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2014年2月27日 (木)

福士マリ子 フランセ ファゴット協奏曲 ほか The Bassoonist vol.10 @ドルチェ楽器(西新宿) 2/17

【バスーンの可能性】

ヴァイオリンやチェロ、ピアノなど、ソロでの活動が確立している楽器以外で活動する音楽家にとって、その楽器の魅力を追究し、客席に伝えることはまず第一の課題である。その意味で、この日、娘のマリ子に促されて登壇し、いくつかの金言を残した作曲家の福士則夫氏の発言は大きな助けになったかもしれない。そのなかで、もっとも印象ぶかいのは、楽器がカヴァーする40の音ひとつひとつにキャラクターがあるのではないかという発言である。これは私も、最近、うすうす感じ取っていることではあったが、40の音すべてに、というところについては意外だった。

ファゴット(バスーン)の響きは確かに、キャラクターゆたかである。そのことを決定的に感じ取ったのは、今回と同じドルチェ楽器の提供するシリーズ”The Bassoonist”第8弾で、マチネ&ソワレの豪華2本立て公演を組んで、河村幹子が開いたリサイタルに接したときである。その前には、作曲家の藤倉大の個展で、バスーン奏者のパスカル・ガロワが情熱的に、楽器の輝かしい歴史を語るのを聞いた。曰く、バスーンはバロック以前には、ヴァイオリンに次ぐような花形の楽器であったというのである。だが、それ以前から、私はベートーベンやショスタコーヴィチの交響作品などで、とても印象的に響くバスーンの響きには、それなりに愛着をもっていた。一体に私は低音マニアの傾向があるが、バスーンはそのなかでも神秘的な存在として目に映っていた。河村の演奏に1日つきあって、その印象を確かなものとしたのである。

楽器の歴史も様々だが、バスーンは精確な起源がまだよくわかっておらず、それでも16-17世紀には既に、その響きを聴くことができたとされている。オーボエと同じダブル・リードの楽器であり、当初は2つしかなかったキーは徐々に増やされ、19世紀までに8キーによる現在の楽器の形が出来上がったようだ。例えば、ヴィヴァルディが膨大な数のファゴット協奏曲を書いているように、古くは花形の楽器として活躍したが、その秘密はファゴットの響きが言葉と親密であるという点について、河村の演奏会のときに書いた記憶がある。その後、バスーンがソロ楽器として重用されなくなったのは、アーノンクールが言うように、革命後、音楽の言語機能が急速に失われてしまったせいであり、また、演奏会場がどんどん大きくなった結果として、バスーンのような音量の出ない楽器が不利になったせいでもあろう。

だが、そのおかげというべきか、ロマン派以降、十分に探求されなかった楽器の可能性は、現代において、広く試されている。藤倉の作品も、そんな試みのうちのひとつであろう。

【竜夢】

福士則夫の作品『竜夢』は、東京オペラシティ財団による「B→C」シリーズに、娘のマリ子が出演するのをきっかけに書かれたものだ。それまでマリ子は、父親の専門領域にもかかわらず、同時代の音楽に関心を抱いていなかった(悲しいことに、そういうことは珍しくあるまい)そうだが、この演奏会を契機に、腹を括って新しい分野に踏み出す勇気を得たのだという。一等星のような明るい星を含まない「竜座」は目立たないが、大熊座の北斗七星のちかくに位置するために探しやすく、福士一家の住むような人里離れた場所では十分に観察も可能なのであろう。則夫氏は自宅の書斎の隣にある練習室で娘が吹くのを壁一枚隔てて聴きながら、この作品のイメージを膨らましていったのだという。

無伴奏の作品には7つのモティーフがあるそうだが、全部、把握して聴けたわけではない。序盤から技巧的なタンギングを使った連続音や、それとは異なるゆったりした素材など、いくつかの異なるモティーフがひとつひとつ演奏されていく。それが徐々に合成され、右巻きの響きをつくりながら凝縮していく形は非常に見やすい。キーがカチャカチャ鳴る音が序盤から頻出しており、これがモティーフのひとつなのかどうか、最初のほうではよくわからなかったが、後ろのほうで、吹く音が鳴らずにキーだけが鳴らされる場面があるために、これもやっぱり、モティーフのひとつだったとわかる仕掛けになっている。則夫氏によるアフター・トークによれば、そうした部分は、まだうまく音を鳴らせなかったマリ子さんの最初のころを思い出して書いたそうである。

中盤から合成が始まるが、そのなかで印象的なのはグリッサンドによる響きだ。則夫氏のトークで、「何かいじってみたくなった」とか言っていたのが、このグリッサンドのことであるのは言うまでもないだろう。則夫氏の書法は単純すぎるほどに率直で、厭味がない。あとで話を聴いてみると、さもありなむという事情が多かった。父親の作品だけに、マリ子も大事に吹いているし、技巧的な作品だとは思うが、どこかゆったりして、響きに情緒がある。傑作とまでは言わないにしても、佐村河内のような一件もあるなかで、ハートフルな関係から生まれた佳作であり、客席で安心して聴くことができる。

【言葉を話すような演奏】

福士の演奏を聴いて、すぐに感じたのは、言葉を話すように吹く人だということだった。かつて聴いた河村幹子の演奏は「歌う」、あるいは、「鳴らす」という要素が非常によく表に出るものだった。新日本フィルにいるせいか、下町の姉御肌といったような感じがあり、伸びやかで、表現に屈託がない演奏家である。その点、福士の演奏はどんな曲を吹くのでも、詩文でも読み聞かせるような雰囲気が常にあるのだ。河村が気に入っているゼレンカもバロックだし、福士の特徴もバロック的な音楽に対して相性が良い。だが、決定的に異なるのは、アーティキュレーションだ。河村の演奏については海女さんの素潜りに譬えたことがあるが、要するに長めの区切りで、限界までブレスを使うことでスケールの大きな表現を試みているのである。

福士の場合はもっと歯切れがよく、小気味よい音がひとつひとつ丁寧に象られていく。やはり、経験ゆたかな分、河村の表現により高度な表現の厚みを感じるものの、さりとて、福士のような表現をできる吹き手というのは決して多くないとも思われる。その点、後半のプログラムに、テレマンの作品が組まれているのは楽しみだった。ただ、結果的にみると、伴奏する鍵盤がピアノではなく、チェンバロだったとすれば、彼女の表現の良さをはもっと端的に伝わったであろうと思われる。父親の則夫氏が、彼女の吹くバスーンの響きを聴いて、ひとつひとつの音にキャラクターがあるのではないかと印象づけられたのは、実に示唆的なことであるが、現代のグランド・ピアノが伴奏につくと、そうしたキャラクターが必要以上に肉付けされてしまう感じがあった。

【見返り美人】

それならば、むしろ、はじめからより大きな編成を相手にするはずの協奏曲のほうが、無理なく良さを示すことができる。フランセのファゴット協奏曲は、福士にとっては、これが初めての挑戦ということであるが、素晴らしかった。プログラムの内容からみると、従来、同時代音楽に関心の薄かった彼女としては、フランスのレパートリーや、バロック以前のレパートリーに多大な関心を抱いていたことは想像がつく。しかし、同じ近代フランスの作品とはいっても、フランセの作品についていえば、独特の守備範囲をもっている。

この作曲家は2012年が生誕100年のアニヴァーサリー・イヤーだったのだが、もちろん、十分な注目は得られなかった。とはいえ、IRCAM系の作曲家のような新味を求めることなく、古い時代とより直接的につながる書法に徹しながら、終生、その名声を失うことがなかったのはフランス文化の奥深さを示していようか。

ジャン・フランセは1912年、フランスのル・マンで、父親が同地の音楽院院長を務めるような恵まれた音楽的環境のなかに生まれた。いわゆる「6人組」の後継的存在として、1997年の逝去まで、我々が想う「フランス音楽」の典型を体現しつづけながら、独特の作風を長く維持してきた。アンリ・デュティユーのような、複雑で神秘的な書法はとらず、バレエやオペラも書いているが、どちらかといえば、シンプルで、小気味の良い室内楽作品が中心である。ピアニストとしても高度なトレーニングを受けていたため、鍵盤作品、および、それを使った室内楽がもっとも豊富に書かれた。ファゴット協奏曲は、11人の弦楽器奏者とファゴット独奏のための作品として書かれたものだが、こうしてピアノ伴奏でほとんど違和感ないのは、やはり、フランセがピアノの鍵盤上で作曲をしたことを想像させるのではなかろうか。

ジャズのようなイメージを取り入れ、ファゴットの自由な響きが動く様子は、彼の先達、ラヴェルあたりからつづくフランス近代の特徴を踏襲するものである。旋律がどことなく「三大バレエ」を想像させるせいか、新古典主義時代のストラヴィンスキーからくる影響も色濃い。既に述べたような独特の演奏から、福士は音楽が言葉のような機能をもつバロック期以前の作品と相性が良いが、フランセはそれとはまた、微妙に異なる言語構造をもっており、いわば英語的なニュアンスがよく感じとれるのを福士がきれいに示してくれた。フランスらしいゆたかな音色、そして、舞踊性に基づいた個性的な音の動き。構造的にも、これまでの作品と比べて堅固なところがきっちりと表現されている。

これは、前半のシュレックのソナタと比べて顕著な特徴である。グスタフ・シュレックは1849年生まれ、楽理と作曲に精通し、1887年にトーマス教会へ教職として招かれ、亡くなる1917年までカントールとして勤め上げた音楽家、教師である。もっともポピュラーなのは讃美歌『きよしこの夜』の編曲であるが、バッハの作品を研究し、ペルゴレージ『スターバト・マーテル』の校訂をおこなうなど、バロック以前のレパートリーの掘り起しにも熱心であったようだ。そんなこともあって、時はロマン派の時代だが、ファゴットを独奏楽器として用いる発想は古い時代への敬慕から来ているようにも思える。

シュレックも、フランセも、どちらかといえば、後ろを振り返る作曲家であり、自分もまた、そんな「見返り美人」でありたいとの願いがプログラムから窺えるのは興味ぶかいことだ。シュレックの素朴な楽風もまた、福士にはよく合っており、自分は田舎のほうに住んでおり、この週末の豪雪で帰宅困難者になったという苦労話を聞くと、さもありなむと思われるのである。その口ぶりからすると、この演奏会の挙行も迷われるような状況だったことが推察され、今度の雪害がやはり、相当に深刻なものであったと思わざるを得ないのである。先日のアンサンブル・ノマドの演奏会では、プログラムの本刷りが流通の都合で間に合わなかった。そして、福士の場合は、勤務先である都中心部から自宅へ戻ることができなかった。

そのような状況が少しは影響しているのか、演奏の磨き上げは序盤、十分に期待どおりとはいえず、後半になるほど、伸びやかな表現が表れてきた。しかし、そんな具合であっても、既に述べたような特徴は最初からハッキリと感じられ、個性的な吹き手であるのは間違いないように思われた。批判するわけではないが、私は彼女が、オーケストラの首席奏者であるというのは不似合いのような気がして、それでも、モーツァルトやハイドンの名手であるユベール・スダーンによってセレクトされて、東響に入団しているのは偶然とはいえないように思った。深く多彩な音色や、伸びやかなカンタービレではなく、それらをゆたかに内包したレチタティーヴォの魅力が、彼女の表現を支えている。そんな演奏スタイルについて知ることができたのは、この日、最大の収穫であった。

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