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2014年2月 1日 (土)

ハウシルト シューベルト/ブルックナー 交響曲第4番 新日本フィル トリフォニー定期(第1夜) 1/24

【ハウシルトにしかできない演奏】

クラシック音楽の指揮者にとって絶対重要なものが経験だが、その経験がどのように生かされるかは、その指揮者の個性に関わっている。手際よく、効率的に物事を運べるようになる人は、大抵、商業的にも成功するが、芸術的な味わいからみれば、いささか嘘くさい感じを与えることがある。このような例としては、イルジー・ビエロフラーヴェクユーリ・テミルカーノフロリン・マゼルジュゼッペ・シノーポリといったような名前が思い浮かぶ。一方で、面白いことに、経験を積めば積むほど不器用になって、自ら困難な道を選ぶようになったかのような人も存在する。このような人たちは滅多に成功することはないが、時折、水を得た魚といったようなパートナーを獲得すると、爆発的な成功につながることがある。顕著な例が、セルジウ・チェリビダッケだ。こうしたタイプの指揮者はしばしば、日本と相性がよく、ラドミル・エリシュカジャン・フルネは彼らの母国よりも、我が国で高く評価されたという。そして、ヴォルフ・ディーター・ハウシルトも、そのなかに入るような存在なのかもしれない。

彼らは自ら温めてきた経験の重みを誰よりも深く守ろうとするあまり、しばしば時代遅れと見做されもした。巨匠たちの時代には、彼らは「それほど個性的ではない」人たちと見做される一方、その後の揺り返しでは、大して価値もないくせに、「古い時代に取り残された人たち」として区切られてきたのである。それでも、チェリビダッケには独特の政治的/芸術的カリスマがあったといえるが、エリシュカも、ハウシルトも、成功に飢えている剥き出しの野心家ではなく、その実力に見合ったものを適切に要求してこなかったきらいがある。しかし、いま、私たちが体験しているように、そうすることで彼らが不器用にも守り通してきたものは、世界中、隈なくまわってもなかなか得られないような重みを保持している。

エリシュカの場合、彼の真価はまず、ドヴォルザークやスメタナといったスラヴ系の音楽で認められ、彼の拠点である札幌では、それ以外の独墺系作品における特殊な訴求力についても、いよいよヴェールが剥がれようとしているところだ。昨季の『第九』や、今季のブラームスでみせた高い可能性は、例えば、ブロムシュテットバレンボイムメータといった高名な指導者たちの音楽からみても、ほとんど遜色のないものである。

この日、新日本フィル(NJP)を指揮したハウシルトだって、同じだ。ティーレマンと彼と、一体、どちらの音楽がドレスデン・シュターツカペレに相応しいものであろうか。マリス・ヤンソンスが、彼よりも確実に優れてバイエルン放送響を指揮できるとは限らない。音楽のスケールの大きさ、マッシヴな響きの厚みを出すことに加え、奏者たちを自由に歌わせながら、要所に来ると、グッと締めていくときの高度なテクニック。それでいて、彼の音楽には十分な余裕もあり、あとで詳しく述べるが、ブルックナーの第4楽章でウィーン音楽の優雅な伝統を、第2楽章で象徴的な「死」と向い合せて表現するときの味わいは、正に胸を衝くものであった。こうした表現はもはや、ハウシルト以外の誰にもできないものだといっても誇張ではないだろう。

【4番の位置づけ】

ブルックナーは彼の交響曲第4番で、「死」と「再生」の物語を、かなり実験的な手法で描いた。ブルックナーの交響曲は多かれ少なかれ、そんな作品であるが、4番と6番は、それ自体がインディペンデントな作品であるというよりは、それを書くことによって、あとの仕事が大分ラクになるという、そうした性質を秘めていたのではないかと思うのである。4番のあとには5番があり、6番のあとには7番がある。これらは、紛うことなき傑作であることは言うまでもない。だが、4番の場合、5番だけではなく、その後の交響曲のかなり広い範囲を支配しているような感じがする。慎重に、ゆっくりと進むブルックナーではあるが、この時点に至って、彼が生涯のおわりまでに示すことのできる可能性は、ほぼ出尽くしたといっても過言ではないほどだ。あとは、それをどのように組み合わせるか、というパズルの問題があるだけだった。

この演奏会では「4番つながり」ということか、シューベルトの交響曲第4番が一緒にプログラミングされているが、奇しくも、シューベルトにおける4番も同じような役割を果たしているのではなかろうか。ブルックナーと比べれば、シューベルトの生涯はあまりにも短いが、その分、彼はよりゆたかで、早熟な才能にあふれていた。19歳のフランツ青年は、彼に与えられた可能性のほぼ全てを使って、この4番を仕上げた。自らの崇敬した偉大な先人たちへの想いや、歌曲や宗教曲で示す特別な才能が、この作品のなかで見事に実を結んでいる。2つの作品は、その作品を聴くとき、それに先行する何人かの偉大な作曲家の遺した響きを如実に感じさせるということでも共通している。シューベルトの場合はやはり、モーツァルト、バッハ、ベートーベンであろう。ブルックナーの場合は、普通、ワーグナーの印象が自然と浮き上がってくるものだ。

【ハウシルトの解釈とオーケストラ】

ただし、正直なところをいえば、ハウシルトのブルックナーには、ワーグナーの影はそれほど濃厚ではなかった。どちらかといえば、ウィーン音楽の系譜なのである。ベートーベン、シューベルトあたりを始祖に、自分(ブルックナーのこと)やブラームス、ヨハン・シュトラウス、リヒャルト・シュトラウスらが紡ぎあげていくことになる伝統だ。なかでも、やはり、シューベルトのレントラーの影響などは濃厚である。一口にウィーンといっても、ブラームスやシュトラウス・ファミリーがその都会的な側面を象徴するのに対して、シューベルトの歌うウィーンは「ドイツの田舎」的な風情がある。無骨なまでに美しく整えられた金管のスケルッツォ主題は、私の尊崇するオイゲン・ヨッフムのような躍動する生命感とはまた別物だが、飾り気がなく、それだけに多彩なイメージの喚起力に満ちている。

小手先の響きの面白さではなく、なによりも構造の堅固な表現力に注目するあたりは、ギュンター・ヴァントの表現にもっともちかい。

ブルックナーにおいて、ハウシルトの表現でもっとも見やすい点は、響きの分厚さやテンポの遅さに起因する重厚な特徴である。意外にも、ハウシルトはそんなに細かい表現の磨き上げには拘泥せず、奏者たちの表現意図を遺憾なく引き出すことに重きを置いているようだ。しかし、それは指揮者が退いて、いたずらに音楽のフォルムをぐらつかせるようなことを意味するのではなく、より高度なはなしなのである。NJPの奏者たちはまず、指揮者のイメージをよく聴いて、理解しようとする姿勢がある。彼らはどちらかといえば、音楽的には我のつよいタイプではあるものの、それというのも、自らの表現を容易に曲げないことが室内楽的な音楽の構築に欠かせないと信じているからである。これはそれほど音楽の肥大化が進んでいない時期、つまり、シューベルト、シューマンぐらいまでの音楽には、しばしば有効に作用する特徴だ。フランス・ブリュッヘンはなるほど、彼らの個性を早い段階で見抜いたうえで、その可能性を最大限に利用したといえるだろう。

一方で、ブルックナーやマーラーの作品、あるいは、ロマン派以降のオペラの大作をやる場合には、また別のスケールの大きなオーガナイズが必要になるが、楽団の新しい指導者、インゴ・メッツマッハーに期待されているのは、その点で彼の経験してきたものをNJPに浸透させることである。奇しくも、東響が同じような課題を抱えて、ジョナサン・ノットを新しい指導者に迎えたが、私は現時点で、NJPのほうがやや「頑固」なアンサンブルであることから、ノットよりは、メッツマッハーのほうがより周到な工夫をしなくてはならないとならないと思うのだ。この日の演奏でも、最強音はホールの壁や天井を突き破りそうな強烈な圧力を放ち、それが目にみえるような迫力を示していたものの、一方で、しばしば、その内側がスカスカに空いて、十分に肌理が細かくないように聴こえてしまうあたりをみると、いかにも彼ららしいというほかはない。ハウシルトはこうした部分でさえ、彼らにとっては必要な表現と思っているのである。

彼は、わかっているのだ。いま、無理矢理にこうした部分を磨き上げたところで、それが持続的に、彼らの表現として生きつづけるわけがない。もっと自然にできるようになるまで、待つしかないのだ。

だが、ハウシルトは少なくとも、彼の理想とする響きのイメージについては、明確にオーケストラに対して提示することができた。それは私たちが日常、聴いているものからすれば、途方もなく巨大であるが、同時に、優しく、明るい表情をもっている。意外にもワーグナー的ではなく、響きは簡素に構築され、この交響曲第4番では実験的な表情も窺われるが、それは概ね、第2楽章に凝縮して表現されている。「ABABAコーダ」の形式というが、私にはもっと細切れな要素の集合のようにも思われるのだ。何回も同じ台詞を繰り返しながら、それらのどれもが、いままでとは同じではない印象をもたらすのである。以前、私はこうした表現に十分、ついていくことができず、この交響曲第4番は面白くないと思っていたが、現在では、まったくの正反対の考えになっている。交響曲第4番では、なんといっても第2楽章の表現が鍵なのだ。

【メリハリ】

ハウシルトの場合、音楽の詩情は常に張り詰めた状態で生かされるというのが特徴となっているが、その味わいは、こうした楽章でもっとも顕著となる。ハウシルトは繰り返しがあれば、すべて実行し、テンポも常識的なものより速いことは滅多にない。だが、そのために、聴き手にストレスを生じさせることがほとんどないのは、音楽の緊張感がいつも満ちみちていて、独特のゆったりした表現空間に我々を自然に留めておくことができるからであろう。驚くべきことに、多くの聴き手は彼の音楽が「ノン・ヴィブラート」だと感じており、それが事実なら、なおさら表現は驚異的なものといえるだろう。つまり、ヴィブラートをかけない状態で、響きを長く保持することは難しいから、全体的に刈り込まれた響きになるはずだからである。実際には、「ノン・ヴィブラート」という表現は適切でないと感じ、少なくとも誇張的と思われるが、その印象がどこから来たものであるかは想像がつかないわけではない。

要は、メリハリの問題なのである。第2楽章を「死」の楽章と印象づけることは、決して簡単ではない。適切なメリハリがなければ、後半、力づよく明るい要素が出てきて、最後に沈んでいく音楽をうまく表現できないのである。私はハウシルトの表現がこの楽章で、突き抜けていると感じたこともあり、歴史的巨匠は除いて、現代で正統的な表現をもつと目される独墺系音楽の名手たちのタクトで、聴き比べを試してみた。ハインツ・レーグナークリストフ・フォン・ドホナーニウラディミル・フェドセーエフダニエル・バレンボイムロリン・マゼルスタニスラフ・スクロヴァチェフスキなど。生ける伝説のような人もいるなかで、唯一、ドホナーニだけが死を意識させることができた。ただ重苦しいだけでもうまくいかないし、多分、響きの新鮮味は必要不可欠だ。ハウシルトの演奏を聴いていて、私のアタマに浮かんだ言葉は「もっとも完成にちかい習作」である。ある意味ではドライに、素材を客観的に扱い、素材はできるだけ骨太に扱ったほうが良い。その場合、朝比奈隆のように、あまりにも呼吸が素直な場合には、ブラームス的な響きとなる。

ところで、後期の名品と比べれば、第4番では素材と素材の関係がまだ遠く、言ってみれば室内楽的なので、シューベルトと並べることに違和感がないのである。そうした素材が、後期作品と同じようなスケールの大きい器に収められているから、習作的に聴こえてしまうのかもしれない。だから、その穴を埋めるためには、室内楽的な徹底したトレーニングが欠かせないだろう。楽器と楽器の関係はとことん煮詰められ、同一の時/空間を共有する音楽は、すべて均一な意味をもつ。機械的な弦のトレモロさえも、1個のメッセージを担っているのである。これまでのNJPの「室内楽」では、人の細胞が本当はスカスカであるように、そこにある空気を大事にすることで響きが活き活きとするという常識であったのに、ハウシルトはときに、その空気を極限まで抜いてみようと迫ったのだ。

いま書いたことは、ハウシルトが意外に大らかだという前言に対して、多少、矛盾するところがあるだろうか。しかし、これがメリハリということなのである。響きが呼吸しているようなのだ。それも、細胞レヴェルから!この呼吸にあわせて、全体の構造までもが自由に伸縮する。だが、そのあまりにも自然なコントロールのために、聴き手が違和感を覚えることはほとんどないだろう。逆にいえば、自然と感じられなかった部分には、オーケストラの力量不足の面も小さくはないということだ。それも、無理はあるまい。このような響きをつくることのできる経験ゆたかで、センスの良い指揮者が、世界中にどれだけいるだろうか。人が普段、動かさない筋肉を動かすと、一体、どうなるかを考えればよいのだ。

【死と再生】

この作品で、早くも第2楽章に「死」の要素が来ていることは、全体の構造を考えると意味ぶかい。よっぽど、そうした例は、ベートーベンの「エロイカ」交響曲にも前例がみられるように、とりたてて実験的といえるわけではないが。しかし、後半2楽章をハッキリとディヴェルティメント的に扱ったうえで、その流れのなかで、特に終楽章には「生」のイメージがいつしか復活するという発想は、特異なもののように思われる。第3楽章の愉しみが強ければ強いほど、その印象はいよいよ奇抜なものとなる。序奏の荘厳な感じで、第2楽章の「死」へと音楽が引き戻されると同時に、時折、強い高揚が生じると、それは否応もなく霊的な印象をもたらすであろう。だが、その印象を踏まえながらも、これに耳が慣れてくると、我々はもっと世俗的な舞踏会の風景を思い出す。信仰的なブルックナーのなかに、リヒャルト・シュトラウスと同じような響きの愉悦感が生じてくるのである。

このイメージが最終的に、作品をひっくり返すもとになっているのは言うまでもない。正確には、ドイツの古い舞踊、レントラーの素朴な印象を湛えた響きとリズムを、のんびりと引き出すハウシルトの音楽に、我々は酔いしれるしかない。この楽章は大分、遅いテンポによって構成され、「運動的に」よりも、「速すぎずに」が優先されているが、かといって、いま申し述べたことからもわかるように、運動性が損なわれているわけでは決してない。優雅な舞踊の響きは、こうした場面で出会うと深い情念の動きを引き起こす。だが、全体的には構造の重々しい威圧感が支配しており、このギャップのなかで、音楽が見事に立体性を増していくのである。最強音の隙も前半よりは大分、効果的に埋まりだし、金管、弦楽器、管楽器のバランスは、ひときわ美しく均整を得た。

こうした要素を踏まえて、最後に第1楽章第1主題に戻るときの興奮は、もはや、筆舌に尽くしがたい。それは似て非なるものであり、いわばこの世の自分と、あの世で神さまの隣に並んで審判を待つ自分ほどの差がある。シューベルトと比べれば、不安感を抱かせた冒頭の演奏とは比べ物にならないほど、充実した響きが聴かれる。自信に満ち、ブルックナーの思い描いたメッセージのほぼすべてを、彼らがどのようにでも表現できるという自由の表明があったのだ。コーダの迫力に気圧されたというべきか、颯爽と響きが切れても数秒間は時間が止まったように静かであった。会場のほぼ全体が、彼らの演奏に魅入られた証拠である。

【シューベルトについて】

本来なら、これほどのブルックナーならば、1曲だけで勝負しても構わないところだが、当日はシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」が一緒にプログラムされた。これも繰り返しをきっちり行って、40分弱もかかった演奏である。一体、どんな練習がなされたのであろうか。数日間のリハーサルで追いつけるような内容ではなく、その歪みはブルックナーのなかに若干、目立つような形で出現した。だが、これほどのものをみせてくれれば、それをいうのも野暮なことだろう。シューベルト冒頭のフェルマータ付きのハ音を聴くだけでも、この日の演奏が凄いものになることは想像がついた。

近年、日本でシューベルトの交響曲を熱烈に紹介したのは、東響のユベール・スダーンだといえる。彼は1年をかけて、そのテーマを掘り下げることで、演奏家と聴き手の両方に強烈なルネッサンスを巻き起こした。彼の音楽は機動性に優れ、これも彼が集中的に取り上げたハイドンのような基盤のうえに立脚して、沸き立つような響きの活力に多くの人たちを虜にした理由である。しかし、ハウシルトの音楽は、そうした素晴らしい体験を瞬時に相対化してしまうほど、求心力のつよいものだった。スダーンだって、傑出した能力と揺るがぬ個性をもった音楽家だが、ベルリオーズではカンブルラン、シューベルトではハウシルトが強烈なアンガージュマンをかけて、その成果を最近、相次いで揺さぶった。音楽の世界は、これだから面白いのである。

ハウシルトのシューベルトは、一言でいえば重厚である。第1楽章は冒頭から序奏がおわるまでに、どれだけ掛けただろうか。主部ではやや機動的になるが、全体的にはゆったりした印象を抜けてこない。テンポというのは相対的なものであることが、よくわかるだろう。NMLでは古今東西の演奏がかなり広くカヴァーできるが、繰り返しを省くなどしてコンパクトになった録音がほとんどで、40分ちかくを費やしたものは1952年の、ハリー・ブリーチ(ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズの創設者)という人の録音が唯一の例であるが、彼はいわゆる「ピリオド派」の草分け的存在のひとりといって間違いないだろう。ブルックナーのところでも触れたように、古典的解釈で(特にガット弦などの古楽器使用の場合は)演奏を遅いテンポに保つのは困難であるが、そうしたスタイルに敏感な指揮者ほど、現代的なせかせかした音楽の動きよりは、ゆったりした自然な呼吸感にこだわるのも確かである。

詳細に語っていきたいところだが、既に多くの文字数を要しているために、焦点を絞らざるを得ない。基本的にはシューベルトの場合と、ブルックナーの場合では、ハウシルトの音楽に対するアプローチに根本的なちがいは見出せない。ただ、いまのNJPにとっては、シューベルトぐらいの大きさのほうが身の丈に合っているというだけのことだ。構造を精確に追い、太い線でじっくりと描き上げるのも同じ。突き詰めてみればスポーツ的なスダーンのような表現とは、一線を画するものだろう。やはり、こうしたものが、シューベルトの真実を正しく描き出すのに相応しいのは言うまでもないようだ。第一、その姿勢によってこそ、シューベルトが示した可能性のすべてが描き得るようになっている。宗教的な面も、歌曲の分野で魅せた素晴らしい手腕も!

第2楽章では、現在、ドイツ国歌となっているハイドンの弦楽四重奏曲第77番「皇帝」の旋律や音型と似通った部分が多いが、これはハイドンを直接的に模したというよりも、音楽に託された古典的メッセージが2人の間で共有されていることを示すにすぎないだろう。例えば、宗教曲でよく使われる「ハレルヤ」という言葉を表現する音型はどの作曲家でも大抵、同じであるが、シューベルトもそうした規則をよく勉強していることがわかるだろう。例えば、弦楽四重奏曲(第14番のアンダンテ・コンモート楽章)でもベートーベンの「エロイカ」交響曲の葬送行進曲とよく似た箇所があるが、これも同じ道理だと思う。交響曲第4番の場合は、シューベルトが引用したメッセージは多分、神威がどこから生ずるかを問うものであり、そのなかで比較的、シューベルト独自の視点といえるものはウィーンの原風景として、長閑な田舎の歌を通奏低音のように入れていることである。

誤解を避けるために一言しておくなら、これが歌曲的に聴こえるわけではない。牧歌的であり、より宗教的な印象があるからだ。これに対して、私が特にリーダーの要素をつよく感じたのは、第4楽章である。ロンドー主題が繰り返され、徐々に緊張感を帯びてギャロップにテンポがあがっていくのだが、そのときの薄暗く、図太い高揚が、歌曲『魔王』のいちばん怖いところを思い出せたからだ。無論、十分に器楽的な箇所ではあるものの、しかし、モティーフの発想がリーダー的なのであり、そのことを感じるには、ある程度、落ち着いたテンポが不可欠であろう。そして、同時に、響きにはふっくらとした弾力がなくてはならない。こうした要素を踏まえて、もっともハウシルトにちかい録音は、ジョン・バルビローリがケルン放送響とともに残しているものだ。無論、2人のスタイルは完全に同一ではないものの、メリハリがくっきりしている点など、共通する部分のほうが多い。

【まとめ】

以上、長文にはちがいないが、内容的にはざっくりと論じてきたところ、この演奏の稀有な性格をどこまで的確に表現できたかは覚束ない。とにかく、私がこの記事のなかで訴えたいのは、ハウシルトがいかに合理的な手法で、的確に作品のフォルムと内面を同時に捉え、楽員をその気にして、スケールの大きな表現を得たかということである。その点がうまく表現できていれば、狙いどおり、もう、彼以外の誰もが忘れてしまった響きというのをすみだトリフォニーホールに響かせることに成功した、ということがご理解いただけようというものだ。その成否はともかくとして、私たちがいま、こうした指揮者に出会っているのは、間違いなく幸福なことなのである。その幸福を分け与え、気づいてもらうために私は書いているわけだ。

いまはもう、感謝の気持ちでいっぱいである!

【プログラム】 2014年1月24日

1、シューベルト 交響曲第4番「悲劇的」
2、ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティク」

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:すみだトリフォニーホール

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