、面白い。都響の場合は厚みを出すことに長けているが、それでいて、N響のようにドイツ的なガリガリしごく感じはない。東響は柔らかい絹ごしで、室内楽的な柔軟性があるのが特筆できるだろう。新日本フィルの響きはマッシヴで、大抵の場合、高度な結束は示さないが、個に力があり、立体性が高く輝きにも満ちている。読響は一体感を保ちながら機動性が高く、西欧的に高度な凝縮があり、東響とは別の意味で室内楽的な特徴もあるという風に。インバル&都響は、自然なパッケージである。

注目は、バルトークの「通奏低音」を構成するハープとチェレスタに入ったベテランの男性奏者2人である。特にハーピストは、右手/左手をピッと伸ばして響きを制し、その響きの特徴が、通常のハープの役割とはいささか異なっていることを、ヴィジュアル的にも教えてくれて素晴らしかった。左翼から聴こえてくる2つの楽器の響きは、真にバルトークらしい響きを構成するのに必要不可欠だ。森々と、涼やかに、然れども、ハッキリと聴こえてこなければならない。この2人の演奏がなければ、演奏全体に対する印象も大分、変わったのではないかと思うほどだ。

【庄司紗矢香に欠けるもの】

インバルの演奏と、ヴァイオリニストの庄司紗矢香の演奏はよく似ている。いずれも、自分がその曲を通じて客席とコミュニケートするのではなく、作品そのものの味わいを逆らわず、引き出したいと願う静かな情熱があるからだ。しかし、私はそのような音楽性に必ずしも満足しない。技術的には、一層よくなった。彼女の演奏を聴くのは3回目で、プロコフィエフの協奏曲第2番(東響/2010年)と、LFJでの室内楽である。いずれにおいても、庄司の得ている名声からすれば、私にはすこぶる物足りないパフォーマンスであった。そのなかでは、このバルトークが突出してよい。アンコールではハンガリーの民謡まで弾いてみせ、確かに、畏れ入ったものではある。

だが、私の音楽家に期待するものは、まだ、その先にあるといってよい。客席とステージの間にある見えない壁を突き破って、示されるコミュニケーションの温かさである。そういったものが、彼女の演奏には欠けているのだ。真っすぐ立つと逆ハート形にみえ、裾を捲らないと歩くことができない特別な衣裳は、後半のハンガリアン・カラーを基調としながら、アフリカ的な野性味も備えた後半のコムローシの衣裳とともに、この日の注目点のひとつにはなっていた。そして、そうした瀟洒な感覚は、バルトークの演奏のなかにも忍び込んでいるように思えてならない。彼女は体動も多く、例えば、p から f に向かって、徐々に体を前進させてくるようなパフォーマンスもみられた。

だが、そのような要素は実際、音楽を通したコミュニケーションには必要ない。例えば、アンジェイ・ヤシンスキはただ、真剣にショパンの響きを奏でるだけで、彼と何時間も喋ったような印象を聴き手に与えるのである。庄司の場合、どれだけ長く、演奏につきあったとしても、いつまでも壁の向こうにいるだけだ。向こうから、なるほどよい響きが聴こえてきても、それは私のいかなるものをも変えはしない。

まず、私は彼女の発する響きからして、気に食わないのである。彼女のもつ響きは、ウィーンのフランツ・サモヒルについて、よく言われる批判を思わせる。曰く、彼は時代性を考えて、広い空間によく響く奏法を教えているために、ウィーンに伝統的な繊細な響きを失わせているというのである。これが事実なのかどうなのか、検証するほどの知見は私にないが、それが庄司のことなら、確かにピッタリと当て嵌まる。というより、ブロン門下で、その方向では最高の技術をもっているといっても過言ではない。最初のインパクトでは、仰け反るような美しさに襲われるが、それでも、私は徐々に冷静になってしまう。それも、かなり早い段階において。同じブロン門下でも、室内楽を得意とするミハイル・オヴルツキは門下生のなかでも独特の技術をもっている。彼だけが、先生からちがう指導を受けたかのようだ。そして、その分、庄司とは異なるコミュニケーション手段に恵まれているのである。

【まとめ】

批判の言葉も書いたが、インバルの公演では、例外的に良いものであったと思う。いささか独特のドライヴではあれ、彼の歌劇の指揮流儀には、ほかでは聴けないような味わいがあるのであった。

ただし、第5の扉が開いたところなどは、やはり、注文がつく。飯守泰次郎氏は例の公演に際してのプレトークで、ピアノを弾きながら、意欲的な解説をし、この部分では「長調(メジャー和音)ばかり、力づくの音楽」と言っていたのが印象的である。インバルは正に、力づくの音楽をつくった。ここで、スメタナらが引用したフス派のコラールに似たメロディが出てくるけれど、そんなものは関係ない。力づくの音楽と、力ないユーディトの言葉だけが鍵として強調されているのである。

インバル氏のこのような音楽づくりには、いつも限界を感じるのである。そういう部分が比較的、少ない公演であったことを喜びたいと思うのだ。いずれにしても、この作品は本当に素晴らしいし、また、それだけに難しい。飯守氏の場合にも、私は満足しなかった。それだけの作品なのである。

【プログラム】 2013年12月19日

1、バルトーク ヴァイオリン協奏曲第2番
 (vn:庄司 紗矢香)
2、バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』(演奏会形式)
 (Br:マルクス・アイヒェ S:イルディコ・コムローシ)

 コンサートマスター:矢部 達哉

 於:東京文化会館(大ホール)

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